かぶと狩り 虫捕り網を手に走る少年たちに混じって、背の高い女子高生がはしゃいでいるのは、体面的にどうなのだろうか。
想亜たち三人は、陽会寺山と鎌吹山とを繋ぐ遊歩道の途中にある、自然公園に来ていた。遊歩道は、陽会寺山の頂上にある縁原公園から始まり、ある程度舗装された山道が、日之原市最高峰の鎌吹山頂上まで続いている。その遊歩道の中ほどは、谷のように道が下っており、下った先の窪地に小さな公園ができていた。公園といっても遊具の類はほとんどなく、自然が遊具の代わりとなっている。
高校生活最後の夏休みだった。三人で遊びに行きたい、と言い出したのは雪乃だった。想亜も雪乃自身もそれぞれ大学受験を控えているから、夏休みとはいえ、あまり遠くには出かけられない。近場ならどうか、という笙の提案に、雪乃が、この公園を挙げたのだ。なんでも、幼少の頃によく遊びに来たらしい。
容赦なく蚊に食われると脅されたので長袖を着てきたが、やはり暑い。しかも山中の自然公園なだけあって、蝉の音が激しい。肌に纏わりつく湿気、差し込む陽射しの眩しさ。夏の猛威が容赦も呵責もなく、想亜の五感を襲う。木陰に恵まれている点は、この名も知らぬ自然公園で唯一の幸いだったが、しかし、虫捕りに夢中になった子どもたちは、暑さも気にならないようだ。無論、雪乃も含む。
薄手のパーカーにスキニーデニムを穿いた雪乃は、普段、学校で見るよりもずっと活発な印象を受けた。いつもは下ろしているウェーブがかった長髪を、いまは、動きやすいように後ろでまとめ、加えて麦藁帽子をかぶっているせいもあろうか。「山を無礼めちゃいけないよ」とは雪乃本人の談である。
一般的な女子高生と比べ、雪乃は、虫や蛙の類に抵抗が少なかった。想亜でさえ躊躇うような素手での掴み取りも、平気でする。ちょっとした木ならば、するすると登っていく。オトナな女子高生が虫捕りを楽しむ姿に、はじめは小馬鹿にしていた少年たちも、いまは尊敬の眼差しで目を輝かせ、雪乃と一緒になって公園を駆けていた。
さすがに着いていけなくなった想亜は、木陰のベンチに避難した。少年たちの母親らしき女性たちが数人談笑しているなか、ひとり外れて座る笙の向かいに腰掛けた。笙は、木々の間で虫を探す雪乃たちを、眺めている。
「疲れちゃった?」
振り向いた笙が微笑んだ。
木陰にいるので、笙は帽子を外していた。銀色の髪が、梢の影を受けて、青味を帯びている。陽に焼けていない白い肌は、熱気のせいか上気して、血色を浮かび上がらせていた。
笙の問いに想亜は頷いて、水筒の麦茶を飲んだ。氷をたっぷり入れた麦茶が、火照った体内に染み渡る。雪乃にも休憩を勧めるべきか、と思った想亜は、遠くから呼ぶ雪乃の声に顔を上げた。
虫籠を手に、雪乃の元へ戻る。雪乃は、片手に持った黒いものを想亜に見せびらかした。
「兜虫、捕まえた」
嫋やかな手の中で蠢く六本足にぎょっとした。
想亜の生理的嫌悪感を知ってか知らずか、雪乃は、想亜が首から提げた虫籠に獲物を入れて、想亜が見えるように虫籠を掲げた。
黒光りする殻から透明な翅を覗かせながら、兜虫は、プラスチックの床をのそのそと這っている。木の枝に似た大ぶりな角の根元を挟んで、一対の目玉が並んでいた。存外、つぶらな黒目だ。犬に似ている。兜虫を可愛がる気持ちが、少しわかった気がした。
「笙くんに見せに行こっ」
自慢げに笑んだ雪乃は、想亜を置いて駆けていく。虫捕り網を片手に、陽の下を走る麦藁帽子が、どうしてか想亜の胸を衝いた。
ごくごくと音を立てて水分補給する雪乃を、微笑ましげに見守っていた笙は、想亜が虫籠の中身を見せると、へえ、と声をあげた。隣で、雪乃が自慢げに胸を張る。麦藁帽子を外しており、後ろで引っ詰めた茶髪が顕わになっていた。
「暑い!」
荷物からタオルを取り出した雪乃は、顔をしかめながらパーカーを脱いだ。パーカーの水色が眩い肌色に様変わりする。想亜は咄嗟に衆目から雪乃を庇った。同時に笙のジャケットが雪乃の肩に被せられる。
「どうしたの?」
「……蚊に刺されるから、上着は羽織ってな」
「んん、でも暑いし」
「じゃ、袖は通さなくていいから。ね?」
にこやかな、しかし有無を言わせぬ圧力は、雪乃にも伝わったようだ。雪乃は渋々頷き、タンクトップの上にパーカーを羽織った。想亜も、内心では未だにどぎまぎしながら、腰を落ち着けた。
雪乃の、血色のよい小さな肩が、まだ網膜に残っている。慕情を向ける相手として意識したことはないが、こうして不意に異性の側面を曝け出されると、動揺してしまう。もうすぐ大学生になる予定の身だが、そういった付き合いは未経験だった。
雪乃は、想亜たちの動揺をさっぱり理解していない様子で涼んでいたが、ふと立ち上がって、虫籠を手に取った。兜虫を閉じ込める上蓋をまるごと取り外し、掴み出した兜虫を、近くの木肌に留まらせる。
「閉じ込めちゃってごめんね」
樹皮と半ば同化した兜虫は、雪乃が離れてしばらくすると、不意に飛び去った。小さな甲虫の姿は、暗い木陰に紛れ、すぐに見えなくなった。
「よかったの?」
「うん。捕まえて遊びたかっただけだし」
雪乃は爽やかに呟き、兜虫の飛び去った梢の奥を眺めている。雪乃の隣で、笙が微笑んでいた。
冷涼な風が吹いて、想亜は空を見上げた。夏の青空は深く澄み渡り、何処までも遠くへ続いていそうだった。