ナナエマざかざか(未完)「あ〜…………」
――疲れた。
重力に身を任せて割合勢い良く座り込めば、流石のソファもぎし、と抗議の声を上げた。
「はいはい、ごめんね」
口では謝りつつも特に体勢を変えもせず、ナナシはなんとはなしに天井を見上げた。
奪い師と連盟会長。そこそこハードな役職の兼任は体力と気力を奪っていく。そうして失われていくそれらに、人々は折り合いをつけて同時に充填を図るが、時に間に合わないこともある。それはナナシであっても当然例外ではない。
まだまだ仕事は山積みで、頭の片隅で冷静な自分が今から手をつけないと不味い、と警告しているが、それも右から左へと流れていく。今のナナシは体力も気力も空っぽだ。脳から指令を出されてもそれをこなす資本がない。
一服して切り替えるかと懐に手を伸ばすも、ジッポの硬質な感触だけが応えた。こういう時に限って切らしていたらしい。と言っても、元々頻繁に吸う方でもないから仕方ないことではあるのだが。
口内に巣食う口寂しさをなんとかしたい気持ちと、これ以上指先ひとつも動かしたくない気持ちとを持て余しながら、無機質な壁にぽっかりと開いたような窓から月を見遣る。
(月なんて、久々に見たな)
最後にこうしてわざわざ見上げたのは一体いつだったろう。というか、今日は満月だったのか。道理で電気も点いていない室内がそれなりに明るいはずだ。
「……あれ、ナナシ?」
その時聞こえるはずのない控えめなソプラノが響いた気がして、思わず笑いが零れた。
「とうとう幻聴まで聞こえるとか……。僕ってばエマちゃんのこと好きすぎじゃない?」
「幻聴じゃないよ?」
――あれ、返事?
いよいよおかしくなったかな、と真剣に考え込みそうになったナナシを、エマはひょいと覗き込んだ。
彼女の姿を認めて、今度こそ目を瞬かせる。
「……あれ。もしかして、本物?」
「もしかしなくても本物だってば」
彼女の気配にも気づかなかったなんて、と内心反省する。ここが敵地であったなら、今頃とっくにあの世の住人だ。まあ、ここがシハルの管轄である犬小屋だから、という気の緩みも多分にあっただろうが。
「わ〜……。本物のエマちゃんだぁ……」
ただただ嬉しくて、年甲斐もなく自然と笑みが浮かんでしまう。これじゃまるで幼子だ。
「……やばい、どうしよう。嬉しすぎるな。今なら僕、割と本当になんでも出来ちゃいそう」
「え!?エマちゃん、それってほんとに大丈夫なの!?」
「私は大丈夫だし、どちらかと言えば大丈夫じゃないのはナナシじゃない?」
「……用事を思い出したから帰ろうかな?」
「ごめんってば。冗談。……だから、帰らないで」
「今夜だけは、そばにいて」
「……今夜だけじゃなくても、ずっとそばにいるよ」
「いつもお疲れ様」
「……え」
「前、黒猫を撫でてた時にいいな〜って言ってたでしょう?今日は特別」
「今日は特別なら、もう一つお願いしてもいいかな」
「私に出来ることなら」
「君にしか出来ないことだよ」
「僕のこと、癒して欲しいな〜。なんて」
「癒す?どんなふうに?」
「それはね」
にんまり笑ったナナシにエマが身構える暇もなく、一気に距離が詰められて、ナナシの唇がエマのそれに触れ、熱を掠めとっていく。
「……こんなふうに」
「エマちゃんにとっては残念なお知らせかもしれないけど、さっきのじゃぜ〜んぜん足りないんだ」
「もうね。エマちゃん不足著しいんだよ、今の僕は。こんな僕を癒せるのは君だけだって断言出来るね」
そう言って笑うナナシの表情には、確かに疲労が色濃く出ていた。それに、口調こそ普段と変わらないものの、普段のようなスキンシップ――突然抱き着いてくる、といったような――をしてこないで、ソファーに座り込んだままだというのも、エマが彼の疲労を推し量るには充分すぎた。それくらい、付き合い始めてからのナナシは遠慮がなくなっているので。
「……わかった」
「……え?」
「わかった。それでナナシの疲れが少しでも取れるなら」
「ちょっとエマちゃん、男前過ぎない?元々惚れてるのに、益々惚れ直しちゃうな」
「目、瞑って」
「……もしかしなくても、エマちゃんからしてくれる感じ?」
「……わかってるなら確認しないで!」
「だ〜って、君には悪いけどこんなの確認せずにいられないよ。嬉しすぎてこれだけで疲れが今すぐ吹っ飛んじゃいそう」
「じゃあ私からキスしなくても大丈夫かな」
「あ、やっぱり指先一つ動かせないなあ」
「調子いいなあ……」
「……未だに、夢なんじゃないかと思うよ。君とこうして言葉を交わして、触れ合って」
キスしろ〜