世界にたった二人きり ざん、ざざん。聞きなれない音が何度も鼓膜を揺らしている。海、というらしい。話にはきいていたけれど、こうやって自分の目で見るのは初めてだった。
そんな音を聞きながら、アベンチュリンは一人で砂浜を歩いていた。海というこれは、この星が長年にわたって雨を降らせ続けたが故に生れた大きな水たまりらしい。とはいえ水たまりが星の約七十パーセントを埋めてしまうのだからおそろしい。もしかしたらツガンニヤも、琥珀紀をいくつか越せばそうなるのかもしれない。それまでに、アベンチュリンが生きていられるわけもないけれど。
「……ここにいたのか」
ざん、ざざん。そんな音にあたたかな声音が重なった。かき消されることのない重たくて、心地のいい声。強く、柔く、この名前を呼んでくれる声。
「レイシオ」
「出歩くのは自由だが、せめて行き先だけは書きおいてくれ」
「だってそんなことしたら、僕がここにいたってばれちゃうだろ」
砂浜で、二人。たった二人で、ここにはほかの誰もいない。だって今、この世界にはレイシオと二人きりなのだ。昨日と今日の二日間だけ、アベンチュリンはアベンチュリンではなく、レイシオはレイシオではなく、ただ『この場所にいる誰か』として存在している。まぁ呼び名がないと困るから、それはそのまま使っているけれど。
「終わっちゃうなぁ、って思ってさ」
「そんなに気に入ったのなら、定期的に来ればいいだろう。その程度の休暇であれば取れるはずだが?」
「休暇はそうだろうね。でも……それは、『十の石心、アベンチュリンの休暇』でしかない」
ここに来る前、レイシオは酷いけがを負った。しかもアベンチュリンの目の前で。そのけがは本来であればアベンチュリンが受けるはずのものであって、それを回避するつもりも誰かに明け渡すつもりもなかった。なのに、彼はそれが当たり前であるかのようにこの身体をかばって見せた。
幸運は自分にしか効かない。しかも、命にかかわるような大きなことにしか。そうでなければ奴隷になんてなっていなかっただろうし、家族や同族が一人残らずいなくなることもなかった。つまりはこの幸運は、結局のところアベンチュリンを一人にしてしまうだけのもの。
その矛先がもう誰にも向かないように、そう考えながらずっと生きていた。賭けるのは自分の命だけ、救われるのも自分の命だけ。それ以外は、なるべく外へと遠ざけた。まさか自分からチップになりに来る馬鹿がいるなんて思わなかったから。それを言えば、バカアホマヌケを嫌う彼は怒るだろうか。
でも白い病室の中で眠る彼を見て、無理だと悟ってしまったのだ。彼を手放せばいいと思った。こんなことが起きてしまったのだから、彼からアベンチュリンを守るための肩書を全部取ってしまえばいいと。簡単だった。恋人という関係をやめて、パートナーとしてはもう成り立たないとカンパニーに伝達すればいい。利益を生まないのであればレイシオという駒を、アベンチュリンなんかに預けることもしないだろう。
「君を連れて、どこかに行きたい」
「……」
「どこでもいい……だれも、いないばしょがいい」
「それは『どこでもいい』と矛盾しているだろう……」
そう思っていたのだ、本当に。なのに口から出てきたのはそれだけだった。いつの間にか起きていたらしい彼に苦言を呈されて、でも反論する気なんて毛ほども起きない。手放せばいい、かかわらなければいい。そうするだけで、このくそったれな『幸運』から彼を解放することができる。
それができれば、どんなに良かっただろう。
結局そんなことしか言えなかったのだから、馬鹿はアベンチュリンの方だった。それ以上は彼のそばにいられなくて、でも関係を終わらせることもできなくて、ただ会わないだけの日々が流れていった。そして彼の退院報告を聞いたと同時に、問われたのだ。『全部を捨ててどこかに行く、そんな決断はできるか』と。
アベンチュリンとレイシオは、今はこの世界にたった二人だけの人類だ。そういうことに、なっている。ここにはカンパニーや他の誰かと連絡を取るための端末も無ければ、そのための手段だって残ってはいない。この『設定』が終わるのは今日が終わるまで。それまで、あとどれくらいあるだろう。
ただの思い付きだった。誰もいない場所に行けば、彼と二人でただ幸せを享受できるのだろうかとか。でもそれはこの幸運がある限り無理で、であれば『カカワーシャ』でなくなればいいのだろうかとか。そんなことは不可能なのに。そもそも『アベンチュリン』でさえ、カンパニーに管理されている商品のひとつにすぎないのに。
そんなこの心の内を、すべて紐解き終わっているようだった。誰からの干渉も受けることがなく、その身分さえこの二日間だけは捨てることが許された。そういう契約を、彼がジェイドに持ち掛けた。危険なことだと分かっていたはずだ。彼女と契約するなんて、そんなのはそれ以外をすべて捨ててもいいと思わない限り失うものの方が大きい。でもその対価を、レイシオは決して教えてはくれない。
「レイシオ」
「なんだ」
「僕、死んでもいいかもしれない」
「……アベンチュリン」
「本心だよ。『今』の」
十の石心ではなく、地母神に愛された子供でもなく。たった一人残されたエヴィキン人でもなければ、この身体に残るのはひとつだけだ。そのひとつだけになってようやく、この身のすべてを投じて彼に告げることができる。
「そんなつもりは一切ないよ。でも……本当に、今、君といられてすごくうれしくて」
幸せなんだ。さく、さく。ざん、ざざん。砂を踏む音と波の音が音楽を奏でる。心地いい音。吹き付ける潮風さえ気持ちよかった。昨日レイシオに愛されているときくらい。いや、それはさすがに言い過ぎかもしれないけれど。
明日からはまた『アベンチュリン』に戻らなくてはならない。『アベンチュリン』が言う彼への『好き』も決して嘘ではないけれど、そこにいろいろなものが混ざっていないと言えば嘘になる。そして彼が受け取るものにだって、多少の不純物は覚悟しなければならない。
「ねぇレイシオ」
だいすき。本当に、心の底から。カンパニーも博識学会も、地母神も、其でさえいないことになっている今。まっさらなまま、告げることができるから。もうすぐ終わりが来る今日の間だけ、それを何度でも、伝えたいから。
「迎えがくるまで、もう少しだけ逃げちゃいたいな」
そう告げた言葉に笑う彼も、きっと同じなのだろう。