牢獄牢獄
重い足を引きずって、また今日も白い扉の前に立つ。本日の9桁のランダムセキュリティコードは、7が三つも続いてる。今日はラッキーかもしれないだなんて到底思えないが、こんなチンケな願掛けすらも少しの慰めになった。慣れた手つきでコードを入力し終わると、赤いフラッシュで撮影され、生体認証が行われる。こればかりは、何度やっても慣れないものだ。
「やあ、今日の調子はどうだい?」
椅子に腰掛け、テーブルにポツンと置かれたマイクをオンにする。なるべく明るい声を意識した。
政府所属の監査官である一文字則宗の問いは、マイクとスピーカーを通じて、透明なアクリルガラスの向こう側に投げかけられた。ガラスの向こうには10畳ほどの真っ白い空間が広がっている。
この部屋は一目見るだけでこの空間にある物は全て見渡せるようになっている。刑務所の牢獄と面会室が一緒くたになったような異様な部屋だ。白いベッド、椅子、テーブル、天気をランダムに映し出すだけのモニターと、浪人のような黒い装束に身を纏った男。刀剣男士として政府に顕現された孫六兼元である。
ここで仕事をするようになってから幾度となく見た顔なので、日々の変化としては顔色以外に見どころがない。今日の表情は明るくも暗くもないが、何も読み取れない表情というものが一番厄介である。
それにしても、則宗の問いかけに対する返答が無い。則宗は仕事のために持ち込んでいたタブレット端末から顔を上げた。
「……どうした?」
「アンタを見てた。人形みたいな綺麗な顔をしてるからな、見惚れてたのさ」
思わずどきりとするような声色がスピーカーから流れ出る。
孫六は顰めっ面で腕を組む則宗にニコリと笑顔を向けた。良く言えば好意的な、悪く言えば下心を感じさせる笑顔だ。則宗は眉間に皺を寄せて強く腕を組んだ。
「……うん。お前さんは、今日は随分と色男のようだ」
「別嬪さんに言われると照れるな」
孫六はまたニコリと微笑んだ。
画面に表示されているリアルタイムバイタルチェックの欄に目を向ける。体温、脈拍、血圧、呼吸数は全て正常の範囲内だ。ガックリと肩を落とす。しっかりとマイクをオフにしてから嘘つき野郎と呟いた。則宗の唇の動きを読み取ってなお、孫六の落ち着いた目元や口角はピクリとも動かない。つまりは警戒されている。
ため息を吐いてバイタルチェックから次のページへスワイプする。問診というタイトルの下に、多くの項目が並んでいる。
「さて、さっそく今日のチェックを始めようか。自分の名はわかるか?」
「孫六兼元。関の孫六と言えば、一際目立つ三本杉でお馴染みだな。乱世では日常使いだったから、アンタだって一度くらい使ったことがあるんじゃないか?」
「…………さてな。一応聞くが、僕の名はわかるか?」
「ん?アンタみたいな綺麗な顔、一度見たら忘れられない筈だがな。名乗ってもらえたら覚えるよ」
浅葱色の瞳にガラス越しに真っ直ぐに見つめられ、思わず目を逸らす。
どうして孫六兼元という刀はいつもいつも僕の心をみだりに掻き回してくるのか。綺麗だとかかわいいだとかでこの男を飾ったことは無いが、昔は妖艶だと思ったことがあった。それほどこの男の魅力と雰囲気は、ふとした時に則宗に突き刺さるのだ。今日の孫六のことも、しばらくは思い出してしまいそうだ。
「ああ、もう良い。今日のお前さんは大体わかった」
今日もこの大量のチェック欄を半分も埋められなさそうだ。この調子だとまた政府上層部からせっつかれるに違いない。事件の早期解決を望む政府の役人達は、毎回有益な情報を望んでいる。長引くオンライン会議というのは、どうして対面の時よりも大層ダルく感じるのだろうか。
「なあ、俺からの質問にも答えてくれないか?アンタだけ俺に質問できるだなんて不公平だろう」
不意に、孫六の背後にある窓型のモニターの天気がパッと曇天に切り替わった。せっかく天気を写し出すのなら、もっとシームレスに天候を移してくれれば良いのにとぼんやり思った。4パターンしか無い天候映像も、良い加減飽き飽きする。最も、この部屋の家主に飽きさせない工夫などは不要であるため、アップデートの予定もないのだが。
「あまり意味は無いが……まあ、良いだろう。何が聞きたい?」
肝心の孫六は、若干上の空になっていた則宗にも動じていない。椅子の背もたれに背中をどかりと預けると、悠々と語り始めた。
「一つ目。まず、俺は目が覚めたらこの牢獄みたいな部屋に居た。出口も本体である刀も無い。全部天井も床も家具も真っ白なのは、この部屋の使用者に精神的な負荷をかけるためだ。しかし、壁一面だけ透明で対話できる設備がある。つまり俺に負荷をかけつつ、記憶を消して無害化した俺相手に聞き出したいことがある。違うか?」
「ほお、なるほど。続けてくれ」
孫六の話に適当に相槌を打ちつつ、足を組んでその上でタブレットを抱え込んだ。少々はしたないが、どうせこの空間には孫六しかいないのでよくこの体勢でメモを取りがちだ。
「二つ目。俺の記憶は消されたというよりは膨張している。断片的な記憶の氾濫が起きていて、情報の整理ができない。今日も昨日も明日も無い。確かな記憶は刀の付喪神ということだけだ。今こうしている間もじわじわと自我が千切れそうになったり、何かを思い出しそうになっている。仕組みは分からないが、アンタたちは俺という存在を扱いきれなかったんだろう。無理矢理繋ぎ止められた俺の心と記憶はちぐはぐだ」
「おお、恐れ入った。大体合っているよ」
予想外の展開に、思わず顎を撫でて感心する。ベラベラと推論を述べる孫六は名探偵のようだ。ここまで思考に余裕と冷静さが残っている日も珍しいので、本日の特記欄にはこれを記録しておこう。タブレットにさらにペンを走らせる。
「そして三つ目。アンタは俺に何か個人的な感情がある。敵意とも好意とも言い切れないような複雑な感情だ。俺の顔なんて見たくもなさそうな割に、俺の表情や仕草を見逃さない。アンタ、俺を見て一喜一憂しすぎだ。仕事というにはあまり冷静じゃないな」
思わずメモを取る手が止まった。図星だった。これまでにも話のできる孫六だった日は極稀にあった。しかし、大概は不安定な自我を抑えるのことや溢れる記憶に必死で、ここまで『こちら側』を分析してくることは無かったはずだ。とんでもなく大当たりな日かもしれない。
どうにも落ち着かなくなって、リアルタイムバイタルチェック欄を見る。少々の変動はあれど、孫六の数値は以前正常値の範囲内だ。では、僕の数値はどうなのだろう。どこからかドクドクと心臓が波打つ音して、自分の緊張を自覚した。
いつの間にか、明るい浅葱色の瞳が静かにこちらを捉えている。ガラス越しといえど、獲物を見定める獣のような視線に、わずかに身構える。
「……して、結論は?」
「俺はアンタ達の組織に不都合を起こしたが、記憶が混濁しているため、無期限無限回の事情聴取で真っ白な牢獄で監禁されている。アンタは俺に何か一線を超えた感情があるが、俺から目を離したくないから辟易としつつも仕事としてここに来ている。だから……」
突然、孫六が立ち上がった。
「キスをしよう」
「………………は?」
何を言っているのか理解ができず、カラカラの喉からは音が出なかった。
見上げた孫六は先ほどとは違い、ゾッとするような笑顔だった。政府高官連続殺人事件の首謀者は、哀れみとも慈しみとも読み取れる物憂げな笑顔を浮かべ、ゆっくりとこちらに手を伸ばした。
一瞬、触れられると思ってその手を薙ぎ払った。何にも触れずに、振り下ろした手は空を切る。
ガチャンと大きな音がした。音の方向を見ると、則宗の腕から滑り落ちたタブレットとペンが床に散らばっていた。あんなに質問事項が載っていたはずのタブレット画面は、ひび割れて真っ暗に沈黙している。
「ほら、アンタも立ってくれ。座ったままじゃしにくいだろう?」
天井に取り付けられたスピーカーから、重く、甘い声が降って来る。
孫六はガラス越しに則宗の肩の位置にふわりと手を乗せた。つられて、則宗もフラフラと立ち上がると無意識にガラス越しに手を合わせた。自分で動かしているはずなのに、手足の感覚が無い。まるで孫六の声で操られているようだ。
何も言わずとも意思が通じたからなのか、孫六の目がふと緩んだ。
「あ…………」
孫六は反対側の手で、撫でるように則宗の頭の上に手を乗せる仕草をしてみせた。久しぶりに下から覗き込む穏やかな顔は、則宗が何百回と見てきたはずの意識が混濁した険しい顔では無く、かつて共に暮らしていた頃の孫六を彷彿とさせた。
あの頃は孫六に髪を撫ぜられたことなど無かったはずなのに、なぜだかその感触が恋しいと思ってしまう。もうあの頃の孫六には二度と会えないと、何度も泣いて理解していたはずなのに。
「顔、上げて」
「あ……ま、まて……」
「待てない」
孫六が則宗に合わせて屈んでいることに気づくと、則宗も少しだけ背伸びをし、ガラス越しにそっと唇を重ねた。目を閉じてみても、固いガラスの感触だった。なんの体温も感じない。
それでも、則宗は確かな高揚と興奮を感じた。こんな形でも、また孫六と心が通じること、恋人のような真似ができるとは思わなかった。
孫六の顔がゆっくりと離れても、絡め取られるような視線から目を離せなかった。はあと吐いた息が酷く熱っぽい。
「やっぱり何も感じないな……本当のアンタはどんな味なんだろうな?」
教えてくれないか、と自らの唇をフニフニと弄り続ける孫六の瞳は蕩けていた。則宗はごくりと生唾を飲んだ。
「鍵を開けてくれ。ここに囚われているのは俺だが、俺に囚われているのはアンタだ。俺が、アンタをここから連れ出してやる」
「…………っ、今度こそ、地獄まで連いて行くと約束してくれるか?」
孫六の瞳に映った自分は、酷く不安そうな顔をしていた。それを写す浅葱色の瞳は、今か今かと爛々と輝いている。
必死すぎてあまりにも滑稽だ。同じ顔で同じ声なだけで、かつての孫六兼元とは別人だというのに。この男にあの時の孫六を見出すことを辞められないでいる。
「勿論だ。二度と、アンタを置いては行かないと約束する。ずっと共に居ると誓おう」
甘くて優しい声に、則宗はそっと目を閉じた。
離れて見る孫六の笑顔は、最初と同じ様に、好意的で、嘘つきで、下心のある顔に戻っていた。それを見て、何故かほっとした。ああ、やはり、則宗がかつて好いていた孫六はもういないのだ。今目の前にいるのは、政府所属の則宗のかつての相棒では無く、色んな意識の混ざり合った犯罪者なのだ。
則宗は深く息を吐き、再び孫六に向き合った。
「わかった……いい加減に僕も、腹を括ろうか」
「ああ、そうだ。俺と一緒に行こう」
耳障りの良い言葉に乗せられ、則宗がセキュリティコードを呟くと、ガラスの壁が音を立ててゆっくりと床下に収納されて行った。
つづく