プロメテウス その日は御影先生の誕生日で。だから私は毎年恒例のプレゼントを、ウキウキと用意した。
しかし困ったことに、今、私は、それを気軽に渡せる立場にいない。はば学を昨年、卒業してしまったからだ。
わざわざ会いに行く? もちろんそれはやぶさかではない。でも、一人で? ただの元・教え子が?
少し敷居が高いと感じた私は、親友たちを巻き込もうとした。
夜ノ介くんと、一紀くん。しかし彼らの返答は、冷たくそっけないものだった。
公演の準備があるから、バイトとテスト勉強があるから。そんな塩対応。
「お世話になった先生なのに!」と責めれば、「また来週、遊ぶ約束してるじゃないですか」とか「僕は学校で会えるし」とか、言い返された。
メッセージアプリのグループ会話で、私はギャンギャン吠える。
「でも五月二十五日は、先生の誕生日なんだよ! 年に一度の大事な日なんだよ!」
そう訴えても、二人はピンと来ない様子だった。
「……もしかして夜ノ介くんたち、今まで先生の誕生日を祝ったことないの? プレゼント、渡したりとか」
「ありませんね」
「ないね」
この温度差……! 愕然とする私に、夜ノ介くんは苦笑交じりに言った。
「男なんてそんなもんですよ」
「そうそう」
一紀くんまで賛同して。私は納得がいかず、唸ったが……。
でも、ちょっと羨ましい。
私も彼らと同じ男の子だったら、御影先生のことを、ただ純粋に慕うことができたのだろう。
先生のことを常に想い続け、久しぶりに会えた日は心を踊らせ、そのくせ「なにか変なことを言わなかったか、しなかったか」とオロオロ心配して。会えない日々は寂しく、くだらないメッセージを送りそうになる自分を律して。
そんな苦しい毎日を、送らなくていいのだろう――。
結局、私は諦めきれず、五月二十五日の夕方、家を出た。
御影先生のご自宅は、夜ノ介くんたちと遊びに行ったことがあるから、どこにあるか知っている。プレゼントを、ただ郵便受けにそっと置いてくればいいだろう。
先生のおうちに行くには、繁華街を突っ切っていけば近道だ。
夏が近くなって、人出が増えた街並みを早足で歩く。夕日に染まって趣を変えていくビル群を、視界の先に据えて進めば、見慣れた背の高い人影を見つけた。
まさしく、本日誕生日を迎える――そして私がこれから贈りものを届けようとしている、御影先生その人だった。
先生は人が溢れかえる歩行者天国の端に寄り、誰かと向かい合って立っている。
――女の人だ。
センスのいい服装をした、髪の長い、恐らく先生と同性代の美しい女性だった。
――胸がギュッと締めつけられて、私は息ができなくなる。
こんなの、別に不思議なことじゃない。十分、想定しておくべき事態だった。
だってあんなに格好良くて、温厚篤実な先生が、恋人がいないなんてそっちのほうがおかしい。
だけど私は、その可能性を必死に排除して――。
見ないふりをして、考えないようにして、私たちだけの先生だって思い込もうとしていた。
私はみっともなくも建物の陰に隠れて、御影先生と女性の様子を覗き見た。
せっかくの誕生日だもの、きっと二人で過ごすのだろう。そう思っていたが、二人は手を振り合って、あっさりと別れてしまった。
女性は駅に向かうのか、私がいる方向へ。先生は女性とは逆の、ご自宅の方向へ歩き出した。
私はしばし迷って――でも踏ん切りをつけるいいチャンスだと思い、先生に声をかけた。
「御影先生!」
「!」
いきなり背後から現れた私に驚き、振り向いた先生は目を丸くしていたが、すぐににっこり微笑んでくれた。
「よう、真面目ちゃん。偶然だな」
「さっきの人、恋人ですか……」
腹芸のできない私は、単刀直入に攻め込む。先生はまたびっくりした顔をして、頭を搔いた。
「参ったな。変なとこ、見られちまった」
「す、すみません。踏み込んだこと、聞いちゃって……」
私は急に恥ずかしくなって、下を向いた。
通行の邪魔になるとの配慮からか、先生は私の肩に手をやって、私を道の端に寄せた。
「あの人はそういうんじゃねえよ。それにさっき振られたとこ」
御影先生の返答に、今度は私が首を傾げる。
「誕生日なのに……?」
先生は否定したけれど、「振られた」ってことは、きっとそれなりに親しい間柄なわけで。それなのに誕生日なんて大切な日に、わざわざ別れなくたって……と、私は思うのだが。
しかし御影先生はきょとんとしている。
「誕生日? あっ、今日、俺の誕生日か!」
「……………」
まったく私の周りの男たちときたら。
イベントごとに無頓着すぎない?
「いや、はば学にお前がいた頃は、わざわざ祝いに来てくれたから、把握してたけどよ。それがなけりゃ、別に……。この歳にもなれば、たいしてめでたくもねえし?」
「そんなこと! 五月二十五日は、大事な大事な日ですよ!」
私が力説すると、先生は「別に偉人じゃねえんだから」と吹き出した。
先ほどの疑問が、私の中で燻ったままだ。さっきのあの女の人は――。
「ああ、お互いの誕生日も知らねえ。あの人は、セフレだからな」
落ちかけた陽を背負って微笑む御影先生は、先生だけど先生じゃないみたい。知らない男の人のようだった。
「――セフレ?」
セフレってなんだっけ。知っている単語のはずなのに、耳と脳みその間の回路が塞がってしまったみたいで、理解ができない。
御影先生はご丁寧にも言い換えてくれた。
「そ。ヤリ友」
「………………………………………………!」
私は絶句してしまう。
セフレ。ヤリ友。いやらしいことをするためのお友達。
先生にそんな相手がいるなんて。
――ていうか、そんな馬鹿な。
先生みたいな全てにおいて恵まれた人ならば、愛に溢れた毎日を送っていなければダメだ。そんな乾いた、冷たい、不道徳な生活を送っているなんて――! きっと神様は許さない!
「そんなの良くない!」
一人でいきり立つ私の反応をどう受け取ったのか、先生は眉をハの字に曲げると、歩道の入り口の、車両侵入防止のアーチに腰掛けた。
「悪い。元・教え子に言うようなことじゃなかったな。――幻滅したか?」
「いいえ……」
驚いただけ。がっかりなんてしてない。むしろ、先生にもそういう――なんというか、男性としての欲望があったなんて新鮮で、私はむしろ嬉しかった。
――でも、セフレとか、そういうのはダメだ。ちゃんと御影先生のことを想っている女性と、愛ある行為をして欲しい。
「そろそろ帰るか。送っていこうか?」
金属製のアーチから腰を上げた先生の、カットソーの袖に、私は手を伸ばした。
「じゃあ、先生、しそこねたんですね。そ、その……エッチなこと」
「まあ……。って、お前、真面目ちゃんらしからぬ、スゴイことを言うな?」
「なら、私とするのはどうですか……」
恥ずかしくて、私は先生の顔を正視することができない。
色気はないけれど、私なら先生のことを想っている。「世界の誰よりもあなたを愛している」と、胸を張って言えるもの。
だけど先生は、低い声で私を諌めた。
「おい……。そういうこと言うなよ。自分を大切にしなさい。親御さんが悲しむだろ」
「さっきの女の人にだって、親はいたと思いますけど」
「……そういう切り返しができるとこ、お前、ほんとに賢いんだよなあ」
御影先生は、ふうと大きなため息をついた。
――断られるかと思った。
だけど先生は私の耳元に唇を寄せ、囁いた。
「ホテルと俺んちと、どっちがいい?」
私はごくっとつばを飲み込み、「先生のおうちに行きたいです」と、途切れ途切れにもなんとか答えたのだった。
十分ほど歩いて、何度か通ったことのある御影先生のお部屋に着いた。よく手入れされた植物たちが迎えてくれる。
整理整頓された室内に漂う、清涼感のある香り。そこにふと混ざるのは、柚子のそれだ。先生が好きなルームフレグランスだとかで、なんだか可愛いと思ってしまう。
靴を脱いで、先生のご自宅に一歩足を踏み入れたところで、後ろから抱き締められた。
ああ、いよいよ……。そう思うと、私の手足は情けないことに、雪山で遭難したかのようにガタガタと震えてしまう。
「怯えてるじゃんか」
「これは、む、武者震いですから……!」
先生は後ろでくすくす笑っている。
でも、御影先生に近づける、せっかくのチャンスなんだもの。絶対にこの機を逃したくない……!
「私、全然平気ですから! 経験はないけど、ガッツでカバーしますし!」
「おー。真面目ちゃんは、こんなところでも発揮されるのか」
私は前に回された先生の手を、恐る恐る握った。
「あ、遊びでいいんです……! よ、欲求不満の解消とかでも。なんでもいいから……!」
「……………」
先生は私の体の向きを、ぐるっと反転させた。
「俺は最低だな。お前にそんなことを言わせて」
二人で見詰め合えば、先生の表情も声も、なんだかとても疲れているようだった。
「でも……。いつか俺たちは、こういう関係になるんじゃないかって、気がしてた……」
憂いを帯びた美しい、彼の紫の瞳を見上げていると、はば学生だった頃、親友のひかるちゃんが休み時間、机にぐったり伏していたときのことを思い出す。
『いつも元気なひかるじゃなきゃ、いけないの?』
もしかしたら御影先生だって、いつも明るく元気な頼れるアニキでは、いられないことだってあるのかもしれない。
子供だって色々あるのに、ましてや彼は大人だもの。
「……………」
御影先生はなにか言いたげな顔をして、口を開き――。だがまた、引き結んだ。
そしてニッと、イタズラを企んでいるときのように唇の端を上げる。
「俺な、がっつくタイプなんだ。だから、途中でやめられねえから。――許してくれよ?」
そしてちゅっと私と唇を重ね、私が怯んでいると、彼はもう一度、私に口づけた。
先生の大きな舌が入り込んできて、私の舌を絡め取り、口の中全体を舐めていく。
「あ、う……っ」
「小せえ、口と舌……」
くすぐったくて、だけど首の後ろのあたりにぞわぞわと鳥肌が立って。
思わず先生をどけようと、彼の分厚い胸を突っ張ってしまう。だけどすぐ私の手からは力が抜け、逆に先生にしがみついてしまった。
「ベッド行くか。今日は寝具、まるっと干したから、ふかふかだぞ?」
そう言って御影先生は、私を安心させるように笑ってくれた。
どうして、正直に言ってしまったのか。
よりによって、こいつに。自分が爛れた人間である、と。
――そろそろ限界だったのかもしれない。
「彼女」とは確か、友人に誘われた合コンで知り合った。
ノリが良く、頭のいい女性で、体の相性も悪くなかった。
だから、三回ほど寝ただろうか。
そして今日、「結婚が決まったから」と振られたのだ。
「そうなんだ、おめでとう」と俺が祝福すると、彼女は意地悪い笑みを浮かべながら、俺の顔を下からぐっと舐めるように覗き込んだ。
「御影っち、エッチも上手だったけど、なーんかいつも心ここにあらずで。優しいけど、本当は冷たい人なんじゃない?」
俺はなにも言えず、苦笑する。
「あなた、誰かを本気で愛したことあるの?」
――あるよ。
なにもかも燃やし尽くし、強大な熱を放つ炎は、別のところへ。
ひっそりと誰にも見られないように隠して、暴かれるそのときを待っている。
予想していたよりずっと、気持ちが良かった。――なんて、はしたないだろうか。
まさに、夢のようなひととき。そりゃあ痛かったけど、先生は優しくて情熱的で。彼が私にしたことをひとつひとつ思い出すだけで、恥ずかしくて嬉しくて、デレデレと顔が緩む。
「体は大丈夫か? 痛くないか?」
天井をぼんやり眺めている私の横で、御影先生は腹ばいになって、気づかわしげに私の様子を伺っている。
間近で見る、彼の美貌の破壊力ときたら……!
長い睫毛に、すっと通った高い鼻。唇は大きく形良く、目は切れ長で、透き通るような紫の瞳をしている。
こんな顔面偏差値の高い人と、あんなことをしてしまったなんて……! 分不相応な気がして、自分が不甲斐なく、私は御影先生と距離を取ろうとする。
が、ベッドの上だから、それもたかが知れているわけで。先生はあっさり私を捕まえ、ぎゅっと胸に閉じ込めた。
「なんで逃げるんだよ~。お前、俺の体が目当てだったのか? ヒドイ奴め」
「ち、違いますっ!」
「そういえば、お前、なんであんなところにいたんだ? なにか用事だったんじゃないか?」
「あ」
あんなところとは、先生と遭遇した繁華街のことだろう。
私は御影先生の広い胸の中からなんとか這い出ると、ベッドの上に放り出されていたシャツを羽織った。そしてベッドの横のミニテーブルに置いておいた紙袋を取って、先生に渡す。
「誕生日プレセントをお届けに行くつもりだったんです」
「おおっ、ありがとな!」
御影先生は紙袋の中の小さな箱を、丁寧に開けた。
ダンザナイトのカフスボタン。私が選んだプレゼントは、先生の瞳の色と同じ紫の石が嵌め込まれた、それだった。
「おー、いいなあ! やっぱりお前、センスいいな」
先生は目を細め、とても喜んでくれた。カフスボタンを摘み、上から下から斜めからじっくり眺め回したあと、先生は横に座った私の腕を取った。そのままずりずりと、私をベッドに引きずり込む。
「あ、ちょ……っ」
御影先生は私からの贈りものを恭しくベッドヘッドの上へ飾ると、私を抱き締めた。額に頬に、先生の唇が下りてくる。
「あの、これじゃ、恋人みたい……!」
「みたいじゃなくて、そうだろ? 違うのか? やっぱりお前、俺の体が目当てだったのか?」
「えっ」
私は硬直してしまう。
「だ、だって……!」
「こんなチャンスに、俺がお前をセフレなんかにするわけないだろ。本命なんだからな。一回だけで済むと思うな?」
「!」
なんとか暴れて体を離すと、私は先生の目を見上げた。
「本命とか――! だったら、なんでもっと早く……!」
つい詰問調になってしまう。
だって御影先生と二人きりで出掛けるたび、私は引かれるほど、自身の恋心をアピールして。だけど先生のガードは固く、撃墜され続けていたのに。
それはまあ当時、教師と教え子だったからって理解はできるけれど、もし本当に私のことが好きだったのなら、卒業したらすぐ、私の気持ちを受け入れてくれたって良かったのでは。
御影先生は私の疑問と不満を察したのか、困ったように微笑んだ。
「今回のことで、分かったと思うけど。俺はお前たちに慕ってもらえるような、いい教師じゃねえんだ」
お人好しで、気配りができる。誰にでも優しく、友達のように接する。
万人を正しい道へ導くことのできる、素晴らしいセンセイ――。
「はば学でそう振る舞っているあれが、自分ではないとは言わない。が、それは一部であって、本当の俺はもっと利己的で冷たく、エゴイストなんだ」
「そんな……」
「あれは、俺の理想だよ。そしてお前たちが『先生』と呼んで懐いてくれると、正しい教師だと認められている気がして、それが心地良かった。だから、もうちょっと味わっていたくてな……」
「ごめんなさい……」
つまり、自分の欲望をぶつけて、彼を倫理に則った美しい教師の座から追いやったのは私なのだ。
先生は私の頬にそっと手を置いた。
「いーや、謝ることはない。もうギリギリでな~。『羊の皮をかぶった狼』。その皮を剥がされるときを待ってた」
御影先生は私の耳朶を噛みながら、囁きを注ぎ込んだ。鼓膜を甘く震わされて、私はぼうっとしてしまう。
「昔話なんかにあるだろ? 『正体を知られたからには帰さない』ってな。――つまり、お前はもう俺のものだ」
「えぇ……」
ようやく最愛の人を捕まえることができた。
だけど、捕まったのは私のほうかもしれない。
先生は私が着たシャツを再び肩から抜いた。全身を這う彼の指先、舌先から毒が染み込んでいくように、私は痺れ、動けなくなっていく――。
「――素敵な誕生日プレゼント、ありがとうな?」
彼がどんな顔をしているのか。人懐こく笑っているのか、それとも冷酷に微笑んでいるのか。
それを確かめる余裕は、私にはもうなくなっていた。
~ 終 ~