ある日の副官02 歓意楼 更衣月に一度の〆日、私は督公の代理で歓意楼に向かう。
崔女将は、こちらの都合も考えず
「夜は忙しいから昼間に」
と言ってくる。
私もそれなりに忙しいのだが、今回は特別だ。
歓意楼で、夏前に誂える装束の打ち合わせがあり、汪督公の夏のお衣装を私がお選びする事になっているのだ。
やはり白地で爽やかな感じがいいだろうか。
いや、紺地の薄物もいいな。
緑も涼しげで良さそうだ。
私はいつもより少し浮き足立っていた。
「丁大人、ご足労かけました」
裏の通用門から中へ入った私に、崔女将は慇懃に礼を言ったが、本心ではそのようには露ほどにも思ってはいない事を、私は知っている。
「仕立て屋が来る前に、今月の帳簿の確認をしましょう」
崔女将の、心の中までぐいぐい入ってくるような、何でも分かっていますよとでも言いたげなあの目が、私は苦手だ。
特に、私が督公とご一緒の時、じっとこちらを見ては意味ありげにニヤリと笑うのだ。
『貴方のお気持ち良く分かりますよ』
と言っているように思えてならない。
ああ、だめだ。
今は目の前の業務に集中しよう。
よし、今月も問題なく利益が出ている。
督公に良い報告が出来る事に、私は安堵した。
「今月もしっかり儲けましたからね!きちんと汪督公にお伝え下さいね?では、参りましょうか」
崔女将の案内で、楼内の庫裏へと向かう。
既に、商人達が反物や装飾品、化粧品などを並べており、女達が楽しそうに品定めをしている。
丁容が姿を見せると、出入りの商人が恭しく頭を下げながら、
「今回は夏物を、ということでしたので、涼しげな色目を揃えて参りました」
「では早速見せて貰おう」
丁容の反物選びは、とにかく速い。
ざっと並べられた反物を見ては、良いと思ったものにそっと触れて感触と品質を確かめた後、すっと奥へずらす。
この時点でどれとどれを取り合わせて、どのような意匠を施すかまで、ほぼ彼の頭の中で決まってしまっている。
「あら!丁大人。そんなに良いものばかりお選びになられては、私のものどころか、ウチで一番の売れっ子、青歌の衣装も作れなくなってしまいますわ」
「女将はどれが欲しいんだ」
「これは青歌に似合いそうですし、これは私が…」
「あっ、いや、それは是非ともあの方に!」
丁容が何とか死守しようとした反物は、紺色で所々縦糸に銀糸が入った薄物だった。
それを袷のようにして、縁と裾に紺の絹糸で刺繍を入れて、襲は白の綸子、と丁容の頭の中では購入と仕立てが一番最初に確定していた反物なのだ。
毎度の事にすっかり慣れた様子の商人は、丁容と女将のやりとりを見てくすくすと笑っている。
「大人の仰る『あの方』に一度お目通り叶いましたら、もっとお似合いのお品を揃えられると思うのですが」
崔女将は、無理無理と言うように手を振って答えた。
「『あの方』にお会いになりたいのなら、是非今宵、歓意楼でたんまりお金を落として行ってくださいな。まあ…お支払い頂いたとしても、無事にここを出られるかどうか…」
そう言いながらチラリと私を見た。
『会わせる訳がないだろ!』
私は心の中で毒づいた。
しかし、崔女将の守銭奴振りからして、いつ督公に何かが起こらないとも限らない。
例えば、忙しいからと言って酌婦の真似事をさせられるかも知れない。
薄暗い部屋で、髪を下ろして女装すれば…
いやいや、私は何を考えているのだ。
…そんなの可愛いに決まってるじゃないか…
「丁大人。これなんかとっても『あの方』にお似合いだと思うんですけど…」
そう言いながら女将が差し出したのは、薄桃色の紗だった。
「いや…それはちょっと…『あの方』のお好みでは…」
私の心を見透かしていたのか?
そこへ商人が気を持たせるように
「それは崔女将にお似合いですよ!」
と言ったのだが、私はついつい本音が出てしまい、
「いや、女将にはちょっと派手過ぎるだろう」
と言ってしまった。
女将は、筋の悪い客を見るような厳しい目付きでじろりと睨みつけた。
あ、これは不味い事を言ってしまったな…。
そこへ、澱んでしまった空気を打ち払うように、涼やかな声が背後から聞こえた。
「丁大人、女将さん。遅くなりまして」
「青歌、早く選ばないと丁大人に良いものは取られてしまうわよ!」
青歌は、優雅に手を口元へ添え、ゆっくりと二人を眺めながら
「だって『あの方』は、この妓楼の誰よりも艶やかで綺羅綺羅しいのですから、良い物をお召しになって当然では?」
と言った。
うん。良く弁えているな。
女将と青歌が髪飾りの話に花を咲かせているうちに、私は出入りの仕立て屋を手招きし、買い上げた反物を手渡しながら、仕立てと意匠の詳細を説明した。
そこへ、音もなく女将がやって来て
「丁大人、この白地の綸子ですけどね。こちらと交換しません?」
とのたまう。
女将が差し出した方も悪くはないのだが、私が選んだ方は織りで表された地模様が細かく、薄絹を重ねたら更に映えるだろうと考えていたので、私は首を横に振って拒否した。
すると、崔女将はニヤリと笑い、扇の陰でそっと私に囁いた。
「ご存じだと思いますが、私は長年、万貴妃様のお側近くでお仕えてしておりましたのよ?どういう意味だかお分かりになりますよね?」
私は思わず女将の顔を凝視してしまった。
確かに、妓楼を任せる人材については、貴妃様からご助言があったとは聞いていたし、実際に貴妃様の御手元の精鋭が派遣されて来たというお話だったと記憶している。
「つまり…?何を仰りたいのです、女将」
私は動揺を隠しきれていないのを承知で、極力涼しい顔で聞き返した。
「まぁ、いやですわ。お分かりでしょう。『あの方』が侍従に上がられた頃、十年近く前でしたねぇ。今でも鮮やかに思い出します。本当に稚くて、お可愛らしくて」
女将は扇の向こうでニヤニヤしているに違いない。
「今日は懐かしいお話をお聞かせしたい気分なのですけれど…」
「けど?」
「丁大人。女は単純なのですよ。気に入った衣を手に入れると機嫌が良くなるものです」
「分かった。分かりました!どうぞお持ちになって下さい!でもそれだけですよ!」
そう、私如きがこの女将に敵う筈がないのだ。
そして、『懐かしいお話』で散々引っ張られるであろう事も、容易に想像出来る。
しかし……!
聞きたい聞きたい聞きたい!
督公の幼い頃のお可愛らしい失敗談とか、思わずほろりとしてしまうような心温まる逸話とか!
絶対ある!間違いない!
しかし、崔女将に少しでも弱みを握られることこそ、命取りだ。
私は出来るだけ、無関心を装わなければならない!
「女将さん。丁大人、どうなさったんでしょうね?随分怖いお顔で」
「さあ?」
そう、崔女将には誰も敵わないのだ。