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    2024/2/11カヴェアルwebオンリー「Perfect Asymmetry 2」展示。

    遺跡探索中メラと入れ替わりでやってきた学生時代カヴェを持ち帰り甘やかすゼンと、情緒(と性癖)を滅茶苦茶にされている二人のカヴェの心が猛スピードですれ違ったりぶつかったりする話です。
    (未完:進捗展示)

    ※過去カヴェ+現カヴェ×現アル
    ※“メラ←→過去カヴェ”のため、カヴェの隣にメラが不在(重要)

    Won't be spoiler K-1

     カーヴェがこれまで経験してきた人生には、“最悪”と名付けられる出来事が既にいくつもある。そういった事実を鑑みたとしても。今のカーヴェの目の前に広がる光景は、間違いなく新たな最悪として数え上げられそうなものだった。
    「メラックをなくした?!!?」
    「手元にない、というだけだ。約束は三日だった」
    「本当に帰ってくるんだな?」
     妙に秘密主義なところのあるこのかわいくない後輩――アルハイゼンの、錆びついた沈黙に潤滑油をしこたま流し込み、どうしても調査したい遺跡があるらしいということを聞き出したまでは、多分、良かった。だから、問題はその後にある。……いや、“前”というべきか。まあ、前か後かはこの最重要じゃない。重要なのは、問題はそこにはないということだけだから。
     ……続けよう。ここ最近のアルハイゼンが熱心に集めていた史料を解読した限り、該当遺跡の壁の奥には未だ見つかっていない隠し部屋があり、そこには多くの碑文が保存されているのだという。閉ざされた部屋は風砂による磨耗を逃れている可能性があり……あのアルハイゼンが居ても立ってもいられず休暇の日程調整をし始める程度には、強い関心の対象だった。
     カーヴェもまた、その隠し部屋を探索する機会――というより、特に古代建築における空間の配置に関する新たな見識を得られる可能性――を逃したくなかった。
     そこに、利害の一致があった。珍しく。いや、利害の一致自体は珍しくないか。珍しいのは、そこから具体的な段階まで話がまとまることだけだ。多分。
     兎に角、研究に集中したいアルハイゼンは、未知のエリアを開拓する術に長けた護衛役を必要としていたが、かといって信頼できない人間に背を預けることができる程無防備でもない。
     二人の共通の知人である旅人も、既にスメールを旅立っており、今はフォンテーヌを本拠地にしているらしい。異様にフットワークが軽いからたまに日帰りでスメールにも顔を出しているとも聞くけれど。大きな祝祭行事や用事があれば冒険者協会経由で招待状や指名依頼を出してほしいと言われてはいるが……最近はフォンテーヌに入り浸って、日々多くの人々の困り事を解決しているらしいから、邪魔をするわけにもいかないだろう。暴れる生物を退治したり、清涼飲料水の開発に参加したり、時々カフェの店主を手伝って客にコーヒーを淹れたり(前にもモンドでドリンク作りの技術を学んだことがあるらしい)と、兎に角大活躍しているようだ。聞けば、スメールでも学生の研究を手伝ったり、教令院クイズのテスターになったり、猫語で猫と話したりと、毎日様々な依頼を受けていたから、同じようなものかもしれない。野外に現れたふせふせキノコとやらを叩いたり、ぴょんぴょんキノコで跳ね続ける行為だけは、何の意義があるのか全く理解できなかったが。まあ、旅人はスメールで生まれ育った人間ではないし、この世には本当に様々な問題があるので、カーヴェたちの知らない理由があるのかもしれない。他人がぴょんぴょんキノコで跳ねているところを見ないと死んでしまう、今まさに当該テーマについて論文を書いている学生の存在、とか。
     閑話休題。旅人には頼れず、有能な友人たちもそれぞれに仕事を抱えていて、個人的な探索に付き合わせることはできない、となれば、交遊範囲の狭いアルハイゼンはカーヴェに頼るしかない(と言えば、信頼できる傭兵に依頼するつもりだった、と反論されたが)。アルハイゼンにはカーヴェを連れていく気があまりなさそうで、休みの日程を意地でも共有しようとしない。しかしカーヴェは無理にでも着いていくというやる気に満ち溢れていたので、アルハイゼンの機嫌チェックを毎朝のルーティンに追加するだけで許すことができた。
     それでも、想定外というものは常に付きまとってくるものだ。いつもの店の特売で偶々、前から気になっていた銘酒が安くなっていたとか、飲んでみたらかなり美味しくて、気付けば想定以上に瓶を開けていたとか……カーヴェの日常において、そういった類いの想定外は、床と机にごろごろと――それこそ、重く痛む頭を上げる翌朝に見る大量の酒瓶たちのように――転がっている。
     カーヴェは、日頃の不摂生(と深酒)が祟り朝まで床に突っ伏していた自身を容赦なく置いて旅立っていったアルハイゼンを追わせるため、ピポピポ言いながら水を持ってきたメラックを……まあ数日ならば工具箱無しでも何とかなるだろう――すべての道具は人間の行為を楽にするためにあるのであり、カーヴェの道具であるメラックにできることはすべてカーヴェ自身ができることだ――し、迷わずちゃんと帰ってくるだろう、と信頼して送り出した。
     その結果がこれだ。カーヴェは泥酔した夜だけでなく、その翌朝の判断力を信じることもやめたくなった。
     思わず頭を抱えたカーヴェの目の前で、アルハイゼンは呆れたような顔を隠さず、腕まで組んでいる。
    「説明しただろう」
     なんで想定外をもたらした側が偉そうなんだ。そう叫ぼうとして、寸でのところで踏み留まる。
     ……アルハイゼンの背後で、成長期を迎える直前の、少年と青年の過渡期のような金髪の子供が、すっかり逞しく育ったアルハイゼンを見上げていた。
     息を深く吸い、気分を落ち着かせる。こういう場合、過度な情動はカーヴェを劣勢にしてしまうことが多いので。と、いうより、アルハイゼンが激昂した相手の対応に慣れすぎているというべきか。何故かって? アルハイゼンが人を怒らせる天才だからだ! ……おっと、いけない。落ち着いて冷静になれと自分に言い聞かせたばかりじゃないか。冷静になれ。冷静に。イマジナリーアルハイゼンの言動に苛ついたって、現実のアルハイゼンへの苛立ちが二倍になるだけだ。カーヴェは一言も発することなく、ゆっくりと息を吐いた。気を取り戻して、今度は八分目ほど息を吸う。
    「まさか、工具箱の代わりにこっちの“研修生”を連れ歩け、なんて馬鹿なことは言わないよな?」
    「ああ。この随分と“かわいらしい”彼に君の“これ以上ない程輝かしい”現実を見せつけてやるつもりはない」
     目を逸らそうとしても、現実は変わらない。
     胸を張るアルハイゼンの腰にしっかりとしがみつき、こちらをいかにも恐る恐るといった様子で見上げているその少年は、カーヴェにとって、かつては鏡と同じくらい見慣れていた人物だった。
     つまりは、過去の自分自身、である。
    「あ、アルハイゼン……」
     遠慮がちに伏せられた睫毛の下に、雑草のようにしぶとい自意識が宿っているのがわかる。
     “かわいらしい”? そんなわけがない。
     その瞬間、カーヴェは理解した。自分は、明らかに子供の自分を苦手としている。当然だ。そして恐らく、大人になったカーヴェの姿は、子供の自分にとって、父母のどちらにも似ているように見えるだろう。
     自己分析の進んでいない子供だ。反吐が出るくらいに幼く、現実を知らない。だが大人になったカーヴェが過去の自分に辛く当たることは、どう考えても子供のカーヴェの教育に良くない行為であることも自明だった。
    「え、ええと……」
    「君が拾ってきたんだ。君が世話してくれ」
     それでも。耐えられなかった。耐えられないだろうことが分かったから、傷つけてしまう前に距離を取ることにした。
     しかし子供をプライドから追い出す獅子のように、彼を家から出すことはできない。今のカーヴェは些か有名すぎる。良くも悪くも。未熟な過去の自分を自分の依頼主に(特にあのドリーに)会わせることはできないし、カーヴェによく似た顔の子供を路頭に迷わせることもできない。身一つの未成年だから馴染みの酒場にも置けない。そもそも、アルハイゼンが許さないだろう。
    「しばらく家を空ける」
    「そうか」
    「……引き留めたりは」
    「しないが。ああ、鍵は置いていってくれ」
    「君ってやつは…!」
    「ところで、行く宛はあるんだろうな? 」
    「三日だろ? 何処へでも行くさ。気にしないでくれ」
     アルハイゼンと酒場で再会するまで……アルカサルザライパレスが竣工した直後の、酷く落ち込んでいた時期についてはさておき……カーヴェは元々ひとりでも生活していたのだ。最悪――本当に最悪の場合だが――長期化したとしても、ここに泊まらなければ家賃だって払う必要がないのだから、浮いた分のモラで別に部屋を探せば良い。
     カーヴェは、アルハイゼンがいなければ生きられないような、弱い人間ではないのだから。別に。態々アルハイゼンなんかと一緒でなくたって。全く。メラックの力が使えないのはかなり痛いが。何の問題もない。そうだ。カーヴェがアルハイゼンといるのは、アルハイゼンにはカーヴェが間違いなく必要だからで。
     出口のない迷路に入り込もうとしていた思考を、やわらかくも図太い芯のある声が遮る。
    「待ってくれ。その必要はない。……僕は、何処でも、大丈夫だから」
    「僕と同じ顔をしている君に野宿なんかさせられるか。いいから、君が、アルハイゼンといるんだ」
    「でも……でも。家族は一緒にいるべきだ」
    「は、はぁ? 僕とアルハイゼンが家族? 何を勘違いしているのか分からないが……」
    「カーヴェ」
    「……何だよ」
    「どうしたの?」
    「……もう先輩じゃない方のカーヴェ」
    「せ、! 先輩は先輩だろ!!!」
     怒りと呆れのあまり、続くはずの言葉も出ない。カーヴェの怒鳴り声を聞き、無言でアルハイゼンにしがみつく腕の力を強める、もう一人のカーヴェ。
     いとも容易く二人のカーヴェの言葉を止めたアルハイゼンが、“こんな簡単なことも分からないのか”と驚くような、大変正直な目をこちらへと向ける。それからアルハイゼンは、はあ、と、野生動物の威嚇にも似た大きな溜め息を吐いた。
    「彼は昔の君によく似ている」
    「だから何だって言うんだ」
    「君は、自分にとって何が一番良い選択か、もう理解していると思っていたが」
     最悪だ。本当に。そうとしか言いようがない。欲張りで、ひどく我が儘で、それからとびきりふてぶてしい。両立不可能なものを両立してみせろと……随分と簡単に言ってくれる。
     だがカーヴェは、ここまで煽られてなお、おめおめと逃げ出す程の恥知らずではなかった。
    「……分かったよ! 出ていくのはやめる。追い出しもしない。だから、……なあ、そんな……酷い顔をしないでくれ。僕だっていうなら、分かるだろ」
     誰よりも憎んでいるのに、いざ否定されれば深く傷ついた。そんな矛盾に満ちた生身の心を、アルハイゼンはやわらかく温かい掌で拾い上げ、震える雛に優しく頬擦りしようとしている。
     ……要は、絆されたのだ。子供のカーヴェにではなく。彼を“また”無条件に拾ってきた、アルハイゼンの不条理な態度に。
     捨て猫を拾ってきた子供の懇願に負ける親のような気持ちだった。なかなか人馴れしない後輩の、自分だけに向けられたあどけない期待に勝てる先輩などこの世に存在しない。ちいさな人間の手では全ての人を平等に拾い上げることは出来ないからと、苦労せずに拾えるもの以外には手を伸ばそうとしないアルハイゼンが、無茶を通してまで拾い上げようとする程。アルハイゼンはずっと、“カーヴェ”にことごとく甘かったのだ、ということを、カーヴェはもう充分わからせられていた。己もまたある意味では、そうして拾われてきた野良である、という事実を完全に否定することはもう、出来そうにないし。
    「わかった」
     何はともあれ、アルハイゼンの決意はかなり固いらしい。三思後行を是とするアルハイゼンの行動は全て、三度の熟慮を潜り抜けたものである。つまり行動の前に察することが出来なかった時点で完全な後手であり、今更カーヴェがアルハイゼンの意思を変えることは不可能だった。アルハイゼンがカーヴェを拾ってくる前にその場にいなかったことが悔やまれる。いや、やっぱり拾わせないのは無理かもしれない。アルハイゼンは何だかんだ、カーヴェの無限回収勢なのだ。しかし、後輩だったらまったく無理だったかもしれないが、カーヴェはこの仕様のない後輩の、なんと二つも上の先輩なので。比較的大人しく譲歩することが出来た。
     それはそれとして。
    「だが、どこで寝起きさせるつもりなんだ? 食器類は良くとも……僕の部屋には入れられないぞ」
     拾うことは認めよう。アルハイゼンが自分の家に何を置こうと自由だと本気で思っていることはわかっている。だが、カーヴェが現在使っている部屋は、作業部屋も兼ねている。作りかけの模型だってあるのだ。つまり、他人の寝起きに耐え得る場所ではなかった。
    「当然、弁えている」
    「じゃあどこに?」
    「俺の部屋でいいだろう」
    「はあ?! ここで寝かせればいいだろ! 寝袋だってある」
    「なら君の部屋も書斎にしよう。明日から君もここで寝るといい。丁度増えた置き場に困っていたところだ」
    「おい、それとこれとは話が別だろ!」
    「同じだ」
    「わかった、そこまで言うならやってみろ。一夜にして、君の無駄に広いベッドが丁度いい大きさになるぞ」
    「そうなっても、遺跡守衛を折り畳むよりは簡単に事が済むだろう」
    「何だって?! 君ってやつは…!」
     今度こそ言葉を続けるカーヴェに、あからさまに顔をしかめてみせたアルハイゼンは、耳元に手をやって――恐らくヘッドホンの遮音機能をオンにして――から、目の前のカーヴェを華麗に無視し始めた。それから、大人二人のまったく大人げない口喧嘩を前に困ったように眉を下げていた子供の背をやさしく押し、己の寝室へと導いた。カーヴェを残して。



     A-1

     アルハイゼンは、“カーヴェたち”の頑な態度と、予想以上に深刻な状況に、内心頭を抱えた。日々自らの体を最大限に労っている健康優良体にもかかわらず、頭が痛むような気すらしている。二人のカーヴェの相性は、息ピッタリどころか、二人してパッタリ息絶えてしまっている。ここに現れたのが過去のアルハイゼンであれば、こうはならなかっただろう。何せ、過去のアルハイゼンは、丁度良い本でも読ませておけば大人しくなるようなとても謙虚で慎ましやかな子供だったので。(カーヴェはアルハイゼンのこの主張を決して認めないだろうが。)
    「僕はペットか?! あいつ、我ながらなんって性格が悪いんだ!!」
     アルハイゼンの家の先住人であるカーヴェの前では萎縮して借りてきた猫のようにすっかり大人しくなっていた小カーヴェだったが、アルハイゼンが少し宥めてやれば生来の跳ねっ返り気質が現れてくる。
    「それに比べてアルハイゼン、君は、……その……育ったな?」
    「お陰様で」
     目の前の小さなカーヴェは未だアルハイゼンの罪と過ちを知らず、アルハイゼンを最大かつ唯一無二の理解者だと思っている。井の中の蛙。現実に打ちのめされ、雛換羽を経る前の、幼き楽園の鳥。
     だが、そんなことはどうでもいい。いや、“どうでもいい”というのには語弊があるか。より正確かつ詳細に言い表すとするなら、“今アルハイゼンの目の前にいるカーヴェが未来の彼と比べ、どれ程相対的に未熟で劣っているように見えようとも、アルハイゼンが自らの行動指針を変えることはない”。それ故に、カーヴェが何者であろうと関係がない。
    「……アルハイゼン」
    「どうした?」
     見下ろせば、様子を窺っていた目にぶつかった。
    「何か、悩んでる?」
    「何故?」
    「当然だろ。先輩なんだから」
    「違う」
    「……もしかして、その……僕の、」
     その目は、目の前のアルハイゼンではなく、未だ来たらぬ過ちを恐れているように見えた。
     決定的な言葉を放つ前の、やわらかな頬を捕まえる。少しかさついている。疲労か、あの頃はすっかり彼専用の寝台と化していた机の肌触りのせいか。
    「んむ」
    「君は、」
     正直、正しいとも、正しくないとも、言いがたい。どうみても関わること自体間違っている面倒事だ。けれどアルハイゼンは、そのような面倒事を愛していたので。
    「いつでも最高だったよ」
     厚い沈黙のタオルケットに包まれた真実の一端だけを差し出した。
     アルハイゼンとカーヴェはまったく別の生き物で、アルハイゼンの考える前提はカーヴェの考える前提とは明確に違っている。ある個が持ちうる知性には限界がある以上、真に客観的な評価者は時間以外あり得ない。今のアルハイゼンの目で見てしまえば、かつて対等に見えた二つ上の星の子は、信じられないくらい無知で愚昧な生き物に映る。いつの間にか、過去の思い出を美化し過ぎていたのかもしれない、とも思うけれど。カーヴェもまた彼なりに、彼だけのための最善を選んできたのだと、今なら理解できるから。
     真理は常に数多の誤謬を土台に成立してきた。そう考えるなら、より多く過つことこそが唯一無二の王道だと言えるのかもしれない。過去のカーヴェが未熟に見えるのは、アルハイゼンがその歩みを見つめてきたカーヴェが確実に成長しているからだ。
    「そう」
     安心したように、しかしどこか落胆もしたように。肩を落とす少年をそっと、大きな寝台に横たえさせる。
    「アルハイゼン?」
    「眠るといい。砂漠を越えて、疲れただろう」
    「そ、それは……僕は、何も出来なかったし」
    「無理もない。君のいた時代とは、何もかもが違う」
      人がどうあろうと真理が変わることはない。それでも、真理を目指し、人類の叡知は常に変化し続けてきた。昨日見つけられていなかった真理の芽を、今日は見つけられるかもしれない。今日まで正しかった学説が、明日疑いを抱かれ、明後日には覆されているかもしれない。必ず進歩しているとまでは言い切れないが、そうして集積された過去の上に人類が立っているということは事実とみなしても構わないだろう。
     アルハイゼンは先程まで現在だった時間を含めた全ての過去を愛している。だからこそ、どうしようもなく回りくどく、焦れったい、最も面倒な道を選ぶことができるのだ。
    「その、未来の僕は、どうして……」
     無垢な疑問に、微笑みだけを返した。
    「ごめん。アルハイゼンが言わないってことは、“そういうこと”だよな?」
     全幅の信頼。今でも自分たちの考えがまったく一致しているのだと、まるで疑っていない顔。その上に、やわらかな沈黙を被せ、温かい掌でそっと背中を叩いてやる。
     それはカーヴェの過去であると同時に、過去のアルハイゼン自身でもあった。
     ――決別を知る前。あの輝かしい星を仰ぐ誰もが……本人でさえ、完璧な真美の化身と信じていた。きっと、アルハイゼンも途中まではそうだった。無瑕で、どこまでも美しい、純白の石膏像。
     だがそうではなかった。カーヴェはそのように神々しい存在ではなかった。カーヴェはアルハイゼンが知る誰よりも特別で。人間らしく、不完全な存在だった。知恵の神を含むあらゆる知的存在が逃れがたい死角を抱えているように。……アルハイゼンが、彼のより理想的な姿に見つけたちいさな穴を突いた途端、内側の虚に詰まっていた汚濁が勢いよく吹き出してきたように。
     身にそぐわぬ過度な期待こそが、他と異なる特徴を持つ特定の生物をある種の信仰対象にする。あの頃、カーヴェは明らかにアルハイゼンの偶像を崇拝していたし、アルハイゼンもまたカーヴェの偶像を崇拝していた部分があるように思う。客観的でも、冷静でもなかった。あの頃のアルハイゼンは、他人の知らないカーヴェの心の奥底に気づいている自分には彼を正す権利があるのだと、驕っていたのだから。
     酷い過ちだった。当時の状況を思えばアルハイゼン自身の力ではどうしようもなかったことだと、現在の結果だけ見れば決して悪くない道だったと分かってはいても……より良い手段があったのではないかと、何度も考えたくなった。後悔ではない。けれどそれはいつでもアルハイゼンの内省につきまとっては、もう二度と同じ過ちを繰り返さないようにと囁いてきた、消すことのできない影だった。
     それでも。この未だ脆い雛鳥が、アルハイゼンとカーヴェがこれからも同じことを考え、共に生きていくと信じているのなら……その信念をそのままに、彼のいるべき場所に帰さなければならない。必要なのは、この壊れやすい彫像の個性を――それが長所であれ、短所であれ――何ひとつ損なうことなく元の時代に帰すこと。それだけだ。
     しかし、変化させないことは、変化させることより難しい。あらゆるものは時によって傷つけられ、癒される。たとえ何も知らなかった昔の自分より今の自分の方が、カーヴェの心を傷つけず適切に寄り添える方策を多く理解しているのだとしても。多くの人間との関わりの中で生きるカーヴェの運命は、アルハイゼンひとりの欲のために歪められていいものではないのだ。
     常に最も正しいと思う道を選んで生きてきたアルハイゼンが、過去について後悔することは殆どない。成熟し、より良い方法を後から思い付いたとしても、それが当時の最善ではないことを理解しているからだ。故にアルハイゼンは、カーヴェと自らの運命に手を加えて、より都合のいい形に変えることを望まなかった。
     これまでどうしようもなかった過去が、自らの心の理論に傷をつけ、アルハイゼンの精神を、正しさのみで満たされた安寧の世界にもう二度と戻れなく作り替えてしまったのだとしても。真偽だけの二元論的世界は、ひどく…孤独で。身を切り裂く程に冷たい地獄にしか思えないだろうから。
     アルハイゼンは、目の前で眠る少年から微睡みを引き剥がさないよう慎重に、しかし大胆に、頬をつついた。
     ……眠りの深度は充分。数度見て、理論も把握している現象を再現することは容易。だが、どれだけの影響があるかは未知数。
     アルハイゼンが子供のカーヴェに、同じ寝台に入ることを許したのは、単なる情のためではない。既存の言葉では言い表せないような、特別な情があることは否定しない。だが、遺跡で初めてこの小(クラ)カーヴェとも言うべき子供を見かけたとき、ひとりでも元気に飛び出していきそうな彼を引き留め、自宅へと連れ帰ったことには……また別の理由がある。
     あの頃、アルハイゼンたちの夢を吸い上げていたアーカーシャシステムはとうに稼働を停止している。しかし、当時の誰ひとりとして、アーカーシャシステムの停止を想定していなかっただろう。
     アルハイゼンは過去のカーヴェから何一つ奪う気がなかったが、同時に、何一つ与える気もなかった。
     先の答えを無条件に与え、ただ甘やかすことは簡単だ。だが読書家にとって、この世で最も忌むべきことのひとつは、第三者から与えられる望まぬ種明かしである。
     作戦時に利用した改造済端末を用いて構築したローカルネットワークにカーヴェの端末の接続先を固定し、彼から送られた問いかけに逐次回答を返す。謂わば、今のアルハイゼンは、カーヴェただ一人のためだけのアーカーシャシステムだった。しかし、回答には中身がなく、内省のための鏡以上の意味は持ち得ない。答えを産むのは全て、カーヴェ自身の精神だけだ。適切な問いかけのみが適切な答えを産む。そのための問答法。
     アルハイゼンは、これまでのカーヴェがしてきた選択のすべてを尊重したいと思っていた。過去の“過ち”でさえ、“カーヴェ”という名の偉大な建築物を構成する煉瓦のひとつである、と、そう考えていたので。
     草神クラクサナリデビがこのことを知れば、その過保護さに、苦笑いするだろうか。否、偉大なる知恵の主マハークサナリであれば、既に数刻前から苦笑いを浮かべていることだろう。
     ――もしあの日、アルハイゼンが出会ったのがカーヴェ以外であったなら。果たして自分は、まるで夢の番人のような不条理な姿をしていただろうか?
     少年の美しい眉がむずがるように潜められる様に、アルハイゼンは思わず目の前の空気を揺らした。



     K-2

     アルハイゼンが同居人をひとり増やした夜から、翌日の朝。このまま順当に日付が進めば、明後日には何事もない日常に戻れるだろう。
     しかし、カーヴェの心は晴れるどころか、曇ったままだった。端的に言えば、苛ついていた。時間が経てば経つほどに、怒りが増していた。誰に、って? 当然、自分自身にだ。より正確に表すなら、ぽっと出の“昔のカーヴェによく似た子供”を労しいと今なお二個下の後輩に感じさせてしまった“自分自身”の不甲斐なさにだ。
     アルハイゼンは恐らく学生のカーヴェを、まだ首の据わっていない赤子か何かだとついうっかり思っているのかもしれない。それか、少しでも強く握れば潰れてしまう手乗り文鳥か何かだと。
     カーヴェはそのように扱われるべきか弱い稚児であるはずがないというのに! その上、カーヴェはアルハイゼンに頼られ尊敬されるべき先輩だった。決して、後輩に世話を焼かれ、心配をかけるような存在であってはならなかった。
     それでも。アルハイゼンは子供のカーヴェの心を気にしている。彼が酷い精神状態で過去の世界に帰れば、当然彼に同道しているだろう過去の自分にも影響を及ぼすから、などと嘯いてはいたが、それが主な理由でないことは明白だった。アルハイゼンの興味関心の対象は案外わかりやすいので。……案外? 何年あいつの先輩をやっていると思ってるんだ。案“内”に決まっている。だってカーヴェは、アルハイゼンがカーヴェのことをかなり好ましく思っているということをもう知ってしまっているのだ。
     それに……当時のカーヴェは、蝶よ花よとやさしく甘やかされ、すべてを赦される心の準備もまたできていなかった。今も、まあ、少しは……アルハイゼンのやわらかな受容と信頼に満ちた眼差しの目映さとか、仄かな紅潮と共に伏せられる涼やかな銀糸の麗しさに、後ろめたさを感じてしまう瞬間がないとは言わないけれど。少なくとも、夢を見ないことに安心するといったことはもう起こらないだろう。
     だが、当時はそうではなかった。
     アルハイゼンは聡明で、時にカーヴェ自身が意識していないような内心の翳りを鋭く言い当ててしまうことだってある。けれど、アルハイゼンはカーヴェではないし、カーヴェもまたアルハイゼンではないのだ。視点が違う以上、カーヴェの目には、アルハイゼンが見えていない自分たちの欠点がよく見える。
     そういうわけで、カーヴェは何も考えていないわけではなかった。まあ、かなり衝動的になってしまった部分がなかったとはいわないが。カーヴェは幼い自分自身の姿を見た数秒後には、今後三日間の生活方針を立て終える程度には冷静だった。伊達に悩み苦しんではいない。全く、誇れることではないのだが。
    「美味しい!」
    「それはよかった」
    「アルハイゼンも、ほら」
    「ん」
     ぱかり。開いた本に目線を落としたまま、いかにも仕方ないと言わんばかりの俯き顔と共に無防備に開かれるアルハイゼンの口に、もうひとりのカーヴェは掌サイズの小瓶に詰められていた小さなナツメヤシキャンディ――どこか子供の手作り感のあるそれは、休暇申請を出しに行ったアルハイゼンが珍しく職場から持ち帰ってきたものだ――をひとつ、放り込んだ。
     カーヴェによく似たその子供を家でひとりにするわけにもいかないからと、アルハイゼンは休暇を数日延ばし、彼の世話を……というより、自由に世話をされてやっている。アルハイゼンは自分より遥かに小さなカーヴェを自然に先輩として尊び、彼が何かを言えば、やんわりとそれを認めつつ、補足を返した。
     まるで昔夢見ていた未来の光景そのままだ。そう思った。このままずっとアルハイゼンと二人で同じ理想を目指して生きていくのだと……そう思い込んでいた頃の、盲目的で愚かな妄想。
     今更アルハイゼンとの致命的な相違から目を逸らし、虚像に浸ることのできないカーヴェを差し置いて。二人きりの世界を。あまつさえ。カーヴェとアルハイゼンの家で。
     ???????
     まあ、そういう経緯があったので……カーヴェの脳みそにあった良心のブレーキは忽ちブッ壊れた。その上、こんなときのカーヴェにいつも寄り添っていて、替えのパーツをサッと渡してくれる有能なアシスタントは今頃過去にいて、あまりのかわいさに憎しみさえ沸き上がってくるような後輩に群がる悪漢どもをカーヴェの代わりに蹴散らしてくれているはずなので、ここにはいない。
     そんなわけで、ここから先は狂気にまみれたカーヴェが、性格が最悪な後輩をめちゃくちゃにする大人向けの時間である。
     大人向け? 大人ったら大人だ。いくら大人げなくとも、カーヴェは成人男性だった。目の前のクソガキとは違って。
     金髪の子供は、アルハイゼンの認可を得て、まるで水を得た魚のように生き生きと家の中を動き回っている。ここは“この”カーヴェの家であって(所有権は未だアルハイゼンにあることはさておき)、“あの子供”の家ではないというのに。
     ――認めよう。カーヴェは過去の自分を、初めから対等な商売敵として見ようとしていなかった。自分は既に昔よりずっと高いところにいるのだと、いつのまにか驕っていた。言うなれば、他の同業者に対してするように、彼の存在を警戒することを忘れていたのだ。
     だが獅子の子は獅子だ。子供であっても。
     向こうは違った。彼はアルハイゼンを自分が絶対的に庇護すべき後輩だと信じている。自分は今度こそ過ちを犯さず、最後までアルハイゼンと共に歩むのだと思い込んでいる。故にはじめからカーヴェを、“アルハイゼンを傷つけた敵”として見なした。 ……相手は悪いやつ、ならば遠慮は一切不要だろう、と。この種の切り替えの早さはカーヴェの数多くの長所のうち、後ろから三番目くらいに位置しているものである。
     そしてそれは、今のカーヴェにとっても、当てはまることであった。
     ――“あれ”はもう一人の自分などではなく、他人で、カーヴェの天敵だ。
     仕事の忙しさのあまり、自分と同じレベルとスタイルでものを考える人間がもう一人欲しいなどと考えたことがこれまで一度もないとは言わない。しかしその考えはとんだ間違いだったと分かった。
     技術的な知識や熟練度は兎も角、芸術性という部分に至っては、辿ってきた月日の長さが必ずしもアドバンテージとなるわけではない。
     何故なら、寄り添う月日によって変えられたのは、カーヴェがそこに至ろうとする手段だけで、見ている理想自体は昔も今も変わっていないのだから!
     彼であれば、カーヴェの図面を見て、今の彼自身に欠けている視点を即座に補うことができるだろう。
     優れた芸術性というのは、単なる発想力だけでなく、現前する芸術的な技巧を正確に読み取れる力でもある。何かが美的であるということは、そこにある何かがそれを美たらしめているということだ。美的なものから、それを美的にさせるその“何か”を掴み取る。分解して、見つけた美そのものを、自らの図面に落とし込むための美的鑑賞力。カーヴェに言わせれば、こういった美的鑑賞力は純粋な感性に基づく趣味判断とは異なり、誰しもが後天的な学習によっていずれ獲得できるだろうものだ。ある評価者がその作品を好むかどうかと、その作品が真に良いものであるかどうかはまったく別の問題である。故に、真に美的なものが何であるかを理解できないというのは、正しい見方を知らないということであり……美学への不理解は学者の怠慢にすぎない。
     だがそれでも、正しい美的理解への到達速度に個人差があることもまた事実だろう。誰もがみな小さな種から己を育てるのだとすれば、才能とはある種の成長促進速度である。
     そういった点において、カーヴェは天才だといえるだろう。間違いなく。他人には理解しがたくとも、確かにそこに存在する美をカーヴェは一目で見て取って、己の糧とすることができる。
     だからこそ、カーヴェにとって、自らと同じ顔をした少年の存在はまさに、カーヴェたちの家に現れた外患だった。言い換えれば……カーヴェは自分自身の才能に絶対的な自信を抱いているからこそ、“もう一人の自分”の目を心底脅威に感じていた。
     だって、適切な論証の過程を辿らず、途中式もわからないまま一足先に“答え”にスキップしたってロクなことがないのだということを、今のカーヴェはよく知っているのだ。基礎工事無しで頑丈な建物を建てることなどできるはずがないように……重要なのは表からは見えない部分にこそある。見目だけのハリボテでは駄目なのだ。それはアルハイゼンだって分かっているはずだ。……本当にわかっているのか、怪しいな。アルハイゼンは恐らく芸術というものを理解する気がなく、カーヴェが日頃意識している様々な美的理論に関して、極端に無知だから。
     故に、無条件に未完成の図面を見せはしないし、自分が持つ神の目の光が彼の目に映らぬよう警戒していた。部屋に入れることを拒否したのも、この理由が大きい。その点でいえば、メラックがここになくて良かった、と言えるかもしれない。それらは未だ眼の曇った小さなカーヴェが、自分自身で選び、辿り着くべき場所だと信じていたから。
     だが、全部やめだ。頼れる先輩らしく、アルハイゼンの“教育方針”を尊重する時間は終わり。
     だって、アルハイゼンのことなんかロクに見もしていないで、無遠慮に大人になった後輩も当然自分のものだと思い上がっているあの最悪な子供が、幼いというだけで、さんっざんに甘やかされているのだ!
     アルハイゼンと出逢ってから、これまでの人生の長さに比べればそう長くはない時間を共に過ごし、決別し、散々に苦しんで、やっとのことで取り戻した繋がりだ。アルハイゼンはカーヴェのフォロワーじゃないし、無条件でかわいく健気な“カーヴェの後輩”なんかじゃないのだ!
     よって、遠慮も無用だ。



     k-1

     ――あっ。
     そう思った時には、遅かった。
     突然壁から光が迸り、まるで叫び声のような警報音――あえて文字に起こしたなら、「ピポーーーーーッ!!」となりそうな感じの音――を聞いた瞬間、背後を振り返る間もなく……カーヴェの体は垂直落下し始めていた。
    「うわーーーーーっ!!」
     まさに機械が悲鳴を上げていたのと同じように、カーヴェも悲鳴を上げる。
     風の翼の免許を持たないため装備しておらず、落下の衝撃を弱めるための武器もまた遠く手から離れている。そればかりか、カーヴェが己の武器として選んだ訓練用の大剣は、今やカーヴェの真上に存在し、カーヴェ同様に自由落下しているので、カーヴェの体が落下を止めた瞬間、それはカーヴェをたちまち真っ二つにするだろう。絶体絶命。
     遺跡の中にこんな高低差のある場所があり得るのか、そう思う暇もない程壮絶な五秒間。接地の瞬間の衝撃が大きすぎても死、そこで辛うじて命を拾っても、速攻で落下地点から退避しなければ死。そんな絶望の帳を、緑色の閃光が切り裂いた。
    「鏡閃」
     そのような声とともに飛んできた――瞬間移動するかのように空中へ急接近してきた――緑色の男は瞬きの間にカーヴェの頭上に吊り下げられた抜き身の死を弾き飛ばす。男は白光を放つ緑色の片手剣が真下を向くよう空中で器用に姿勢を変えると、宙に固定した光の鏡片を後ろ脚で力一杯蹴る。獲物を見つけた隼のような速度で落下する彼は、鍛え上げられた片腕で死へと向かうカーヴェの身体を捕まえ……大きな音を立てて着地した。緑光のカーテンが落下地点近くに降り注ぎ、偶然居合わせた砂岩を砕いた。
    「カーヴェ」
     九割九分の死から逃れたことで、バクバクと自己主張し始めた心臓を必死で宥めるカーヴェをそっと床に横たえさせたその男――成長したアルハイゼンは、柔らかな声でカーヴェの名前を呼んだ。



     ◇◇◇

     大きくなったアルハイゼンの憂うような表情を見て、ああ、やっぱり未来の自分はまた何かを間違えたのだ、と思った。
     過ちの内容はわからない、けれど過ったことは確かだ。
     それがわかっているのなら、二度と。その過ちを繰り返さなければいい。それなのに。
     カーヴェは未来の自分自身に失望した、と言えるかもしれない。

     ◇◇◇




    A-0

     横を飛んでいた世話焼きな工具箱が光に包まれ消えたのとほぼ同時に目に飛び込んできた、自由落下中の“カーヴェ”を捕まえ、救命した後。アルハイゼンは彼が現れた空中に浮かび上がっていた水色の文字にやっと目を向けた。
     それは古代文字だった。古代言語の解読を専門の一部とするアルハイゼンにとって、それは赤子の手を捻る……ようなことはそう簡単にはできないので……鍵を忘れた同居人を締め出す……ことは彼の喧しさを考えるとそこそこ難しい……シャフリサブスシチューを理想的状況の形に整えるくらいには簡単で、ほんの少し手間がかかることであった。
     光を放つ文章を読み解く限り、今まさに作動した遺跡の仕掛けは周期的――現在のテイワットで用いられている時間の尺度を用いて表すなら、“三日に一度”――に「右目」と呼ばれる転送部屋に存在する任意の個物と「左目」と呼ばれる転送部屋に存在する任意の個物を時間や空間を超えて入れ換えるものである。また、部屋の仕掛けにはそれぞれの部屋の中身を交換する通常の作動と、交換された部屋の中身を元に戻す逆作動の状態があり、それを別の仕掛けによって切り替えることができる。転送先は部屋に存在する八つの光る文字盤に表示されている文字の組み合わせで決まり、該当する「右目」と「左目」、それぞれの部屋に存在する文字の配列を合わせてから、作動の瞬間その場に居合わせれば、交換を元に戻すことができる。アルハイゼンが――というよりアルハイゼンの寡黙な同行者であったカーヴェの工具箱メラックが――巻き込まれたのは丁度「左目」――「失われたものの回復」、即ち未来から過去へ飛ぶための部屋であり、恐らく過去のカーヴェが巻き込まれたのは「右目」――「邪悪な破壊からの保護」、即ち過去から未来へ飛ぶための部屋である。なお、過去からでも任意の未来を呼び出せるよう暦と対応した特定の規則に基づいた利用を前提としているようだが、既に日付を合わせる者は存在しておらず、誰も動かすことがなければ同じ時代に辿り着けるはずだった。だが、先程の落下攻撃の衝撃で変わっている文字が確かにあるにもかかわらず、部屋に入った瞬間のアルハイゼンが視界に入れていなかった――つまり、変わる前後を確認できない――文字碑の存在もまたある以上、メラックに記録されている“今日”の日付に合わせておいた方が確実だろう。
    「カーヴェ」
    「なに……?」
     きょろきょろと辺りを見回していた少年に声をかけると、彼は不思議そうに、どこか夢見心地のような顔で、首を傾げた。
    「君は過去の俺と遺跡に来た。間違いないな?」
    「ああ、そう……だけど」
    「なら問題はない」
     過去のカーヴェが未来へ来たのと同様、メラックも過去へ飛ばされているはずである。過去の己の学力とメラックの導きがあれば、過去の心配をする必要もない。
     再びゆっくりと自然回復しているエネルギーとその量を表す計器の針の進み具合を見ても、次の作動は三日後で問題ないはずだ。
     そこまで確認し終えたところで、すっかり気の抜けたアルハイゼンは――無論、かといって全ての警戒を取り払うなどという愚を犯すことはないが――今回の探索のためにと態々旅人から譲り受けたポケットワープポイントのうちの一つをその場に設置した。設置手順は全て頭の中に入れているから、問題はない。
     設置を終えたアルハイゼンは、そのままの流れで、未だ呆気にとられたままのカーヴェを担ぎ上げた。転がっていった大剣は、まあ拾わずともいいだろう。
    「わっ! あ、アルハイゼン! それは何……僕をどこへ連れて行くつもりなんだ!?」
    「帰る」
    「は?」
     色々と問題がありそうなわけだが、それはさておき。アルハイゼンは疲れていた。
     日頃から計画的な作戦行動と適切なペース配分を心がけているアルハイゼンが自らの力を使い果たすことは滅多にない。だが、先程の救助劇はかなり、気を遣った自覚がある。何せうっかりカーヴェに体当たりしてしまっては、元も子もない。
     つまり、とても気疲れしている。
     そして疲れているのなら、選択肢はひとつだ。――迅速に自宅へ帰還する。それしかない。というより、アルハイゼン自身が、とても帰りたいと思っている。うん。それがいい。そうしよう。そもそも初めから日帰りを繰り返すつもりでポケットワープポイントを借り受けてきたのだ。アルハイゼンは自分の家が好きだったから。
     三日もここで、しかも神の目すら持たないひ弱な学生を守りながら過ごす、なんて。猶更考えたくない。
     ひ弱?馬鹿を言うな。カーヴェがひ弱であるものか。と、そう思う自分もいる。
     ……だがどうしようもなくひ弱だ。ひ弱としか言いようがないのだ。今のカーヴェの実力を数値化したものが90だとすれば、このちいこくか弱い生き物のレベルは1。0でないだけマシだし、それと同じくらい魔物も人も弱かった数年前ならそれでも良かっただろう。だが、ここ数年で世界中に存在する元素の質は格段に高まっており、元素を糧にする生物もより強力になっている。そしてテイワットの現存在は、それらを取り巻く元素の質――いうなれば、ある存在としての密度――が少しずつ上昇していく中で、それに順応してきている。このような現象は旅人曰く『世界ランク上昇』と呼ぶべきものであり……敵対生物の存在強度が高まったとしても、同時に自分たちの存在強度も高まっているのだから、本来ならば何の問題もない現象だった。
     だが時空を越えた異邦人にとってそれは、大きな差となる。
     世界のレベルに対してその異邦人が強すぎるのであれば問題にはならない。(例えば、未来から過去への来訪などは、この例に当たるだろう。これがアルハイゼンがメラックの安否を全く心配していない理由だ。)
     問題となるのは、世界のレベルに対し極端に弱すぎる場合だ。
     十年前の世界は、現在の世界とは全く異なる世界だった。今になって見れば、当時は敵対生物を含むすべての生命に成長の上限が存在していた。だが今はその制限が存在しなくなっている。そのため、十年前の人類では、特別優秀な運動技能を持つのではない限り、キノコンにすら殴り負けることだろう。過去と現在には、それほどの差がある。
     故に、今のカーヴェに両手剣を持たせたとしても、今の生物には、ろくに傷を与えることができないだろう。これは過去のアルハイゼンであっても、同様だ。
     そのような訳であるから、たとえ当時のカーヴェに自力である程度遺跡探索できる程度の実力があったとしても、当時における“ある程度”に留まっている以上、足手まといになることは自明であったし……アルハイゼンには、それでもなお、と他人を庇いながら戦える程の技量も甲斐性もなかった。要するに、面倒だった。
     何せアルハイゼンは要人警護を専門とする敏腕傭兵や、数多の罪人を追跡する勤勉な審判者などではなく、ただの文弱な、一学者であったので。
     まあ、そのような言葉を並べ立てたところで目の前の現実が変わることはないのだから、これ以上のおためごかしは不要だろう。
     今やアルハイゼンは教令院を卒業済みの立派な学者で、この“カーヴェ”はまだ栄誉卒業生なんて言われる前の、子供、だった。
     そう。子供だ。子供! ……あのカーヴェが!
     アルハイゼンは、初めてこの小さなカーヴェを見た時から、驚愕し続けていた。内心に口がついているとすれば、ずっと大きく開きっぱなしになっているくらいに。
     だって、どんなに小さく見えようとも、目の前にいるのはアルハイゼンのよく知るカーヴェなのだ。これが、別人だと思えれば良かった。少なくとも、母親の腹の中にいた頃の、モニャモニャした、何の動物だかほとんど区別のつかないような段階であれば、まだカーヴェとは認識できなかったやも。カーヴェはきっと、母親の胎内から転げ落ちた瞬間から至高の宝玉のような麗しい見目をしていたに違いないので。アルハイゼンはうっかり、カーヴェという個体を、あらゆる生まれたての赤子はどことなくクシャとしたようなしわしわ顔をしている、という一般論の例外だと考えていた。要は、アルハイゼンは自分と出会う前の、もっと言うなら、両親に存分に愛され、何の不幸も罪悪も知らず、ただ呑気に笑っていたカーヴェというものを全く想像できなかったのだ。だって、出会った頃からカーヴェはカーヴェだったから。そりゃあ、ふわふわもちもちの丸みが少し取れてすっかり精悍になった顔や、数多の天使に愛されたようなあどけないソプラノから女神をもはっ倒す至高のテノールになった声と同じくらいには、多少行動の方も変わっているかもしれないが……。ほら、三つ子の魂百までというだろう。カーヴェは変わらない。これまでも、これからも。自分の言葉にはカーヴェの有り様を変える力があるのだと、アルハイゼンが思い上がっていたのはもうずっと昔のことだ。
     その上、アルハイゼンには単純な年の差だけで相手を敬おうと思う習慣がなかったが、どう足掻いても埋められない二年の年の差のせいで、あの男に散々大きな顔をされてきたこともまた事実だった。
     それが……三つも四つも下なのだ。それどころか、まだ学年を確認した訳ではないから、それより下かもしれない。
     それから、……それから。うん。アルハイゼンは、悪い大人だった。カーヴェ曰く性格も悪いらしい。まだ右も左もわからない……否、右と左がわからなくてはテイワット一の学術機関である教令院の、さらに妙論派になど入れる筈もないのだから、一寸先すら見えていないような盲目の初学生でも、最低限右と左はわかると仮定するとして……彼の有り余る天才性を加味してもなお、信じられない位幼い子供だ。未だ現実を知らず、ただ内なる刃のようにギラギラと光る理想でズタズタになった内臓を抱えるだけの、玉のような未成年。可愛い可愛い運命の後輩のアルハイゼンが、まさかこれから自分の心をひどく傷付けることがあろうとは微塵も疑っていない。彼を傷つけられるのは彼自身のどうしようもなく落ち込んだ時の気分だけでしかない。世界は美しいと無条件に信じている、無敵で、無邪気で……今になって思えばこんなにもまろく小さく、どこまでも可愛い生き物であるのに、あの頃のアルハイゼンにとって驚く程逞しく見えた……二つも上だった先輩。大人になれば小さな二つは、子供にとっては大きな二つだ。誰よりも強くて、優しくて、綺麗で……。それが、アルハイゼンがまだ一度も傷つけたことがない、完璧な彫像――カーヴェだった。
     そんな、指先でチョンとつつくだけで忽ち崩れ落ちてしまいそうな、か弱く耽美的な生き物を――少なくとも、強く逞しく図太く育ちきった大人のカーヴェを日頃から目にしており、それどころか自身もまたとてつもなく贅沢な肉体に育った今のアルハイゼンの目には、暴飲暴食の何たるかも知らない無垢で自制的な少年の極めて健康的な身体はそのように映った――アルハイゼンは、腐り落ちそうな程甘い香り漂う自分の巣に持ち帰ることにした。
     このあまりにも非理性的な判断についてあえて弁明するなら……アルハイゼンはとても浮かれていた。この上なく浮かれていたし、無敵な気分でもあった。
     何故なら、つい先日、アルハイゼンはあのカーヴェとの関係に関する定義を一段階進めることに成功したのだから!
     たったの一段階? 否、子供染みた前進の後にあった、五百光年もあろうかという程の後退を取り戻した上でのプラス一段階だ。つまり五百一光年分の進展という訳。その上アルハイゼンは、自身の名前の綴りと同じ、Aを三つ分もせしめた。AAAの大勝利。まさに星36、プラチナメダル。
     それから、それから。大好きな物語を、とびきり大好きな顔を見ながら、この世で最も美しい囁き声で読み聞かせてもらうなどという、気も狂わんばかりの幸福感溢れる“夜伽”まで経験したのだ!
     えっちだ。すごくえっち。
     アルハイゼンは、性的なことに対する認識が極めて薄かった。
     無論、動物の生殖に関する知識は人並み以上にある。だが、人より好奇心の強い方ではあったものの、それ以上に控えめで、理性的だったアルハイゼンは、所謂“イケナイコト”に手を出そうという意思に突き動かされることがなかったのだ。
     アルハイゼンはこれまで、祖母や両親に顔向けできないような、恥ずかしいこと、疚しいことをしないで、常に正しく生きてきた。
     それが、今では。
     アルハイゼンの後頭部をその長く大きな手で捕まえて逃げられないようにしてから、草蛇のように恐ろしく肉厚な舌で魂ごとドロドロにしてしまうときのカーヴェの顔を、誰にも見せたくないと思っている。
     えっち。とてもえっち。だがそれはAなのだ。Aがあるのだから当然、BもCも、Kも、Zでさえも、あるに違いない。あとこれから二十五段階もあるのかと考えると、これから天上へ昇っていくだろう鏡の別側面たる男の道程に、どこまでもついていけそうな気持ちだった。
     そうしてその気分に浮かされるまま、他人と酒を飲み歩いては滅多矢鱈に熱い唇と唇とを重ね合わせる放蕩にすっかり耽っているのだから。人生とは儘ならないものだ。
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    Psich_y

    PROGRESS2024/2/11カヴェアルwebオンリー「Perfect Asymmetry 2」展示。

    遺跡探索中メラと入れ替わりでやってきた学生時代カヴェを持ち帰り甘やかすゼンと、情緒(と性癖)を滅茶苦茶にされている二人のカヴェの心が猛スピードですれ違ったりぶつかったりする話です。
    (未完:進捗展示)

    ※過去カヴェ+現カヴェ×現アル
    ※“メラ←→過去カヴェ”のため、カヴェの隣にメラが不在(重要)
    Won't be spoiler K-1

     カーヴェがこれまで経験してきた人生には、“最悪”と名付けられる出来事が既にいくつもある。そういった事実を鑑みたとしても。今のカーヴェの目の前に広がる光景は、間違いなく新たな最悪として数え上げられそうなものだった。
    「メラックをなくした?!!?」
    「手元にない、というだけだ。約束は三日だった」
    「本当に帰ってくるんだな?」
     妙に秘密主義なところのあるこのかわいくない後輩――アルハイゼンの、錆びついた沈黙に潤滑油をしこたま流し込み、どうしても調査したい遺跡があるらしいということを聞き出したまでは、多分、良かった。だから、問題はその後にある。……いや、“前”というべきか。まあ、前か後かはこの最重要じゃない。重要なのは、問題はそこにはないということだけだから。
    20174

    Psich_y

    MOURNING祈願でやってきた少し不思議なhorosy(ネームド)が新人妹旅人たちを草国までキャリーする話……になるはずだったものです。

    ※空放前提蛍放
    ※以前書いていたものなので、院祭以降の内容を含んでいません
    ※尻切れトンボの断片

    去年の実装時に細々書いていたものをせっかくなので供養。
    折角だから君と見ることにした その夜、私はパイモンの提案に従い、新しい仲間と縁を繋げられるよう夢の中で祈願していた。
     旅の途中で手に入れた虹色の種――紡がれた運命と呼ぶらしい、夢と希望の詰まった不思議な形の結晶――を手に、祈るような心地で両手の指先を合わせる。前に使ったのは水色の種だったけれど、此方の種はそれよりずっと珍しく、力のあるもののようだったから。
     ――今の私にとって、旅の進行はあまり芳しいものとは言えなかった。失われた力はなかなか戻ってこないし、敵はいつの間にかやたらと強くなってしまっているし、兄の情報も殆どなくて、どこへ行けばいいのかもあまり分からないし。今まで頭脳労働の面で散々兄の世話になってきていたために、私は旅のアレコレが得意という訳ではなかった。私が得意なのは、兄に頼まれたお使いのような頼まれ事を解決することだとか、ただひたすら敵と戦うことだとか、そういう部分で。仕掛けの解き方とか、工夫が必要な分野はこれまですべて、兄がどうにかしてくれていたのだ。
    3444

    Psich_y

    DOODLE自分の前世が要塞管理者だったと思い込んでいるやけに行動力のある少年と、前世の家族を今世でも探している手先の器用な少年と、前世で五百年以上水神役をしていた少女が、最悪な地獄を脱出し、子供たちだけの劇団を作る話です。
    ※無倫理系少年兵器開発施設への転生パロ
    ※フリリネリオ不健康共依存(CP未満)
    ※フリに対し過保護な水龍、に食らいつくセスリと弟妹以外わりとどうでも良いリn
    ※脱出まで。
    ※~4.2
    La nymphe et les bêtes Side: FSide: F

    「さあ! 僕についてきて。君たちがまだ見ぬ世界を見せてあげよう!」
     フリーナ、と。かつて歩んだ永い永い孤独な神生と、その後の自由な人生を通し、唯一変わらず己と共にあった響きにより己を再定義した少女は、指先まで魂を込めた右手をネズミ色の天井へ真っ直ぐピンと伸ばし、高らかに宣言した。
    「君たちはただ、僕という神を信じればいい」
     すべての意識を周囲へと傾ければ、ほら。息を呑む音まで聞こえる。フリーナは思い通りの反応に、少し大袈裟に、笑みを深めてみせた。
     目の前の小さな観客たちは、フリーナの燃えるような瞳の中にある青の雫しか知らない。いくら多くの言葉をかき集めて自然を賛美してみせたところで、生まれた頃から薄汚れた白灰色の壁に囲まれながら育ち、冷たく固い床の上で寝ることしか知らない、哀れな子供たちには想像すらできないことだろう。
    8167

    Psich_y

    PROGRESS刑期延長病み囚人セスリが支配するBADifメロ要(洪水前)と正規パレメルのトイレの扉が繋がってしまったので、少し様子のおかしい通常セスリの勧めの下囚人セスリを七日間(中週休二日)で攻略する通常ヌヴィの話(予定)……の二日目。よしよし不穏シグリオ回。
    ※囚人リの世界はシグ→←←リオ( )ヌヴィ
    ※通常世界はヌヴィ→リオ
    ※旅人はsr
    ※~4.1
    ※呼び名捏造あり
     Day 2

    「公爵? そっちのリオセスリくんは、公爵なの?」
    「ああ」
     次に訪問したとき。ヌヴィレットを出迎えたのは、主不在の執務室でティーセットを広げ、お茶会を嗜んでいたシグウィンだった。
     彼女にねだられるまま用件を話せば、彼女は人のそれによく似た手で、彼女に合わせられたのだろう小さく可愛らしい柄のカップと小麦色の焼菓子を差し出してきた。
    「ごめんね、これしか用意がなくて」
    「こちらこそ、連絡もなく訪ねて申し訳ない」
    「謝らなくていいのよ。ウチ、ヌヴィレットさんの顔が久し振りに見られてとっても嬉しく思っているの」
     そう言って微笑むシグウィンの表情には、どこか翳りのようなものが見られる。ヌヴィレットとメリュジーヌの間の距離は、ヌヴィレットと普通の人間との間の距離よりもずっと近いから。彼女もまたこのヌヴィレットが彼女たちの“ヌヴィレット”ではないことを、よく理解しているのだろう。
    6712

    Psich_y

    PROGRESS審判に失望しシグしか信用できなくなっている刑期延長病み囚人セスリが支配するBADifメロ要(洪水前)と正規パレメルのトイレの扉が繋がってしまったので、パレメルを洪水の巻き添えから守るため、少し様子のおかしい通常セスリの勧めの下囚人セスリを七日間(中週休二日)で攻略する通常ヌヴィの話(予定)……の一日目。
    ※囚人リの世界はシグ→←←リオ( )ヌヴィ
    ※通常世界はヌヴィ→リオ
    ※旅人はsr
    ※~4.1
    「ヌ、ヌヌヌ、ヌヴィレット様、大変ですっ!!」
     慌てた様子のセドナが執務室の扉を叩いた時。丁度数分前に決済書類の山を一つ崩し終え小休憩を取っていたヌヴィレットは、先日旅人を訪ね彼の所有する塵歌壺で邂逅した際受け取ったモンドの清泉町で取れたらしい“聖水”を口にしながら、これは普通の水と何処が違うのだろうか、と、時に触角と揶揄される一房の髪の先がパッド入りの肩にベッタリつく程大きく首を傾げていた。
     しかし、日頃から礼節を重んじるしっかり者の彼女がこれ程までに慌てて自身の元へやって来る程の報告となれば、再度首を傾げることもあるだろう。丁度傾げていた首の角度をわざわざ戻すこともない、と判断したヌヴィレットは顔を少々傾けたまま、扉の前で律儀に自身の答えを待つメリュジーヌに入室許可を与えた。
    12582

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