可愛いあの子の恋よ倅が、人間の娘に懸想した——。
父はふと予感した。それはまだ恋心にも満たないような、淡い淡いものであったが、確かに情の類だった。
窓辺に背中を預け、うすらと差込んだ月明かりが、まろい輪郭をクッキリ浮かび上がらせる。どこか大人びた表情で瞼を伏せて、ボンヤリとしている。
その瞳をよく知っていた。
恋を知ろうとする瞳である。
物思いに耽る横顔に、母の生き写しの髪がさらりとかかった。
それで、父は。
「気になる子をデイトに誘うくらい、できるようにならんといかんぞ?」
「へっ」
「わしと母さんなんかしょっちゅうじゃった。浅草の屋上遊園地では——」
「ちょッ、待ってください父さん。急に何の話ですか」
鬼太郎は突拍子もない話題に困惑した。
何せ自分では何にも自覚できていないのである。当然の混乱であった。
しかし父はニコニコするばかりで、どんどん調子良く話を進めてしまう。
「どれ、明日にでもデイトのイロハを教えてやろう」
「え、え」
「デイトといえば待ち合わせじゃ。明日10時に——」
あれよあれよと父子でデイトが決まってしまった晩である。
鬼太郎は何故デート……?と思いながらも、父さんの言うことは基本的に絶対なので、大人しく従うことにした。
*
約束の時間。
待ち合わせ場所へやってきた父は、それはそれは格好良かった。常とは違って、着ている物もなにだか上等なのだ。
なんせ上背があるので何を着ても似合うのだが、艶のある呉須色を着て、下駄をカラコロ鳴らして歩ってくるのなんて、トンデモなく様になっているのだ。それにチャコールグレーのハットなんて被っている。
どうしてこんなに似合うものかな……。
「お、待たせてしまったかの」
「い、いえ。今、来たところです……」
最早使い古され、擦り切れて再生できないレコードみたいな問答にすら何故だかドキマギとしてしまう。大好きなお父さんが格好良い姿をしていて、鬼太郎は無性に背中がムズムズ痒くなった。
腕組みするように両腕をそれぞれ羽織の裾に突っ込んで暖をとっている、気の緩んだ立ち姿でさえ、体躯が良いので絵になっていた。
「いつもの着流しじゃないんですね」
「デイトにはめかしてくるもんじゃ。お母さんも、それは可愛ゆい格好をしておったよ」
「へェ……」
おめかしといっても、鬼太郎はフォーマルにも着てゆける学童服に、ご先祖様のハイセンスな色柄のちゃんちゃんこ、ノスタルジックな赤い鼻緒のリモコンゲタが一張羅であるが。
鬼太郎は照れ照れ小さい汗を飛ばしながら、父母の逢引の様子という、現代の感覚で云うと地獄みたいな惚気話を良い子の態度で聴いた。
「それじゃ、行こうかの」
「はい!」
鬼太郎は父に差し出された手を素直に取った。
父としてはデイトの相手をエスコートしてやらんといかんぞ、という手本のつもりだったが、鬼太郎は只々格好良いお父さんと出掛けられて嬉しい気持ちでいっぱいである。
ニコニコうふうふしながら、素直に父と連れ立って歩み出した。
*
二人は小一時間ほどそぞろ歩きし、そろそろ休憩をと喫茶店に入ることにした。
カラン——
愛らしいドアベルが響いた店内は、女性客やカップルでそれなりに賑わっている。窓にはステンドグラスが華やかで、照明もLEDではないガラス製。昔ながらのレトロな喫茶室である。
「中々悪くない雰囲気じゃの。昔にあった喫茶室を思い出す」
父はフリルエプロンの女中さんに声を掛け、うきうきとクリィムソーダを一つ注文した。赤い艶々のさくらんぼが乗っている、上等なクリィムソーダである。
父は思い出のクリィムソーダと好物のさくらんぼにパッと顔を明るくした。が、小洒落た店内で父と向かい合って、かわゆい飲み物を前にする気恥ずかしさを、澄まし顔で誤魔化す鬼太郎に悪戯顔を浮かべた。引っ掻くような笑顔で口角を上げれば、八重歯が覗く。
「ほれ、あーん」
「エッ」
鬼太郎は差し出されたスプーンに固まり。悪びれず微笑む父と、少し緑色の気泡がついたアイスクリィムを掬った匙と、シュワシュワ音を立てるクリィムソーダとを見回して。
もう一度エッ!と声を出したが。
「こういうところでは、こうやって食べさしてやるんじゃよ」
「そ、そういうもの、なんですか……」
父の言うことは絶対なので、雛鳥のようにちまこい口で、差し出されたスプーンの先を口に含んだ。
父は得意満面に「デイトのお作法じゃ」と宣い、恋愛乳幼児で真っさらなノートのような鬼太郎に、無駄な誑し込みテクニックを伝授した。
側から見れば微笑ましい父子のやり取りをした二人は、お勘定を済ませると店を後にした。
*
店店を冷やかしたり、公園でのんびり過ごしたりする内、段々と夕暮れが迫ってくる。昼の青い麗らかさを、冷えたオレンジが染めてゆく。
はしゃぎ駆けていた子供たちも帰路に着く時刻である。人気も無くなってきた。
「そろそろ帰ろうかの」
「確かに冷えてきましたね」
ベンチに寄りかかりながらも不思議と伸びた背筋で、父は瞼を伏せ、唇をムイと突き出した。白髪が斜陽に彩られ、頬に一房さら、と掛かっている。
鬼太郎は瓜二つの表情を浮かべていた。唯でさえよく似た父子であるが、こういう顔をすると特に濃ゆい血を感じられるものである。
父はさてドッコイと立ち上がり、繋いだままの鬼太郎の手を引くと思われたが。
空いた右手をベンチの背もたれに置いて、鬼太郎を囲うようにすると。無防備に父を見つめる息子に、ちゅと口付けた。乾燥したやわこい唇に、ただ唇を合わせるだけの稚戯のような。
それは我が子を愛でる行為に紛れて、情に色づいたものだった。
「……ッは、エ、とうさ」
「……此れも作法じゃ」
父は眉をクッと寄せて目を眇めて、それから開いて、微笑みをつくる。困惑しきりの息子は、狼狽(うろたえ)きった顔をして眉を八の字にしている。
「別れ際に接吻する。次逢うときまで、お前のことが頭から離れなくなるじゃろう」
「はぇ……」
こういうことは「もっと先を」と期待させた方が良い。焦がれる欲というものは肥大するのだ。
此れもまた、愛おしい妻が教えてくれたことだった。色男というのは良い女に躾けられているものである。だから父は、こんなにも情に塗れながら、親父の顔をして教えてやることにしたのだった。
唯のバードキスだというのに、鬼太郎は膝から頽(くずお)れた
*
深夜、自邸というにはたいそうな我が家にて。
落ち葉の寝床でピタリと己にくっついて眠る、可愛い倅の頭を撫でてやる。柔らかな栗色の髪を丁寧な手付きで梳きながら、父は愛する妻を思い出していた。
恋する瞳。
星空を映す湖面のように輝いていた、黒々しい瞳。
彼女は、そこに己を映してくれた。湖面が揺らいで細波が立ち、ほろりと星が滲み出る、あの涙の美しいこと。閉じ込めて、独り占めしたいほど尊いこと。
全部知っているのだ——。
愛おしい妻が産んだ、己と血を分けた、何よりも可愛いこの子。その目に他の者が映されるなど、他の者が知るなど、我慢ならなかった。
父は鬼太郎の閉じられた瞼に触れる。起こさないよう、羽根のような軽さで撫でる。倅は安心しきって寝入っていた。
嗚呼、可哀想な可愛いお前。父を許しておくれ。
月光に染まる髪に顔を寄せながら、父は懺悔する。それでも思わずにはおれないのだ。
お前が娘と口付けを交わすたびに、今日のことを思い出すだろう。この父にされた接吻を、吐息を、熱を、鼓動を。
だから今はこれで良いのだと、深く息を吐き出した。
だって、人間よりも遥か長い時を共に過ごすのだ。時間は幾らだってある。
恋を覚えるたびに、あの熱を思い出せば良い。重ねる毎に、お前は逃げられなくなってゆく。
父は、可愛いこの子の恋よ、実って仕舞えと慈悲深い顔をして微笑んだ。