利用してみせよう「……ぇ、」
うたた寝をしていた。いや、時間としては深夜だからうたた寝とは言い難いのか。そもそもその言葉の定義はなんだろう。時間問わずベッドではない場所で意識を落としてしまうことを言うのだろうか。であれば、今していたことはうたた寝に相違ないのかもしれない。
「ふ、ぅ……」
ここは教会とは名ばかりの、身寄りのない子供たちの避難場所だった。自ら駆け込んでくる子もいれば親が置いていくことも多く、年代も種族も様々な子供たちがここで暮らし、外での職や身寄りを見つけて旅立っていく。そんな場所。
目の前の彼もその一人になるはずだった。今はちょうど最後の子供が「またね」と出ていったばかりで、一人での生活は酷く久方ぶりであると思ったりして。その矢先だったのだ、彼が教会のすぐ目の前で倒れているのを見つけたのは。
顔色は蒼白、痩せ型では無いが完全に栄養失調と貧血だろう。そんな彼をここに運び込んで、苦しそうに呻く彼の汗を拭いてやって。
「ちょ、腕は駄目だろ!?」
「ぐゥ……ッは、」
きっとその最中で、少しだけ意識を飛ばしてしまったのだ。そこまで眠くないからと油断していた。たった一瞬の気の緩みで取り返しのつかないことになるなんて、経験上よく分かっていたはずなのに。
目の前の、藍色の髪を脂汗で額に貼り付けた小さな子供。そんな彼があろう事か自分の腕に噛み付いている。歯は駄目だ。顎の力は思いの外強くて、子供の細腕なら噛み切ってしまう可能性だってある。痛みはもちろんあるだろうけれど、そんなのは空腹で理性を失った人には関係がないのだ。口に塊が入れば、咀嚼し、飲み込みたいという欲求ばかりが先行する。
「だ、めだって!」
「……〜〜!!」
腕を掴んで離させるべく、その小さな身体をベッドに押し倒す。なんとかその口から腕を離脱させて、体重をかけて拘束して。こちらを見る一対の赤がぎら、と欲に塗れて鈍く光った。
「ぅ、わ!?」
それは一瞬だった。掴んだ細い腕が大きく動かされて、咄嗟の反応も出来ずにぐるりと視界が反転する。ベッドに落ちた身体、その上に乗り上げる小さな子供。月光を受けて光る瞳は捕食者の色。あ、知っている。これを、この瞳を、ここの神父でもあるアベンチュリンはよく知っている。
開かれた口。食事を求めるように滴る唾液と鋭く尖った歯。その中は真っ赤に熟れて、漏れる吐息は酷く熱い。それが白く肉付きのない身体に、首筋に、触れる。硬いそれを突き立てられることに身構えた。けれど、抵抗はしないようにシーツを握る。大丈夫、耐えればいい、だけ。
「……?」
「は、っはァ……は、はッ」
しかしそこに痛みはやってこなかった。苦しそうな呼吸だけが耳朶を打つ。無意識のうちに閉じていた瞼を持ち上げれば、薄暗い中で紫色を揺らしながらも同じようにシーツを握る彼がいた。
本能が噛み付いてしまえと囁くのだという。本能が喰らい尽くしてしまえと囁くのだという。だから仕方の無いことなのだと、言う。誰かが言った。かつてこの地で、アベンチュリンの身体を暴いた誰かが。
なのに目の前の彼はどうだろう。そんな絶対的な本能に侵されながら、手放してなるものかと理性を握りしめて抗っている。壊れかけているそれを必死に、唯一の命綱として。
だから、だろうか。だってそうしたいと思ってしまったのだ。彼を一時的に寝かせていた部屋がアベンチュリンの部屋で助かった。枕の下に手を入れて布に包まれた小包を、取り出して。
「はい」
「……ッ!?」
その中にあった護身用の小刀で、左手人差し指の先を切りつけた。じわ、とその切り口から血がにじみ出てくる。それは重力に従って伝い落ちていて、顔を上げた彼の真っ赤な瞳はそこに釘付けで。
「いらないのかい?」
「きみ、は、」
「うん」
どうぞ。はく、と言葉の紡げなくなった彼の唇にくっつけてやる。まるで口紅を塗るように血を塗りたくって、真っ赤に染めて。
あ、とその口がついに開いた。生温かい粘膜に包まれた指先がぢゅ、と吸われて、傷の上を這う舌のせいでびりびりと痺れるような痛みが響く。けれどそれをかき消すみたいに指先が熱くなる。吸いだされた血の代わりに、熱を送り込まれたみたいに。
「ふ……ッ」
息が上がる。指先の熱が全身に回って、背中をざわつかせて脳を溶かす。懐かしいな、なんてどこかで思った。前に『彼ら』に襲われた時もそうだったっけ。でも、あのときみたいな嫌悪感がないのが不思議だ。あの時だって自分の身体を差し出して、そうやってこの場所を守って。
「ン、ぅ」
「は……」
「んく、ん、」
眉根を寄せて苦しそうに、そうやって血をすする彼を見る。この顔だからだろうか。綺麗なかんばせを持っているから。いや、彼がこの行為に酷く嫌悪感を抱いているような、顔をしているから。こちらを蹂躙して楽しむわけでも、暴いて嗤うわけでもない。苦しそうに、申し訳なさそうに、それでもやめられないのか必死にそれを吸い上げているのだ。その様がどうしても、ここに身を寄せる子供たちと重なってしまって。
「もっと、飲んでいいんだよ」
「……!」
ゆるりその丸い頭に触れた。いい子いい子と褒めるように紫のそれをかき混ぜて、子供特有の高い体温を手のひらに感じて。舌の上に指先を押し付けるようにすればまたごくん、と飲み込む音が聞こえた。
指先からの僅かな出血でも、吸い出され続ければ貧血になるらしい。そんな場違いなことを思いながらも、真っ暗になる視界に抗う術なんて持ち合わせてはいなかった。
この世界には吸血鬼がいる。その名の通り人の血を啜って生きるものたちだ。彼らは高い身体能力と生命力を有していて、だから戦ったって勝てるような相手ではない。目をつけられたら最後、彼らの食料として飼育される以外に道はないのだ。まぁアベンチュリンのように、運よく逃げおおせられるような人もごくわずかにいるけれど。
「…………っぅ、」
ずきん。最初に響いたのは刺すような頭痛だった。カーテンからこぼれる日の光でさえ眩しすぎてその痛みを増長させる。どうにかして遮りたいのに布団を引っ張り上げる力も、それどころか身体を動かす力さえ残っていない。身体が大きな岩に押しつぶされているみたいだ。せめてその光だけでも遮ろうと、閉じたまぶたに力を入れる。そんなことをしたところで何かが変わるわけでもないけれど。
「……?」
変わるわけではない、そう思っていた。けれどまぶたを通り越して訪れていた日の光が急に弱くなる。目の上に感じる暖かいそれはアベンチュリンのものではなく、そして人の手だった。アベンチュリン以外の誰かの手が、その光を遮ってくれているのだ。
「……おそらく貧血だ。君でも飲めそうなものを持ってきているが、起き上がれそうか」
あたたかい、まるで耳朶の奥の方を揺らすような声。じぃんと響いたそれは気を使っているのか酷くささやかで、けれど聞き取りやすいはっきりとしたもの。
「小さい子供だなって、思ってたのにな」
「僕らはある程度なら姿を変えられる。昨日は酷い飢餓状態だったせいでこの姿を保てていなかっただけだ」
「じゃあ君の本当の姿は昨日の姿、ってことにはならないのかい? その大きさでいるのに体力が必要なら、それは自然体じゃないってことだろう」
「……減らず口がきけるなら問題なさそうだな」
「あは……いや、さすがに起き上がれないかも」
ねぇ、起こしてよ。離れていった手と開けた視界。窓からの光を遮るようにそこに座っていた彼を見上げて、そんなことを言う。甘いにおいが、する。サイドデスクには湯気をたてるマグカップが置いてあったから、においのもとはそれだろう。
「僕は君の血を飲んだ吸血鬼だぞ。よくもまぁ、僕の手を借りようなどと思えたものだ」
「君にその気があるなら、僕はとっくに慰みものになってたんじゃないのかい?」
美しい一人の男が、いた。アベンチュリンよりも一回り以上大きな体躯、筋肉質な手。葉のような髪飾りは昨日も見た記憶がある。そうでなくとも、彼が昨夜の子供であるという事を疑ってなどいないのだけれど。
背中を支えられながら手渡されたココアは、自分で作るよりも甘かった。砂糖って高いのに。でももう甘いものを欲しがる子供はいなくなったのだから、それをここに残しておいても意味はないのか。
「ま、最後に君の役に立てたならよかったかな」
「……は? おい、どういう、」
怪訝そうな低い声は、外からの音によって遮られた。どんどんどん、と力任せに扉を叩く音。教会の扉に鍵はないから、この部屋のすぐ目の前までやってきたのだろう。さて、会話を聞かれていないといいのだけれど。
「ここは三階だけど、君なら飛び降りれるだろう? 窓は鍵をふたつ外せば開くよ」
「っお、」
「静かに。聞こえたら困る……ほら、行って」
どんどんどん。扉を叩く音は次第に強く、速くなって、その人の気の短さを表すようだった。まぁそれが目的で子供たちの引き取り先を斡旋していたのだから、こうなることは予想通りでもある。福祉だけで成り立つこの教会の、守るべき子供たち。その子供がいなくなれば残るのはアベンチュリンただ一人だ。そして、役割を終えたこの場所を取り壊したって、そこにいた神父が一人いなくなったって、街の人々は気にしたりなんかしない。
「君はっ」
「早く。……ちょっとまって、今開けるよ」
ベッドの下に足を下ろせば、その冷たさが脳を揺らす。立ち上がれるだろうか。立ち上がらなければ。あの甘ったるいココアが最後の晩餐だと考えれば悪くないだろう。この扉の先で待つ彼らがアベンチュリンをどう扱いたいのかなんて目を見れば分かる。
「さっきまで寝てたんだ、悪いね。……あぁ、君たちで『味見』でもするかい? 売り込むにも、『具合』は確認しておく必要があるんだろう?」
背中に冷たい風が当たる。窓が開かれたのだ。つまり彼は、アベンチュリンの言葉に従ってくれたということだろう。よかった。たまたまこの教会の前で倒れていたというだけで、たまたまここまで運び込んでしまったというだけで、こんな人のいざこざに巻き込むのは申し訳ないから。
目の前の男が、男たちが、欲を孕んだ目でにたりと笑う。気持ち悪いなぁ。そういう用途でしか見られていない。人であろうと吸血鬼であろうと、結局この身体は捕食される側にしかならないのだろう。血を抜かれながら蹂躙されるよりはただ蹂躙されるだけの方がましだ。だからあの頃と比べるまでもない。大丈夫。耐えてさえいれば衣食住くらいは保障される。
でも彼は。昨日の彼は、同じような目をしていたのに嫌悪感がなかったな。飢えているだろうにその本能に抗おうと必死で、でも抗えなくて、苦しそうにこの指をしゃぶっていた。人を組み伏せるのなんて彼らからしたら簡単なはずなのにそれをしなかった。全て飲み干してしまえばいいのにそれをしなかった。ほっとけばいいのに朝までここにいて、教会の中を歩き回って見つけたのかココアまで準備して。
汗で湿った手のひらに掴まれた。ぬるりとしたそれが気持ち悪くて、そこから汚れていくように思えてしまう。別に抗おうとは思わないけれど。彼の手はあたたかくて、優しくて。あぁ、名前くらいは聞いておけばよかったかもしれない。
「失礼」
「っ、?」
「保護してもらいたいのだが」
そんな彼らの入ってきた扉の、その先。そこから声が聞こえた。さっきまで聞いていたものと比べれば明らかに高いのに、同じ声音のそれ。つまりはその声の主はさっきまでこの部屋にいた彼で、昨夜ここに寝かせた彼、で。
「行く場がないんだ。ここなら、子供を保護してもらえると聞いた」
「は、」
アベンチュリンを囲んでいた男たちがその子供に向き合って、まるで言い聞かせるように言葉を紡ぐ。いい子だからお家にお帰り、ご両親が心配しているよ。そんな言葉には耳を傾けることもせず、一切動じることもないままに彼はこちらへとただ歩み寄ってくる。
「君が神父だろう? ここにおいて欲しい」
駄目だろうか。小さな子供だ。この教会で保護するに相応しい年端のいかない子供。彼が振り返ればそれを見ていた男たちがびくりと身体を震わせて、しかし蛇に睨まれた蛙の如く動けなくなって。
「……申し訳ないけど、まだここでの仕事を続ける必要があるみたいだ」
男たちは恐怖と苛立ちの合間で、ただその口を震わせていた。
「で、なんで戻ってきたのかな」
「助かったのは君のはずだが」
「どうだろうね。ここにいて君の食事になるより、彼らと一緒に街まで出たほうが幸せだったかもしれないだろう」
「本気で言っているのなら、君の人を見る目の無さには目を瞠るものがあるな」
二人きりになった部屋の中で、小さな彼に問いかける。減らず口はどちらだろう。小さい彼から出てくる言葉が見た目にそぐわなくて、だから何だか腹が立つ。大きな彼の説教じみた言葉であれば素直に受け取れそうなのに。
「ずっと目をつけられているのか」
「……まぁね。でもそれで子供たちの行く先が決まりやすいのも確かだから、一概に悪いことばかりじゃないよ」
「今後娼婦の真似事ばかりをやらされることになってもか?」
「どこが天国でどこが地獄かなんて、行ってみないと分からないだろ」
「……彼らのことは噂程度でなら聞いているが」
まともな娼婦、もとい店になど行くことはできないぞ。そう言われて、まぁそうだろうなと思った。分かっている。彼らにまともな感性など残っていないということを。きっと最低限の衣食住だけがあって、あとはずっとこの身体を暴かれ続けるのだろう。誰かの慰みものになって、誰かの道具になって、人ですらなくなって。そうやって死んでいく。
「それなら、君の餌になる方がましなのかもね」
小さな彼の、そのきれいなかんばせに皺が寄る。けれども言葉は飛んでこない。実際に昨日はこの血を飲んでいるのだから反論できないのだろう。それに事実として、吸血鬼であるのなら血は必要不可欠だろうし。
「……確かに人のことを『餌』としか認識せず、飼い殺すような吸血鬼もいる」
「? うん」
「だが僕は、人の血は人のものであり、僕らはただ施してもらっているだけだと考えている」
「……は、」
赤色がまたたく。強い意志をもったそれが交わって、絡んで、だから逸らせない。子供の姿になったせいでさっきよりも丸く大きくなった瞳が、それでもその色の濃さを残した瞳が。
「血を分け与えてくれた君を、僕は守りたいと思った」
なんだ、それ。庇護欲、加護欲だろうか。吸血鬼ってそんなものを持っているのか。面倒で腹が立つ種族だ。結局、人であるアベンチュリンにはそれに抗う術なんてないというのに。
「先に言っておくが、別に好意の押し付けをしたいわけじゃない。ただ先ほどの男たちを退けるためには有用だろう。君はおそらく、バカではない。なら」
僕をうまく使ってみせろ。こちらの心情を読み取ったかのような言葉に、今度はアベンチュリンが瞳を瞬かせる番だった。吸血鬼が、使えと言った。人であるアベンチュリンに対して己を道具のように扱えと、しかしまるで見定めるように。ふてぶてしさが滲んでいる。なのに小さな彼というのがあまりにもちぐはぐで。
「ふ、」
「? 何、」
「あっはは!」
だから耐えきれなくなった。今まで見てきた子供たちに重なってしまったのだ。吸血鬼は人より寿命が長い。大きな彼の姿も見ているし、きっと彼はアベンチュリンよりも年上だろう。なのに、まるで小さな子たちが必死に背伸びをしている様と重なってしまったのだ。吸血鬼なのに。分かっているのに。
「じゃあ、お言葉に甘えて使わせてもらおうかな? そうしろって言ったのは君なんだから」
「ふん。お手並み拝見とでも言っておこうか」
「ならさ、」
まずは自己紹介から始めようよ。そう言って笑えば今更それに気が付いたのか、美しいかんばせを持った吸血鬼は赤を瞬かせた。そしてまるでお手本の如く、その美しい名前を言葉に乗せる。きっと、二度と忘れることはない音だ。アベンチュリンはそんなことを思いながらも、何の願いも宿らない石の名前を彼に告げる。
それが彼との、大きくて小さい吸血鬼との、不器用で不格好な二人の、出会いの話である。