夏の声
裏山に足を踏み入れたとき、いつもと違う声が聞こえるのに、功太郎は気づいた。
忙しない虫や獣の声は、功太郎にはその意味がわからぬものの、めいめいがことばなき声を張りあげて、まるで奔放なる生命の讃歌のようだから、功太郎は山に分け入ってそれを聞くのが好きだった。本能のまま高らかに歌う声のなかに、しかし今日は、号哭を押し殺したような打ち沈んだ声が、混じっていた。
石を抱いて入水するがごとく、暗くて冷たい声。功太郎は、沈みゆく声に手を伸ばすように、その声の聞こえるほうへ歩いた。
あまり整備されていない遊歩道を伝い、声を辿る。盛夏の蝉声に掻き消されそうなほど、低く小さな声だった。生い茂る蔓草をくぐり、彼我を仕切るロープを越え、転がる石を飛び越えた。
そこは、不思議にひらけた場所だった。ひときわ太い樹木が、その枝を四方にぐっと伸ばし、まるでほかの木々を立ち入らせないようにしているみたいだ。太い幹から伸びた根っこもまた、幾度も地上に顔を出しながら伸び、自らの領地を主張している。燦々と降り注ぐ陽光が大樹の庭を照らす、その下に、人影が座り込んでいた。
そのひとは、大樹の根元に力なくもたれかかり、じっと目を閉じている。木洩れ陽にきらりと光る髪は、見たこともない銀色をしていた。人形みたいだ……打ち棄てられたごみのようにじっと動かないそのひとを見つめながら、功太郎はそう思った。
功太郎の耳には、押し殺した絶望の声が響き続けている。その声は、目の前に座る人形のようなひとから聞こえていた。
(子どもか)
ふと混じったことばに、功太郎は慌てて木陰に隠れた。そのひとは瞼すら動かさぬまま、それでも功太郎の居場所をはっきりと知ったうえで、功太郎にじっと意識を向けていた。
(迷子かな)
暗い絶望の音色に、淡いものが湧いた。
(帰してやらなきゃかな)
水底から浮き上がるように、暗澹たる声がやんだ。人形のようだったそのひとの、目がひらく。遠目にも、普通と違う目の色をしているのがわかった。
そのひとは、あやまたず功太郎に目を向けて、微かに笑んだ。
「どうしたの?」
燕が飛び立つような声。まるで山の生命がいっせいに気づいたみたいに、束の間、夏の音が静まった気がした。
「もしかして、きみの秘密基地だったかな。ごめんね、お邪魔しちゃって」
そのひとは優しい声で言うと、ゆっくりと腰を上げた。節くれだった幹に手をついて、ひどく疲れたように、体を支えながら立ち上がる。梢の切れ間から差し込んだ陽光の帯が、そのひとの白い肌を照らす。
(眩しい)
夜明けの空に似た清澄なこころに、一点、黒い染みが湧いて、すぐに消えた。
「こっち、陽ぃ当たってないよ」
功太郎は木陰から顔を出して、すぐそばの地面を指差した。そのひとは少し驚いて、それから「ありがとう」と微笑んだ。
緩慢な動作で、そのひとは陽射しの下に出、木陰に歩み寄ってくる。近づくほど、そのひとが功太郎の両親よりも大きいのがわかった。ほとんど首を直角に曲げなければ、そのひとと目を合わせられない。
木陰に入ったそのひとは、功太郎に合わせて、しゃがんでくれた。
「おれは、しょう」放ったことばとよく似た、けれど違う音が同時に響いた。彼は一瞬、どうしようかと悩んでから、「……きみは?」と問うた。
「功太郎」
「功太郎くん。お父さんとか、お母さんは?」
「おうち」
「功太郎くん、いま、ひとり?」
功太郎は頷いた。
そうか、と呟いて、しょうは考え込んだ。
しょうの声は、ひどく澄み渡っている。功太郎をこの山から下ろし、安全な場所まで送ったら、それで最期だと思っている。覚悟とは違う。今日の散歩はちょっと遠くまで行こう……それくらいの、気楽で無邪気な決意だ。その透明さがどうしてかひどく怖くて、功太郎は、なんとか彼を留められないかと必死に考えた。
(ひとりでここまで来たのかな。やっぱり迷子かな。でも、ここまで、ちゃんとひとりで来てたらどうしようか。遊ぶなら別にいいけど、放っておくのもよくないし)
「おにいさん、遊ぼ!」
功太郎は、しょうの声に割り込んで叫んだ。しょうが吃驚して功太郎を見つめる。
「おにいさんと一緒に遊びたい」
「おれと?」
頷く。
(こんなちっちゃい子と遊べるかな)
「木登りしよ。あれ」
功太郎は、我が物顔でそそり立つ巨木を指差した。巨木はあちこちが節くれだってごつごつで、登りやすそうだった。
(こんなちっちゃいのに落ちたらどうしよう)
「おれ、木登り得意だから。幼稚園でいちばんだし」
「功太郎くん、木登り得意なんだ」
「うん」
本当は、少し嘘だ。功太郎はこの山でよく遊ぶから、幼稚園のみんなと比べて自慢できるものの、この樹木ほど大きな樹には登った試しがない。少し怖かった。
「どっちが速いか、競争しよ」
それでも、一度回り出した口は止まってくれなかったし、しょうを引き留められるならばいいと思った。
しょうは心配になって功太郎を見つめていたが、功太郎の必死な顔つきに引かれて、また柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、一緒に遊ぼうか」
===
夏の陽射しに照らされた巨木は、変わらずそこに立っていた。
大人になったせいだろうか、老木は記憶よりも縮んで見える。どっしり根を張る樹の足元に、五歳になったばかりの娘と、娘に手を引かれた笙がいた。
笙は、あの夏の日に功太郎が出会ったときと、ほとんど変わらぬいでたちをしていた。同じ銀色の髪に、同じ白い肌に、同じ真っ赤な眼。功太郎はすっかり老けて、一児の父にまでなったのに、いまでは笙のほうが歳下みたいだ。
「笙くん、これ登れる?」
「これくらいなら登れるけど……」
「じゃあ雪乃もやる」
「ゆきちゃん……は危ないんじゃないかなあ」
「雪乃も登る!」
娘の雪乃はむきになって、皺だらけの幹に張りついた。笙が慌てて、雪乃の尻に手を伸ばす。心配する笙をよそに、雪乃は案外、ひょいひょいと巨木を登っていった。この運動神経の良さは誰に似たのか……功太郎は木陰からふたりを眺めながら、可笑しくなって笑んだ。
「パパー!」
いちばん低い枝に跨がった雪乃が、手を振った。功太郎は木陰から手を振り返す。雪乃の目には、父の頭上で生い茂る緑が広がっていた。
(もっと登ろ)
雪乃の興味はすぐに上へ向く。跨がっていた枝の上に立って、次のとっかかりを探した。下に立つ笙が、情けない声で雪乃を呼ぶ。振り返った雪乃は、地面と笙までの遠さに一瞬目が眩んだが、意地を張って明るく応えた。
雪乃は枝に手をかける。ざりっ。引っ掻く音がして、雪乃の体ががくんと落ちた。飛び出す。
銀色がよぎる。
笙が、片手で枝に掴まって、雪乃を抱えていた。笙は雪乃を抱え直して、枝から手を離し幹を蹴る。飛び出した功太郎のすぐそばに着地して、笙は腕のなかの雪乃を覗き込んだ。
「ゆきちゃん。だいじょうぶ、怪我ない?」
雪乃は目で見て耳で聞くのに精いっぱいだったが、笙の声には頷いた。笙は雪乃の無事を確認して、安堵の息をつく。
「ゆきちゃん。おれのいないところで、あんまり高いとこまで登らないでね」
(間に合わないかもしれないから)
雪乃は呆然と笙を見上げていたが、きまり悪くなって俯いた。うん、と小さく頷く。
「雪乃」
功太郎が手を伸ばすと、雪乃も腕を伸ばして、功太郎にしがみついた。五歳の重みが、腰と腹の底に響く。功太郎はぎゅっと雪乃を抱きしめた。
「ありがとう、笙」
「いいや。ゆきちゃんが無事でよかった」
「うん」
一瞬で、希望的観測から最悪の事態まで、頭のなかを駆け巡った。混乱する思考が、娘のぬくもりで溶けていく。
功太郎の肩に、大きな掌が置かれた。肩を撫でさする掌もまた、温かかった。