溢れていく まるで、傷口が化膿していくみたいな感覚だった。触ってはいけない、だって悪化するだけだろう。今はまだじくじくと膿むだけで済んでいるけれど触れたら最後、掻きむしったり抉ったりしてしまう可能性がある。だって今、そう思ってしまうくらいにはほんの少しの余裕もない。
「……ギャンブラー?」
だから会いたくなかったのだけれど。こういう時にこそ機能して欲しいこの『幸運』はうんともすんとも言わず、もしかしたらこの身が今まさに見捨てられたばかりなのかもしれない。となると命日は今日か、明日か。そもそも息を吹きかければ飛んでいってしまうくらいには軽い命だ。今だとしてもそれは、別に驚くようなことじゃない。
「やぁ教授、カンパニーに来るなんて珍しいね」
赤色か目の前でぱちり、と弾けた。綺麗な色だなぁ、いつも通り。そんなことを思いながらも顔には出さずに笑顔で応じれば、その綺麗なかんばせに皺がよった。あ、失敗した。笑顔だなんて一番誤魔化しに向かない表情だったのに。
「何を隠している」
「……何も?」
「それが僕に通じるとでも?」
一歩。大きな一歩だ。必死に保とうとしていた彼との距離が一気に詰められてしまうくらいには。こっちも同じように一歩引いていて、同じ一歩なのだから同じ距離が残されたっていいだろうに。あぁもう、もっと身長が高ければ、足が長ければ少しは変わったんだろうか。
抵抗も虚しく目の前にいる人を見上げることになる。そもそも出口がひとつしかないこの部屋では、逃げ場所だってどこにも無いのだ。彼の横を通り過ぎればいい。けれど、それができるわけもない。
とん、と壁にはめ込まれた窓の、その枠に背中が当たる感覚。これ以上下がろうと思ったら窓を開けて外へ、だろうか。そんなことを許してくれるような人じゃないけれど。
「やはり何か隠しているな。……言うつもりは無いのか」
「いや、え……っと、」
「自分で言うのと言わされるのではどっちがいい」
どくん、どくん。その言葉に酷く心臓がざわついた。言わせるって、何。ここはあくまでも職場なのに? まさかそんな、だって彼はレイシオで、そんなこと。
「『言え』、アベンチュリン」
「ッ『ベット』!」
反射で、叫ぶ。さすがにそれには彼も驚いたらしい。弾かれたように赤が瞬いたのに、そんなのは気にすることもできなかった。呼吸が苦しい、心臓が痛い。急に叫んだせいで喉まで痛むような気がする。でも、だって、急にコマンドを出したのはそっちだろう。だからそれを拒むためにはセーフワードしかなかったのだ。本当は言いたくなかったけれど、そんなことさえできないSubだと思われたくなかったけれど。でも本当に、言いたくなくて。
「……っは、」
なんの声も聞こえなくなって、それが肺を潰していくみたいに息が詰まった。だって、そんな簡単な、ただ『言う』だけのことができなかったのだ。そんなSubじゃだめだろう。こんな綺麗でうつくしくてやさしい人の、その相手には相応しくない。
そうか、それがレイシオにはもう分かっていたからか。だから彼はアベンチュリンじゃなくて、こんな出来損ないのSubじゃ、なくて。
「アベンチュリンっ!」
「ひ、!」
「っ、すまない、」
言ってくれてありがとう。その声がきぃんと頭の中で反響した。何を言われた? こんな約立たずのSubに彼が声をかけてくれるわけなくて、だから何かが聞こえたとしてもそれは全部が幻聴で。今、どこに立っているのだろう。足が上手く動かないのだ。まるでスポンジとか、粘土とか、泡とか。そんなものの上に立ちすくんでいるような。
「……アベンチュリン?」
ごめんなさい。何も出来なくて、そんな簡単なコマンドさえ拒んでしまって。あれ、でもこのまま落ちていければ、このまま消えてしまえれば。
彼を縛ることだって、しなくて済むのでは。
「『聞いてくれ』」
なのにそんな酷いことを言われるのだ。握られた手から、手袋越しに体温がじわりと滲んでくる。聞こえない、のに、流れ込んでくる。その目を見るだけで何を言いたいのかが分かってしまう。
「れい、しお」
「そう、そのまま『聞いてくれ』」
アベンチュリン。アベンチュリンってなんだっけ。そうだ、名前だ。宝石の名前で、ダイヤモンドが集めた人に与えられる呼称のひとつで、つまりはアベンチュリンが『アベンチュリン』である、証明。
「セーフワードを言ってくれてありがとう。嫌なことを『嫌』と言うことは、君にとっては苦痛の伴うものだっただろう」
「は……っぅ、」
「『ありがとう』、アベンチュリン。ちゃんとセーフワードを言える『いい子』だな」
「れ、ぇし、」
「『いい子』だ。僕にはもったいないくらいの、僕にとって一番の」
音が、色が。無くなっていたものが少しずつ戻ってくる。何度も紡がれる『褒美』がじぃんと染みた。まるで大地に根を張る樹木の、その土に水をやるみたいに。
「ぼく、……いいこ?」
「あぁ、誰よりも」
「そ、っかぁ」
急に足から力が抜けていく。身体が、かくんと落ちた。それを支えてくれたのは太くてたくましい腕だった。あ、よかった。ここはスポンジの上でも粘土の上でもなくて、ちゃんと床の上だ。ここにアベンチュリンは立っていたのだ。安心したからか、それとも触れる彼が温かいからだろうか。次第にまぶたが落ちてきて、それに抗う術なんて残ってはいなかった。
すぅ、と寝息が聞こえてきてようやく、レイシオは安堵の息を吐き出した。焦点の合わない目が、しかもレイシオの目の前でぶれたのだ。焦らない方がおかしいだろう。そして自分にも非があるのは確かである。つまり、全面的にレイシオが悪い。
「はぁ、」
抱き上げて、ソファに寝かせて。その頭を己の膝に乗せるように腰掛けた。硬い太ももでは寝心地なんて悪いだろうに、彼はそうすると喜んでくれるから。
アベンチュリンが口を閉ざした事項についてはなんとなく予想がついている。数時間前に、ドロップしたどこぞのSubがいたのだ。このままでは命に関わると思い、しかし他のDomは見当たらない。そもそも医者であるレイシオがケアをするのが一番生存率が高い。だから、したのだ。せめて呼吸ができるように、命の危険がないように。それを目的としたケアというプレイを。
決してパートナーがいる状態で行うべき行為ではなかった。しかしながらアベンチュリンはまだ正式なパートナーではなく、その証だって贈れていない。つまりはレイシオにも、拒む術がなかったのだ。まぁ医者として、助けられる命を見捨てるなんてことができるわけもない、というのもあるけれど。
「言いたくないことを言わせようとして、すまなかった」
答えはない。なくていい。それはつまり彼が深く寝入ってくれているということ、そして安心してくれているということの証明になるのだから。
まぁ、それくらい心を許してくれているなら涙のひとつでも見せてくれればとは思うのだけれど。今回だってそんな分かりやすいものは一切なく、ただ完璧な笑顔が向けられただけだ。完璧すぎるそれ。だからこそ、レイシオであれば気付くことができるそれ。そしてそれを指摘すれば、まるで泣き方を忘れた子供のようにそのネオンを歪ませる。そしてまた、笑う。今度は下手くそな笑顔で。誤魔化すために、隠すために。惑わし、その視線を逸らさせるために。
きっと不安なのだろう。もとより自己肯定感なんて微塵もなければ、彼との始まりだって致し方なしにケアをした所からだった。だから、今自分のいる位置は誰でも取って代われるものだと思っている。そういう、節がある。馬鹿なことをと思うけれど、本気でそう思っているのだから救えない。救えないから、この手で導いてやりたい。満たしてやりたいとさえ思う。底の抜けたコップのような、彼を。
「僕だって傲慢なDomと何ら変わりはないのかもしれないな……君の心を満たして、溢れさせて」
底の抜けたコップにひたすらに注ぎ続けて、いつかそのコップが修繕された時。その時、きっと注ぎ続けたそれは溢れてくるだろう。そして溢れたそれらが涙になる。うつくしく、あたたかな感情として。レイシオは、それをこの目で見てみたくてたまらないのだ。