未定 リィン──リリィン────
ざわつく人々の声を鎮めるように鈴の音が鳴り響く。リィン、と鳴るごとに波紋が広がりあたりの音を消していく。鈴の音に続いて太鼓や笛の音が混ざり始めると列席者は自然と奥へと視線を向けた。空は雲もまばらだというのにパラパラと降り始めた雨が少しずつ、確実に地面の色を濃くしていく。並び立ついくつもの朱い鳥居を超えた先、色とりどり、模様も様々な狐面の人々が見つめる先。平安の世に着用されていた狩衣に袖を通し凛と美しく佇む真っ白な男がひとり。遮るものもない陽射しを反射して煌めく雨粒が彩る姿は神々しく、ただひとり狐面をつけていないその男は誰かを探して視線を巡らせた。
「それで?今度の喧嘩の理由は?」
バーのマスターの鬼一は後輩でもあり店の常連でもある道満にうんざりした顔で問う。広くもない店内で5席しかないカウンターの一番奥の席、大柄な体を支える椅子がギッと悲鳴をあげる。
夫婦喧嘩は犬も食わないとはよく言ったもので、夫婦ではないが鬼一の友人の道満ともうひとりは何度も関係をやり直している。理由を聞けばだいたいいつも些細なことで、最初は真面目に話を聞いていたが10回目を超えたあたりで莫迦らしくなり、真剣に話を聞くことも喧嘩が何度目か数えることもやめた。
今回もどうせくだらない理由だろうなと思った鬼一は、道満の体にピッタリとしたシャツのボタンが分厚い胸筋に押されているのをチラリと見て、弾け飛びそうだなぁ、とぼんやりと考えていた。そんな鬼一の視線に気付いていないのか、真面目に質問の回答を道満は注がれたグラスの酒をぐいと呷る。
「……莫迦に、されたのです」
空になったグラスの氷がカラリと音を立てる。下唇を噛み悔しげ眉間に皺を寄せた道満の顔を見て、おや?と思った鬼一は改めて話を聞く体制を整えた。先を促す視線に話すのを躊躇うように何度か口を開いては閉じてを繰り返す。水滴しか落ちてこない氷のみのグラスを再度口にして鬼一を見た。
「プロポーズを、されました」
「は?」
道満の口から出た言葉に己の耳を疑った。鬼一が知っているプロポーズをされた人間がする表情は喜びを溢れさせ周りにもその幸せを振りまくものだ。だが目の前の友人の顔は真逆でなにかを耐えるように眉間に皺を寄せている。とても幸せの絶頂には見えない。むしろ不幸のどん底である。
「それのどこが莫迦ににされているんだ?」
「付き合ってもない相手にプロポーズされたらおかしいと思うではないですか」
「それはそう……ん?今なんて言った⁉︎」
道満は突然前のめりになって声を荒げた鬼一に黒目を大きくする。
「プロポーズされたらおかしいと」
「いやいやそこじゃなくてだな!その前だ、前‼︎」
「ンンン?付き合ってない……」
「そこだ‼︎」
バンっとカウンターに手をついて体を乗り出し近寄ってきた鬼一から逃げるように道満は体を後ろに引く。そんなに食いつく話だったかと首を傾げていると鬼一はビッと人差し指を突き出してきた。
「おまえら付き合ってただろ⁉︎何度僕が痴話喧嘩を聞かされたと思ってるんだ」
「痴話喧嘩とはなんのことやらさっぱり。彼奴と付き合ったことなど一度もないですぞ」
先程までの苦しそうな表情とは一変してあっけらかんと衝撃の事実を話す道満に指した指先が震える。
「だっておまえら、体の関係あるだろ?」
「それはその、体の相性がいいからで……ええ、ただのセフレですぞ」
そう言ってまた暗い顔をする道満に鬼一は頭を抱えた。
「僕があいつから聞いてた話と違う。付き合っていると言ってたぞ、あいつは」
「はて。拙僧は一度も彼奴の口から告白や愛の言葉などといった甘言は聞いたことがありませぬ。別のお相手とのお話では?」
「っ〜〜〜わかった!ひとまず付き合ってなかったとしよう。なんで莫迦にされたってなるんだ。プロポーズされたんならそれは愛の言葉じゃないのか?」
普通の人よりも大きい手の中でカラカラと氷が弄ばれる。
「愛など、ありませぬよ。儂に向けられるのは上位者からの憐れみ。今回もそう。『私におまえを幸せにする権利をくれ』と。まるで今の儂が幸せではないようではないか」
「あ〜、それは言葉の取り方だと思うぞ〜?」
鬼一は視線を彷徨わせてチラリと足元を見た。
「それは真っ直ぐ受け取っていいんじゃないか?」
「一度もないのですぞ?その、愛、してる……とか、好き……とか。それで急に幸せにするとか、彼奴はいつも儂のことを憐れみの目で見て莫迦にしていたと思うのは当然でしょうや。どうせ共寝も拙僧ひとりが相性がいいと思っていただけで、特殊な体を憐れんで慈悲を与えられていただけかもしれませぬな」
再び空のグラスを煽り、わずかに溶けた水で熱く焼けるようにひりつく喉を冷やす。がくりと項垂れた友人の目に薄く涙の膜が張っているのを見逃さなかった鬼一はもう我慢できないと足元のなにかに蹴りを入れた。
「痛っ、ちょっとなにするんですか!」
「ン⁉︎今の声は……」
突然聞こえてきた姿の見えないが聞き覚えのある声にガバッと道満は顔をあげる。客席側と同じくあまりスペースのないカウンターの中で蹴りを入れたそれを鬼一がぐいっと引っ張り上げた。
「いい加減にしろよおまえら!毎回毎回話を聞かされて巻き込まれてる僕の身にもなれ‼︎」
ぽいっとカウンターから放り出された男、晴明に道満の目がカッと大きく見開かれる。
「晴明、殿」
いつからそこにいたのか、仕事帰りなのかスーツで鞄を抱えた格好で出てきたやたらと顔の良い男に動揺する。
「いいか、おまえら。一回ちゃんと話をしてこい。昔っから思ってはいたけど本当に会話がなさすぎる。特に晴明、言葉を端折るな。今のでわかっただろう?ちゃんとおまえの気持ちを全部言葉にしないとなんにも伝わらないぞ?道満もだ、おまえは卑下しすぎだ」
ぐいぐいと晴明と道満ふたりを店の外に追い出す。
「まだ支払いをしておりませぬ」
「今日は僕の奢りだ。ふたりで話ができるまでは入店禁止!」
カランカランとドアベルを響かせて閉じられた扉を晴明と道満は見つめる。閉じられた扉は開くことはないし、鬼一が入店禁止と言えば、問題が解決するまでは入れてもらえない。それは過去にも同じ対応をされたことのあるふたりはよく理解していた。そのため道満はまだ話をする気ではなかった男を目の前に一歩後退り、走り去ろうとする。
「待て!待ちなさい、道満‼︎」
道満よりも細い腕のどこにそんな力があるのか、反射的に捕まえられた腕を引く力と大量に飲んだ酒のせいでぐらりと体が傾ぐ。倒れそうになる体をさらに引いて晴明は自分の腕で抱き止めた。
「はっ、離しなされ」
予想外の展開にドッドッと心音が強く速い。それが密着した晴明に伝わっているかと思うと恥ずかしくて離れたくて踠くも晴明はびくともしない。