「噛む」という病 野良作業がひと区切りついたところで立ち上がり、柔らかい土のうえで踏ん張って、背を反らした。畑や花壇をいじるのはもちろん好きだが、作業中しゃがんだり中腰になったりの、これらの姿勢に慣れることはないだろう。足腰がつれえ……。
半泣きになりながら軍手を外し、近くの地面に直置きしていた水筒を取る。金属のボトルの硬い表面にふれた瞬間、ピリッとした痛みが走り、つい声を上げてしまった。
「ってぇ……」
傍らで雑草を抜いていた、我が園芸部の女子部員――小波 美奈子が振り返り、眉根を寄せた。
「どうしました? 切っちゃいました?」
「いや、ちょっとな。深爪しちまったとこが痛んだだけだ」
美奈子はすっくと立ち、そしてやっぱり先ほどの俺と同じように、腰を後ろに曲げた。うんうん、つれえよなあ。
「うう……。きっつう……」
軽く呻いたあと唇を引き結ぶ、その顔が可愛い。固まってしまったらしいあちこちの筋を、軽く伸ばしてから近づいてきた美奈子は、俺の手元をひょいと覗き込んだ。
縮まった距離に戸惑い、俺は肉食獣を前にした小動物のように、そうっと一歩下がる。そんな惨めな後ずさりに、美奈子が気づいたかどうかは分からなかった。
「軍手されてたからキレイでしょうけど、念のため、水で流しましょうか」
美奈子は如雨露を持ち、俺の指先に向けて傾けた。そのあとジャージのポケットから清潔なハンドタオルを取り出し、丁寧に拭いてくれる。
「お、おい……」
手と手がふれ合い、こんなところを誰かに見られたら誤解されるんじゃないか。特に氷室教頭あたりに見つかったら、命が危険だ……と肝を冷やすが、美奈子は淡々と俺の世話を焼いてくれる。こいつのほうが大人なんだよなあ……。
心中にやましいところがないから、冷静な対処ができるのだろう。
それに引き換え俺の内側には、邪念や煩悩ばかりが渦巻いている。
例えばさ、俺の手を心配そうに観察する美奈子の、長いまつ毛に縁取られた目……。めちゃめちゃ綺麗じゃん。つい見惚れてしまってから、すぐに視線を逸らした。
「はい。これで痛くないと思います」
そう言われて、自分の指に視線を戻せば、爪の間を覆うように縦向きに絆創膏が貼られていた。
「ああ、ありがとな」
女の子らしい細やかな気遣いに、胸が温かくなる。笑みをこぼすと、美奈子も微笑んでくれた。
「痛そうでしたね……。爪、切り過ぎちゃいました?」
「んー。でも、ま、男の爪は短いほうがいいし」
言ったあと、しまったと思った。気が緩んでいたせいか、下ネタのようなことを言ってしまったかもしれない。いや、ギリギリセーフ……か?
「女子は伸ばしがちですもんね。爪のおしゃれもしたいから。短いほうが清潔だとは思うんですが、つい」
「あ、ああ」
しどろもどろで相槌を打ちながら、ほっと胸を撫で下ろす。
絶対に意味が通じていないがゆえの、美奈子の笑顔。その輝きが刃となって、俺の胸に突き刺さる。すみませんでしたぁ……。
「――お大事になさってくださいね」
「……っ!」
美奈子は最後に俺の手を、軽く緩く絶妙な力加減で包み込むように握ると、すぐにパッと離れてしまった。少し距離を取り、黙ってじっと俺の目を見詰めている。
俺がなにも言わず――言えず、立ち尽くしていると、美奈子は少し寂しそうに笑ってから背中を向け、地面にしゃがみ込んだ。そしてスコップを持ち、さくさくと小気味好い音を立てながら土を掘り始める。
頭が良くて、親切で、物わかりが良すぎる。俺の大事な大事な真面目ちゃん。
ずっと年下の彼女に、俺は本気で惚れている。――なかなか気持ち悪いだろ?
恋愛は自由だ。倫理的なことを置いておけば、確かにそのとおりだろう。
だが俺は、自分の気持ちを美奈子に伝えることに躊躇している。あいつがまだ在学中で、俺の受け持ちの生徒だからというのもあるが、それよりも――。
――俺が俺自身を、誇れるような男だと思っていないから。理由はそれに尽きる。
親に言われるがままの人生を歩み、結果、大事な青春時代にぽっかり空虚な穴を空けてしまった。それをどうしても埋めたくて教職に就き、生徒たちを指導するという名目で、彼らを通じ、追体験している。
職業倫理にも悖るし、なにより情けない。こんな俺が、美奈子のような素晴らしい女の子にふさわしいわけ、ないだろう。
ああ、じめじめと鬱陶しい。なんて暗いんだ……と改めて見回してみれば、辺りの諸々の影が普通に伸びている。腕時計を確かめれば、もうじき日没の時刻だった。
「暗くなるの早くなったなあ。おーい、今日はそろそろおしまいにしよう」
そう声を掛けると、部員たちから「はーい」と返ってくる。後片付けを始めた彼らを見守りながら、無意識に引き寄せていたらしい親指が唇に当たった。いつもと違う感触のせいで、我に返る。
そうだ、絆創膏。美奈子が俺のために巻いてくれた――。
俺は周りに聞こえないよう小さく舌打ちし、腕を下ろした。
みっともないからと矯正した咬爪癖が、再び出始めたのは、最近のことだ。
爪を噛むというこの癖の原因は、ストレスだとかプレッシャーがかかり過ぎているからとか言われているそうだが、どうもピンとこない。そりゃあ毎日毎日某教頭に叱られ、親からは早く実家に帰ってこいと催促され、確かにメンタルにはそれなりの負荷はかかっているだろうが、だからってそれが困った症状として外に出るほど、追い詰められている実感がないからだ。
まあ心のありようというのは複雑怪奇だから、いくら自分のことといえど、隅々まで理解できているとは言い切れないが。
園芸部の面々が部室に引っ込むのを見届けてから、俺はひとり理科準備室に戻った。
椅子に腰掛け、机の上に手を置くと、散々かじったせいでデコボコになった爪を眺め、ため息をつく。
かっこ悪ぃなあ……。
「美奈子……」
親指を立て、あいつに巻いてもらった絆創膏をなんとなく撫でていたところで、ドアがノックされた。なにか恥ずかしいことをしていた現場に踏み込まれた気がして、焦り、声が裏返る。
「ど、どうぞぉ!」
「失礼します」
滑るように静かに入ってきたのは、制服に着替えた美奈子だった。手には、ノートの束を抱えている。
俺が顧問を務める園芸部は、外での活動を終えたあと、部室にて日誌をしたため、提出することになっている。そして彼らが書いたそれを読むのが、俺の大いなる楽しみなのだ。
「おお、ご苦労さん」
椅子から立ち上がった俺に向かって、美奈子はゆっくり歩み寄り、日誌を渡してくれた。そしてそのままなにか言いたげに、俺の顔を見上げている。
「ん? どうした?」
「……………」
しばらく黙り込んだあと、意を決したような表情と勢いで彼女は言った。
「あのっ……! 青春を謳歌するって、あれ……。先生はもう、満足しちゃったんですか……!?」
「え」
「さ、最近、その……。声が、かからないなって……」
「あー……」
とっさに答えられず、俺はへらっと情けなく苦笑する。
『俺にとって未知なる「青春」ってものを体験したいから、つき合ってくれるか?』
そんな馬鹿げた誘い文句で、何度も連れ回した。美奈子が言っているのはそのことだろう。
最後にこいつと出掛けたのは、もう二ヶ月前になるか。
「いや、ほら……。おまえももう三年生だし、受験勉強しないとだろ? 俺の都合で時間を潰させるのも、申し訳ないと思ってな」
「……………」
取ってつけたような言い訳を、敏いこいつが信じるわけがない。美奈子は小さな眉間に、よりシワを増やした。
――本当に勝手だよな。誘ったのは俺からだし、放り出すのも俺からなんて。
だけどもう、これ以上はダメだ。俺の想いが強く深くなり過ぎて、戻れなくなっちまう。
おまえに俺のような男はふさわしくないんだ。だから、離れるのが正しい。
「私……は、先生とお出かけしたいです……。勉強もしっかりします。大学にも絶対受かるよう頑張ります……。だから……」
泣くのをこらえているのか、美奈子は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。そんな風に痛々しく懇願するほど、俺なんかに価値はないのに。
「そんな重たく考えるなよ~。おまえは本当に真面目ちゃんだな。無事受験が終わったら、そのときはみんなで遊びに行こうぜ」
「みんなで……ですか……?」
もう二人きりでは出掛けない。
俺の真意が伝わったのか、美奈子は俯いてしまう。
傷つけてしまった……。償いの意味をこめて、美奈子の頭の上に手を置き、ポンポンと撫でる。
「!」
一瞬驚いた顔をして、でも美奈子はすぐ気持ち良さそうに目を瞑り、力を抜く。子犬のようなその頭に乗せた俺の手は、彼女の愛らしさと比べて、あまりに醜かった。
自ら食いちぎった爪はボロボロで、その下の皮膚も青く変色している。よくもまあこんな手で、誰よりも大事なこいつにふれようだなんて――。
ふと、脳裏に閃くものがあった。
咬爪癖がぶり返したわけ。一般的に言われている原因への違和感。
なるほど、俺はただ噛みつきたかっただけか。
――代わり、に。
俺が歯を立て、めちゃくちゃにしたいものは別にあって、その代わりとして自分の爪を噛んでいるだけだ。
すなわち、俺は。
「美奈子……」
これからも揺らがず、正しい道を征く少女。
美しく可憐なその姿に、だが俺がむごたらしい傷痕をつけたら?
噛んで噛んで噛んで、砕いて砕いて砕いて。
完璧に整っていた彼女を、違うカタチに変えてしまうのだ。
――こんな風に。
俺は短くいびつになった、自分の爪を凝視した。
醜悪に壊れたおまえならば、俺にふさわしいだろう。
そうだ、俺たちは一緒にいられる――。
「先生……?」
不安げに俺を呼ぶ美奈子に、ゆっくりに指を伸ばす。――傷だらけの汚らしい指を。
美奈子は凍りついたように動かず、ただ澄んだ目で俺を見詰めている。
心臓がのたうつような鼓動を刻む。だが、俺の衝動は止まらない。
止まらない……。
唇が勝手に上下に開き、牙を剥き出して、そして。
――美奈子は、悲鳴を上げなかった。
太陽は完全に沈み、窓からの光が途絶える。
俺の根城である理科準備室は、夜の青い闇に沈んだ。
~ 終 ~