ファウ晶♂お題「夜遊び」 からん、からん、と金属が転がるような音がする。
真夜中の魔法舎に響く聞き慣れない音に、廊下を歩いていたファウストは静かに息をつめた。
からん、からん、と足音のような間隔を開けて、暗い廊下にこだまする。ミスラの呪物か、ムルの発明品か。
どちらにせよ放っておけば、子どもたちや魔力の弱い者に被害が及ぶかもしれない。見つけてしまったからには面倒だが見て見ぬ振りもできず、ファウストはさっさと片付けようと、音の後を追った。廊下や階段で反響して分かりにくいが、こちらに向かって来ているらしい。曲がり角の壁に身を潜めて、音を発する何かに気取られないように、気配を消した。
静かに魔道具を取り出して、耳を澄ます。
近づいてくる。それに比例して濃くなった柔らかい気配に、首を傾げた。
この気配は知っている。
「賢者?」
「うわぁっ!」
曲がり角から急に姿を現したファウストに、晶は飛び上がった。晶が抱えていたタライの中で、からん!と先ほどまで聞こえていた金属音が一際大きな音を立てた。
「一体、何をしているんだ。きみは」
「はぁっ……ファウスト、驚かさないでください」
泣きそうな顔の晶に謝りながら、ファウストは晶の体の幅より大きなタライを覗き込んだ。その中には、ほのかに光るガラスのペンが一本だけそのまま転がされていた。
微かに魔力を感じるが、悪いものではない。
「ルチルが貸してくれたんです」
ファウストが尋ねる前に、晶が笑って答える。
「水の中で字が書けるペンです。太陽の光を集めて、水面とか水の中に字が書けるみたいで。……俺が、最近中央の国に会議に出かけてて忙しそうだからって、楽しいもので癒されてくださいって貸してくれました」
それを聞きながら、最近、中庭にも食堂にも談話室にも、彼の笑い声がなかったことを思い出す。
(……中央の国へ行っていたのか)
人間と魔法使いの会議は、たとえ王子のアーサーがいても、酷い有様だったと珍しく辟易した様子のカインが漏らしていた。
そんな場に晒されて、責任感の強い晶が平気な訳がないだろう。
暗がりの中で笑う顔は、やつれて見えた。
「それで、どうしてこんな夜中に?」
「昼間にやったら、すごく綺麗だったんです。だから夜だったらもっと綺麗なんじゃって考えたんです。タライに水を張って、書いてみようかなぁって」
晶は、イタズラが途中で見つかった子どものように笑う。ふと、名案が浮かんだようにハッと目を開いた。
「ファウストも一緒にどうですか?」
「いや、僕は……」
どうしようか、と悩みながら口ごもる。まるでいけないことの共犯者を作るように、こそっと「このペンのこと、ルチルはミチルに言うまえに貸してくれたみたいで…」と晶が呟いた。まるで、極秘事項を漏らす間者のような彼がおかしくて、ファウストは思わず口角を少し上げた。
「どういうこと?」
「だから順番待ちをせずに遊べるのは、今だけですよ。ファウスト」
子どもみたいなことを言う晶が珍しくて、ファウストは、思わず目元を緩めた。
それと同時に、冗談を言っている晶の瞳が、焦がれるような色を持って真っ直ぐこちらに向いているのも心に引っかかった。晶が誰かにそばにいて欲しいと言っているような気がして。
「……ちょっとだけだぞ」
声をかければ、花が咲いたように晶の笑顔が綻んだ。それを見て、ファウストの心も日向に当たったように暖かい。
「じゃあ、中庭に行きましょう」
うきうきと足取りが軽くなった晶に続いて、ファウストはその背を追っていく。
中庭の噴水の縁にタライを置く。
「ファウスト、そっちを持ってもらえますか?噴水の水を汲むので」
そう言い終わる前に、ファウストが呪文を唱えた。その瞬間、置かれたタライの中心部から、ぶわりと透明な水が満ちていく。タライになみなみ溜まるのを食い入るように見ていた晶がぱっと顔をあげて、ファウストに微笑む。
「魔法ってすごい」
きらきらした瞳が気恥ずかしくて、ファウストは早々に視線を切ってタライを見た。
「で、どうするんだ?」
晶は何を書きたかったのだろうか、そう思いながら、星空を映して揺れる水面を見つめる。
「ずっと思ってたんですよね……」
脈絡のない晶の言葉に、ファウストは視線だけ向けた。ペンを手に持って、タライに向き合っている晶とは目が合わなかったが、陽の色に光るペンを手に、水面へ先をつけた。
「ここと、ここを合わせて」
雲ひとつない星夜の空を、ペン先がなぞっていく。
とんがった耳がふたつ、丸の上半分にくっついて猫の形になった。
「あの星の並びが、猫に見えて」
そう言って晶は、天上の星空を指さした。タライの中で浮かぶ猫の輪郭が、空にも浮かんでいるように見える。
「……本当だな」
「俺の世界には、星座があって。昔の人たちはいろんな動物とか生活用品とかに見えたらしくて。中には、解説して線の図を見せられても、全く似てないものもあるんですけど」
そう言って笑った晶の笑顔は少し、寂しい。
郷愁に浸っているのか、その瞳は真上に広がる星空を見ていないような気がした。
こんな時、気の利いた一言でも言えればと、ファウストは心の中で毒づきながら、晶がペンを走らせるタライを見つめる。
「ここの星は猫の鼻か」
そう言ってファウストがタライの一点を指差した。雪みたいに小さな光が、晶が描いた猫の鼻の位置にあった。
「小さくて気がつきませんでした。本当ですね!
……じゃあ目と口もあったほうがいいかなぁ」
くりくりとつぶらな瞳と、控えめな口が晶の手によって描き加えられ、大人しそうな猫が出来上がった。どこか素朴で愛嬌のある顔に微笑みながら、晶と覗き込む。
「比較的若い星の様だな、百年後にはもう少し明るくなってるだろう」
「そんなことが分かるんですね。すごいなぁ。そうだ、シノがファウストに星を読んでもらって、誕生日を見つけてもらったって……すごく、すごく嬉しそうでした」
その時のことを思い出しているのか、晶が自分のことのように幸せそうに笑った。しかし、その笑みもすぐに消えて、晶は俯いてタライに視線を落とす。ゆるい夜の風に吹かれて、宵闇より濃く艶のある黒い髪がなびく。ぼんやりと柔らかく光る猫の絵が、同じ風に吹かれてタライの中を泳いでいる。
「……俺の生まれた夜空はどんなんだったんだろう」
俯いたまま、小さく呟いた。
晶の呟きは、夜の厚い宵闇に吸い込まれる様に消えて行く。晶は、放ってしまった言葉を恥じる様に「すみません」と言って、下手くそに笑った。
その、泣き顔のような笑顔に、ファウストは鉛を飲み込んだような気持ちになる。
故郷を思って寂しい時は寂しいと言っていいし、泣いたっていいのに、賢者という役目が晶にそれを許さないのだろうか。
(どれもきみの気持ちなら、僕は教えて欲しいのに)
言葉にできない思い。重荷になるだけの呪いだ。それでも、望まれていなくても、伝えたいと思った。
「……君の生まれた日の星空を見てみようか」
パッと晶が顔を上げた。期待と遠慮が潤んだ瞳から覗く。
「俺、でも……」
「あぁ、この世界の星空で、だが。無理にするつもりは──」
晶の両手が、ファウストの服を掴んだ。
「見てみたい、です」
夜の風ですっかり冷たくなった晶の手を、覆うように上から握った。
「シノの時より簡単だ。土地の記憶を君の生まれた時まで遡れば良いだけだからな。精度を上げるために魔法陣も書こう」
そう言って、晶が持ったままだったペンに指を絡めて晶の手から抜き取ると、猫が浮かぶ水面を一度綺麗にする。ファウストが慣れた手つきで水面にペンを立て、文字を刻んだ。向日葵のような目の覚める黄金色が、幾何学模様を描いていく。
静かな声が呪文を唱えると、ぼんやりと光って、魔法陣が水に溶けた。そのまま、水の中の星たちが線になって回りだす。
星の軌跡が、無数の糸を下ろすように流れていく美しさに、晶は息を飲んだ。
真上の空は、先ほどと変わらない星空なのに、タライに張った水上の星空は、ぐんぐんと過去へ遡る。滝のような星に見惚れていると、ファウストが「ここだ」と呟いた。緩やかにスピードを落として、白糸の線が光の点に戻った。
「これがきみの生まれた日の星空」
「これが……」
絵の具を散らしたような星空は、真上に広がるものと大差ないだろうが、これがこの世界で自分が生まれた日の星空だと思うと、かけがえのない一瞬のように、きらきらと輝いて見えた。
「ファウスト、ありがとうございます!」
「別に、大したことじゃない。そうだ、この星」
照れ臭さを誤魔化すように、ファウストが話題を切り替える。白い手袋が覆う指先がひとつの小さな星を示した。
「この星は、きみと誕生日が一緒らしい」
「えっ!」
驚いてファウストを見ると、今度は、ファウストは天に広がる星空を指差した。
「あれだな。きみが描いた猫の鼻だ」
ファウストの空を指す指先と、タライを何度も見比べて、頭が取れそうなほど上下に動かした。
身体の芯が痺れて、叫び出したい興奮が胸に押し寄せる。顔がほのかに熱くなった。
そんな興奮がおさまらない様子の晶を見て、ファウストが喉の奥で笑う。
「きみもそんな顔するんだな」
「だって、誕生日が一緒の星があるなんて、すごいじゃないですか!この世界に来なきゃ絶対分からなかったですし!」
息継ぎもせず、興奮気味に話している晶を見ると、また喉の奥から笑いが漏れて、ファウストの肩を揺らす。そんなファウストを見る晶の瞳がふっと柔らかく弧を描いた。
「嬉しいです。ファウストと今日のこの夜を一緒に過ごせて良かった。……最近、会議がうまくいかなくて、俺、この世界に何をしに来たんだろうと考えると、止まらなくて……。なんだか、無性に寂しくて」
ぐっと晶が言葉を詰まらせた。ファウストは手を伸ばして、彼の膝の上で硬く握られた拳に優しく重ねた。晶は、じっと重ねられた手を見つめた後、もう片方の手をその上に添えた。
「でも、そうですよね。俺はひとりじゃないんですよね」
きゅ、と晶が両手で包んでいるファウストの手を握る。手袋越しに暖かさが伝わって、晶の心が流れ込んでるようだった。
「素敵な時間になりました。ファウスト、本当にありがとうございます」
「僕も楽しい時間だった。ただ、明日も賢者の仕事があるのに、こんな時間まで起きていたら響くぞ」
だから、とファウストは言葉を区切った。
緊張して、ざらついた口内で必死に唾液を集めて一度嚥下する。
「たまになら、一緒に……」
そこまで言って、やはり自分が柄にも無いことを言っている気がして、ふつりと口をつぐんだ。どうしたものかと迷っていると、隣から元気な返事が飛び出す。驚いて振り向くと、陽だまりのような笑みを浮かべた晶がファウストを見つめていた。
「はい、また俺の夜遊びに付き合ってください」
雲の切れ間から差し込む光芒のようなどこか神秘的な笑みに、ファウストもつられて微笑むが、気の抜けた表情に慌てて帽子のつばを掴んで、顔を隠す。
そんなことをしても、今更意味はなかったが。
「……シノや子どもたちには内緒にしておこう」
呪い屋を語りつつも、和んでしまった気恥ずかしさを誤魔化すようにそう呟けば、鈴の鳴るような笑い声が、ファウストの鼓膜を震わせた。
もうどこにも、寂しさは滲んではいなかった。
fin.