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    ShinoShinoi

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    加州への恋心の供養夢小説。清さに。女審神者。鶴丸視点。

    #清さに
    withGreatFreshness
    #刀剣乱夢
    swordAbuseDream

    篝火は散る(改訂版未完)なぜ唐の王朝は三代で簒奪されたのか?
    なぜ、太宗と高宗という賢君に恵まれた二代を経てなお、唐王朝は則天武后に簒奪されたのか。

    それは恐らく、君主が愛に溺れてしまったからだと思う。

    「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」という予言・流言が起こってもなお、賢君と名高い太宗は寵姫であった彼女を遠ざけるのみで、宮廷から追い出すことはしなかった。その予言を馬鹿らしいと断じていたかと言うとそうでもなく、「武力が栄えるということではないか」という疑惑が持ち上がると、武将・李君羨を処刑している。それでもなお、最も疑わしい、美しく聡明な寵姫は宮廷から追われるでもなく、ただ太宗の死後尼僧として寺に送られるのみであった。

    太宗の死後、帝位に就いた高宗は、忌まわしき存在として遠ざけられた彼女を後宮に招じ入れ、皇后という地位を捧げ、磐石な権力基盤と栄誉を与えた。

    そうして二代の天子から愛された美姫は、とうとう予言の通り王朝の簒奪に至る。中国三千年の歴史に置ける唯一の女帝、武則天の誕生だ。


    彼女はたしかに危険な存在であった筈なのだ。高い教養と思慮深さを持ち、聡明で。後宮三千人が天子の訪れなど諦めながら生きる中、直ぐに寵愛を賜るほどの美貌の持ち主で。

    例え根も葉もないとしても、反逆の危険を予言した言葉が流布すれば、皇帝としては当然処罰せねば示しがつかない。にも関わらず、世紀の賢君である太宗は彼女を生かした。そして太宗の死とともに宮廷から追われ、日陰で終わるはずだった彼女はまた、彼女を欲した新帝の手により九重の中心へ舞い戻ったのである。



    ――武周時代が歴史的にどのような評価であったか、彼女自身がどのような人物であったかは関係ない。ただ、国を簒奪されるということは、君主としてあるまじき失態である。それも、愛した女に奪われるともなれば。





    ――前置きが長くなった。ただ、今生の主について記したくなっただけなのだ。産まれた折から帝位の重責やら民草と国の安寧やら帝王学やら……を仕込まれ、賢君と呼ばれた君主ですら、ひとたび恋をしてしまえば愚鈍にならざるを得ないのが世の常だ。美姫とは権力者を、引いては国を傾けてきた。


    それが例えば、帝王学など仕込まれて育たなかった、ただの市井の娘であれば? いかな真面目で責任感が強かろうとも、数々の明暗問わぬ君主たちが呑まれて来た闇に、どうして呑まれないと言えよう?


    俺の……俺たちの今生の主は、女性であった。審神者においてそれは珍しいことではない。代々当主を男に担わせてきた体質が為に、家を離れて任務に就く審神者は、必然女の方が多くなったがゆえのことだ。


    我らが主は、優秀とは言えぬとしても勤勉な審神者であった。主が就任してすぐに喚ばれたために彼女の働きはよく見ていたが、付喪神を、生命をあずかり、そして大役をこなす責任感からか、兵法に城郭の護りの固め方まで、本来の領分ではない部分もよく学んであった。(審神者とは刀剣男士に霊力を与え管理に努めるのが職責であり、戦闘に置いては本職である刀剣達に任せるのが慣わしであった。)若さゆえか素直で、飲み込みも早かった(主は当時齢十六である)。戦において“城”という機構がいかにして機能していたかを刀たちに聴取すると、本丸に合うよう、最低限のコストで済むよう刀たちの手を借り、人事を整えた。初期刀の加州清光も、かなり若いながらに爺どもの言うことをよく聞き、よい近侍として主を輔弼していた。若い者同士が慣れぬ業務に励むさまは、危なっかしくもあり、微笑ましくもあった。


    俺たちはみな、この若く努力家で、少々優しすぎるきらいのある主を好ましく思っていた。現世にいれば遊びたい盛りの歳の頃を、お上に与えられた勝手なお役目に捧げるさまは不憫とすら思っていた。だからこそ、我らでしっかり守り奉らねば、と誰もが考えていたのだ。





    ――そんな折、まず始めに主の様子の異変に気づいたのは、側仕えをしていた前田藤四郎であった。口も固ければ忠義心も強く、主の寵愛もひときわ強い刀であるから、恐る恐る、それでも覚悟を決めた声音で俺にひっそりと打ち明けた。


    「主様は、加州殿を好いておられるようです」

    そうか、と思った。別段驚きはしない。古今東西、上の立場にある者が気に入った者を侍らせることは珍しいことではないからだ。


    それに余所の本丸では男として寵を得た刀が実権を握り、本丸を牛耳っている例も少なくないと言う。ただのモノではあったが、権力者や時代の傑物を主に戴いて来たのが我ら刀剣である。こと日本刀とは、この国においてただの戦闘道具以上の価値を持って権力者達から重んじられてきた。そう言った特性を持って数千年数百年生きてきて、ようやっと肉体を得たとなれば、本丸内での名誉や権力だって、手に入るのならば欲しくなるのが自然かもしれない。審神者には女が多く、刀剣男士の見目はまさにひと並外れて美しい。そういった流れになるのは自明の理だろう。

    政府が刀剣男士と審神者との婚姻を推奨しているのも一因かもしれない。

    近代化に伴って神祇官や各神社の威光はじわじわと衰え、それによって神通力を育てることが重要視されなった。結果として、審神者としての適性を持つ者は少なく、昨今の戦況を見ても人材はまだまだ心許ない。よって政府が編み出した施策は審神者の婚姻だった。審神者に適正がある者の産んだ子は審神者に適正がある確率が高かろう、という実に安直な考えであったが、実際に効果は高かった。しかしこれを阻んだのが、審神者と刀剣男士の色恋沙汰である。刀剣男士達と深い仲になった審神者は見合いを拒み、政策の推進を遅らせた。であればと、今度は審神者と刀剣男士間の婚儀を暗黙のうちに認めるしかなかった。かつて人と人ならざるものとの合の子が生じるのはそう珍しくなかったし、審神者と付喪神との子であれば適性としても充分なものが見込めるだろうと踏んだのだ。


    褥での寵愛の相手として最初に選ばれたのが初期刀である加州清光だと言うのなら自然だろうし、俺としても素性の知れぬよその男を選ぶよりはよく見知った仲間の方が随分いい。

    「あの仲睦まじさだ。主も色恋に興味を示す年頃だろう。相手が加州ならいいんじゃないか」

    そう楽観的に答えると、前田は軽く首を振った。ふる、と前田藤四郎の重い毛先が左右に揺れる。何を憂うことがあろう、と考え……もしやと口を開いた。

    「まさか加州が嫌がっているのか?」

    「……いえ、主様が嫌だと仰せなのです」

    これには俺も少々驚いた。もしや周囲の目を気にしているのだろうか。まだ歳若い娘だ、色恋を表沙汰にするのは憚られるのかもしれない。

    「……こいつは驚いた。一体どうして…別に、主が特定の刀をそういう意味で寵愛したって誰も諌めやしないさ。皆そういうのには慣れてる。モノだった頃に主君の色恋沙汰は散々見たし、モノとして生きてきたからには持ち主の思い入れにバラつきが出るのもよく知っているからな。何が嫌だってんだ?」

    「…その、人道に悖ると仰せです」

    前田は居住まいを正し、真っ直ぐにこちらを見つめた。

    「主様は、ご自分の御立場をようく理解しておいでです。主従という関係で、主である自分が好意を伝えれば、嫌でも従うだろうと……そういった事を、懸念されているようで」

    前田は「お側仕えである私が励ましても、主様の気は晴れないようで……。私から見るに、加州殿も主様をひとりの女性として好いていらっしゃると思うのです。ですが、その旨申し上げても、贔屓目としか受け取られず。どうか、思い煩う主様に進言なさっていただけませんか」と、前田らしい折り目正しさで美しく頭を下げた。

    「よく解った。俺から見てもあの二人は似合いだろうと思っていたんだ。そういう事なら、この爺が一肌脱ごう」

    ほっとしたように息を着くと、前田は顔を綻ばせて退室した。



    ――ふむ。不謹慎ではあるが面白い。人はみな平等であり、協調し平和を求めるのが正義。そういった世界で教育を受け育った主からしたら、封建的な考えを持つ我々に夜伽を…いや、夜伽と言うのも恐らく違うのか。ともかく、男女の仲を求めるのは暴力的だと認識しているらしい。


    ……顕現以来、言葉通り主の爺のような立ち位置で見守ってきた俺だ。仲人にでも何でもなってやろうじゃないか、と軽やかに立ち上がった。老人はお節介が好きなのだ、と相場は決まっている。



    繰り返しになるが、政府は審神者と刀剣男士との婚姻を、公にはしていないが推奨していた。
    審神者になるとは、神隠しに遭うようなものだ。異質な空間に閉じ込められ、いつ終わるとも知れぬ戦いに身を投じる。そんな隔離空間に繋ぎ止める一要素としても、恋愛と言うのは有効だった。
    そこには付喪神とヒトとの合の子が生まれるのか否か、生まれたら果たしてどのような生き物なのかを実験する意味合いももしかしたらあったのかもしれない。ともかくそういった関係で、刀剣男士の多くは主に“輿入れ”する際の礼も弁えていた。



    加州清光の気持ちを確認してみれば思った通りだった。加州清光のもとの主は若くして死んだ貧乏浪士で、女というものをろくに知らない。その加州本人もすぐに折れてしまい、世慣れていない。つまり女に免疫のない彼は人の身を得て以来、唯一触れ合ってきた女である主を殻から破り出た雛のように恋い慕っていた。自分を手ずから選んでくれたうえに最愛の寵臣として侍ることを許され、しかもそれが健気な少女となれば情も湧こうし、情が恋に移ろうても自然なことだろう。


    主の方もおそらく、隔離された特殊な空間で、常に傍に侍っていたいじらしい寵臣を愛さずに居られなかったのだろうと思う。家族、友人、慣れ親しんだ世界のすべてから離れ、重い重い役目を背負い込んだ憐れな少女。就任の瞬間から傍らで護り支えてくれた初期刀は、彼女にとっての精神的支柱に他ならなかった。

    この依存とも呼べる初恋を純愛と呼ぶかの賛否はともかく、若いふたりが相思相愛だったのだからあとの手筈はほとんど決まっていた。


    房事となれば短刀の領分である。特に主の信任篤い前田藤四郎が主立って取り仕切り、婚儀のようなものが整えられた。身分や名誉を重んじる世界で生きてきた刀の中に、主君の最初の男が加州清光となることを鼻白んでいる者がいなかった訳ではないが、誰もがこの時は一介の遊び相手としての床入りであろうと信じて疑わなかった。上に立つ者が正式な婚儀の前につまみ食いをすることはよくあることだったし、正室ともなれば然るべき流派から選ぶべきものと漠然と信じる者も多かった。なので反発と言えばせいぜい“非人小屋で打たれたものが最初の相手になろうとは、程度。加州を仲間として好ましく思う者は多かったが、それと主の夫君として認めるか否かはまた別の話だった。
    ただ、そういった不満を抱く者たちも、まだ若い主のことだし、いずれ自分や同派閥の者にお鉢が回ってくるだろうと当たり前のように考えていたのだ。もちろん純粋に祝う者の方が多かったが、こうした複雑な思惑を抱えた者もままいる中、婚儀は終了した。俺としてもそういった者がいるだろうことは勘づいていたし気掛かりであったが、主と加州の幸せそうに赤らんだ顔を見れば“きっと何とかなるだろう、こんな幸せな二人に大きな反発や困難など起きないだろう”と年甲斐もなく楽観してしまった。そう思わせる程度には、時折視線を交わらせては恥じ入るように俯く若夫婦は可愛らしかった。微笑むふたりの、蕩けたような表情。幸いがすべてそこにあるようだった。

    初夜も滞りなく済んだ。俺は直接与り知らぬことだが、寝所の前で不寝番を勤めた前田と平野の晴れやかな表情を見れば瞭然だった。

    本丸内は浮かれた空気に包まれた。小狐丸など三日夜の餅を差し上げるのだと餅つきをして、流石にそれは習慣として古すぎるだろうと爺たちに横槍を入れられていた。日頃より主に可愛がられている短刀たちは、お祝いを差し上げるのだと花を生けたり絵を描いたりニコニコと楽しそうだった。

    いくさ続きの日々だから、こうした慶事は一層明るく賑やかに行われる。

    加州など、大和守や和泉守からニヤニヤと肩を叩かれたりしていて(堀川は止めていた)、口では怒りながらもどこか嬉しそうな様子が印象的だった。


    しかし婚儀より一週間後、主の寵を得て本丸内での権威を固めようと画策していた者たちはみな、ある種の違和感に気づき始める。



    主はまず、主の居住区である奥、そこにある主の寝所の続きの間を、執務と護衛をより簡便にするためと称して近侍部屋とした。そして近侍の職を加州清光固有のものとし、他のものには絶対に就けないよう制度を変更した。任務の煩雑さを補佐するため、あるいは近侍が本丸を空ける時のための職として近侍補佐が置かれ、これは俺、鶴丸国永の職となった。

    つまり主の居住区である奥御殿は、事実上主と加州清光の居住区となってしまったのである。


    夜伽に誰を召すか、ではないのだ。奥に自由に立ち入れる男士は、まず加州清光、そして仲人を務めその補佐の任を得た鶴丸国永、それから側仕えの短刀のみになってしまった。用があって主のもとへ向かうにも、必ず加州清光の居住区を通らねばならない。男として主に付け入る隙はほとんど絶たれてしまったのである。


    そののちも主は緩やかに、しかし断固として、本丸内のすべてを加州清光の権限がなければ機能しないものに作り替えていった。

    審神者の決済が必要なものは、主の判を貰う前に加州清光にも可を貰わねばならなくなったのだが、それがその最たる例だ。

    また、主はこういった偏愛を加州清光の専横であると言わせぬために、刀剣男士らの不満を抑える策にも心を砕いた。まず加州清光と二人でしか鍛刀を行わない。そうして新たに顕現した刀剣男士は、初陣から特付きになるまで加州清光が世話をする。加州は気取らず屈託のない、面倒見のいい刀であるから、新入りはみな、恩と共に忠義のようなものを覚える。なるほどこれが我が主の無二の初期刀、深く寵愛を注がれる“御正室”にして我が本丸の近侍殿であるか、と納得させられるのである。


    そうやっているうちに、加州清光が室として侍るようになる前からいる刀の数より、後から来たものの方が圧倒的に多くなってきた。

    しかも我が本丸最大人数を擁する粟田口派は元より主の寵が深い。短刀は側仕えとしての名誉に浴し、一期一振も初期からいる太刀として信任厚く、第一部隊での活躍もめざましかった為に、特段近侍の座にも室の座にも興味を示さなかった。主の政策にも支持を示している。何より薬研藤四郎が前田藤四郎と並んで寵を得ているのが大きかった。彼の逸話は粟田口派内でかなり重い意味を持つ。そんな薬研が主の最愛の刀のひとつとして奥にも表にも影響力を持つのは、謀らずも粟田口派全体の権威を高めることに繋がったからだ。粟田口も一枚岩ではない非常に繊細な派閥であるが、“薬研通し”の逸話はみな重んじざるを得なかった。


    由緒正しき三条も、主を支持していると見て良かった。加州清光と同日に顕現した三日月宗近が、ふたりを微笑ましく(俺にも腹のうちは完全には読めないが、恐らくは愛い夫婦であると思っていた筈である)見守っていた為だ。今剣を始め門派の皆が主から可愛がられていたし、今剣が秋田始め粟田口の者と仲が良く、それによって派閥同士の結び付きが強く見えていたのも大きかっただろう。三日月は本丸が機能していればそれで良いと泰然と構えていただけかもしれないが、終始傍観を決め込んでいた。少なくとも本丸内の者からは、三日月宗近のその傍観は支持と受け止められていたし、以上の事情から三条は親審神者派と受け取られていた。

    粟田口と三条が味方でいる以上、多少の不満が出ても主と加州は磐石であった。そもそも普通の兵営と違い、刀剣男士は審神者がいないと存在すら成り立たない。主がいなければ本丸という空間は維持出来ないのだ。霊力の充溢した空間たる本丸は、その地盤がそのままバッテリーのような役割を果たしている。いかな秀でた審神者でも、己の身体から直接霊力を供給するのでは維持せねばならない刀剣男士の数が多すぎて間に合わない。そこで本丸は政府が生み出した霊脈の強い仮想空間内に設えられ、その仮想空間を本丸という形で維持するのに必要なのが審神者だった。いわば場を興す核のようなものだ。本丸が維持出来ないという事はすなわち霊力の供給システムも維持出来ないし、そもそも審神者によって励起された存在である我々は存在そのものが危ぶまれる。

    よって刀剣男士から反乱が起きることは審神者システムの開始以降ほぼ皆無だった。刀剣男士を虐待する審神者のもとで男士たちが玉砕覚悟で反乱し、その首を討ち取る例もあったようだが、我々の本丸に関してはそこまで酷くない。燻る不満はあれど、そもそも我らはモノである。自身を生み出し、所有する人間へのほんのりした好意や忠誠心はそう簡単になくならない。もっとも、そのほんのりした好意が為に不満が生まれている訳だが。



    「愛は惜しみなく示すものです」


    臣を愛するは人道に悖るだなんだと悩み苦しんでいた少女は、全てを吹っ切った笑顔で高らかにこう宣言した。晴れやかで堂々とした姿は、かつての少し与しやすそうな様子と較べて随分頼もしく、人の子の成長は早いな、と目を眇めたのだった。



    こうして加州清光の……天下と言うべきか権勢と言うべきか、は表向き平穏に進み、そして主の加州清光への寵愛はまるで衰える気配がなかった。政府から顕現の難しい刀剣を与えるから好きに選べ、と通達が来た際も、「わたし自らの意志で選び取る刀は、終生ここにいる清光のみです」とにっこり笑って跳ね除けた。そのきっぱりした言葉には俺まで嬉しくなったし、隣で聞いていた加州は「貰えるものは貰っておけば」と言いつつ、紅玉を収めた双眸に抑え切れぬ喜びを滲ませていた。あの恋慕が溶け込んだ目線と、目元に朱が滲んだ幸せそうな様子に、その場にいた者はみな眦を緩ませざるを得なかった。この宣言は親審神者・加州派には美談として語られることになり、他方ほとんど捨て置かれて寵愛の獲得を諦めきれない刀剣にとっては強く牽制された形となり、不満を歯ぎしりで押し殺すことになる。



    ――「ほんとうに、主君と加州殿の仲のよろしいこと・・・・・・」

    心の底から幸せそうに呟くのは前田藤四郎だ。最近は奥周りの財務まで任されるに至る。

    「立場上、姫君の入輿に付き添うことも、臥所をお守りすることもありましたが・・・・・・おしどり夫婦と呼ばれた夫婦でさえ、こうも一途にお互いを愛し合うことはありませんでした。ご婚儀後五年が経ちますが、近侍殿も主君も、毎日お幸せそうで・・・・・・」


    婚儀からは早いもので五年が過ぎ、いつからか加州は「近侍殿」と呼ばれるようになっていた。

    「そうさなあ。あとは可愛いややこでも抱かせてもらえれば、仲人冥利に尽きると言うものだが」

    笑ってそう言えば、前田の眉間は僅かに翳った。


    「・・・・・・それは、主君も随分お悩みのようで。早くお子を授かりたいとこぼされていました」

    「・・・・・・そうだろうな。どうもここ一年、表情に翳りが増えた」

    「薬研も懐妊に良いとされる薬湯を毎日煎じて差し上げているようですが・・・・・・。やはり政府の医療機関に一度相談した方がよいのではと、主君は仰せでした」



    ・・・・・・我らが女主人の目下の悩みは、なかなか懐妊出来ない事だった。近頃はややの出来ないことに悩み苦しんで、塞ぎ込む時間も多くなった。



    験でも担ぐかと、寝所の守りを幸運を運ぶいわく付きの物吉貞宗にしてみたりもしたが、そもそも市井で生まれ育った加州清光も主も閨の近くに誰かがいることに拒否反応を示しており、せめて慣れた短刀たちで持ち回してくれ、とのことだった。


    「幸運を運べない」と、自身のアイデンティティを喪失しかけた物吉貞宗も珍しく落ち込み気味である。


    そうしたある日のこと、主は我々に「子を産めないと意味が無いの」とぽつんと零した。



    我々とは、三日月宗近、薬研藤四郎、前田藤四郎、一期一振、そして俺鶴丸国永のことで、自然と本丸のことはこの五人で決議するようになっていた。何とはなしに五人集まってしまったので、覚えのある刀などからは五大老と呼ばれたりもしていた。二代で滅亡した政権から取った名称とは縁起が悪い、と恐らくみな思っているだろう。実態は五大老とはまるで違っていたのだが・・・・・・。まあそれは置いておいて、珍しく加州清光を遠征に出した日に我らを招集した主は、そのように零した。


    「子を・・・・・・、きよみつの子を、産めないと意味が無いの」

    何でまた。時の天下人でもあるまいに、必ず世継ぎを産まねばならぬ訳ではないだろう。子がないことを懸念した政府から他の男を宛てがわれる可能性がないではないが、そんな心配も今のところはない。


    一同とりあえず黙って二の句を待った。

    加州清光が傍にいない審神者は、生気の失せたかんばせを酷く不安げに揺らしながら涙を流した。愛しい男の前では明るく振舞っていた、その糸が切れてしまったようだった。


    「あの子を縛る方法は、わたしが子を産むことだけだから・・・・・・」


    顔を覆って身を震わせる。倒れ伏しそうになった主を前田が支えた。支えに行く動作も、震える主の手を握る様も落ち着き払っていて、恐らく前田にとっては慣れた姿なのだろうと直感した。


    ――主いわく、わたしは凡人である。しかも、うつくしい付喪神に分不相応に恋焦がれ、手中に収めて決して離さぬ、業突く張りの醜い女である。そんなわたしが、偉人と語り継がれる沖田総司に敵う訳がなない。本丸は現世から隔絶されているから、あの子にとってわたしは唯一かもしれないけれど、いつかはあの子に似合いのとびきり麗しい女だってよそから見つけてしまうかもしれない。わたしが死んだあと、実態はないとは言え、あの子はまた無間の中から呼び出されて新たに主を戴かないとは限らない。あの子は誠実な子だから、新たな主を得れば、その主を真っ直ぐに見て忠義を尽くすだろう。実際今がそうである。わたしのような凡百に対して、とてもとても誠実に尽くしてくれる。そうなった時、わたしはどうなるのかだろう。来世でもその次でも加州清光に出会えないまま永遠が過ぎたら。

    永遠。その言葉だけ、なにかの呪詛でも孕んでいるかの如く禍々しく重く響いた。

    「その時思ったのです、子を成せばよいのではと・・・・・・」

    例え新たな主がいようが、己とさきの主の血を継ぐ者が存在する限り、あの子はその子を気に留めざるを得ないでしょう。

    「残酷なのは分かっています。実態のない彼は、人々の記憶や思念に繋がれてこの世に留まっている。もしかしたら今生が終わればそのまま解放してあげた方がよいのやもしれません。それでもわたしは、あの子の永遠が欲しい……わたしの永遠を差し出しても叶わぬかもしれぬことが、子を成すだけで叶うかもしれない」



    ・・・・・・恐らく主は、この時既にどこかおかしくなっていたのだと思う。日頃は快活を装いながら、その心の裡にはこのような翳りを抱え、任務に当たっていたのだろう。刀剣たちの主として、弱った姿など見せられないという矜恃や責任感。そういった物に覆い隠され、主自身すら軋んだ心が修復不可能なまでに大きく大きく悲鳴を立てるまで、心の歪みに気づけなかった。

    まずは慕わしい主のそのような心情を案ずるべきなのだろうが、それでも本質がモノである我らからすると、持ち主からそこまでに執着される加州清光とはなんと幸せな刀であろうかと思ってしまった。


    「なのに、子が出来ません・・・・・・。神が人間に種をつけた例も、人ならざるものが人間と結ばれ子を成した例もたくさんある筈です。異類婚姻譚の多さがそれを物語っています。実際よそでは刀剣男士との間に子を生み育てた話はありふれている。なのに、わたしにはきよみつの子が出来ないなんて」


    哀れにも主は、ちいさな前田に縋り付くようにして言葉を絞り出していた。前田の瞳には悲痛な色がありありと浮かんでいた。おいたわしい、と言う声が聞こえてきそうな切なげな表情だった。


    「強欲なわたしへの・・・・・・天女を地上に落とした男が、子を成そうが最後には捨てられてしまったように、そのような足掻きをしても無駄であることの啓示なのかもしれません。わたしの罪悪への裁きなのかもしれません。でも・・・・・・、足掻きたい。端から諦めろと言うのなら、なぜわたしをきよみつと出逢わせたのですか?」

    震える声は、誰かが答えを返すのを待っているようだったが、返す言葉を持つ者はその場にいなかった。

    「どうかみなには、懐妊出来るよう取り計らってもらいたいのです。手段は問いません。懐妊出来るような手筈があれば探して、助けて欲しい・・・・・・。今日の用件は以上です。忙しい中、私事で申し訳ありませんでした。取り乱してしまって、ごめんなさい」



    仄暗い炎を目の奥にゆらめかせていた主は、みなに謝る段になるとぱっといつも通りの表情に戻るり、努めて平静に頭を下げた。

    前田と薬研を残した三人が退出する間際、主は今まででに見たこともないほど強い眼光と声音で、「本日の会合、加州清光にはくれぐれも内密に」と申し伝えた。あの頃の優しすぎる快活な少女の面影は、ついぞ消えてしまった。数年前にも同じようなことを思ったが、その時はただ純粋に成長が嬉しかった。だが今そこに在るのは、恋に心を病み、それでも愛しい伴侶との生活を守らんとする、哀れで危うい姿だけだ。






    「――そろそろ潮時かもしれんなあ」

    三日月宗近がいつも通りの調子で呟いた。
    俺は反射的に眉根を寄せる。

    「どういうことだ?」

    「いやなに、そのままよ。・・・・・・しかし、ふむ。主と近侍殿のややこは抱いてみたいからな。このじじに出来ることはしてみるさ」

    「・・・・・・そうか」


    相変わらず何を考えているか分からない男だ、と思いながら、「潮時」の言葉に憤る自分に驚いた。この五年の間、俺はずいぶん主贔屓になってしまったらしい。・・・・・・そして俺たち寵の厚いものがこうして贔屓を強めただけ、冷遇された刀たちの叛心は強まったのだろうなと思った。

    実はこの五年、主の贔屓はより露骨になっていた。可愛がっている者たちを優先的に鍛えてやる。そうして鍛えられた者たちは当然、練度が上がる。時間遡行軍との戦いは苛烈の一途を辿り、低練度の者は戦場に出す機会がない。そんな訳で、ある意味致し方ない話ではあるが、戦場に出られない、練度も高めてもらえない刀たちはずっと悔しい思いをしていた。
    不満の芽を摘むのは愛くるしく主への忠心厚い短刀らの仕事である。彼らはきちんと有能であるから、きっとそこまで悪い状況にはなっていないと思っていたのだが。

    叛乱は起きなくても、こうして不満が溜まると本丸内の空気は澱む。澱んだ場は、穢れや禍いを喚び込む。そういった穢れの類は、神域である本丸とはすこぶる相性が悪い。特に影響を受けるのが、本丸という場の鍵となっている主本人だ。神域に在るため普通の人とは身体の状態、例えば老化の速度などが違ってはくるが、実際その身体は生身で出来ている。穢れの影響は審神者の心身に出やすかった。主の心が病んでいるということは、それだけ刀剣男士たちの抱く不満も大きいということになる。


    「・・・・・・三日月の奴が潮時と言うのなら、そうなんだろう」


    零した声は、自分でも切なくなるくらい悲しげだった。



    以来“五大老”は、主の懐妊に向けて様々努力した。といってもよき日を占ったり、主と近侍殿の体調に気を遣ったり、故事に当たってみたり、よその本丸と交流を持つ際にはそれとなく聞き込んだり・・・・・・という程度ではあったが。


    最も確実な手は現世の医療行為をきちんと受けることだろうが、主は恐らく、政府の医療機関に掛かることを恐れていた。これで己の生殖能力に問題がないことが判れば、政府からどんな指示を受けるか分かったものではないと思っていたのだろう。



    ある日三日月は一期一振の前で、口もとだけ和ませた表情で「俺の験が悪いのかもなあ」と笑った。

    「ねね様も長いこと世継ぎの不在にお悩みだった・・・・・・我らが傍近くに揃っているせいで、ご正室に子が宿らぬのかもしれぬ」


    ねね様と秀吉公も睦まじい夫婦であったのになあ、と続ける。一期一振は何と返せばよいやら、珍しく動揺した調子で、「・・・・・・三日月殿、そのような・・・・・・。縁起でもない・・・・・・」と言葉を震わせた。記憶の欠けた彼にとって、かつて夫婦刀と呼ばれていたらしいこの男は、掴みにくいだけでなく何となしに罪悪感を呼び起こさせる、居心地の悪い相手だった。


    「冗談だ、許せ」

    一期一振の様子を見て柳眉を上げた三日月に軽く嘆息すると、少し非難を滲ませて返した。

    「主殿を思い煩わせていることを取り上げて冗談だなどと・・・・・・許されることではありません」

    怒った様子の一期一振にますます面白そうに今度は口の端まで上げたが、それ以上は何も言わなかった。一期一振も諦めたように嘆息する。この刀に何を言っても立て板に水だと、この本丸にいる者ならばよく知っている。



    俺はこの頃少し焦っていた。

    主は加州を偏愛している。だが加州だけでなく、その程度に差こそあれ、己が手で顕現させた刀たちのことは慈しんでいた。だがここ数年主は雑務に追われている事と、仕事を効率良く済ませる為と称して本丸の奥に半ば引き籠っている。以前述べたように、奥へ自由に出入り出来る刀剣男士はごく限られている為、大多数の刀剣たちは主と直接会う機会すらない有り様だった。


    実際、奥へ引き籠もり、重要案件がある時は我ら“五人”を招集する、というのが業務上もっとも効率がいいのは確かだった。だが、就任当初の主は本丸内を歩き回っては刀剣たちと取り留めなく語らったりする人だったのだ。主とあまり顔を合わせられなくなった刀から「主はご健勝か」と訊ねられることも少なくなかった。こういった質問をされる度、俺の胸は痛み、焦れる。

    主が引き籠もりがちなのは、恐らく業務の為ではない、と俺は思っている。俺以外にも、顕現して長い刀たちはそう考えているだろう。
    相談があり主の部屋へと赴く途中、縁側にぼうっと腰掛ける主を見た事がある。魂魄が抜け出てしまったかのような虚ろな表情で、 何もない空間をじっと凝視めていた。我ら“五人”と話す時も、加州が隣にいる時も、そういう様子になることが少なくなかった。そしてその頻度が増した頃から奥へ籠りがちになったのだ。恐らく主は、そういった様子を見せたくないのだろう。


    ――本丸を預かる立場として、か弱い女の子のままでは居たくないの。

    そう、眉を下げていたのは、いつの事だったか。


    初期に顕現した刀たちは一様に主を大事に大事に扱った。十六そこらの主は我々から見たらほんの子どものようで頼りなく、守ってやらねばと甲斐甲斐しく忠心を示した。主はそれをすまないと言った。貴方たちが知る歴戦の英雄のように、非凡であるなら。せめて我が身を守れる程度に強ければ、利発であれば。こんな風に心配させる必要はないのに、と。


    抜け殻のような主を生み出したのは、我々だろう。
    “か弱い女の子”で居られた筈の彼女に我々という重たい荷を背負わせた。市井で育った彼女を“主君”にした。我々よりも上の立場にある存在として扱い、我々を励起させた存在として大切に傅いてきた。

    早すぎる自立の強制と、本来立ち得なかった一城の主という立場、それが本来の主との乖離を生んでしまった・・・・・・。

    主は、我々を思うが為に歪んでしまった。と、そう思ってしまう。

    我々の“主”として本丸を立ち行かせようとするあまり、己の許容量を超えた責任を、実際の自分とは乖離した強い審神者像を背負い込んだ。結果生じた心の隙間に加州への恋心が滑り込み、強烈な依存感情へと変化した。・・・・・・俺には、どうもそのように思えてならない。


    刀剣男士の本性はモノである。人の身を得、“心”が付加されたことにより複雑化はされたが、本性がモノである以上、程度に差こそあれ、主に仇成そうなどと思う者は滅多に生まれない。

    本丸にいる者たちはみな、それぞれがそれぞれに思い合っている筈なのだ。なのにその思いが、心や欲求にずらされ、三者三様に違う方向を向いてしまっている。
    主の信任厚く、合議のため寄り集まることの多い“五人”でさえ、何かが少しずつ違ってしまっているし、同じ刀派の粟田口も全体を何だか掴みきれない。


    “主君”になったが為に本来の己を失い病んでしまった主と、人の身を得たことで心を持ち、主への不満を持ってしまった刀。

    似ている筈なのに、解り合い交わってはくれない。


    このままで、この本丸の行く末は大丈夫なのか。本丸だけではない、主は、大丈夫なのだろうか。

    俺は知らず天を仰いだ。そこに救いなどありはしないと、九十九の神の末席に坐する俺はよく知っているのに。これもまた、ヒトじみて来ている証だろうか。
    まぶたの裏では、十六そこらの主が屈託なく微笑んで、鶴丸、と呼び掛けてきていた。もう主は今となっては、あのように溌剌と俺を呼んではくれない。



    そうしてまた、何の実りもなく季節が一周しようとしていた。
    ほかの本丸の者から「環境を変えると懐妊しやすい」という話を仕入れた三日月が、政府で行われる審神者の定例会議に加州を連れて行ってきたらどうかと発案した。
    主が本丸の機構を加州ありきに作り替えた影響で、加州と主は揃って本丸を離れられない。審神者がいなくても加州がいれば本丸内の決済は滞りなく済むのだが、逆を言えば二人ともがいないとなると本丸内が乱れ、有事の際に差し障りがある。よって今まで定例会には前田など加州以外の慣れた刀を連れて行くのが慣わしだったのだが。

    「もうこの本丸も今の体制に慣れたであろう。鶴丸は近侍補佐として加州の職責を代行出来るし、ふたりが数日本丸を離れても問題ないと思うが」

    三日月がそう言えば、ほかの者も順繰りに賛同する。

    「主君に、たまには近侍殿と息を抜いていただきたいと思っていたのです。仕事の一環でも、お育ちになられた現世へ加州殿と帰れるとなれば、きっと主君もお喜びになるでしょう。僕から進言しておきます」

    前田はまるで我が事のようにはしゃいでいる。見た目とそぐわず大人びた彼であるから、分かりやすくはしゃぐとは余程嬉しいのだろうと察せられた。単純に「忠誠心」という点で見ると、この懐刀に勝る男士はなかなか居ない。


    そうして前田から主へ皆の意が伝えられた。初めは難色を示していた主はしかし、前田の甲斐甲斐しい説得と、そして何より嬉しそうな加州の様子に根負けしたようである。口にこそしないものの、加州が以前から定例会議に随行したがっていたことを主はようく解っていた。


    定例会議はそれからひと月後に予定されていた。ふたりで本丸を空けるのだからと、なるべく障りが出ないよう主はいつにも増して仕事に打ち込み始めた。不在期間に敵襲があった時の為にと、俺を長として防衛への備えや編成を見直したりもした。

    数多の仕事に追われ忙殺されながら、しかしこの期間の主は普段より幾分元気に見えた。実際少し元気だったのだろう、長いこと低練度のまま捨て置かれていた刀たちを順に呼び、少しづつ戦場に慣らしてやったりしていた。仕事の合間を縫って自ら畑や厩に足を向けたりして、長らく碌な交流を持たなかった刀剣たちと親しく話し込んでいる姿も見掛けた。

    主が畑のそばに座り込み、耕作に勤しんでいる刀たちに柔らかい表情で声を掛ける。刀たちも明るく何かを返す。それに対して、主が声を立てて笑う。

    その光景を見た時、俺は身体の震えを止めることが出来なかった。――ああ、何年ぶりだ。あんな主の姿を見るのは。

    陽の光の中、優しげな雰囲気を纏った主に釘付けになっていると、視線に気づいたのだろう、主がふとこちらを振り返った。俺の姿をみとめ、ふっと口角を上げる。

    「――鶴丸、いつからそこにいたの」

    朗らかな声に胸が痛んだ。僅かに唇を噛むと、努めて平静を装おって手を上げると、主の方へ歩み寄った。

    事態は良い方向へ進んでいる。明るい主の姿を間近で見た刀剣たちも、普段とは比べものにならないくらい華やいで活気に満ちていた。
    本丸内の澱みが抜けていく気がした。きっと大丈夫。根拠は何もなかったが、きっと大丈夫になる、そう思えた。主の笑顔を、こうやって少しずつでも増やしていければいい。それだけで、多分この本丸は何とかやって行けるだろう。



    そうしてひと月を過ごし、主は加州と前田を連れて定例会議へと出掛ける日になった。元々前田の同行は内定していたのだが、加州と行くことが決まってからは少しごたついた。主はただでさえ自分と加州とが本丸を離れてしまう訳だし、本丸の財務に通じ事務処理に長けた前田は置いていきたかったようだ。
    しかし短刀か脇差をひと振り連れて行くのはお決まりであったし、加えて衣装の問題もあった。年に一度のこの集いでは盛装が求められた為、各本丸がその装いの美しさで面子を競う側面を持ち合わせていた。うちの本丸でも毎年この日のために衣装を誂えているが、加州の同行はひと月前に決まったもので、ゆっくりと衣装を用意してやる時間がなかった。対して前田は今年も主と揃いで早々に衣装を誂えていた。加州の衣装の準備に注力したいという観点からも、順当に前田が選ばれたという訳だ。

    主の為に仕立てていた留袖は、珊瑚朱の生地に白、薄桃、暗紅色の色糸で刺繍を施し、金糸もあしらった華やかなものだ。主はいじらしくも連れ歩けない最愛の刀をその装いから仄めかすのが恒例だった。そのお陰で、急遽加州の衣装を誂えるとなってもデザイン面でさほど困らなかったのは幸いだった。
    加州自身には黒色のイメージが強いが、今回は白地で洋装を仕立てた。飾り釦には金の台座に朱色の珊瑚を嵌めて、袖口や襟ぐりには珊瑚朱と金の糸で模様を刺した。
    前田はマントを珊瑚朱で仕立て金糸を刺し、その下には加州と同じく白地に金をあしらった洋装を纏う。前田本人の希望で、加州より地味に見えるよう刺繍や釦の装飾は幾分控えめに替えてあった。
    加州は本丸創設時から前田を主筋と看做して丁寧に接してきた。その為前田からこうして立てて貰うことに未だに慣れないようで、幾分きまり悪そうにしている。


    本丸の皆で見送った。主はぎりぎりまで「少しでも異変を感じたらすぐに連絡して」と繰り返し繰り返し、くどいほどに伝えてきた。主たちの姿が見えなくなる頃、誰からともなく「主は心配性だな」と笑い混じりの言葉が漏れ、皆で和やかに笑う。主の支度を手伝っていた乱が「楽しんで来てくれるといいね」と眦をゆるませて呟いた。



    主たちの不在期間は丸々三日間を予定していた。恙なく一日目を終えた夜。主の心配げな様子が思い起こされたため普段は行わない見回りを行った所、大勢の気配が揺らめく部屋に行き着いた。どうやら酒宴でもしているらしい。
    「本丸でも加州にべったりなのに、外にも連れ歩くなんてな」
    「仕方ない。唯一無二の初期刀だ、主は近侍殿を大切にされている」

    気配を殺して耳をそばだてる。俺はこの本丸でも随一の練度を誇る。その為俺が気配を殺せば勘づくのは同等以上の練度を持つ刀だけだ。

    「よその本丸でも似たような事例は聞くが・・・・・・、主が女だからか? そばに置いているのだって短刀やら脇差やら、可愛らしいものばかりじゃないか」

    その声音は明らかに侮蔑を含んでいた。

    「加州殿はきちんとされた方ですよ。近侍としての責務も全うされてますし、初期刀として長くお傍にいるんですから、大切にされるのも無理からぬ事でしょう。短刀たちだって、その性分から奥回りのことに気が利きますから・・・・・・」

    「似たような、と言ってもうちの主は色狂いではないからそう咎めてやるな。ただ加州と睦まじく過ごしているだけだ」

    擁護する声もちらほらあったが、場の雰囲気が主への不満で充溢しているのは確かだった。

    「睦まじく過ごしているだけ? それで加州にあれだけの権限が許されているんだから、世話はない」

    「近頃はよくこちらも気にかけている様子だし、今までは単純に忙しかったんだろう。練度も顕現してからの年数も違う。仕方ない」

    そう誰かが取り成して主の話題は終わった。他愛もない愚痴のようなものだろうが、俺は暗澹たる気持ちを抑えることが出来なかった。このひと月、主は元のように戻って刀たちを気遣いながら過ごしていた。それを俺は“良い兆候”と嬉しく捉えていたし、本丸内の皆もそう感じていると思い込んでいた。それでもなお、このような不満の声は消えていない。“他愛もない”調子で語られていたからこそ、暗い気持ちにならざるを得なかった。恐らくはこういった会話が、彼らの間では日常なのだろう。

    俺はそろりと元来た道を戻った。今宵は雲が厚く、月の光が薄くしか見えない。灯りのない廊下を歩くのに太刀の身では、進むべき道を見分けるのがやっとだった。



    その後も別段異常は起きず、平穏無事に主らの帰還を迎えた。主の表情は出立前よりさらに一段明るく、晴れ晴れとして見えた。その表情を見てようやっと俺は暗く翳っていた気持ちが元に戻るようだった。加州に手を取られ、本丸の正門を跨ぎ超す。

    「皆、恙なく過ごしていましたか?」

    やわく微笑んで問い掛けた声に、短刀らが「お帰りなさい!」と駆け寄って応えた。

    一番に膝へ飛びついた秋田の頭を撫でながら、主はこちらへ視線を向ける。

    「鶴丸。留守中、何か変わったことは?」
    「いいや、何事も起きなかった。畑から相当大きな茄子が獲れたくらいかな」

    主はくすくすと笑いながら、それは楽しみね、と加州と視線を合わせた。主と加州、二人の間の空気は以前にも増して穏やかになった気がする。
    ふと目を遣れば、前田もそんな主の様子を嬉しそうに微笑んで眺めていた。それだけで此度の外出が主にとって充分な息抜きになったことを裏付けているようで、俺は再び安堵の息を吐いた。


    だがそれから一週間が過ぎ、主は再び奥へ籠りがちになっていった。月のものが始まったせいで体調が優れないのだと俺には伝えて来たが、本当に優れないのは寧ろ精神の方だろうと疑った。



    ――今回もダメだった。

    主はいつも月のものが始まる度、そう零して塞ぎ込む。だからまたその手の精神衰弱だろうと思ったのだが、意外にも今回は本当に一週間ほどでまた表に出てくるようになった。刀たちとの交流や、低練度の者たちを戦に慣らすのも継続して行っている。


    俺は思わず前田に、「主は本当に元気になった」と喜び勇んで伝えた。
    前田も顔を綻ばせると、「ええ、本当ですね。ようございました」と笑顔を見せた。


    さらにそのふた月後、驚きの報せが我々“五人”に齎される――いわく、主が懐妊したようだ、と。


    初め薬研の口からそう聞いた時はとても信じられず、しばらく呆けたようにしていたと思う。最初に声を上げたのは一期一振で、「本当ですか!」と喜色満面に薬研へ詰め寄る。

    「ああ、月のものはもうふた月止まっているし、脈も妊娠時のそれと見て間違いない。食欲不振や吐き気、下腹部の痛みなんかも出ている。安静にしないといけないから、本丸の奴らにはまだ伝えられないが」

    そう答える薬研の言葉に、俺は全身から力が抜ける思いだった。
    漸く――、ようやくだ・・・・・・。


    この六年超、ずっと悪いこと続きだった。主はどんどん不安定になり引き籠もりがちになり、刀たちの不満は溜まる一方で、本丸内は嫌な空気で澱んでいた。それがどうだ、最近はいい事ばかりが続く。

    主は以前のように笑ってくれるし表にだって頻繁に出て来てくれる、それに加えてとうとう――とうとう待ち望んだややまで出来たのだ。

    主の不安定さの最たる原因は妊娠にかかるものだった。であれば、子が出来たとなれば。主の、引いては本丸の未来は洋々と明るいばかりではないか。

    良かった、本当によかった。

    譫言のように呟いた。みなと別れて自室へと戻った途端、ぼろりと大粒の涙まで溢れてきた。
    ――主、良かったな。
    この時俺の胸を占めていたのは、可愛い赤ん坊と、それを抱き締めて幸せそうに笑う主。その隣で微笑む加州。未来が拓けた。この本丸において赤子とは、紛うことなく希望であり、何にも代え難い宝であった。



    そうしてひと月が過ぎた。そろそろ良いだろうという事で本丸のみなにも主の懐妊が告げられた。

    この頃になると男として取り入ろうと言う思惑は本丸からすっかり鳴りを潜めていた。主が皆を均等に鍛え出した事、それから加州のみをひたすら寵愛していた事が寧ろ幸いしたらしい。どうせ加州以外に興味は持たないのだし、それでも主は皆を育ててくれている。男として気に入られないと育ててもらえないという訳ではない。であれば鍛錬に勤しみ、戦に出ていつか大きな功を立てたい、と言う願いが刀剣たちの間で渦を巻いていた。
    その為主の慶事には本丸中が喜んだ。主が満たされ幸せであればこそ審神者としての活動にも精を出してくれる、と何となく皆が気づいていたからだった。


    主の表情に、ただ優しいだけではない、母性を思わせるまろさが増してきた。慈母そのものと言った顔つきで腹の子に微笑みかけ、撫ぜてやる。そんな主の様子を見るのが、俺は堪らなく嬉しかった。加州もいつもこわごわと言った調子で主の腹に手を伸ばし、見たことがないくらい幸せそうな、柔らかな笑顔を向けていた。「お父さんだよ」と声を掛けたあと、「いや、なんて呼ばせよう・・・・・・? 父上? パパの方がいいかな? 父上は固すぎるしなあ」なんて真剣に悩み出したのが可笑しくて、その場にいた全員が声を立てて笑ったこともあった。


    加州が主を凝視める折には、昔からずっと、この上なく大切なものを愛でるような、そんな温かみが込められていた。そこに加え、懐妊が分かってからは涙に濡れたような喜びの色さえ籠っていて、それがとみに印象的だった。そんな視線を主はずっとこそばゆいような、そんな表情ではにかみながら受け止めていた。




    本丸内はどこか浮ついた、しかし以前と較べて格段に良い雰囲気のままそわそわと時間が過ぎた。引き続き表へ出ようとする主を、寧ろ刀の側が必死に止めるような毎日。動かないと赤ちゃんに良くないのよ、と主は困ったように笑っていた。でもその顔色は、刀たちの心遣いに感謝していることを如実に示していた。主と刀剣の関係が良好である証のようで、俺はそんな遣り取りを見るのが好きだった。


    前田などは以前にも増して甲斐甲斐しく主に世話を焼いていた。ほとんど寝ていないのではとすら思う働きぶりに、主と俺たちとで必死に宥めすかして、どうにか夜だけは自室へ退がることを約束させた。しかし前田はあの可愛い顔立ちでどうにも頑固な性質で、夜にこっそり自室を抜け出して主の寝室のまわりを見廻っている事が露見してからは、仕方なしに加州が使っている続きの部屋で眠ることが許された。加州は毎晩主と添い寝しているので、夜は近侍部屋を使う者がいなくなるのだ。そんなに気になるなら護衛を兼ねてここで眠ると良かろう、という事で、これに前田は恐縮しつつも大人しく従った。


    前田ほど極端ではないにしろ本丸の者たちは大なり小なりそんな調子で、皆が浮き足立った様子だから万事が以前ほど円滑に進まない。近侍補佐の俺としては雑事が倍以上に増えて面倒だったが、不思議とその手間もそこまで厭わしくはなかった。

    当の加州など普段の「近侍殿」としての働きぶりが何処へやら、ぽやっと惚けている事も増え、皆から「お前ひとりの身体ではないのだし暫く出陣は控えたらどうだ」と揶揄い半分に勧められていた。




    「――主の様子がおかしいと?」

    そうしてさらに三月が経った。そんなある日、渋い顔の薬研に時間を作って欲しいと頼まれ、そうして移動した人気のない裏庭において改まった調子で切り出された。


    「――ああ」
    「おかしいって・・・・・・どこか体調でも悪いのか?心配事でも?」

    おかしい、と聞いて咄嗟に浮かんだのは精神的な事だ。だが懐妊が分かる少し前から主はずっと明るく快活に振舞っていたため、その可能性はすぐに消した。
    となれば身体の事だが――まさか、

    「お腹の子に何か障りがあるのか」
    「いいや」

    薬研は軽くかぶりを振った。それを見て俺はほっと息を吐く。しかしその安堵は次の言葉で一気に凍りついた。

    「大将は、そもそも懐妊していないかもしれない」
    「――――は?」

    どういう事だ――と言いさして、はっと気がついた。その様子を見て、薬研は苦しそうに頷く。

    「想像妊娠の可能性が高い」
    「――なぜ、――なぜ、そう思った?」

    薬研は少し俯くと、ぽつぽつと語り出した。

    いわく、腹がほとんど出ていない。勿論腹の出方には個人差があるが、同じ妊娠週数の者と較べるとひと目で異常と分かる程度だと言う。

    そこでおかしいと思い、思い起こしてみれば主に起きる悪阻はすべて軽度、しかも限定的なものだった。これもそういう体質の者もいる為気にしていなかったが、想像妊娠とは読んで字のごとく罹患者の知る妊娠症状が身体に起きるものだ。想像妊娠とすればどれも符牒が合う。

    「俺の手落ちだ」

    薬研は唸るように呟いた。

    「まず現世の医療機関できちんと診てもらうべきだった。そうしたら早い段階で気付けただろうに――」
    「・・・・・・いや――、お前のせいじゃない」

    そうだ。どうしてその可能性に思い至らなかったのだろう。子が欲しいとずっと塞ぎ込んでいた主。それが突然昔のように元気になった。そして妊娠まで。

    俺はただ主が元気になった、元に戻ったのだと嬉しくてろくに考えなかったが・・・・・・ずっと塞いでいた者が突然元気に振る舞い出したら、まずは新しい異常が出たことを疑うべきだったのではないか? それに、あそこまで子が欲しいと思い詰めていた主のことだ、想像妊娠の可能性だって十二分にあった。

    ――嬉しくて、喜びのあまりきちんと考えていなかった。

    主の妊娠公表から既に三ヶ月。本丸内の者は子が生まれるのを楽しみにしている。主自身と加州らは、もう五ヶ月間も子の誕生を楽しみにしていた。今更、どうやって誤りであったと伝えればいいのか。

    「――まだ、間違いでない可能性だって充分にある。ただ、早いとこ現世の医者に腹の中を診てもらった方がいい」

    薬研の言葉はなんの慰めにもならなかった。それくらい、主が想像妊娠かもしれない、と言うのは俺の中で妙な説得力を持ってしまっていた。


    実を言うと現世の医療機関に掛かるべきだ、というようなことは妊娠当初からずっと伝えていた。俺だけではない、皆がそう言っていたのだが、どういう訳か主はずっと拒否してきた。

    ――定例会の折、本丸を三日間も空けてしまった。それにうちの本丸の薬研は妊娠出産に関しては本当によく学んでいる。わざわざ現世まで行かずとも問題ない。

    そう楽観的に話していた。ずっと待ち望んだやや子であるのに随分ざっくばらんに捉えるものだな、と思っていたが、俺はここについても深く考えなかった。深刻に思い悩み、新たな悩みの種が増えるよりは、主が多少楽観的な方が今後の為にも良いだろう、と希望的観測を決め込んでしまったのだ。

    ――恐らくは主の冷静な部分は己の欺瞞を見抜いていて、現世で診療を受ければすぐにこの茶番が打ち切られてしまうことを知っていたのだ。妊娠を待ちわびた己の為、この思い込みによる奇蹟をどうにか継続しようと躍起になっていたのだろう。


    俺の怠慢が招いた悲劇だ、と心が引き裂かれそうに痛んだ。幸せな未来に、拓けた希望に目が眩み、“もしも”を見ようとしなかった。違和感に目を瞑っていた、俺の罪だ。


    その後、もう週数的にも現世の医者に見せねばならんだろう、という口実で説得しに行ったが、主はやはり頑として首を縦に振らなかった。

    であればと、政府派遣の医者に本丸まで来てもらおうと打診した。「本丸を離れたくない」という言い訳を失った主は拒否する理由をなくし、これには是を返した。


    そして医者が訪れた日。俺はこの日、診察後の所見を聞いた時の主の表情が目の裏にこびりついている。恐らく終生忘れられないだろう。

    昏く凝った双眸は大きく見開かれ、絶望の底に沈んでいく。その日まで薔薇色に上気していたかんばせは徐々に色を失い、紙のような白へと変じた。そして極めつけは口もと。死人のように変化していくその他とは対照的に、口角だけは張り付いたように上向いていて歪な表情を作り出していた。


    主は何度か、極めて冷静な声音で反論を試みていた。

    「でも、動くのを感じるんです。おなかの中で、きちんと生きています。いないなんて有り得ません」
    「時折下腹部が痛むんです。おなかの中で赤ちゃんが大きくなっている証でしょう?」
    「わたしは母親です。この子がここにいると、わたしはきちんとわかります」

    しかし医師の返答は残酷なまでに正しい。

    「エコーには何も写っていません。あなたのそれは想像妊娠でしょう」

    想像妊娠に明確な治療法はない。基本的には医師などの第三者から「それは想像妊娠です」と告げられる事で思い込みを脱する、という手しかないのだと言う。主は頑として認めなかったが、同じく顔色を蒼白にしていた加州が「あるじ」と声を震わせながら手を握った瞬間、弾かれたように身体を震わせた。

    「主、ごめんね。俺、主につらい思いをさせたね。赤ちゃんがいたらそれは勿論うれしいけど、いなくたって俺は本当に、物凄く幸せだよ。今回は諦めよう、ね?」

    その言葉に主は滂沱として大粒の涙をこぼした。ぼろぼろと流れる涙を見て、加州も堪え切れずしゃくり上げながら主を強く強く抱き締めた。主はその背を抱き返す余力もないようで、だらんと腕を垂れ下げたまま、中空の一点を虚ろに眺めている。


    その場にいた者の例に漏れず呆然としていた前田はハッとしたように表情を引き締め、一同を見回した。視線で皆――三日月、一期一振、薬研、俺を誘い部屋の外へ出ると、「この事実は我らだけの秘密にせねばなりません」と強い口調で告げた。


    「主君は、不幸にも流産なされた。そのように発表し、決して事実を漏らしてはなりません。宜しいですね?」

    前田がこのように断定した、指図するような物言いをするのは珍しいなと、場違いなことを考えてしまう。

    我らに否やはなかった。
    想像妊娠であったなど、ほかの刀たちに知れたら主の体面に関わる。


    皆が頷いたのを確認すると、前田は緊張した面持ちで言葉を継いだ。

    「医官には・・・・・・そうですね、いち兄が説明を。少なくともこの本丸内では本当の事は一切喋らぬよう強く伝え、お帰りの際はひとりにならぬよう付き添ってください。三日月殿と薬研は本丸の者へ申し伝える役目を・・・・・・。鶴丸殿は、僕と共に主君のそばへ。主君と加州殿にも、その旨を伝えねばなりませんから」



    程なくして医師が室内より出てくると、各々が粛々と役目に従って動き始めた。

    医師にはひとまず別室に移動してもらう。流産の処置をしていた、という事にする為、今暫くこの本丸内に留まってもらう必要があった。
    一期一振と、ひとまず三日月もそちらへ付き添った。


    薬研は腕を組み、廊下に背を預けてぼうっと立っている。・・・・・・無理もなかろう。主の身体の事は薬研がいちばん気に掛けてきた。薬を煎じ、食事の献立を整え、朝晩と脈を測ってやり。子が欲しいと言われてからは特に、いっとう気を遣って診ていた筈だ。

    「薬研、本丸のみなへ発表するにもまだ時間があるだろう。それまで主のそばに居てやってはどうだ」

    「・・・・・・いや、俺はここに控えている」

    「主は今心細いだろう、よく知らぬ医師よりも薬研の方が安心出来る」

    そう言うと、薬研は顔を顰めた。
    ――主がどれだけ薬研を信任しているかなど、薬研本人が一番解っている。解っているからこそ、今回の事を己の失態だと責めて止まないのだろう。


    「・・・・・・情けないが、大将に合わせる顔がない」

    「・・・・・・薬研――。主君は、きっとお待ちですよ」


    「――――薬研、薬研はいますか」

    沈鬱な雰囲気の中、主の呼ばう声がか細く届いた。みなハッとして、特に薬研など先程までの躊躇いはどこへやら、焦ったように主の寝室へ駆け戻る。

    「大将、呼んだか?入るぞ」

    主は薬研の顔を見るなりほっとしたように破顔した。薬研、とその声が明るく上擦る。こちらへ、と呼び寄せ、薬研の青白く華奢な手をそっと握った。

    「薬研、薬研。――先程の医師の言葉は嘘でしょう? 薬研は確かに懐妊だと、そう言ってくれたものね。ね、薬研・・・・・・」

    「・・・・・・・・・・・・」

    主の明るい顔に束の間緩んだ空気は、しかしすぐに固く冷たく張り詰めた。

    薬研は暫し目線を彷徨わせ、そのちいさな唇を微かに震わせたあと、静かに双眸を閉じる。次にそこに菫色が見えた時、薬研の表情は決然たる調子を湛えていた。きっぱりとかぶりを振ると、強く――しかし先ほどの医師とは比較にならぬ優しい声音で、大将、と語り掛ける。


    「俺のせいだ。大将、俺のせいで悲しい思いをさせた。加州にも」

    握られた手をやんわりほどくと、薬研は平伏し、深く叩頭した。

    「申し訳ない。――顕現以来格別の恩寵を賜り、傍近くに仕えられたこと、光栄だった。主の恩に報いられず、あまつさえこのような失態を演じ、本当に申し訳なかった」

    言葉を切り、少しだけ顔を上げると、

    「――この度の妊娠は誤りだった。俺の首で足りるなら幾らでも差し出す。・・・・・・代わりに、誤りであったと、大将も理解して欲しい。でないと、主は次へ進めない」

    再び額づこうとする薬研に、一連の動きを茫然と眺めていた主の眸に漸く光が戻った。やげん、と悲鳴交じりの声を上げると飛びついて顔を上げさせた。

    「やめて薬研、やめて・・・・・・あなたがわたしに平伏す必要なんてないのに、お願いやめて、おねがい・・・・・・・・・・・・」

    「大将」

    泣きじゃくる主に、薬研は沈痛な色を浮かべ、もう一度、「すまない」と呟いた。

    「大将の身体には明確に変化が生まれている。大将がそれを受け容れてくれないと、どうにも先へは進めない。つらい事だが・・・・・・俺のせいなのに、代わってやれなくてすまない」

    ――でも、自覚さえしてくれたら。

    そう続けた声に、主は腹を庇うようにして後ずさった。

    「――いや・・・・・・」

    「大将」


    「――いや、いやよ、この子を殺したくない、確かにここにいるのに、殺さないで、お願い助けて・・・・・・」


    あまりの長期に亘った想像妊娠は、主の精神の奥深くに根付いてしまった。

    想像妊娠を自覚して治す、という事はつまり、主にとっては我が子の息の根を止める行為にほかならない。


    泣き続ける主に根気強く声を掛け、錯乱した主を宥め、慰め、取り押さえ。そうして夜半まで格闘した頃、主はとうとう精根尽き果てたようにふっと気を失った。


    倒れ込む主を抱き、加州は幾分表情を和らげた。それは皆も同じで、主はずっと半狂乱で泣きじゃくり暴れていたから、気絶という形でも身体と精神が休まることに心底安堵していた。

    前田が「ここまで暴れられるのは初めてです」と悼ましげに零し、俺も「あんな風に泣きじゃくる姿も久方ぶりに見た」と頷く。


    それをじっと眺めていた加州は自虐気味に眉を寄せると、「そっか」と短く呟いた。


    「主があんな風に取り乱すの、俺は初めて見た」


    ぎゅ、と唇を噛んだ姿に前田も薬研も瞠目する。主は加州の――愛しい男の前では努めて平静に、可愛らしく在ろうと努力する人だ。よって不安定な姿を露呈するのは我らの前に限っていた。我らもそれを理解していたからこそ、そのような主の姿を敢えて加州に伝えることもしなかったのだ。主の嵐に呑まれ、うっかり口を滑らせた――三人が三人ともそんな表情をしていた。


    加州は苦いものを飲み下すように微笑むと、「分かってるよ」と言葉を継ぐ。


    「分かってるけど、どうして主は俺のことを、俺本人にぶつけてくれないんだろう」

    先程も、前田には腹の子を守ってと取り縋り薬研には助けてと乞い、俺には大泣きしたり威嚇したりと忙しかったが、加州が主に触れる時だけはすこし固まり、平生の顔色を覗かせていた。

    「主はお前さんを信じているのさ」

    俺の言葉に、加州はふうと短く嘆息する。

    「そうね」


    ――贅沢な悩みなのは分かってるけど、続く言葉は哀願するような響きだった。

    「俺を信じられなくて不安になってるんだったらさ、言葉を尽くして、行動で示して・・・・・・どうして信じてくれないのって怒れたのに」


    そう、主は加州を深く愛し信じている。

    加州という刀の誠実さを、忠義を、彼が自分へ向ける愛情のひたむきさを。

    自分が不安を覗かせたら加州がどう思うか、どう行動するかまで主はきちんと理解していた。どんなにみっともなく縋っても醜い願いを伝えても、きっと何てことなく受け容れてくれる。この本丸の加州清光はそういう刀だった。


    だからこそ縋るわけにはいかない。受け容れられることに甘えて全てを投げ渡し加州に負担を掛けたくない。そんなものは愛ではない。わたしはきちんとあの子を愛したい。そう、主は繰り返し言っていた。

    ・・・・・・主が子を希うのも加州を信じるが故だ。

    難儀な性だなあ、と思う。



    そして加州も。そんな難儀な思いをしてまで全力で愛を示す主のことを、心底から恋慕い愛していた。だから加州も、主に対して全てを見せろとは言わない。


    加州はさほど体格の変わらない主を軽々と姫抱きにしていたが、前田が寝床を調えたのを見るとそっとそこへ横たえた。名残りを惜しむようにそっとその髪へ触れ、手櫛で解きながら撫でている。その指先は涙の痕が痛々しい頬へ滑るように向かい、しかし触れられずに下ろされた。その刹那、加州の紅玉は水面に細波が立つように揺れた。


    ともすれば今、主よりも加州の方がつらいのではないか、とふと思った。
    心待ちにしていたやや子は存在せず、最愛の人は己の存在が為に苦しんでいる。つらくて泣き喚きたくとも、一番つらいのは最愛の人であるから声ひとつ上げられない。


    ふと気がつくと、俺は加州の肩を抱いていた。
    加州は軽く身を震わせると、「なーに、鶴丸。急にどうしたの」と屈託ない笑い声を立てる。

    ――じゃあ俺は、このまま主と居るから。みんなありがとね。加州のその声を合図に退室した。大将が起きたらすぐに診てやりたいから、と薬研は部屋の外で控えている。


    こんな日だと言うのに月の光は冴え冴えと降りそそぎ、天は密かに涙に暮れる暗がりさえ残してはくれない。




    それから主は日の大半を床について過ごすようになった。我が子を自ら殺めたという罪悪が抜けないようで、惚けていたと思ったら発作のように泣き出す。その度に前田を捜し、姿が見えないとより錯乱するようになったので、前田は担当していた業務から半ば引き上げて主の隣に付きっきりになった。

    本丸のみなも流産したと聞いて一様に沈んでいた。主の体調も心配だが、近頃順調に練度を上げていた者はまた捨て置かれるのではないかと不安げだった。


    一週間が過ぎた頃、主はふらりと表へ出たがった。しかし悲しみの衝動が発作的で衆目へ晒すのが躊躇われた為、中庭へ短刀たちを呼んで遊ばせるにとどめた。そうして主が外へ出たがる度、加州と散歩をさせたり、短刀たちと遊ばせたりして徐々に外気や人の多い場へ馴らして行った。

    そうやって、主が人前で我を失わなくなるまではまるまるふた月近く掛かった。加州に支えられて朝議に現れた主を見た時、刀剣たちは沸き立つように喜んだ。しかしようやっと表へ出るようになってもその執務は遅遅としてゆるやかで、寝つく以前のようには進まない。その事に刀剣たちは不満げであったが、なにぶん流産と聞かされていたから、仕方ない、と諦めるような生温い空気が充溢していた。



    ・・・・・・主が完全に復帰する少し前のことだ。ともに茶でも、と誘われた日、主は取り留めもない言葉の合間でふと、「こんな事を言ったら、流石の鶴丸にも呆れられるかもしれませんが」と口にした。


    「俺とは随分色々話しているのに、まだ何か隠し事でもあるのか?」

    茶化すように促せば、主は自嘲気味に苦笑する。

    「懐妊したと判る少し前から、わたしは何と言うか・・・・・・よい審神者のようだったでしょう」

    俺は軽く眉を上げた。まさか自覚的だとは思わなかったのだ。

    「実は・・・・・・、心を明るく持ち、懐妊する事に囚われずに過ごした方が子を授かりやすいと聞いたので・・・・・・であればと、少し無理をしてでも業務に打ち込もうかと、思いついて」


    ぬるくなった茶杯を掌中でもてあそびながら、「だから報われたと思ったのだ」と主は溜め息をついた。その表情は固いまま、ゆるく口角を上げてみせる。

    「鶴丸にはすまないことをしました。あなた、あの頃、・・・・・・すごく嬉しそうだったから」

    ――わたしの思いつきで、あなたの心まで振り回しましたね。

    その言葉にうっかり固まってしまった。――俺は、そんなに分かりやすかっただろうか。


    主はそんな俺の反応に昏い眸を軽く伏せると、「鶴丸にはずっと甘えたままね」と感情の読めない声で言う。

    「何を言う。俺は爺だからな、甘えられるのは嬉しいもんさ」
    「鶴丸ならそう言うだろうと思った」

    わたしのおじいちゃんだもんね、と言いながら、主は疲れたように脇息へ凭れた。主はたまに、こうして俺をおじいちゃんと呼んで戯れる。そうしたがる時は決まって主がとても疲れている時か、とても不安定な時かの二択だった。


    実際俺は、この子の爺のような気持ちになることが多い。少し手の掛かる、可愛い孫娘。
    外衣を取ってくると、主の肩へ掛ける。

    「おじいちゃんに出来ることがあれば何でも言うんだぞ」

    背中をさすってやりながら言うと、主はやっと目許をゆるめた。

    「じゃあ、そのまましばらくさすっていてくれる?」
    「もちろん、お安い御用さ。うちの孫は随分無欲だな」
    「ふふっ――・・・・・・」

    主はしばし声を立てて笑い、

    「無欲な人間が、神様の子を欲しがって泣いて暴れたりするもんですか。三界一の我がまま女ですよ」

    と、ともすれば場を凍らせかねない言葉を冗談のように口にした。

    俺は眸を眇め、「愛し合う男女が子を願うのは、当然の欲求だ」と宥めるように返す。

    「例え我儘だとして、その神様本人が君と子を成したいと願っているんだ。この事で主を責める人間なんて、この世に主くらいなものだろう」

    「・・・・・・・・・・・・本当に、どうしてわたしはわたしのことを許せないんでしょうね。許してあげたいのに」

    「いずれ許せるさ」


    「わたしの迷惑な恋愛に、本丸のみなを巻き込んで・・・・・・」呟く声は震えている。以降主は物憂げに黙り込み、静かに涙を流し続けるのみとなった。俺の方も黙り、ただ主をあやす手に精一杯の祈りを込めた。この子が、どうかもう少しだけでいい、楽に生きられますように、と。



    ・・・・・・あの子はいつもそうだ、と胸中で嘆息した。無理が出来るほどの体力を持ち合わせていないのに、すぐに己の許容量を越えて頑張りたがる。

    恐らくはもう、主は元に戻らないのだ。

    生きている以上、ずっと同じということはない。変容しつづけるのが人である。そう考えると、あの陽だまりのようだった主を求める俺の方こそ間違いなのだと思う。


    俺が元の主に戻った、治ったと喜んでいた頃、主自身は一体どれだけ無理をしていたのだろうか。
    心には日々増幅する憂いを抱えながら、それでも明るく笑い続けることのどれほど苦しかったことか。

    俺は主のことが可愛いし、慕わしい。だからこうして甘い見方をするし、主が危惧したような、呆れるというような事象は絶対に起きない。

    しかしどうだろう。このまま主が闇の中を漂うとして、今は同情的に口を噤んでいる刀たちも、いつまた不満を持つか分からなかった。

    主は執務へ本格的に復帰したが、一度寝ついたせいか心労のせいか恐ろしく体力は衰えていた。続けて起きていられないのだ。書類仕事のような座り仕事中にも、ひどい目眩に襲われて頻繁に身体を横たえる。比較的元気な日は以前のように本丸内を歩いて回ったりもしたが、そんな調子だから完全に同じようにはいかない。


    しまいには刀の方から主が奥から出て来ないように気を遣い始めてしまった。

    主は恐らく、かつて話したように「他のこと」に目を向けて“再び”身籠りたいのだろう。周囲からどんなに止められても、以前のような執務を行いたいと頑なであったが、加州の叱責交じりの嘆願でようやっと意志を曲げた。

    ろくに起き上がれもしない主が、紙のような顔色で打ち掛けを引き摺って歩く。その姿は皆の心をぞっと冷えさせた。幽鬼のようにふらりとした佇まいは、主の生命ごと危うく見せ、あまりに縁起が悪かったからだ。


    加州は基本的に、主のしたい事は最大限受け容れる。主が一番に大事であればこそ、主の理念ははるたけ尊重したがるのが加州清光だった。

    主は幾分頑固な性分であったから一度決めたら聞かない悪癖があったが、流石の加州に止められては退かざるを得なかったのだろう。


    ――まずはきちんと養生して、話はそれから。

    そう言う加州に主は渋々頷き、我らはほっと胸を撫で下ろした。


    毎日毎食、主の好きなものばかりを用意した。
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