Day 2
「公爵? そっちのリオセスリくんは、公爵なの?」
「ああ」
次に訪問したとき。ヌヴィレットを出迎えたのは、主不在の執務室でティーセットを広げ、お茶会を嗜んでいたシグウィンだった。
彼女にねだられるまま用件を話せば、彼女は人のそれによく似た手で、彼女に合わせられたのだろう小さく可愛らしい柄のカップと小麦色の焼菓子を差し出してきた。
「ごめんね、これしか用意がなくて」
「こちらこそ、連絡もなく訪ねて申し訳ない」
「謝らなくていいのよ。ウチ、ヌヴィレットさんの顔が久し振りに見られてとっても嬉しく思っているの」
そう言って微笑むシグウィンの表情には、どこか翳りのようなものが見られる。ヌヴィレットとメリュジーヌの間の距離は、ヌヴィレットと普通の人間との間の距離よりもずっと近いから。彼女もまたこのヌヴィレットが彼女たちの“ヌヴィレット”ではないことを、よく理解しているのだろう。
「リオセスリくんならすぐ戻ってくると思うけど……」
「ここで待たせてもらっても?」
「ええ、勿論!」
小さなカップを手に取る。色の薄い中身は紅茶というより最早水に近く、水上から誰かが運んできたのだろう、三段重ねのケーキスタンド上の菓子は水分を失い、当初の彩りを欠いている。
“公爵”の茶会というには貧相すぎるそれは、今の彼女たちの精一杯の贅沢なのかもしれない。
ヌヴィレットは雑味混じりの薄い紅茶を口にしながら、この世界のリオセスリの立場を考えた。
リオセスリの爵位は、かつてヌヴィレットが与えたものだ。しかしこの世界のリオセスリはどうもヌヴィレットと個人的な関係を持たない一囚人にすぎず、爵位どころか様々な権利を制限された立場の人間であるようだった。……この世界の“ヌヴィレット”は、この状況をどのように思っているのだろう。使い込まれすっかり目の粗くなったティーストレーナーから零れ落ちた茶葉の欠片のように浮かんだ、僅かな疑念を紅茶と共に流し込んだ。
カップを空けるなり嬉しそうな顔をしたシグウィンがポットに残った紅茶を直ぐ様注ぎ込んでしまうので、ヌヴィレットは断ることもできず、ただそのほとんど水のような液体を飲み続けていた。
暫くして、執務室の扉が開かれる。階段を登ってきたリオセスリは、独特な色と見た目をしたパイを片手に乗せていた。魂を吸い取られたような魚の頭が数匹分……厚い鉄板と海越しにある星を眺めようと懸命に天井の方を向いて、ついでに派手に白目も剥いている。ヌヴィレットは人間社会での生活にやっと慣れ始めたばかりの、齢五百あるかないかくらいの若輩者ではあるが、それでもある程度の人間常識というものをきちんと弁えていたし、メリュジーヌのような特別な目を持ってはいなかったので、それが人間にとってかなり異質な見た目をした冒涜的な物体に見えるものであることを理解できた。
「リオセスリくん、おかえりなさ……わあ! それ、どうしたの?」
「看護師長が茶会をやってるって言ったら、ベレナータがくれた」
脱ぐ外套もないリオセスリはそのまま、机の前で両手を上げて喜ぶシグウィンの前にその何ともロマンチックで魔術的な茶菓子を置き、その衝撃で少し全身を傾かせ天井ではなくシグウィンの方を向くようになった魚の頭に、小さなフォークを突き刺した。
「ナイフは?」
「それはあんたの分だ」
「いいの?」
「ああ」
シグウィンの喜びを写すかのように、ほんの僅かに弧を描く唇。乾燥のあまりぱっくり割れて血すら滲んでいるそれが、やわらかく開かれた。
「……公爵、とは呼んでくれないのか?」
「ちゃんと聞いてたのね」
「聞かせてたんだろ」
リオセスリは右手の人差し指で右耳の辺りを軽く二度叩いた。シグウィンが笑みを深める。あまり手入れのされていない、自然主義的で自由奔放な黒髪の下から覗く耳元をよく見れば、皮膚の色を隠すかのような密度で、大小様々なイヤーカフがつけられている。ヌヴィレットが知るリオセスリのそれより多い装飾は、彼にとっての武器のひとつなのだろう。
「公爵、って、呼んで欲しいの?」
「試してみたい」
「そう。“公爵”は物好きなのね」
シグウィンの口から溢された、勝ち取った名誉の勲章に。リオセスリは見るからに嫌悪感で満たされていそうな目を不器用に細め、ひゅう、と口笛を鳴らした。
「……へえ。いいね。思っていたよりずっと高貴な響きだ。それとも俺の愛しの看護師長、あんたの口から発されたからか?」
称賛するような言葉とは裏腹に、はあ、と大きな溜め息を吐いたリオセスリは、自身の身体を投げ捨てるようにシグウィンの隣に飛び込ませた。体重以上の負荷を急激に受けて軋むソファ。横になり、長い足を肘置きから飛び出させる彼のゴワゴワの髪を、シグウィンの細く柔らかな指が通り抜ける。
「おつかれさま」
シグウィンが、強く掴めばうっかり折れてしまいそうな程華奢な小公女のような、しかしこの足場の悪い地でしっかり使い込まれていることがわかるカモシカのようにしなやかで力強い腿の上にリオセスリの重い頭を導いたときも、リオセスリは抵抗しなかった。心地良さそうに細められる目。リオセスリはヌヴィレットの存在などまったく認識していないというような態度で、その甘い労いを甘受し始めた。
そのまま、数刻。人より緩やかな時間感覚の中で生きるヌヴィレットでさえ些か長いと感じるような時間、シグウィンはリオセスリを撫で続けていた。少女めいた足の上に乗せた成人男性の頭を撫で続けることは、紛うことなき重労働だといえるだろう。けれどシグウィンはいかにも普段通りといった様子で、特別な疲れを感じているようには見られない。そこまで手間と時間をかけられてやっと撫でられることに満足したのだろうリオセスリは、今度は自らの頭を撫で続けていたシグウィンの手を、生傷まみれの自らの手でそっと捕まえて、すっかり蕩けきって紅潮した頬と濡れた目元を隠すことなく、彼女の手の輪郭を確かめるように揉み込み始めた。そうしてようやく、少しぼんやりした意識のまま、それまでの様子を眺めていたヌヴィレットに、非難がましい目を比較的素直に向けた。
「二度と来るな、と。そうはっきり言ったつもりだったんだが」
「調査のため、私以外を立ち入らせてもいいと?」
「あんたは俺たちの最高審判官じゃないだろ……」
芯のない、綿のような声色だった。弱りきった獣でさえもう少し形があるのではないかと思わず疑ってしまう程の朧気さ。
「ねえ、“公爵”。ウチ、このヌヴィレットさんが話してくれる違う世界のメロピデ要塞の話をもっと聞きたいわ」
「おいおい看護師長、本気か?」
「“公爵”が言ったんでしょ?」
「冗談に決まってるだろ。お願いだからその悪趣味な渾名で呼ぶのをやめてくれ。吐き気がする……」
「あら大変。ウチがよく効く吐き気止めを処方してあげるから、ゆっくり休んで頂戴」
「看護師長」
誰かに取り残されて以降、二度目をずっと恐れている子供のような、不安感で満ちた瞳が、地獄の天使のような少女を見上げていた。
シグウィンは慣れた様子で小さな両手でリオセスリの両頬を挟むと、少しぶすくれたように見える口元に、慈愛に満ちた祝福を落とした。
まるで宗教画だ。背景は暗く、壊れた蓄音機が不気味なノイズだけを吐き続けていても。ここは間違いなく、一人の罪人のための最後の安息の地だった。
「大丈夫。恐れなくていいの。公爵になったって、キミはウチのかわいいリオセスリくんなのよ」
「……そうかい」
「きっと何も変わらない。ただ、ほんの少しだけ……贅沢の味を覚えるだけかも」
「たとえば?」
「例えば……紅茶を一杯飲む度に、角砂糖を二つも入れてしまうとか」
「それは……うん。確かに贅沢だ……」
ぼやける意識に伴い、溶けていく声。リオセスリの目蓋がゆっくりと、あたたかな現実に逆らう力を失っていく。白魚のような、少し冷えた指先で両の目元がなぞられれば、途端に大人しくなった上目蓋が黒々とした隈の味方をした。
「ね。眠くなってきたのなら、ちゃんとベッドへ行って。また体を痛めちゃうわ」
「ヌヴィレットさんは?」
「ウチがいるでしょ」
「なら尚更、ここがいいな」
目も開けず、手足に力も入れられず、そのすべてを、目の前の少女に支配されている。
「話してくれてても、いい、から」
落ち着いた低音が、規則正しい寝息に変わってから。無意識のうちにずっと息を潜めていたヌヴィレットは大きく、しかしリオセスリの泥のような眠りを妨げぬよう、安堵の息を吐いた。
「本当に、眠ってしまった」
小さな指が頬を優しくつついても、むずがることすらない。そっとリオセスリの頭を膝から下ろしたシグウィンが、囁くように言う。
「彼はね、あなたのことが嫌いな訳じゃないの」
むしろ、判決を読み上げるあなたの落ち着いた声が一番好きなのよ、と。子を守る母親のような顔をした彼女は、色恋話を好むあどけない少女のように笑って言う。
「ただ……あなたのことがとっても心配なだけ」
「ここで何が?」
シグウィンはたっぷりと時間をかけ、目を細めた。
「……今日はここでウチのお茶会に付き合ってくれる?」
詳細を話す気はないらしい。リオセスリがそれを望んでいないことがわかっているからか、ヌヴィレットがまだ彼女の信頼を真の意味では勝ち取れていないからか、それとも、その両方か。
「リオセスリくんはいつも寝つきが悪いから、撫でるだけでこんなに早く眠ってしまうのは珍しいのよ」
「早いのか」
「ええ。ウチ、驚いちゃったわ。本当にダメなときは、半日撫で続けたって目すら閉じないんだもの」
シグウィンはヌヴィレットとの対話を続けながら、リオセスリの耳につけられた大量の“受信機”をひとつひとつ外していった。二つずつしかない目と耳を補うため掌一杯になるほど身につけられていたそれをケーキスタンドの横にまとめて置き、今度は小さなフォークで器用に土産物のパイを三つに切り分け始める。それから彼女は、三段あるケーキスタンドに乗せられたスコーンをすべて一番大きな下の段に移し、上と真ん中の皿を外すと、三分の一に切り分けられたパイを一切れずつその上に乗せた。ひとつは机の傍らに置かれ、もうひとつはヌヴィレットの前に差し出される。
「それは、君のものだろう」
「あら、ウチのものをウチがどう分配しようと自由でしょ? ここには水神様の目も届かないから、ナイフで分けなくたって誰も困りはしないわ。大きなフォークは……ないけれど」
そこにあるのは、無味乾燥な日常からすら、少しずつ多くの幸福を拾おうとする、力強い女性の微笑みだ。ヌヴィレットの知る彼女よりずっと“分かりやすく”逞しい彼女の姿勢は、ここでの長く暗い生活で培われたものだろう。
「構わない」
ヌヴィレットは彼女の心遣いに応えるため、一枚取った紙ナプキンを丁寧に折り畳んで円錐形の器を作る。それから、皿の上のパイを崩さないよう手の上の器へと慎重に移した。つい先日旅人たちから学んだばかりの、野外での食事法を活かせて良かった。
「それに、ベレナータたちのパイなら、リオセスリくんも食べられるはずだもの」
ヌヴィレットの記憶している限り、ベレナータはエリナスで暮らすメリュジーヌのひとりだった筈だ。彼女がメロピデ要塞を訪れているのか、それともリオセスリがエリナスを知っているのかはわからないが……その部分にはあえて触れず、会話を続けた。
「“なら”、とは……どういう意味なのか、聞いても構わないだろうか?」
シグウィンは、両手で掴んだカップの水面へと目線を落としながら、囁くように言う。
「リオセスリくんは……人の手が入った食事を食べないから」
「それでは、普段は何を?」
「放っておくと何にも食べようとしないから、ウチが毎食特製メニューを作ってあげてるの」
彼女は他の焼菓子の陰に隠れて存在していた、青紫色のスコーンを片手に、得意げに笑った。
* * *
元の世界に戻った後。ヌヴィレットは対話の内容をリオセスリの頼み通り彼に報告するため、夜更けに迎えに来た旅人たちと共にメロピデ要塞を訪ねた。この異常事態に際しては、今後も頻繁な情報交換が必要だろうが、緘口令を敷いている以上、ヌヴィレットがいきなりメロピデ要塞への正式な訪問回数を増やし、明らかな異常を悟らせる訳にもいかない。その結果が、この殆ど“侵入”に近いお忍びの形だ。
旅人の導きに従い要塞内外を繋ぐ長い縦のパイプから侵入し――何故他人を的確に案内できる程、メロピデ要塞の抜け道に通じているのかはあえて触れないでおくべきだろう――、そのまま看守たちの目を盗んで管理エリアへと進む。静まり返った執務室の前へと辿り着けば、ドアノッカーをそっと叩くより前に音もなく開いた扉の中から伸びてきた力強い両腕に、部屋の中へと引きずり込まれる。一人浮いていたパイモンが取り残されぬよう隙間から部屋の中に飛び込んだのを確認してから閉まる扉。
「やあ。旅人にパイモン、それからヌヴィレットさん。流石、逢引きには丁度いい時間だ。……もう今日の分のサービス食は受け取ったか?」
外套を外したリオセスリの軽快な声と、質のいいレコードの落ち着いた音色が、ヌヴィレットたちを出迎えた。
「大丈夫」
「今日は何だった?」
「お茶」
「オイラはオニオンスープだったぜ!」
「へえ。良かったな」
リオセスリと旅人たちがメロピデ要塞の日常に関する話題で盛り上がる。いかにもこの場所の在り方に楽しさを感じているといったような三人の明るい声色に、つい数刻ほど前に見たばかりの、どうしても陰鬱な感じが拭えないでいるような二人とのやり取りを思い出してしまったヌヴィレットは、レッドミーニーに心の表面を触れられたような痛みを覚えた。
「リオセスリ殿」
「ヌヴィレットさんの方はどうだったんだ? ……勿論サービス食じゃない方だ」
「ああ――」
ヌヴィレットは促されるまま、自分が見聞きしたことを三人の前で語った。
長いようで短い話を聞き終えたリオセスリが、口を開いて、第一声。
「看護師長の特製メニューを毎日……どころか毎食? 勘弁してくれ。考えたくもない」
「“ベレナータのパイ”、って、多分あれだよな……?」
続いた旅人たちと共に、リオセスリは肩を竦め、首を横に振った。……ヌヴィレットとて、こうして散々冗談めいた小言を聞かされていれば、シグウィンらメリュジーヌの特製料理が効能は兎も角、見た目や味といった点で人間の五感向けではないことは理解している。
「いや待て。そっちの看護師長もまたこっちのとは性格が違って、人間の美的感覚ってやつをやっと理解してくれた個体なのかもしれない。彼女が作った料理は見たか?」
「青紫色のスコーンなら」
「そりゃ駄目だ」
「ググプラムかスミレウリならあり得るかも?」
「どう……だろうな……」
「ところで、リオセスリ殿」
机に腰掛け、指先でペンを弄びながら無防備にヌヴィレットを見る彼の背後には、未確認の書類が山のように積み重なっている。
「普段から計画的に仕事を進めている筈の君の机に、何故この時間になってもそのような量の書類が残っているのか、聞かせてもらっても?」
残念ながら、旅人たちに同行していたから、というのは言い訳にはならない。旅人には同行を承諾した友人の多くをテイワットの端から端、もしくは極寒の雪山から酷暑の砂漠、はたまた地や海の底まで容赦なく強行軍で連れ回す悪癖があるが、余暇のない相手まで誘いはしない。その上、リオセスリとは、昨日パレ・メルモニアであったばかりなのだ。口約束であれ、彼は今日もヌヴィレットを訪ねると言った。だからこそ、ヌヴィレットはこの時間まで、彼が来るのを待っていたというのに。
ヌヴィレットの問いかけに、リオセスリは、雑に誤魔化すような笑みを浮かべた。その表情を目にした旅人は、呆れたような、しかし“こういった類の人間”への対応にどこか慣れてもいるような、不思議な温度感の目を向けている。
「今日来られなかったのは、その怪我に関することか?」
……苦笑と共に両手を上げたリオセスリの頬には、メリュジーヌ印のステッカーシールで強調された、真っ白なガーゼがしっかり張り付けられていた。