【イルアズ】蜜月 気が付いたら、夜が明けていた。
「……やっちゃった……」
ぴぴぴ、とス魔ホが出立の時間を告げるのを聞いて我に返った入間は、アリスの髪を撫でていた手を止めてス魔ホへと手を伸ばした。
「……もう、そんな時間でしたか……」
シーツの中でとろとろと微睡んでいたアリスもうっすらと目を開ける。掠れた声で、彼にしては珍しく億劫そうな声でそう言うのに、少し無理をさせすぎたことを悟って一層反省する。
「ごめん、調子に乗りすぎたね」
「……いえ、私こそ……」
長い、桜色の前髪を掻き分けて、額にキスをしながら謝罪の言葉を口にすると、アリスは嬉しそうに頬を染めながらも、どこか戸惑ったように俯く。
「今夜は、時間を気にしなくて良いと思ったら……つい、抑えが効かず……」
「ふふ……可愛かったな、今夜のアリス」
何度も、もっと、と素直に強請ってくるアリスの姿なんて、まだ学生の身分だった頃、ごく稀に二人きりの夜を過ごせたときに、片手の指で数えられる回数味わっただけだ。それが見れたのが嬉しくて、つい、断ることも出来ず、こちらもまた何度もせがんでしまって、お互いに熱に流されるまま、気付けば朝だった。
その一部始終を思い出しながらアリスの頬を撫でると、見る間にそこが朱に染まる。
「かっ……揶揄わないでください……!」
茹で魔蛸のように真っ赤になったアリスは、シーツをたぐり寄せて鼻の頭まで隠してしまう。ごめんごめん、と謝りながら、その桜色の髪に口づけた。
「……おじいちゃんに、少し遅くなるって連絡しないと。アリスは時間大丈夫?」
今日はお互い、実家に月越しの挨拶に行く予定になっていた。昼食がてらに顔を出し、夜にはまた戻って、一緒に夕食を、というスケジュールを立てていたのだが、その予定通りに行動するならば、今すぐに家を出る必要がある。これからシャワーを浴びて身繕いをして……と考えれば、スケジュールは一時間ほど後倒しだ。
「その件ですが入間様……」
連絡するならオペラさんかな、とベッドの上に半身を起こしてス魔ホをぽちぽちとしていた入間の腕を、アリスがくいと引いた。
「どうしたの、アリス?」
「差し支えなければ……私もご一緒させて頂けませんか」
「えっ、それは大丈夫だと思うけど……アムリリスさん怒らない?」
「それは、その……入間様が差し支えなければ……サリバン公とオペラさんへのご挨拶が済みましたら、夕食は是非、アスモデウスの家で、ご一緒に……母も喜びます」
「えっ、それは全然、大丈夫だけど、いきなり押しかけてご迷惑じゃ無い?」
「魔王様においで頂くのを光栄と思いこそすれ、迷惑だなどと思う家がありましょうか。それに、いついかなる時でも来客を迎えられるように万事整えておくのが、貴族の家の使用人というものです。特にこの時期は月越しの挨拶に来る者も多いですから。――なにより、肩書きなど関係なく、入間様がいらしてくれるのを迷惑がるような者、アスモデウス家にはおりませんよ。……ああ、ビオレとリリーが来ていたら、嫌な顔をするかも知れませんが」
最後の一言を付け加えながらクスクスと笑うアリスに、もう、と入間は頬を膨らませる。彼女たちがまだ幼かった頃、遊んで欲しい遊んで欲しいとせがむ二人に、何度も何度も「イルマ様の方が優先」と言っては小さなレディたちの不興を買っていたのはアリスであって、入間の落ち度では無いにもかかわらず、未だに彼女たちはどこか入間に冷たいままだ――人間界の良家の子女であれば、例え嫌いな相手でも建前上にこやかに接するように躾けられるのだろうが、何せここは魔界なので、顔を合わせるなり面と向かって「キライ!」と言われなくなっただけマシと思わねばならない――。
とはいえ、そうまで言われれば断る理由はない。一度溜息を吐くようにして頬の中に貯めた空気を追い出すと、それならお邪魔しようかな、と微笑むと、アリスはすっと入間の二の腕にその白い手を沿わせるようにして、入間の肩の辺りに頬をすり寄せた。
「……ありがとうございます。これで、今日も一日、ずっと一緒に過ごせますね」
ふふっと笑うアリスの言葉に、その真意を悟った入間は、昨夜囁かれた「覚悟してください」の一言を思い出して赤面する。てっきりその言葉は、色事のお誘いだとばかり思っていたのだけれど――そして勿論その意図も多分に含まれていたのは間違いないだろうけれど――それ以外の点でも、あらゆる策を弄して「実感」させてくれるらしい。
「ふふ……そうだね、アリス」
自分の肩口にすり寄ってきた顔をそっと持ち上げて、愛らしい唇に軽く口付ける。
ほんの戯れのつもりで軽くその唇を舌の先で擽るってみると、まだ熱の残る唇は薄らと開いてそれを招き入れようとするものだから、ゆるゆると緩慢にその薄く甘い唇を舐って誘う。すると、焦がれたように長い舌が迎えに来る。それに舌を沿わせて応えると、二つの舌のあわいから、くちゅ、と微かな水音が響く。頭の奥が痺れるような感覚と共に、このまま布団に戻ってしまいたい欲が頭をもたげてくる。それを後押しするようにアリスの両腕がゆるりと首の後ろに巻き付いてくる。
「……ん、待って待って……また『気付いたら夕方』になっちゃう……」
必死の思いで誘惑を振り切って囁くと、アリスは妖艶としか表現できない表情で笑って、「それも悪くないかと思ったのですが」と唇を合わせてくる。
「……んんん……おじいちゃん達待ってるし……アムリリスさんも待ってるでしょ……起きよ……明日から十三月の間は、特に予定も無いんだし……」
「ふふ……そうですね、では、今夜戻ってきましたら、また……」
アリスは離れ際にぺろりと入間の唇を舐めると、すっと潔く身を引く。その最後の悪戯に尾骨のあたりを一つ震わせた入間は、アリスに少し遅れてからベッドを降りたのだった。