ファウ晶♂ 『眠れぬ夜』「……………」
ゴソゴソ、今夜何度目か分からない寝返りを打つ。閉じた瞼の裏、真っ暗な視界の中。
眠らなきゃ、と考えるほど、胸の辺りがザワザワする。一向に温まらない足先を擦り合わせながら、また寝返りを打つ。
明日はいつぶりか、グランヴェル城に登城する。魔法使いと人間を繋げる第一歩の延長線上。魔法使いの王子アーサーがいても、魔法使いに嫌悪感がある人たちに言葉を届けるのは、一筋縄ではいかない。
まだ、この世界に来てさほど時間は経っていなくても、うまく伝えられなかったり、拒絶される経験は、晶の心に不安の種を蒔き、眠りを遠ざけるには十分だった。
自分の鼓動が響く暗い部屋、「うまく話せるか」「何の役にも立てないかも」なんてマイナスな感情が、ぐるぐると脳みその中で出口を見つけられずに、とぐろを巻く。
(もう、眠らない方が良いかも……でも、会議中に眠くなるかもしれないし、やっぱり寝なきゃ)
ぎゅっと、もう閉じていている瞼に力を込めた。また、寝返りを打つ。
何度も、何度も、ベッドの上でもがいたせいで、掛け布団の中で羽毛がズレたのだろう。体にかかる重みにばらつきがあって、居心地が悪い。そのことも、余計に入眠への意欲を削いでいく。足で掛け布団を蹴って、半ば強引に整えようとしても、乱れていくばかりだ。
焦る心が、止まらない思考が、どんどん晶を崖っぷちへと追いやる。
焦燥感が一周回って、なんだか悲しくなってきた。小さなため息をついた時、窓から入ってきた冬の夜の空気が、髪を撫でる。
「…………空気を入れ換えよう」
ネガティブな思考でいっぱいになった頭を開け放つことはできないが、淀んだ部屋の空気を入れ換えれば心も落ち着くかもしれないと、晶は身体を起こした。
ベッドに膝をついて、窓を開けるためにカーテンを捲る。
「えっ、わぁ!」
窓の外、月が照らす夜の世界。その視界に飛び込んできた昨日までとは違う眩しい銀色に、思わず目を見開いた。
見慣れた中庭は、美しい白に染められている。
晶は、思わずいつものジャケットを引っ掴んで、外に飛び出した。
廊下を突っ切って、中庭に続く扉を開ける。
冷気が扉の隙間から、降っている雪と一緒に廊下へ流れ込んできた。別世界へ飛び込む気持ちで大きく扉を開くと、身体に吹きつける冷えた空気に、キン、と身が緊まる。
銀のような、白のような、青のような世界は、禍々しいほど大きな厄災の光を受けて、佇んでいる。時が進んでいないかと錯覚するほど、静かだった。
昼と変わらない明るさの月光を反射する積もった雪に誘われて、一歩踏み出す。
しゃく、と積もったばかりの柔らかい雪が、足裏で小さな音を立てた。いつもの地面とは違う足裏の感触を味わうように、もう一歩足を進める。
かき氷をスプーンで潰す時と同じ音を立てながら、晶は噴水を横切った。絶え間なく流れる水の中に、ちらちらと雪が解けていく。
風が無いおかげで、寒さはさほど感じない。
白い息を吐きながら、足元の雪をすくった。元の世界と変わらない冷たい雪が、一瞬で手の温度を奪う。白くなった指先に、温めた息を吹きかけながら丸めた雪に、とんがり耳をふたつつけた。顔だけの猫の雪だるまを噴水の淵に置く、後もう一つ作ろうと、屈んで雪に指を突っ込む。
「賢者⁉︎」
水を打ったような静けさの中、押し殺すような、それでいて驚きを隠せない低声に顔を上げた。
グレーの暖かそうなストールが落ちないように、胸の前で合わせているファウストが、ざくざくと雪を踏み鳴らして、慌てた様子で晶のいる噴水の袂まで駆けてくる。
「何を……いや、今何時だと。って寝巻きじゃないか!」
言いたいことが多すぎて、半ばパンクしながら、ファウストは晶の腕を引いて立ち上がらせる。立ち上がった晶の肩に、自分が羽織っていたグレーの厚手のストールを巻き付けた。
「あ、雪が積もっていて、綺麗だったから……」
「うちの子どもたちみたいなことを……」
気苦労の浮かぶ表情で、眼鏡を掛け直す。晶が両手に雪の塊を握り込んでいる様子を見て、じろりと厳しい視線を向けた。
「きみが風邪をひきたいなら好きにするといい」
「すみません。……ちょっと眠れなくて。明日お城に行くのに」
ダメですよね、と力無く呟く。言葉にしてから、弱気な姿を見せているのが、なんとなく恥ずかしくなって、晶は誤魔化すように笑って、握っている雪の塊を見下ろした。
「…………何を、作っていたの?」
「あっ猫の雪だるまと雪うさぎです」
晶は手を開いて、大福のような形の雪の塊をファウストに見せた。
うさぎ、という割には、まだ耳も何もない。不思議そうにしているファウストに少しだけ笑って、晶は近くにあった幅の細い葉っぱを二枚採って、うさぎの顔の余白を残して耳が生えているように見える場所にくっつけた。
急に現れたうさぎの輪郭に、ファウストがふっと笑う。
「俺の故郷じゃ割とメジャーな雪遊びの一つなんです。可愛いし、簡単だし。後は、ナンテンの実があれば完璧ですが、砂とかで良いかな……」
「あぁ、うさぎの赤い目か」
ファウストは少し思案すると、指を鳴らした。音を立てた指先に、四つの赤い実が現れる。そのうちの二つが、すぅっと吸い込まれるように、雪うさぎの目の位置に埋まる。
まんまるな赤い瞳が、きゅるりとこちらを見上げているようで、晶は思わず破顔した。
「可愛い!」
「ナンテンの実は、薬になるからな。丁度持っていて良かった」
「そうなんですね。あの、もう二つは猫の雪だるまに使っても良いですか?」
「いいよ」
雪うさぎを猫の雪だるまの横にそっと置いて、晶は空中に浮いたままのナンテンの実を、蛍を捕まえるようにゆっくりと両手で包んだ。
そのまま噴水の方へ屈む。ふと、視界の端に白い息が見えて、隣を向くとファウストも同じように屈んで、猫の雪だるまを見ていた。
目が合うと、呆れたように笑って「何?」と瞳を細める。釣られて晶も微笑むと、付き合ってくれる面倒見の良さに、胸に広がる温かいものを感じながら、晶は手のひらを上に向けて、木の実を摘まむ。猫の雪だるまの目の当たりに、きゅっと実をはめ込んだ。
「……あはは、顔が大きすぎるのかな?目がすごくつぶらになっちゃいました」
「ふふっ良いじゃないか。愛嬌のある顔だ」
「そうですね。何だか、のんびりしてるけど、優しそうです」
「……作った人に似るんじゃないか?まぁ、きみは優しすぎるんだけれど」
「……」
どこか、核心を突こうとするファウストの言葉に彼を見つめた。ファウストの瞳は、雪だるまに向けられていて、月光に照らされた氷のようなきらきらしたまつ毛の影が、少し伏せられた紫色の虹彩に落ちている。
「きみは、ひとりじゃない。賢者の魔法使い全員がきみの味方だよ。明日……きみに嫌なことをするやつは、僕がもれなく全員呪ってやろう」
「のろっ……わないで、平和に解決してほしいのですが、その選択肢は……」
「むかつく奴じゃなかったら考えてもいい」
「う、うぅ〜〜ん。嫌なことをしてくる人に、むかつかないファウストがあまり想像できないのですが……呪わない可能性があることを喜んだほうが良いんでしょうか」
「ふふ、さあな」
不安でがんじがらめになっていた心は、静かに寄り添ってくれる気配のおかげで、笑い飛ばせるほど、軽くなった。いつだって自分は、彼らを信じているし、こんな自分を賢者と呼んでくれる彼らのために、自分にできることで、頑張りたいのだ。それを思い出したおかげで、魂に一本芯が通って、背筋がしゃんと伸びた心地がする。
晶は、可笑しそうに肩を揺らすファウストの隣で、同じように笑った。白い息が、楽しげにゆれて、月明かりの中に霧散していく。
「さぁ、もう戻るぞ。手が凍えてる」
血の気が引いた指先を、ファウストのすらりと長い指が包む。
「サティルクナート・ムルクリード」
指先をお湯につけたみたいな温かさが、指先からじわりと全身に溶けていく。温められた血が巡って、足先もじんじんと冷たさが消えていくのが心地の良い。
「ありがとうございます」
身体はぽかぽかと暖まってきたのに、心に乾いた隙間風が吹いていた。眠らなければ、と思っていたくせに終わりが近づくと、それが惜しくなる自分の貪欲さに、ほとほと愛想が尽きそうになる。
「眠れそうか?」
握った手を見つめたまま、じっとこちらを見つめるファウストに急に尋ねられて、晶は口籠った。
離れ難いと呟く心を読まれた気がして、サッと視線を逸らしてしまった。そのまま答えられずにいると、ファウストが晶の手を引いて歩き始める。
雪の上に並んでいる足跡を辿って魔法舎へ戻る。
「ファウスト?」
「部屋まで送ろう」
がこん、と重い音をたてて中庭への扉が閉まった。暗い廊下を、誘導灯がちらちらと揺れながら、部屋へ続く絨毯を照らしている。
ファウストも晶も、無言で廊下を歩く。二階にある晶の自室は、あっという間に辿り着いた。扉の前で、先を歩いていたファウストが立ち止まる。
「……あの?」
解かれない手に、晶は首を傾げた。温まって、お互いに少し汗ばんでいる手は、くっついてしまったように離れない。ファウストが少しだけ、手に力を込めた。寄り添うように、彼の親指が、晶の手の甲を撫でた。
「……っ、ファウスト?」
「まだ手を握っていようか?」
「えっ」
「心細気なきみとここで別れてしまうのは、少し……」
そう言って、眉を下げて苦笑する。
晶は、嬉しくて思わずぐっと力を込めて、繋いだ手を胸に引き寄せた。タタラを踏んで近づいた、驚きに目を見開くファウストの瞳が、晶の目の前に広がって、鮮やかな紫がぱちぱちと、瞬く。
「あっ……その、お願いします……」
思っていなかった言葉に、喜び勇んで食いついてしまったのが、今更恥ずかしくて、ファウストから身体を離した晶の喉から、蚊の鳴くような声が搾り出される。
「……心が落ち着くお香も焚こうか」
「す、すみません……」
悪戯っぽく笑うファウストに、顔を赤くしながら、身体を小さくする。
「ほら、早くしないと夜が明けるぞ」
未だ繋いだままの手を緩く揺らされて、晶は胸が締め付けられるような心地に小さく呻く。
羞恥心に俯きながら、自室の扉へ手をかけた。
Fin.