この世界の均衡をたもつ人 ぐらぐら、ぐらぐら。視界が揺れる。いや、いっそ世界が揺れているのかもしれない。咄嗟に手をついた壁に身を委ねて、少しましになったそれに息を吐く。久しぶりに結構やばそうだなぁなんて他人事みたいに思った。
この後は何があるんだったか。確かあと二つくらい本社での会議があって、その後は客との会合がある。時間的に食事というよりは共に茶を飲む程度になるだろうけれど、引き伸ばされれば時間を口実に会食にまで持ち込まれるだろう。そしてそれが目的なんだろうな、とも思う。向けられ続けているあの視線は、もう嫌なくらいに慣れ親しんだものだから。
「……かいぎ、行かなきゃ」
今日の議題はなんだったっけ。確か来週に控えた出張の話で、いや、それは二つ目の会議な気がする。ダイヤモンドが招集した石心だけのものだろうか。もう基石を持っていないんだし、今回だけは見逃してくれないだろうか。なんて、嘘。そんなことをしたら『総監』ですらなくなって、『アベンチュリン』ですらなくなって、ただの奴隷で死刑囚に逆戻りだ。ああいや、戻る、とは少し違うかもしれない。結局アベンチュリンという存在の価値はそこに帰結するというだけなのだ。誰も欲しがらない、ただ見て楽しむだけ、六十タガンバの価値しかない、そんな奴隷。
大丈夫、まだ自分の足がある。この幸運はまだ五体満足でいることを許してくれる。だから自分の足で立って、歩かなければ。決して誰に望まれていないのだとしても。
「あまりにも無意味な会議だ。僕はこれで失礼する」
「えっれ、レイシオ教授!?」
苛立ちを隠しもしない声が部屋の中に響いた。視界の端でふわりと青が揺れる。既に扉に手をかけた彼は、まるで侮蔑を含むような赤をそのかんばせにはめ込んでいた。
「その程度の情報共有など文書でいくらでもできたはずだ。つまり君たちの目的はそれではなく、そのバカに僕を引き合わせ、あわよくば僕からなんらかの知識や知恵を得ることだったのだろう。僕にそのつもりは無い、つまりこの会議は無意味だ」
帰る。一言告げた彼が扉を閉める音の、なんと虚しく響くことか。慌てふためく彼はカンパニーの社員だろうか。もう少し彼らにも気を配っていたらこんなことにはならなかったのかもしれない。忙しさにかまけて社員のことは放置気味で、だってこの出張はレイシオと二人という少数精鋭で行くことが決まっていたから。どうにかなるだろうとたかを括っていたつけなのかもしれない。彼の時間の価値を知っていたのに対策を取らなかったのだから、これはアベンチュリンの失態だ。
「レイシオ」
レイシオ曰く『バカ』な彼らは放置して、その大きな背中を追いかける。あぁもう、身長差のせいなのかぜんぜん追いつけない。あ、まずい。床がふわふわしている。急に体を動かしたほうがせいなのだろうか。それとも、他の何かか。急に安定感を失った足場にもつれて、傾いた身体がドン、と鈍い音を立てる。また、世界が揺れて。
「アベンチュリン」
「ぁ、」
「……頭は打ってないな。歩けるか?」
「れい、しお」
揺れた世界に、一対の赤が浮かんでいる。何を聞かれたんだっけ。いや、なんでもいい。何を聞かれたとしても、「大丈夫」と笑って答えなければ。それがこの『アベンチュリン』の価値だ。まだ平気、まだ、動ける。
「れいしお、」
「……はぁ。執務室でいいな」
それは有無を言わさないような、問いかけですらないものだった。揺れた世界がふわり、ふわりと踊っている。彼の触れている腕が、背中が、足があたたかい。あれ、今どうなっているんだろう。見えない、分からない。
「そのまま寝ていろ。君のスケジュールは秘書に聞く」
あたたかい声。揺れていた世界が消えていく。浮かんでいた赤が見えなくなっていく。それが自分の瞼のせいであるとは気付けないままに、アベンチュリンは意識を手放した。
良くも悪くもレイシオの退出により早めに終わった二つ目の会議のおかげで、突発的な自由時間ができた。その時間をアベンチュリンは全て執務室のソファの上で消費したらしい。らしい、というのは起きた時、既に客との打ち合わせのために出なければならない時間だったからで。
「なんでレイシオが? あれ、僕なんかしたっけ」
「……はぁ。いいから行くぞ、時間に遅れたら面倒だろう」
「うん……? まぁ、そうだね?」
疑問が頭の中を回りつつ、しかしそれを聞く余裕もない。相手が他の誰かだったらどうにでもなったかもしれないが、相手はレイシオだ。あまり余裕が無い状態で彼から必要な情報を引き出せるほど、この頭の出来がいいわけではない。
「え、会合にまで着いてくるつもり?」
「……ここまで着いてくることに何も言及せず、今更それか」
「いや方向が同じなんだなぁって……君も忙しい身だろ」
「一日三時間も寝ていない君ほどじゃない」
「げ」
レイシオの口から零れたそれに、何とも苦々しい声が漏れた。これではそれが事実です、と白状しているようなものなのに耐えられなかった。失態だ。今日の会合では注意しなければ。
その事実を伝えたのは、多分執務室に詰めてくれている秘書だろう。彼は都度都度家に返していたけれど、アベンチュリンが帰るどこからほとんど寝ていないこともお見通しだったらしい。なんて優秀な部下なのだろう。今回は、それが裏目に出ているけれど。
「忙しさを理由に多少ぶれるのは仕方がないことではある。が、来週は僕との仕事だということを忘れるな」
「忘れるわけないだろ。大丈夫、準備は万全に、」
「その準備に君の体調管理も含まれている。本当に分かっているのか?」
「あはは」
この分だと、秘書経由で寝れていない理由も知っていそうだ。まぁ別に知られてもいいのだけれど、でも彼からしたら、知りたくもなかったようなことだろう。彼がいながら仮眠室ではなく、執務室で寝かされていたのがその可能性を高めている。
「大丈夫、よくあることだよ」
美しいかんばせの中心にシワがよって、面白くてまた笑ってしまった。
客との会合は順調に進む。アベンチュリンの言葉に相手は好意的で、あらゆる提案に二つ返事をしているほどだ。それほどまでに事前に組んで来た要項が隙のないものであるということなのだが、多分相手の彼はそんなことは気づいていないだろう。全てうなずく、それだけが今の彼がするべきことなのだと信じて疑っていない。
なんの事前連絡もなしに同行者としてレイシオを連れてきたのに、簡単に許可されたのがいい証明だろう。
「……ではそのように契約書を準備しましょう。こちらにサインを頂いても?」
「もちろん。……ところで、アベンチュリン殿」
ほら、来た。嫌な視線だ。ねっとりと肌の上を這うような、まとわりつくような、そんな気持ちの悪いもの。それをおくびにも出さずに微笑んだ。あぁ、嫌だな。今日はレイシオもいるのに。これを、これから聞かされるそれを、彼にも聞かせてしまうのが。
「いい夜ですから、いかがです? これから」
「……はは」
「部屋をとっているんです。あぁ、必要なら食事も付けていい」
くそみたいな言葉。食事中に切り出されるかと思っていたのにそうでは無いらしい。そうであれば、酒のせいにしてどうにか有耶無耶にできただろうに。ペンではなくアベンチュリンの手に触れたその手が酷く不快だ。でも、これにうなずけばきっと全部丸く収まるのだろう。この契約書に書かれたカンパニーへの還元だって、60タガンバなんかよりよっぽど価値がある。だからこれに笑顔でうなずけばいい。そうすれば。
「それは素敵な、」
「悪いが」
ひゅう、喉が鳴る。きぃんと耳の奥で何かが木霊してその声が聞き取れない。ただ彼の手の温かさが、冷えきった手に触れた温度が、その存在を主張する。
「彼はこれから僕と予定があるんだ。他を当たってくれ」
目の前の男がその視線を彼へと向ける。苛立ち、嫌悪、侮蔑。石膏頭をかぶっていないレイシオのかんばせが、それに晒される。
「早くサインをしたらどうだ。彼も僕も、君のように無駄に浪費できるだけの時間は持っていない」
「なっ……!?」
小汚い顔が怒りで真っ赤に染まっていくのを、なんだか他人事のように眺めていた。矛先が逸れたからだろうか。嫌だなと思っていた手の感覚はいつの間にかなくなって、というよりきっと彼がかっさらったのだろう。今はあたたかな温度に包まれている。
「き、君! 急に来た君を追い返さずに入室を許可してやったというのに、なんだその口のきき方は!」
止めなければ。言ってしまえばこの会合においてレイシオは部外者だ。彼のせいでカンパニーの利益に影響が出れば、それは同行を許したアベンチュリンのせいになる。それは避けなければならない。だから止めなければならない。なのにいつもはやかましいくらいに動くこの口が、いつまでたっても言葉を吐き出してはくれなくて。
そもそも、この後の彼との予定なんて一切存在しないのに。
「れ、いしお」
「……」
無理矢理絞り出せば、絞りかすみたいな声が出た。声帯が馬鹿になっているのだろうか。もしそうだとしても、ここにはレイシオがいるのだから診てもらえばいいか。意味もない言葉が頭の中で飛び跳ねている。
「レイシオ……だと……?」
しかしアベンチュリンのそんな声に反応したのは彼ではなかった。真っ赤だった顔が真っ青に。もしかして次は黄色や緑になったりするんだろうか。それは面白いかもしれない。レイシオはあんまり、興味無さそうだけれど。
「博識学会の、べリタス・レイシオか……?」
「……そうだが?」
あぁ、不機嫌そうな声。いつの間にかなりを潜めた耳鳴りのせいで、その静かで落ち着いた声がじわりじわりと染みてくる。不機嫌そうなのに落ち着く声だって言ったら、彼は怒るだろうか。
「バカにも分かるように言ってやろう。君が推し進めている開発事業の軸となる技術の特許を、博識学会及びカンパニー経由で提供しているのが僕だ。……今の契約は来月までだったな。契約更新は」
「ま、待ってくれ!」
喘鳴を伴う悲鳴だった。きっと彼は、レイシオの石膏頭姿しか知らなかったのだろう。自分が誰の前で失態を犯したのかようやく理解して、それを挽回しようと必死に言葉を連ねている。相手がレイシオな時点で、そんなのはほぼ不可能なのに。
「……もう一度言う。この後、僕は彼と予定があるんだ。つまりこの仕事に、必要以上に割く時間はない。ここまで言えば君のようなバカでも分かるか?」
そこからはもうレイシオの独壇場だった。震える手で署名されたその契約書を受け取り、アベンチュリンを伴って席を立つ。冷や汗と脂汗が酷い真っ白な男はずっとがくがくと震えていて、しかしそれを彼は一瞥すらしなかった。
赤と青の後は、黄色でも緑でもなく白らしい。初めて知ったな、なんて他人事みたいに思った。
「……レイシオ」
「なんだ」
「僕たち、何か約束してた?」
手を引かれながら夜の街を歩く。どこに向かっているのだろう。この先にはホテル街もあるけれど、潔癖な彼はそういった場所を使ったりするんだろうか。まぁ、男なら溜まるものもあるか。なんて下世話なことを考えるのは、先程の客がそういう思考の持ち主だったから、というわけでもない。
「してないな」
「……そう」
それなら、手を離してほしい。その一言が喉につっかえて、結局声にはならなかった。日が落ちればまだ肌寒い、彼の手はあたたかい。だから、きっと離れ難い。それだけ。
何も言わない彼に連れられてたどり着いたのは、セキュリティの完備されたマンションの一室だった。扉の先は物が多いものの綺麗に整頓されていて、本が多いのも相まってなにかの図書館のようで。レイシオらしいといえば、その通りでもある。
「……まさか、レイシオに連れ込まれるとは思ってなかったな」
逃がさないようにだろうか。未だに手は離されない。あたたかいけれど、これは一種の拘束なのかもしれないなと思う。潔癖というイメージが先行しているけれど彼だって列記とした男なのだ。あの客がそれを示唆しアベンチュリンが了承しかけたのを見て、それならばと奪い取ったに過ぎないのだろう。
「準備してくるよ。風呂場は……あっちかい? ちょっと待ってね、すぐ、」
「アベンチュリン」
踏み出した足は、しっかりと掴まれた手によって阻まれた。静かな声。暖かい声。勘違いしそうになる、声。いやまさか、誰もいない部屋にこんな時間で二人きりなんて、そんなのやることはひとつだけだろう。それくらいしか、この身体に価値はない。
「……震えている」
「っ、」
「僕はそんなつもりで連れてきたわけじゃない。風呂……そうだな、まずは風呂に入って、その張り詰めた気を少しは落ち着けるといい」
結局一人になることは許されなくて、彼に抱えられる形で湯船に浸かった。汚いものを見せることになるから彼の前で準備なんてできないのに、それを言えば「だからだ」なんて答えかどうかも分からないものが返された。だから、何? そうじゃないなら価値のないこの身体で、一体どうやって返せばいいというのだろう。
「君の秘書は優秀だな」
「……それは否定しないけど、なんで?」
「君が仮眠室を使わずに執務室で寝ている理由、寝る時に電気を消さない理由。それから、この隈の理由」
あぁそうか、風呂に入ったからそれを隠すための化粧が落ちてしまっているのだ。結構綺麗に整えたけれどそれは朝の話で、レイシオの言い分からするに執務室に戻った時点で気が付いていたのだろう。
理由、か。まぁいくつか理由はある。それらは全て最近の寝不足による体調不良に繋がっていて、そしてその原因は全てこの身体だった。綺麗に整った顔、それに加えて貧相で弱そうな見た目。立場も、基石を失った今は酷く危うい。
だから仕方の無い事だった。客はもとより、カンパニーに出入りする誰かがこの身体を蹂躙することを夢見たり、奴隷か上に立つことをよく思わない社員が弱みを握ろうと手を伸ばしたり。はたまた、それに便乗してこの希少な身体を思うままに扱ってみようとしたり。身体に這うのは視線だけではなかった。ベタベタとした指が何度も何度も、この皮膚の上で蠢いて。
「アベンチュリン」
「っれ、しお」
「思い出さなくていい」
「いや、」
だって、求められているのなら差し出さなくては。そういうことが価値のひとつになることは知っているのだから、奴隷の自分には出し惜しみするものなんてひとつもないのだから。執務室で寝ていたのはただ安売りしないためにというだけで、もう、この身体は綺麗なものじゃないのだから。
「れいしお、」
なのに彼は、とても大切なもののように触れてくる。勘違いしてはいけない。綺麗な彼が嫌うだろうこの身体を、懇切丁寧に磨き上げられて。こんな風に抱かれる価値なんて、どこにもないのに。
「君はなんで、僕を」
ここに連れてきたのだろう。ぐらぐら、ふわふわ。揺れているのは不調のせいか、それともただ風呂で揺蕩っているからか。
「そのまま寝ろ。あとは僕がやっておく」
「だ、ってまだ、じゅんび、」
「いらん」
ぐらぐら、ふわふわ。頭が揺れる、視界が揺れる。多分、揺れている。なのに瞼が勝手に視界を閉ざしてしまって何も見えない。
「僕の言葉を正しく理解できるなら、寝ろ」
だめだろう。正しく動かなければいけない。あれ、でも彼が言うことは正しいのではないだろうか。彼がそう言うのなら、それが。
「……ほら」
おやすみ。ぽすん、と落とされたふわりふわりと不安定な場所で、心地のいい声に耳から侵される。張り詰めなければならない気が強制的に緩まされていくのに、それは決して不快では無いのだから不思議だ。どんな睡眠導入剤よりも効果があるんじゃないだろうか。そんなことを考えながらも、既に限界なんて超えていた身体は柔らかな布団へ沈むように落ちていく。
起きた時、少しだけでもこの身体が動くようになっているといい。そう願って眠ったせいなのか、起き抜けに彫刻のような美しい寝顔を至近距離で浴びて飛び上がったのはまた別の話だ。
そこまでの体力が回復するとは、この処方は君にかなりの効果を発揮したらしい。そんな嫌味かどうかも分からない声に、あまり使わなくなった口汚い言葉を声に乗せた。
あぁもう、笑うなこの野郎!