能ある鷹は、「それじゃ……乾杯!」
グラスのぶつかり合う音とともに、本日の飲み会は幕を開けた。
エスターシの存続が無事決まり、それに伴った忙しさも徐々に落ち着いてきてからは、編集部の皆で飲む頻度も戻ってきた。場所は勿論、エヴァーグリーンだ。
珍しく──恐らく断りきれなかったのだろう──湊さんも今日の飲み会には参加していて、皆の箸もお酒もいつもより進んでいるようだった。
「それにしてもさー」
程よく酔っ払ってきたのだろう大江さんが、大きめの声でそう切り出した。
思わず周囲を見回してしまったが、向かいの男性陣は男性陣で盛り上がっているようだし、店内も賑わっていて特に誰も気にしていないようだ。
「五月女くんって、実際どうなの?」
先程とは一転して声量を落とした問いに、少し首を傾げる。
「だから、付き合ってみて変わったこととかあった?」
変わったことと言われて、少し考えてみる。目立って変わったことはこれといってないかもしれない。
「えー?まあ、二人ってもう一緒にいることが自然、って感じするものね。案外自分たちじゃ気づかないのかも」
大江さんが納得したように言った。と思ったら、今度は悪い笑みを浮かべている。
「なんてね。最近なかなかこういう機会がなくて聞きそびれてたことだし、今夜は逃がさないわよ。洗いざらい吐いてもらうんだから!」
大江さんの目は心做しかキラキラと輝いていて、到底逃げ切れる雰囲気ではない。
「普段だったら、朱里ちゃんと二人きりの時にしか聞かないんだけど……。もう待ちきれなくて。二人が付き合ってるのも多分みんなわかってるだろうし、男性陣は……ホラ、ああだから」
言われてもう一度視線を送ると、向こうも引き続き楽しそうに何かを話している。こちらの様子など気にも留めていないようだ。
大江さんには公私問わずお世話になっているし、少し話すくらいならいいだろう。
大江さんにひとつ頷きを返して、密かに気合を入れ直す。
「おっ、そうこなくっちゃ!何から聞いちゃおうかしら。というか……」
何を聞かれるのか構えていると、大江さんがやけにしみじみとした様子で呟く。
「朱里ちゃんは一旦置いておいて、五月女くんの変わりっぷりにはホント驚くわ。朱里ちゃんが来たばっかりの頃の私に教えてあげたいもの、今の五月女くんの様子」
確かに彼は変わったけれど、そこまで言うほど変わっただろうか。疑問符を浮かべていると、大江さんがニヤリと笑う。
「あら、本当にわからない?そもそも五月女くん、朱里ちゃんと付き合うなんて有り得ない、って感じだったじゃない」
思い返してみれば、なかなかのことを幾つか言われていたのを思い出したけれど、別に光基くんを責めるつもりもない。私だって光基くんと同じように、プライベートで彼と関わることなんてそうそうないと思っていたから。
「でもそれだって、五月女くんが先にバッサリ否定してたからでしょ?だから意外さで言ったら朱里ちゃんより五月女くんなのよね」
それはまあ、確かにそうかもしれない。光基くんには言ったことがないけど、彼とお付き合いをしていることが未だに夢みたいに思う時がある。
「朱里ちゃんってば、カワイイ!……敢えて聞きたいんだけど、それはどうして?」
それは勿論、先程も言ったように光基くんからさんざ否定されていたのもあるし、私と違って頭もいいし、社内でも有名人だったし。何より彼は見目がかなり整っている。言ってしまえば引く手数多だろうに、その中から平々凡々な私を選んでくれたのが不思議になる時がある。
「多分そう思ってるのはあなただけよ、朱里ちゃん。でしょ?」
「そーっスね」
急に聞こえてきた声に思わず振り向けば、間髪入れずにふわりと抱き締められて、図らずも光基くんと正面から抱き合う形になってしまった。
こんな公共の場で、と彼の胸を押し返そうとするも、彼は何処吹く風だ。むしろ抱き締められる力が強くなる。
「ちょっとー、目の前でイチャつかないでよ」
「えー、ちょっとくらい良いじゃないですかー。就業時間外なんですから。コイツもかわいーこと言ってくれてたし」
さっき言っていたことをどこまで聞かれていたのか、たぶん全部なんだろうけど、聞く勇気は流石になかった。聞いたところで自分の首を絞めるだけだ。
それに外でここまで露骨にしてくる光基くんも珍しい。光基くんはそれなりにお酒に強いはずだけど、久々の飲み会でペースが早かったのか、多少なりとも酔いが回っているようだった。
「それはそうだけど……」
そこで言葉を切った大江さんがジトリとこちらを見つめる。
就業時間外とはいえ、今はエスターシの、つまり職場の飲み会だ。社外の人も当然いる訳で、先程も言ったように人目もある。それに何より、恥ずかしい。
「なーに、照れてんの?……ほんと可愛い」
二人きりの時にしか聞かないような甘い声に顔が真っ赤になるのがわかった。今知ったけれど、酔っ払った光基くんは、もしかして割と手がつけられないのかもしれない。
そんな私にお構い無しに光基くんの顔が近づいてきて、慌てて彼の口を手で押さえた。嗚呼でも、こうすると彼は───。
思い至った瞬間、手のひらに熱く濡れた感触がしてバッと手を離した。思い出すのが一足遅かったらしい。
「ホント、飽きずに同じ手に引っかかるよなー。そこも可愛いけど」
そう言って唇をぺろりと舐める光基くんに、心臓が鼓動を早める。
「あのー……。二人とも、私がいること忘れてない?」
「いやいやそんなことないですよ、やだなぁ。俺たちが大江さんのこと忘れるわけないじゃないですか」
「全く、調子良いんだから」
にっこりと笑みを浮かべる光基くんに、大江さんは呆れ顔だ。
恥ずかしいから離れてくれるように再びお願いすれば、光基くんは若干不服そうにしながらも割合あっさり離れてくれた。自分で言っておきながら、彼の熱が離れていくのが寂しくて、彼のシャツの裾をなんとなく目で追ってしまう。
「なんだよ。朱里だって本当は離れて欲しくないんじゃん」
光基くんに図星を突かれたけれど、慌てて否定する。先程とは打って変わって、面白そうにこちらを見ている大江さんの視線が突き刺さっているのが目の端でわかった。
「ふうん?ま、いーけど。というか、二人で何の話してたんすか」
「五月女くんが変わったわねーって話よ」
「ええ?またその話です?」
「まあその話もしてたんだけどー……。ね?」
大江さんが意味深な笑みを寄越す。
「朱里、何の話してたんだよ?」
そう聞いてくる光基くんの口角の上がり方にピンと来て、今度は私がジト目になる。これは多分、わかっていて言わせようとしている時の表情だ。
「あれ、盗み聞きしてたのバレた?なんでわかんの?」
そう口では言いつつも、光基くんは何処か楽しげだ。というか、なんでも何もさっき自然に会話へ入ってきたんだから、誰でもわかる。
「五月女くん、乙女の会話を盗み聞きするなんて良くないわよ」
「それなら盗み聞きされるような環境で話さないでくださいよ。まー今回みたいな話なら、いくらでもして欲しいですけど!」
いつになく上機嫌な光基くんに、先程のアレコレを彼に聞かれていた、ということへの羞恥が今になってじわじわやってくる。
「はぁ?忘れてなんかやらねーよ。残念でしたー」
ニヤニヤ笑う光基くんをひと睨みしてから、つんとそっぽを向けば、今度はニヤニヤしている大江さんと目が合った。八方塞がりだ。
「五月女くんってば、本当に朱里ちゃんのことが好きなのね。なんか安心したわ」
「なんですかそれ。俺の親じゃないんだから」
「だーって五月女くん、最初の頃朱里ちゃんに散々言ってたじゃない。本気じゃないとはいえ『奴隷』呼ばわりまでしてたこと、忘れたとは言わせないわよ」
ぐいぐい突っ込んでいく大江さんに、光基くんは少々バツが悪そうな顔をした。こんなことを言うのもなんだけど、光基くんは『その時はその時』タイプだと思っていたから少し意外に思う。
「確かにその節は俺が悪かったと思います。……ごめんな、朱里」
急に謝られたものだから、思わず驚いた顔で彼を見つめてしまった。こんな殊勝な態度の光基くんなんてあまり見ないから、なんだか落ち着かない。
「なんだよそれー。人がせっかくしおらしく謝ってやってんのにさー」
「あはは!朱里ちゃんも五月女くんに似てきたのかしら」
むくれる光基くんと、ツボに入ったのか笑い続ける大江さんに挟まれて、エヴァーグリーンでの夜は更けていった。
「ただいまー」
最近は、週末は光基くんの家にお泊まりすることが多い。
光基くんに続いて玄関を跨ぐ。彼への『おかえり』と自分の『ただいま』を言えば、「おかえり」と彼からも返された。これだけのやり取りでも満たされた気持ちになるのだから、恋とは偉大で盲目だ。
週末のお泊まりが増えてから、私が持ち込んだ物もずいぶんと増えた。実は毎回何かしらは必ずこの部屋に置いていくようにしている。彼の部屋に私のものが増えて、光基くんが私のことを思い出す回数が増えるといいな、なんて目論見があるのは光基くんには内緒だ。
そんなことを考えながら、洗面台に並んだ二つの歯ブラシを見て胸の奥がくすぐったくなる。さっきの理由も本当だけど、実の所は自分が楽しんでいる部分が大きいのかもしれなかった。
最初の頃はどこに座っていいかもわからなかったけれど、今となっては勝手知ったる場所となったこの部屋。その事実が、どれだけ時間が経っても、寧ろ時間が経てば経つほど嬉しくて堪らなかった。
「なにニヤニヤしてんの」
光基くんの服を別の椅子に掛けて、すとんと腰を下ろすとベッドに腰掛けた光基くんにちょいちょいと手招きされる。
一瞬迷ってから、座ったばかりの椅子を離れる。覚悟を決めて彼の前に立つと、光基くんが困ったように笑った。
「まだ慣れない?……ったく、しょーがねーなー」
くんと手首を引かれて、バランスを崩して彼の方に倒れ込んでしまったけれど、そんな私を光基くんは難なく受け止める。そのまま彼の膝の上に座って向かい合う形になる。
「さっき、なんでこっちに来るの一瞬考えたの」
彼の頭の良さはこんな所でも発揮される。しかも、基本的には逃がしてくれない。つまり素直に白状するのが一番早いのだが、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしくて黙りを決め込むフェーズが発生してしまう。
「どうせ俺に負けて話すんだからさっさと話したら?ほんと無駄な抵抗好きだよね、アンタ」
そんな私を鼻で笑ってから、光基くんは私の額にキスを落とす。
「ほら、早く」
その次は目尻。続いて鼻、右頬、左頬にキスの雨が降る。彼の唇に触れられる度に、そこが熱を持っていく。
うっとりして瞼を閉じれば、光基くんが吐息で笑ったのがわかった。
「目ぇ閉じてる中悪いけど、朱里が話すまで唇はお預け。ほら、話してみろって」
目を開けて彼を睨みつける私の視線は、恨みがましくなってしまっている自覚があるけれど、光基くんは意地悪く笑うだけだった。
根負けした私は、なぜベッドに近寄るのを躊躇ったのかをおずおずと述べた。
「……つまり、どういうこと?」
またわかっていて言わせようとしている、この人は。
付き合い始めた頃からその片鱗は見えていたけど、光基くんは案外言わせたがりだ。
「ね、早く教えて。俺も朱里にキスしたい」
自分で言ってきたのに、と思いながら結局、白旗を上げるのはいつも私なのだ。彼は確か弟がいるお兄ちゃんだったと思うけれど、どこでこんな甘え方を覚えてきたのだろう。
「……期待、しちゃったんだ?」
自分で言うだけでも大概恥ずかしいのに、復唱なんてされたら敵わない。
思わずうつむけば、間髪入れず顎が掬われる。
「よく出来ました」
待ち望んだ唇へのキスに、今度こそ瞳を閉じた。
先程までのじゃれるようなキスではなくて、こちらの全てを蹂躙するような深いキスに、脳の奥がじんわりと痺れていく。
「……っはは、相変わらず朱里の口の中、あつくて気持ちいい」
光基くんは多分、キスが上手い方だと思う。彼にキスされると、すぐに頭が上手く動かなくなってぐずぐずになってしまって、訳が分からなくなってしまう。
自分のものではない熱の塊が、口の中を隅々までなぞり尽くしていく。飲み込みきれなかった唾液が口の端をつうと伝っていき、首をゆっくりと滑っていく。
やがて何もかもがわからなくなり始めた頃に、ようやく唇が離された。二人の間の銀色が煌めいて、重力に呼ばれ落ちていく。
ぼうっと光基くんを見上げるしかない私に、彼は薄い笑みを浮かべた。その瞳には普段は見えない熱情がちらついている。
「……アンタ、すっげぇエロい顔してる」
そういう光基くんこそギラついた表情をしていて、見ているこっちが照れてしまう。
ふと美月くんにいじわるがしたくなって、編集部に配属された頃の軽口の話を持ち出してみる。
「今それ蒸し返す?朱里って案外根に持つタイプなんだ。今後の為に覚えとこ」
口を尖らす光基くんに、今はどう思ってるの、なんてからかい半分にわかりきったことを聞いてみる。私も大概言わせたがりなのかもしれない。こんな所まで似てきているのだろうか。
「今?……ご覧の通り、下心しかないですけど?」
ムッとした顔で照れながらも、伝えてくれる光基くんはやっぱり可愛くて、笑ってしまう。
「……ずいぶん余裕そうじゃん」
光基くんが耳朶を軽く噛んできて、不意打ちに思わず小さな声が零れた。
「朱里って耳弱いよね。かわい」
吐息混じりの囁きを直に流し込まれて、腰のあたりがぞわぞわと疼く。そのタイミングで腰をするりと撫でられるものだから、もう堪らなかった。
「可愛い朱里の全部、今夜も俺に見せて」
そのままゆっくりベッドに押し倒されてしまえば、今夜も光基くんの熱に沈められるだけだった。