落花流水満開 落花流水
蒼穹山派で内々に開かれた、ちいさな春遊の宴。此度の定例会議は、ちょうど桃の花が見頃であるならとちょっとした宴の体裁を調えて開催された。
各峰主がそれぞれに数人の弟子を連れてきただけのごくごく穏やかな身内の集まり――であったはず、なのだが。八重に綻んだ桃色が華やかな視界に突如ありえないものが写り込み、その場にいた面々は目を白黒させた。
「――清秋」
一気に静まり返った場の空気を打ち破るように、岳清源の低く深みのある声が響いた。それにのんびりと、周りの空気になど気づいていないかのような様子で沈清秋が応える。
「ああ、掌門師兄。お久しぶりです。――皆さんも、お元気そうで何より」
いつも通り若竹色の衣を怜悧に着こなした男は、ゆったりと扇を広げながら近づいてくる。と、周囲を見回してその視線の先に気がついたのだろう。半歩後ろにぴったりと控えている男へ顎をしゃくった。
「――……師叔、師兄の皆さま。久方ぶりにお会い出来て、……本日はどうも、お日柄も良く」
まるで不本意そうな仏頂面で、しかし拱手する所作だけは実に流麗で見事だった。その忘れようのない響きを聴き、面々は思わずゾッとする。――どうして洛冰河が来ているのだ。
清静峰の門弟らしい白い衣に身を包み、普段は流れるままに下ろしている髪をゆるく括っている。絶世魔王はまるで荷物持ちの従僕かのように沈清秋の背後へ付き従っていた。しかし蒼穹山派が第二席、清静峰の峰主その人よりもよほど上背があり体格がよい為、門弟じみた振る舞いとは不釣り合いで妙に目立つ。
困惑した面々が口を開くより先、岳清源が代弁するかのように穏やかに問うた。
「清秋、どうして彼がここに?」
「どうしても何も……峰主の集まりは弟子を伴う慣わしでしょう。現に皆さんも連れて来ているようですし。私も私の弟子を連れてきただけですよ」
軽く微笑んで応える調子は本当に何てことないとでも思っているようで、まるで気にしている方が間違っているように思えてしまう。
しかし実際清静峰の主はここにいる沈清秋なのだし、洛冰河も確かに清静峰で育った門弟である。そのうえで沈清秋が洛冰河を弟子と扱い、洛冰河も彼を「師尊」と呼んで恭しく振る舞う以上、少なくとも蒼穹山派内で敢えて否やを唱えることはないだろう。
柳清歌などは露骨に鼻を鳴らして不満げであったが、沈清秋が片眉を上げて目線を合わせると眉間に皺を寄せるのみになった。
岳清源もそれ以上は追求せず、穏やかな表情のまま鷹揚に頷くと沈清秋へ椅子を勧めた。
そうして歩み出す折、洛冰河は甘い響きでそっと「師尊」と呼ばうと身を屈め、沈清秋の白魚の手を取って歩みを支える。ごく自然に寄り添い合う姿は師弟というよりそのまま夫婦のそれである。その場にいる誰もがそう思ったが、誰一人として口にする者は居なかった。
❀
共に行こうと言い出したのは、意外にも沈清秋のほうであった。
「――冰河。そなた、三日後は何か予定でもあるか」
「いいえ、師尊、何も」
紅い双眸をこぼれそうに瞬かせつつそう応える。そもそも洛冰河には沈清秋よりも優先すべき予定など存在しない。沈清秋に予定を訊かれた時点で全てを白紙にするのみである為、この質問は無意味だった。
「蒼穹山派峰主の集まりがあるだろう」
「はい」
無論それは把握している。その送り迎えをするつもりだったので、強いて言えば大切な用事が入っているとも言えた。
「何もないなら、私と一緒に来るか?」
良かったらだが。と、告げられた言葉に洛冰河は再び両目を瞬かせた。みるみる目を瞠ると、やや真面目な面持ちになる。
「……師尊はもしかして、私の心をお読みになれるのでしょうか」
「ふふ、何だ、来たかったのか?」
洛冰河ははい、ともいいえ、ともつかぬような声でふわふわと答えた。頬は先刻よりもわずかに紅潮していた。照れているような表情だ。
「蒼穹山の春遊それ自体に行きたいかと言うと、勿論そんなことはないのですけれど。――ただ、以前はこういった集まりにお供するのは、まず間違いなくこの弟子でしたので……」
軽く視線を伏せて息を継ぐ。洛冰河自身も珍しく、言葉を決めかねているように見えた。沈清秋は柔らかい視線で先を待つ。
「貴方の伴侶として隣へ並べること、至高の歓びだと思っております。それ以上などございません。ですが私は……貴方の一番弟子として賜っていた名誉も忘れられません」
「うん」
「まだその、貴方と縁を結べたことも夢のように感じているせいか、弟子としての欲も捨て切れず……ただ、私がいては師尊のお仕事の邪魔になってしまうので」
嘆息するように言葉を切った。「欲深い弟子をお赦しください」と睫毛を湿らせる。破門の噂は度々否定しているが、それでも蒼穹山派内ですら未だに風当たりは強い。何なら、清静峰の弟子たちですら、だ。ずっと成り行きを見守ってきた峰主たちならともかく、洛冰河が離れざるを得なかった七年間は人の身にはあまりに長い。歳若い弟子は特に悪評に惑いやすいようだった。
洛冰河は沈清秋の手を取った。押し戴くように大切に触れられるぬくもりに、沈清秋はくすぐったい思いになる。
「なに、邪魔になどなるものか。お前は間違いなく私の弟子であるし、何の障りもないだろう」
「……師尊」
洛冰河は抗議するような色で強く見上げた。
「もちろんお供したいです、ですがこの弟子の為にお心を砕いていらっしゃるならそんな必要はございません。修派内で認められずとも、他ならぬ師尊が私を弟子と認めてくださっていることはよく存じております」
「またそんな、殊勝なことを言って」
沈清秋はからころと笑った。いつもは泣いて駄々を捏ねる癖に、こんな時ばかりどうして聞き分けよく振る舞うのだろう。
「私も春遊の宴でさえなければ、あんな面白みのない所にわざわざそなたを連れて行かぬよ。……ただ、たまには一緒に花でも愛でてみたくなって」
扇で顔を覆い、指先をそっと繋ぐように握り返した。洛冰河は緊張したように紅潮した頬を強張らせる。沈清秋はその頬を撫でてやりたいな、と思いながらこっそり眦を下げた。
「私もそなたも引き籠もりがちだからなあ。地下宮殿は見事な造りだが、花は育たぬし。清静峰も彩り豊かな風采ではないから」
生命あるものの息吹くことがそもそも難しい土地なのだ。青々とした竹林が伸びるこの居住区は、この魔王の力あってのものだった。ほとんど奇跡に等しい。
洛冰河は夫となってからも細々とした気遣いで世話を焼いてくれる。沈清秋は己を楽しませる美しいものが好きだったし、であればと夫は室内を調えるついでとばかり、折々の花を手折っては活けていく。
沈清秋もそれだけで季節の移ろいを愉しむに充分といえば充分なのだが。ふふ、と笑い声を漏らすと眉を上げる。
「冰河にはあまりよい思い出ではないかもしれんが、小さくなったそなたと市井で過ごしたのも、なかなか愉しかったなあと思い出したんだ。院に植わうあれこれで時節の移ろいを肌で感じて……」
「……娘子」
洛冰河は反射的に厭な記憶が蘇ったのだろう、眉根を寄せて仏頂面になる。
あの頃の洛冰河といえば二人きりでいる時以外は膨れ面ばかりだった。まあるい頬をふくふくとさせ、いからせても愛くるしいばかりのまん丸の目に不服を充満させて。夫には申し訳ないが、沈清秋はついつい思い返すだけで微笑んでしまう。
沈清秋にとって愛しい人とともに暮らすというのは洛冰河と結ばれてからが初めてのことだった。前世を含めてもそのような経験はまるでない。伴侶と二人の生活というのは生家で営むのとはまるで違う、新鮮なときめきの連続であった。
そんな中さらに、霊峰からも魔界からも離れて俗世で営む生活はまた色々な意味で鮮やかでとても愉しかったのだ。周囲からは親子と誤認されていたとしても。
「度々連れ立って顔を出して入れば皆もつまらぬ噂など流さなくなるだろうし。身内から慣れさせて行こう。……冰河が嫌な思いをするかもしれないが」
「いいえ。貴方以外のどんなものからどう取り扱われようと、私はどうでもよいのです。嫌な思いなどいたしません」
「そう……、かな……?」
洛冰河はきっぱりと言い切る。己の伴侶をわりあい感情豊かな方だと思っている沈清秋は思わず疑義を呈したが、まあそんな事はどうでも良い。夫と春の訪れを楽しめると決まり、扇を使いながら満面に晴れやかな笑みを浮かべた。
「ではともに行こうか、冰河」
❀
「――白い衣のそなたを久しぶりに見た気がするなあ」
簡単に会議のようなものを済ませ、体裁上の仕事をさっさと片付けた場は速やかに宴席へと姿を変えた。沈清秋は寛いで己を手遊びに扇ぎつつ、隣にいる夫を穏やかに眺めた。今日の洛冰河は、清静峰の弟子へ揃いで着せる校服をきっちりと着込んでいる。この子の凄艶な美貌には上質な絹に華やかに装飾がある方が似合うだろうと思っていたのだが、こうした装いも楚々として可憐だった。洛冰河の燃えるような紅玉と癖の強い髪、圧倒的な強者の風格につられて忘れがちだが、やはり顔立ちは甘く愛らしいままだ。沈清秋はそう考え、内心で大きく頷いた。
「師尊の内弟子として随伴しますならばやはり、この校服が相応しいかと思いまして……見た目も成長に伴い変わっておりますし不安だったのですが、その……変ではないでしょうか?」
不安げに揺れる双眸が上目に凝視めてくる。もうとっくに師の背丈を追い越しているというのに、見上げてくるきらめきもあの頃のままだ。
「うん、似合うよ。……懐かしい」
――本当に大きくなった、と沈清秋は胸のさざめきを聞いていた。一番弟子として傍近くに仕えてくれた頃、あの頃はまだ沈清秋が守ってやらねばならぬほど小さかったのに。それこそ、よく転んでしまう洛冰河をしっかり抱き止められるほどには沈清秋の方が歳上然として大きかった。そういえば、大きくなったこの子は流石にもう転ばなくなったが、変わりによく抱きすくめてくるようになったな、と思う。包み込める程度には体格差が出来たということだった。
ふわふわ頼りなげであった真っ白なお花ちゃんが、今はもう沈清秋の頼れる相公なのである。
ふと見遣れば洛冰河は褒められて安心したのだろう、照れ笑いを浮かべながら桃木の方へ視線をやっていた。夢見心地な視線ははらはらと散る花弁を捉えていて、彼のあまりの麗しさのせいかどことなく物思いに沈んでいるような気色もある。桃源郷のごとき景色を背景に背負い一枚絵のような姿を見て、沈清秋は心中で嘆息した。
(――……まさかこんな事になるとはな)
口角を和らげると洛冰河の手を握った。卓子の下ならまあ気づかれぬだろうと踏んでの行為だったが、握ってからじわじわと恥ずかしくなり、誤魔化すように碧桃を仰ぐ。
「しっ……娘子……!」
感激で上擦った声を出した洛冰河は、嬉しそうに絡め合った指を擦り寄せてくる。身体ごと寄せられぬのがもどかしいとばかり、指先に情恋がこもっているようで、沈清秋はいよいよ目元の朱を誤魔化せなくなってきた。益々かたくなに桃花を凝視めていると、横から甘ったれた声が届いてくる。
「娘子、娘子、どうしてこちらを向いてくださらないんです?」
「……花を見に来たのだから鑑賞に専念せねば」
「私から貴方の視線を奪うなんて罪作りなものですね」
本気で妬いているのか巫山戯ているのか判断しかねる調子であった。しばらく黙殺していると、洛冰河は声を一等低めて真面目な調子で語り掛けてきた。
「ねえ娘子、……私たちの地下宮殿にも、季節に合わせて花の咲く后院でも作りましょう。そうしたらこんな風に煩わずともよいですし、貴方のお慰みにもなりますから」
沈清秋は少し目を丸め、出来るのかと問うた。洛冰河は一拍も置かず、「竹林は作れましたし、規模はともかく何とかなります」と返す。
「小さな桃でしたら植えたこともありますから。きちんと咲きましたよ」
事もなげな調子に、沈清秋はただ「流石だな」と鷹揚に感心した。不毛の地に植物を育て切るなど、世界広しといえこの主人公様にしかできないだろう。――にしても知らなかったな、花も試していたのか、と考えていると、洛冰河はなぜか決まり悪げな様子になった。
「――ひとまず、何を咲かせましょうか。貴方のお庭ですから、お好みのままに。牡丹でも何でも、師尊ならお似合いになります」
あれも好い、これも、お好きなお花は……と指折り思案する様子に堪らなく愛おしくなった。こんなに小さなことで、そんなに考える必要などないのに。
「そなたの庭でもあるだろう。二人でゆっくり考えようか」
「――……はい」
洛冰河は花が綻ぶように笑った。沈清秋はその様子につられて笑みを返す。それにぽうっと見蕩れるようになっていた洛冰河が、すこし拗ねたように口を開いた。一層しっかり、繋いだ手を握り直してくる。
「次は二人きりの花見がいいです、娘子。貴方に触れたくても触れられないのはつらい」
その膨れ面に思わず苦笑いした。しかし公の場できちんと我慢出来るようになったのは偉い。ずいぶん分別がついたものだ。労うつもりでよしよしと撫でてやる。
「それも、考えておこう」
一陣強く風が吹き、にわかに桃花が舞った。
眼前で色づいた夫の頬と、花弁の濃桃色が結びついて溶け合って美しい。――ああ、本当に夢みたいな景色だなと沈清秋は思った。
❀
――彼の伴侶に伝えた通り、洛冰河は過去に桃の花を植えてみたことがある。
金蘭での悲劇より程なくした頃、沈清秋の目覚めを待って。桃花は不老長寿の縁起ものでもあるから、僅かばかりの祈りも込めての行為だった。
無事咲いた時は純粋に嬉しかった。不毛の地で瑞々しく咲く花の姿は何かの希望になるような気もした。
ぐるぐる、ぐるぐる、どうして貴方は俺を庇ったのですか、俺を憎んでいるのではないのですか、――なぜ、あんな無茶をしたんです。俺なんかの為に……。止め処ない思考も、花を世話する最中は少しだけ紛れた。
しかし少し経った頃、どんなに調べてもどう手を尽くしても魂を喚び戻す術はないのだと思い知ることになる。本当に、文字通り万策が尽きてしまったのだ。
沈清秋の玉体に触れ、日毎霊力を注ぎ込む。彼のきめ細やかな肌は、すっかり生気を喪い生白かった。元々透き通るほどに白かったそれは、それでも嘗てはほんのり桃色がかって柔らかげであったのに、今はもうすっかり色の抜け落ちたようで。あまりの色の失いように、却ってきめ細かさが停まってしまった時間を思わせて身震いした。
そのかんばせも、ぴくりとも動かぬ表情のせいで元の凛然とした造作が際立って見える。
(――……師尊は、違う)
弟子入りしてすぐの頃は確かに、冷たい雰囲気に気圧されるばかり、許されることもなかったので御前では頭を垂れてばかりいた。だがもう今はあの頃の洛冰河ではないのだ。一番弟子として離れに居を賜り、誰よりも何よりもお側近くに仕えていた自信がある。洛冰河は、沈清秋の切れ上がった眸にどれほどの温もりがあるか、その柔らかな光の瞬くところをよく知っている。凄然とすら取れるその美貌が、陽だまりのごとくふわりと綻ぶところを知っている。
――違う、とその時思った。本当に、沈清秋の魂はここにはないのだ。
その色の失せたところが、はらはらと落ちゆく可憐な花びらと重なった。艶やかな色を、薄汚れた川が無慈悲な流れで連れて行ってしまう、春が、終わってしまう。
その日のうちに桃木は根こそぎ取り除いた。あれ以来、愛する人が目覚めるその時まで、洛冰河は花というものへ敢えて近づくことが出来なかった。
――だからこそ、夢みたいだ、と思った。沈清秋が微笑んでいる。春の麗らかな陽光の中、柔らかで穏やかで、幸せそうに微笑んでこちらを凝視めている。 ――確かにここにいる。
洛冰河の伴侶は瑞々しく生気をたたえ、満開の花など簡単に霞んでしまう美しさで息吹いていた。
花を愛でる必要も、怯えて過ごす必要も、今の洛冰河にはもうなくなった。