閉め切られた暗い部屋の中で、深く重たい息を精一杯の思いで幽かに吐き出す。はあ。いつからだったか、頭には少し先を見る事も出来ない位重く垂れこめた靄がかかり、不摂生と、なにとも言い難い不安を抱えた両腕は長年愛用している万年筆を握る事さえ困難に感じるほどになっていた。
早数年前に出版した作品で大ヒットを多く記録したものの、そこからは低迷が続き、その上ここ最近では焦りからどんどん追い込まれて、部屋の奥の、資料に囲まれた机に乱雑に広げられた原稿用紙に意識を囚われていくばかりであった。最後に部屋を出た3,4日前キッチンで会ったヴォックスは僕を見て少し動揺しながらも、
「あー…アイク、アイク。随分長い事部屋に籠っているけれど体は大丈夫か?疲れていないかい?少し私と一緒に気分転換に行くのはどうだろう。そうしたらきっと、体にもいいよ」
なんて、気を使いながらそう提案してきた。
それに対して、僕はこれ以上心配性な彼に心配をかけまいと微笑みかけながらお礼を言って、でも、もう長いことなかなかいい案が浮かばないから暫くは部屋にこもって頑張らなきゃ、とだけ返してまた部屋に戻った。
それから数日たっても状況が変わるわけでもなく、机の下で資料に埋もれながらさめざめと泣くことしかできなかった。すると不意に自分の部屋をノックする音が聞こえ、反射的にそちらの方に視線をやる。どうやらいっこうに出てこない僕を心配したヴォックスが訪ねてきたようで、いつもと変わらない声色で名前を呼ぶ。しかし声が詰まってそれに返せずにいると、入るぞ、と短く言って彼が入ってきた。
部屋に入ってきたヴォックスは僕を見るなり少し安心したのか少し微笑んで、そんな所に丸まっていたら体を痛めるよ。と声をかけて照明のスイッチを2回押し、小さな優しい暖色の明かりをつけ、僕の前にかがんで優しく涙を拭ってくれた。
「もうやだ…まるで全部枯れてしまったみたいだ。僕もきっと最期は同じように何もなく全部枯れていくんだ…」
「何を言っているんだい。君はいつまでも特別でずっと美しいよ。その幾つもの言葉を生み出す声も、宝石みたいに輝く瞳も、物語を紡ぐその指も、どれもかえがたいものだよ」
そう言いながら彼は宛ら壊れやすい食器か何かを扱うような優しさで、僕を抱き上げてベッドに寝かせてくれた。
「私がここにいるから、しっかり休もう、な?起きたら君の好きなものを食べて、続きをするならそれからだよ」
傷つけないように、さも幼い子どもを諭すように話すヴォックスの暖かさに触れてまた涙が溢れ、弱気になる。こんなに駄目な自分を暖かく触れてくれるなんて。それならいっそ、彼の隣で命を絶ってしまった方が楽になれるのではないだろうか。いよいよそんな事をぶつぶつと考えている間も、とんとん、と手は体から離れないようにしながら撫でてくれていた。
どれくらいその暗く淀んだ意識に溺れていただろう、そんな事も分からなくなった頃、ぷつり、と音を立てて糸が切れたかと思うと、ほとんど無意識的にその淀みがどろりと溢れ出した。
「僕、もう、本当に辛いんだ。だからせめて…君と過ごせて少しでも綺麗で幸せな間に、君の傍で死なせてよ」
思いがけない僕の言葉に、彼は何も言えないようで、短いは、はっ、という呼吸の音だけが耳に深く聞こえてきた。
ようやく少しばかりもつれた思考が落ち着きを取り戻し始めた頃、彼はただ一言、やめなさい、とだけ言って僕を抱き寄せた。