アパート水隠岐 かさついた金属音が来訪者を知らせる。押しボタンだけの古びたチャイムは今日も調子が悪いようだ。
「せんぱ〜い」
間延びした声。どうせ隊員しか住まないアパートだ。壁なんて薄いもので、隣の部屋からだって俺を呼ぶことはできるだろう。俺の部屋は302号室。一つ下の後輩、隠岐は隣の303号室に住んでいる。
「はいはい、開いとるで〜」
呑気に返事をくれてやると、「不用心」なんて言葉と共に顔の良い後輩は部屋に入ってきた。幾度となく繰り返されたシチュエーション。最近どこかこそばゆい気持ちになるのは、まだ胸に秘めたままだ。
ここ、三門市界境防衛組織の隊員用宿舎には、遠方から集められた隊員たちが住んでいる。基本的には隊ごとや出身地の地方ごとにまとめられることが多い。おそらく不安を少しでも軽くするためのものだろう。同郷の方言を聞くだけで安心する部分も大いにある。ただ活動を進める上で辞める人もいるし、隊を変える人もいる。戦闘員から開発に転向する人だって。
なので実際にはそこまでガチガチに固められているわけではない。幸いにも俺が在籍している生駒隊はまとまったまま過ごせているが、わざわざ隊が変わるたびに引越しを指定されていたら面倒この上ないだろう。
「はい。ついでやったんで買うてきました」
「…おん、ありがとな」
差し出されたのは歯ブラシと歯磨き粉。そういえばサラの歯ブラシはこの男にあげたのだ。替えを用意し忘れていた。受け取ったものをいそいそとしまっていると、彼は手慣れた様でワンルームの扉を開けていく。数歩遅れて自室に戻ると、まるで自分の部屋かのようにごろごろと横になっていた隠岐がいた。いつものことなのだがまた胸がもやついたので軽く蹴飛ばすと、ぐえぁなんて情けない悲鳴が聞こえた。
「うう、いたい」
「先輩の部屋で速攻くつろぐアホはそないな扱いで充分やろ」
「暴力反対…」
自分の顔の良さを分かっているのだろうか。故意か否か上目遣いでこちらを見つめてくる。その瞳にぞくりと背中が粟立つのを感じた。自然と上がりそうになる口角を必死に抑え、そっぽを向いて叱り飛ばす。
「お行儀よくできてから言い」
「…はぁい」
彼はもぞもぞと起き上がるとテーブルに向かって座りなおした。175cmを超える長身だ。決してかわいいサイズではない。喉仏だってあるし声もしっかり男だ。たまに妙に色っぽく聞こえる時もあるが。厚みのある骨張った身体。猫によるひっかき傷の絶えないごつい手。落ち着け。男だ。男なんだ。
「飲み物飲みたいです」
「コップは洗い場。水道水のみ可」
「おれお客さんなのに」
少し垂れた眦が俺を映す度に心臓がじりじりと焼けるように痛む。何度言い聞かせてもいうことを聞いてくれないぽんこつな心臓に、いつからそんなに愚かになったのだと哀れみさえも覚える。この気持ちに名前をつけたら、きっと俺はどこまでも落ちていくのだろう。溺れそうになっても抜け出せなくて、その距離にもがいて、もだえて、苦しんで。
「――隠岐」
「はい?」
呼べば言葉が返る。その関係のままで、それ以上を求めるなんてあってはならないのだから。