夜話は短し 夜半。その日カルデアの書庫で朝から書物を読み耽っていた松陰は、日がすっかり沈んで久しい頃になってようやく、紙の上の文字を追うのを止め顔を上げた。壁に飾られているアンティーク調の時計の針が、そろそろ日付も変わろうかという時刻を示している。ずっと同じ姿勢でいたために凝った身体を軽く伸ばし、松陰は息をついた。読みかけのページの番号を記憶すると、本を閉じ立ち上がる。机の上に積み上げられた本をあらかた本棚の元の位置に戻すと、残した数冊を持ちカウンターで貸出の手続きをすませた。
借りた本を片手に抱え書庫を出た松陰は、ふと思い立って、普段通らない通路を遠回りして散策しながら自室へと戻ることにした。
カッ、カッ、と小さく靴音を響かせながら松陰は廊下を歩く。必ずしも睡眠を必要とはしないサーヴァントたちだが、生前の習慣や人間である藤丸たちに合わせて夜間は眠る者や自室で大人しくしている者も多い。日中と比べ人気の少ないカルデア内で、普段の自身の生活空間とは異なるエリアを松陰は興味深く眺めた。
とあるエリアまで来たところで、この先は改修中で空き部屋や未整理の区画だったはず、と引き返そうとした松陰は、何か予感のようなものを感じ立ち止まった。
「改修中とはいえ、別に立ち入り禁止と明言されてはいませんでしたね。現にそういった札なども見当たらない。少し覗いて見るのも悪くはないでしょう」
誰に聞かせるでもなく理由を口にして、松陰はそのエリアへと足を踏み入れた。
松陰が誰もいないだろうと思ったそこには、意外にも先客がいた。
「おや、晋作」
「あれ……先生。なんでこんなところに。その本、図書室のですか。借りて来たところですか?いや、返しに行くところかな。道に迷いました?」
エリアの一室、おそらくは一時的に物置となっているのであろう部屋の中。短髪姿の弟子が壁際の床に座り師を見上げていた。反対側の壁に寄せて積み重ね並べられている椅子や機材をちらと見ながら、松陰は晋作へ歩み寄る。
「迷った訳ではありません。こんなところに、と言うのであれば君の方こそ。本は借りて来たところです。そういえばこれ、たしか君がそのうち読みたいと言ってましたね」
互いにこの場に居る理由は答えぬまま、晋作の前に立った松陰が本の一冊を晋作に見せる。
「え?ああ、本当だ!先生も興味を持たれましたか。僕も先生が返された後で読みますから、今度先生の感想や意見も聞かせてください」
本の題名を読み取った晋作が楽しそうに言う。
「君もまだ読んでいなかったんですね。そうだ、折角だから先に読みますか?僕は他のから読みますから」
「気にはなりますけど、又貸しは禁止じゃありませんでした?」
「僕が此処に居る間に、君も此処で読むのであれば問題ないでしょう」
そう言って松陰は晋作の隣に腰を下ろす。意外そうな表情でその様子を見ていた晋作に松陰が笑みを浮かべて促す。
「さあ、どうします?」
「……では、お言葉に甘えて」
「ええ、どうぞ」
師から嬉しそうに本を受け取った晋作だったが、表紙を捲ろうとしたところで不意に動きを止めた。
「ッ……」
咄嗟に腕を口元に押し当て、くぐもった咳を零す。一度出ると中々止まらないそれに、晋作が背を折り曲げ身体を揺らす。
「晋作!大丈夫ですか」
松陰の手が晋作の背をさする。ひとしきり咳き込んだ後でようやく咳が治まってくると、晋作は身体を起こし再び壁に背を預けた。
「すみ、ません。見苦しい、ところを」
「いいえ。気にすることはありません」
松陰はぐったりと肩で息をする晋作の口元や服に赤い汚れが無いことに安堵しつつ、片手が胸を押さえていることに目を止める。
「痛みますか」
「……少し。これ、やっぱりお返しします。汚すとまずい」
「ええ。……いつからです」
晋作の手から本を受け取り、松陰が問う。
「いつから?何の、ことです……ケホッ」
「それですよ。解っていない振りでとぼけるのは止めなさい」
松陰の言葉に晋作が軽く舌を出す。
「今朝から。ちょっと、あやしいなとは」
「それで、夜になって悪化して、大人しく部屋で休まずにここへ?調子が悪い時に部屋に一人で居るのは気が滅入りますか。かと言って外で他の誰かに見つかって医務室に放り込まれるのも避けたくて、こんな場所まで来たんでしょう」
「げ。何でそこまで分かるんです」
「ふふ、僕にしてみれば、君は結構わかり易い方ですよ」
「ああ、先生には敵わないな。……戻って休め、とおっしゃいますか」
「いえ、そのままで結構」
「?」
「眠れないなら、其処で僕の朗読を聞いていなさい。そうですね……読むのは、ええ、この本にしましょう」
そう言って松陰は、先程晋作から返されたばかりの本を開いた。松陰の落ち着いた声が、文章を朗々と読み上げてゆく。思いがけない提案に、晋作は松陰の横顔をまじまじと見つめていた。弟子の視線を気にすることなく、松陰の朗読は淀み無く続く。晋作は目を閉じ、静かに師の声に聞き入った。
そうして数分が経過した頃。晋作の身体がずるずると横に倒れ、隣に座る松陰に凭れ掛かった。朗読を続けながら、松陰は横目にちらりと晋作の様子を伺う。徐々に声量を落とし語りを止め、口を閉じた。本を置き、肩に乗る弟子の頭をそっと撫でる。耳をすませば、すうすうと穏やかな寝息が聞こえる。さらさらとした艷やかな髪の感触と僅かに常より高い弟子の体温が、松陰の手に伝わった。
「いつもの君であれば、興味のある分野のことなら例え素読であろうと、僕の話を聞いている間にこうも早く眠ってしまう事などないでしょうに。余程疲れていたんでしょう」
もしかすると、自分はこの弟子を見付けてやるために今日ここへ来たのかもしれない。松陰はそう思った。
「……おやすみなさい、晋作」
肩に弟子の頭の重みを感じながら、松陰もしばしの間、目を閉じるのだった。