花に水を、君には温かいスープを目を覚まし時計を見る。時刻は既に夜だった。
ベッドから身を起こし、洗面所で顔を洗う。まだ頭はすっきりとしないが、簡単に身だしなみを調え、部屋の外に出た。自分としては珍しく、寝起き直後にそれなりに腹が減っている。
ここにいる連中は夜であろうと仕事、あるいは単純なライフサイクルのために起きている者も少なくないが、とはいえその割合は昼に比べれば少なくなる。そのため、艦内は静かだった。通りがかる部屋を覗けば、事務方のオペレーターなどがまだ仕事をしているのが見える。
食堂まで赴く。予想通り人はいなかった。厨房にも誰もいない、と思われたが、丁度誰かがドアを潜って出てくるところとでくわした。
「あれ、もしかして今から食事に?」
そのオペレーターのことはよく知らなかったが、何度か食堂を手伝っている様子を見かけていた。恐らく資材部の誰かだろうと予想をつける。ロドスの食堂の管理は人事部の管轄だったが、実際の運営は資材部によって行われていた。
無言でうなずいてみせると、オペレーターは申し訳なさそうにしつつ、厨房の鍵を手渡してきた。
「すみません、もう閉館時間なので……鍵はあとで、資材部のオフィスに届けてくれればいいですから。誰かしらいるとは思うんで」
ここのロドスの食堂は、調理師と呼べる人員の殆どを、有志として募ったオペレーターたちに任せている。その他の業務、食料の確保と調達を行うのが資材部のスタッフたちの分野とされていた。食堂は基本的に朝から始まり、夜が耽る前には閉館する。閉館中は一応鍵をかけ、用のない職員たちが入り込まないような運用がされている。
だが、ロドスは24時間動き続ける移動都市でもある。その運行運営に関わる人員の全てが、必ずしも模範的な規則正しい生活をしているとは限らない。食堂が閉まる時間にまだ起きていて、食事を必要とする職員も少なからずいる。そういう者は大抵、売店などで購入したレトルト食品で空腹をしのいでいるようだ。
しかしながら、資材部に顔がきく人間や、日ごろから食堂の厨房によく出入りしている者が、時間外に厨房を限定的に使用することもまた良くあることだった。このスタッフも、俺の目的がそれだと思い込んだのだろう。結果としては誤った思い込みではない。ありがたく鍵を受け取った。
厨房の中に入る。電気をつけ、大きな冷蔵庫の片隅にあるものを見つける。スープなどの仕込みに使う肉の塊を見付けた。
一般にガラ、とまとめて呼ばれるその塊は、肉よりも骨や筋、皮といった部位の比率が高いものだ。肉を取り除いて食すにも、その作業に割り合うほど美味いわけではない、言ってみれば解体時に出て真っ先に取り分けられる、可食非推奨部位である。だが、食肉としての旨みや脂といった部分はしっかりのっているため、煮込んで染み出した煮汁をスープなどに転用することが多い。
塊から一つの大きな骨を取り上げる。それを調理台に置いて手を洗い、ついでに取り出した大きな鍋に湯を沸かす。肉用包丁と深いボウルも引っ張り出し、包丁で骨から肉部分をそぎ落とす作業を始めた。
ある程度柔らかな肉部分を落としたあと、残りの骨部分を鍋に入るサイズに砕き、沸かした湯にくぐらせる。数秒だけ煮込んだあと取り出し、普通の鍋は片付け、圧力鍋を用意した。本来なら数時間は煮込まなければならない料理作りに関し、こういう機構の調理器具はその時間をかなり短縮できる。
圧力鍋には更に、数種類の葱、ニンニク、生姜を刻んで、骨と一緒に入れる。水を注いで蓋をしっかりセットし、不備がないか確認して火にかけた。
調理時間を短縮できるとはいえ、すぐには出来上がらない。待つ間、一度厨房を後にし、温室に向かうことにした。寝ている間の時間を逆算すると、そこそこ長い間自分の担当エリアを見に行けていなかった。
換気扇を回し、火災報知器の電源が入っていることも確認して、食堂を出る。
廊下には相変わらず人はいなかった。
温室には鍵はなく、基本的にいつでも誰でも入れるようになっている。そこにも人はいないようだった。
ここの管理人もこの時間だと流石にいないか、と思いつつ奥に進む。すると、小さな人影が蹲っているのが目に入った。その後姿はよく見ると、よく見知った少女だ、と認識する。
大きく特徴的な耳、そして九本ある尾を全て萎れさせ、俯いてしゃがみ込む少女。戦闘オペレーターでもあり、医療オペレーター見習いでもあるスズランだ。彼女の尾を見間違うことはない。
わざと少し大きめに靴音を鳴らすと、少女の体がびくりと跳ねた。振り返るその刹那、潤んだ目と赤らんだ鼻の頭が見える。驚いたような顔はしかし、俺と目が合う瞬間、繕うような笑顔に変わった。
「あ、お兄さん……」
少女は慌てたように立ち上がる。
「起きてて平気ですか? 具合悪くありませんか?」
彼女は近づいてきて、俺の手を自然に取った。
彼女が俺を心配するのにも理由がある。現在、鉱石病が悪化して過眠症状を発症している俺に対し、監視員兼介助人としてあてがわれたのがこの少女だ。真面目で仕事熱心な少女は、今はその役目をかなり熱心に遂行している。
「大丈夫だ」
そう答えつつ、自分の担当エリアを見る。そちらに足を向けようと思うと、少女も隣を歩いた。
「こんな時間に珍しいな」
「え? あ、そうですね……」
さりげなく少女に話を振る。彼女はあまり話したそうではない。理由など興味はないが、真面目な彼女がルーティンを外れた行動をしているには、それなりの事情があるはずで、それが危険を孕むものかどうかを確認するくらいはしておきたい。因果な話だが、今やこの幼い少女を見守る大人の輪、というものに、俺も参加させられているためだ。
この広い温室には、一応個人スペースが割り当てられている。自分で世話したい植物の鉢植えなんかを置いておくようの措置だ。
久し振りに個人スペースに赴くと、置いてあった鉢植えは皆活き活きとしていた。寝ている間、誰かが世話をしてくれていたのだろうと察する。ここの管理人を含め、園芸を嗜む者には世話好きが多い。あるいは、管理人が主導して、なかなかここに足を運べなくなった俺の代わりに、物言わぬ草花の世話を引き継いでくれたのかもしれない。
「ここの植物は、皆で分担してお世話しておきました。園芸書通りにやったので、多分大丈夫だと思います」
俺の予想を真実だと裏付けるよう、隣の少女が説明する。
「後で礼を伝えておいてくれ」
そう告げ、踵を返そうとした。見たところ、俺がここで今、わざわざやらなければならない作業もなさそうだった。であれば、火をかけっぱなしの厨房に速く戻ったほうがいい。
「もう寝ますか?」
傍らの少女が問いかける。
「? いや……」
答えつつ少女を見る。顔はどうにか笑顔を繕っていたが、耳はいつもより下がっている。何か落ち込むことがあって、それを随分引きずっているな、と察した。
「飯にするつもりだった」
そう答えると、少女が何かいいかけて口ごもる。だがその言葉を待たずに歩き出した。
「お前も来るか?」
問いかけると、少女は素直に返事をした。
「は、はい!」
歩幅の小さい足音が後をついてくる。
普段の彼女であれば部屋で休んでいるであろう時間だ。それがわざわざ、こんな場所にいるということは。少女の繊細な心はわからないが、今すぐ休むつもりになれないだろうということは予想できる。でなければ、いつまでも俺についてこようとは思わないはずだ。役目などを言い訳にしたとしても。
「お兄さん、料理好きなんですか?」
食堂に戻り、彼女と共に厨房に入る。圧力鍋はまだ火にかけたまま、冷蔵庫から色々と食材を取り出した。
「必要な時にやる」
そう言いつつ、調理台に食材を並べていく。
「食べるか?」
興味津々に覗き込んでいた彼女に問いかけると、少女は数秒悩んだ後小さくうなずいた。その顔は恥ずかしそうに、ほんのりと赤らんでいる。
「私も手伝っていいですか?」
少女の申し出を受け、手を洗うよう声をかける。ここまでついてきたのだ、どのみちそのつもりだったのだろう。
鍋に水をくみ、火にかけ沸騰するのを待つ間、彼女と手分けして野菜の下ごしらえをする。キャベツとニンジンをよく洗い、キャベツは外側の葉を外しニンジンは皮をむく。
「包丁を使ったことは?」
「切る大きさとか教えてもらえれば出来ます。どうすればいいですか?」
彼女にはキャベツを切ってもらうことにする。葉の塊を最初にざっくりと切り分け、数センチほどの大きさに切り分ける。大きさはまばらでもいい、と告げ、その間にニンジンを切った。ニンジンは半月状に細かく切っていく。まだキャベツと格闘している彼女の横で、仕上げ用の葱も刻んだ。
「時々、ビスケットを焼いたりはしたことありました。お菓子以外を作るのは、初めてです」
そういう彼女は実際楽しそうだった。
続いて、冷蔵庫から先ほど骨からそぎ落とした細切れの肉と、袋に包装された麺を取り出す。麺は白くて太い。あまり馴染みのないそれに、案の定彼女が反応した。
「なんですか? それ」
確か少女の出身、というより親のどちらかのルーツは極東にあったはずだ。だが、そこで育ったわけではなかったのだろう。これは極東方面でよく食されている麺だった。
「うどんって聞いたことないか」
そう言うと、少女がぱっと顔を明るくする。
「あ、聞いたことあります! お父さんが、とっても美味しいって」
「食べたことは?」
「初めて食べます!」
明るく元気な返事をする少女。つい笑みを浮かべながら答えた。
「そいつは良かったな」
包装を一旦調理台に置き、圧力鍋を火から下ろす。圧力を抜いて蓋を外すと、煮だったスープの匂いが一気に充満した。用意していたボウルに中身を漉し、スープだけを別の鍋に移して火にかける。白く濁ったような液体を、少女がまた物珍しそうに見ていた。
火にかけたスープに塩を振り、細切れの肉を投入して煮込む。灰汁取り作業を少女にやらせてみると、真剣に鍋の中身に集中しだした。次いで、湯をわかしていたほうの鍋に、包装を破いてうどんを二人分投入する。麺の量は一人分がやや多く包まれていたが、二人で分ければ程よいだろうと思った。
ある程度煮たあと、ニンジンをスープのほうへ投入し、火を通す。肉に火が通り色が鮮やかになる頃、最後のキャベツも入れてしまった。うどんは少し煮すぎかと思う程度で火から下ろし、湯切りして丼にそれぞれ盛り付ける。
全ての具材に火が通ったのを確認し、スープも完成と見なした。一度味見をしてみて、塩や胡椒を追加して味を調える。あまり塩辛くしてもどうかと思い、控えめに。
スープをそれぞれ、麺を盛ってあった丼に注ぎ込む。大雑把に具材も分けて盛り、最後に葱を散らした。俺のほうの丼には、追加で柚子胡椒も少量乗せる。
「出来上がりですか?」
うなずいて見せると、少女の顔がほころんだ。丼と箸とをプレートに乗せ、食堂に運んでくれないか、と彼女に頼む。その間、使った鍋などの調理器具を、薄めた洗剤入りの水に漬けておいた。
食堂に移動し、手近のテーブルに向かい合って進む。彼女は箸を手に取った。持ち方は親から教わりでもしたのか、綺麗なものだった。
「いただきます」
元気よく宣言した手前何も言わないのもどうかと思い、小さく言葉を続ける。少女は麺を掴もうとして、その表面が非常に滑りやすく掴みにくいことに気付いたようだ。
「柔らかく茹でたから箸で切れるはずだ」
そう声をかけると、少女はそうやって食べることに切り替えたらしい。俺は構わず麺を啜った。
「美味しい」
少女は感嘆の声を漏らした。見ると、レンゲでスープを掬って飲んでいる。自分で切ったキャベツを口に運んだあと、実に嬉しそうに微笑んだ。
「美味しいです」
「良かったな」
そう言ってわずかに口元を綻ばせ、食事に戻った。耳も尻尾も、いつのまにか元気を取り戻している。
「これ、なんてスープなんですか?」
咀嚼の合間に、彼女が問いかけてきた。
「炎国のものだ。白湯という」
「うどんは日本のものなのに、一緒に料理してこんなに美味しいんですね」
「この麺も、元々は炎国の麺が極東に伝来したものが変化したものだそうだ」
「そうなんですか? お兄さん、詳しいですね」
彼女は大輪の笑顔を見せた。
幼くして戦場に立つ境遇に立たされることは、珍しいこととは言えない。だが、立たずともよい場合があること、または、出来れば立たないほうがいいことくらい、俺もよく弁えている。
彼女が今ここにいるのは、不運と運命とが折り重なった末の悲劇かもしれない。それでも、彼女は自分の意思を持ち、その意思によって、自らの病と向き合い、自らの職務と向き合っている。自分の生き方を自分で決めている者は、嫌いじゃない。そうであるなら例え相手が年下であろうと、尊重することに異論もない。
ただ、どんなに気丈に振る舞おうと思っても、感情というものがある以上、気分が沈むこともあるだろう。その理由がどんなに些細で、第三者から見てくだらないものだったとしても。この世界に多く転がる大きな問題に比べ、とるにたらない事だとしても。
それを乗り越えて前に進むのもまた、生きる力というやつだ。ただ、その際に誰にも助けを求めずにするべきである、とまで言うのは酷だろう。己で勝手に課すものなら、放っておくが。
彼女は強い。だがその強さは、自立していることからくるものではない。彼女は的確に、人に助けを求めることができる。本人がどこまで意識しているかは知らないが。それは、彼女が人を助けるのと同じくらい、自然に行われる。それもまた、才能であり生きる力だ。そして、俺には壊滅的に備わることのなかった力でもある。
色々と理由をつけたが結局、俺自身彼女を放り出しておけない、お人よしだと認めたくないからの言い訳でもある。人の多い、とくにこういう善良なタイプが多い所に交わるのは、こういうリスクがあるな、と反省する点だ。情けはいつでも切り離せるようにしておかないと、結局傷つくのは自分だ。
だが、この少女のほうは、俺を放り出す気はあるのだろうか。
「お兄さん、またいつか、料理を一緒に作ってくれませんか?」
彼女は実に無邪気に、そう問いかけてきた。
放り出す気はなさそうだな、と内心で苦笑する。
「そのうち、またな」
そう答えると、彼女はまた花やぐ笑顔を見せた。
それを褒美として、なんとか割り切るしかない。自分にいい聞かせ、食事に集中した。