人工の巣 一種の強迫観念だった。それはアベンチュリンの中にずっと蔓延っていて、番を得た今でも変わっていない。いや、ずっとというのは語弊がある。まだツガンニヤにいたときは、姉といたときは、Ωではなかったときは。そんなのは思ったこともなかったのだから。
一人ベッドの上で目を覚ますのはいつものことだ。それに絶望を感じることに絶望する、なんて博識な友人に言ったら呆れられるだろうか。でも今は許してほしい。ヒート中は、どうしても世界のすべてが敵に見えてしまうので。
「……かくれなきゃ」
目に入るものすべてが敵だった。初めてヒートを迎えた日、アベンチュリンはまだ『アベンチュリン』ではなかった。そのうえ『カカワーシャ』でもなく、つまりはただの番号でしか認識されていなくて。そんな奴隷が、Ωであるとも知られていない奴隷が、ヒートを迎えたら。そんなのは主人の格好の玩具でしかない。
無数の手が伸びてくる。主人の、それに準ずる人の、使用人の、同じ奴隷の。身分なんて関係なかった。Ωが珍しい星だったというのもあるけれど、αを筆頭にβまでもがこの身体を蹂躙した。筆舌にしがたいし、それを口にしたら彼もきっとこの身体を嫌悪するから言えないけれど。あれ、じゃあ今は彼を騙して愛してもらっているのだろうか。それが露見したらどうなるのだろう。やっぱり、かくれないと。頭がバグり始めている今、何を口から滑らせてしまうかもわからない。
もそりとベッドから抜け出して、隠れ場所を探す。リビングにはきっと彼がいる。家から出るにはリビングを通らなきゃいけないから、だからこの部屋しか隠れられる場所がない。カーテンの裏。だめだ、カーテンが短すぎる。ベッドの下。物がいっぱいで入れない。クローゼット。その扉を開けて、ここだ、と思った。彼の予備の白衣がかけられて、その隣に出張用の防寒具やらなんやらが連なっている。床すれすれまでに布が伸びていて、でもその床には何もない。
身体を折りたためば、アベンチュリン一人が座り込むくらいの場所はあった。白衣をかき分けてそこに身をねじ込んで、扉を閉める。息が、できる。扉をもうひとつ隔てたことによって彼の音が遠くなって、でも彼の白衣には彼と、いつも使う洗剤の匂いがあって。
安心する。ここに隠れていれば安全だ、そう思った。鍵もない、鎧もない、武器もない。なのに、なんでかそう思った。膝を抱えて縮こまって、それで安心しているなんておかしいだろう。そう思うのに、アベンチュリンはその安心感からとろりと意識を落としていった。
「……アベンチュリン」
小さな問いかけにも目を覚ましてしまうのは警戒心の表れだろうか。だって隠れなければ。ヒートの今、周りにはこの身を害するものしかいないのだから。
「アベンチュリン、僕が分かるか?」
「……れ、」
「あぁ」
きれいな、あかいろ。その二つの宝石がこの身体を捕らえて、逃げられないことを悟る。何されるんだろう。痛くないといいな。妊娠すると仕事に支障を来してしまうから、せめて避妊をしてくれる人だといい。こんな死刑囚のΩを孕ませたところで利なんてひとつもないのだろうし。
「もう一度、僕を呼べるか?」
「れい、しお」
「そうだ。今君の傍にいるのは僕だ。ちゃんと、知っていてくれ」
れいしお。それが今からこの身体を使う人の名前、ということだろうか。いや、違う。レイシオとは一緒に仕事をしたことがある人で、博識学会の人で、それで、えぇっと。
僕の、番。
「抑制剤は打ってあるが、薬に絶対はない。……まだ少し意識が混濁しているな」
「ん……」
うなじから首元、そして頬を彼の大きな手が撫ぜる。首を絞められるのだろうか、と思うのに抵抗する気が起きない。もう狂っているのだろうか。抵抗することさえ億劫になっているのかもしれない。いや、そうじゃない。彼だから、だ。レイシオだから。レイシオは、この身を害することで喜ぶことなんてない。
「……ぼく、ふぇろもんでてる、」
「ヒートだろう。少しずつ間隔が安定してきているな、いい兆候だ」
いい、のだろうか。こんなものはない方がいいと思っているから、半年とか一年とかない方がいいと思うのだけれど。だって彼だって、望んで番ったわけでもないのだし。あれは完全な事故だった。事故だったということはΩが悪いということだ。つまりあれは、アベンチュリンが悪い。
「す、る?」
「……はぁ」
問えば是が返ってくると思っていた。だってそれくらいにしかΩに価値はない。避妊すればいいし、万が一孕んだとしてもおろさせればいいのだ。というかどうして、彼はまだこんな元奴隷の番なんかにおさまっているのだろう。αなのだから、とっとと解消してしまえばいいだろうに。
「ここは……クローゼットの中は、安心したか?」
「……? うん、」
「ならいい」
「う、ん? あれ、しない、の?」
「アベンチュリン」
まずい。αを怒らせてしまった。いつの間にか身体にかけられていた白いそれをぎゅうと握り締めて、飛んでくるであろう拳に身を強張らせる。けれどそんなものは一向にやってこない。ただ大きな手のひらがまた、頬を撫ぜた。
いや、違うんだよ。別にしたいわけじゃなくて。でもしないと価値がなくて。価値がないと捨てられるかもしれなくて。解消してくれればいいと思っているのにその実、それを恐れている。なんて酷い矛盾だろう。そんな矛盾を抱えているから、それを優しい彼は感じ取ってしまっているから、だから解消できないだけかもしれないのに。
「次はクッションと……僕の服をもう少し入れておく。また、そこで待っていてくれ」
「……? う、ん?」
「もう少しで薬が効くだろうから食事にしよう。少し席を外す。待てるか?」
「まて、る」
「ありがとう」
とん、と額に温かいものが落ちてくる。それを感じて、ぶわりと知らないものが溢れて、それをとどめたくてまた白いそれを抱きしめた。離れていった彼と残されたアベンチュリンと、彼の香りが残る白いそれ。クローゼットにかけられていた洗濯済みのものではない白衣だと気付いたのは、完全に薬が効いた後だった。