Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    せなかがかゆい

    ☆quiet follow Send AirSkeb request
    POIPOI 9

    せなかがかゆい

    ☆quiet follow

    オメガバもどきの勝デ。
    初めての同衾と、巣づくり、でっくんが本当に怖かったものの正体。

    夜襲と敗走(オメガバのようなもの⑨)たとえば、初夏の葉っぱが陽光をあびて展開するように。または深く潜った場所から水面に引き寄せられるように。自ずと訪れた目覚めは、とてもまっすぐだった。
    薄掛けのなかで両腕を伸ばし、続いて両脚を。さらに寝返りをうって仰向けに全身を伸ばす。腕に触れるシーツがひんやり心地いい。
    夏のおひさまはすでに空に在り、カーテンの隙間からこぼれる光がちらちら踊った。まっさらで、輝かしい朝だ。
    枕許で充電している端末に触れると、時刻はアラーム設定の十五分前。これまでの僕なら早起きのご褒美とばかりに二度寝を貪っていただろうが、最近は少し違う。弾みをつけて上半身を起こした。
    まずは洗面所へ。ざぶざぶ顔を洗って髪を整える。毎朝、もっさもさ大爆発で収拾がつかなかった寝癖も、かっちゃんに乾かしてもらうようになってからは、もさっ程度でおさまるようになった。だから手ぐしで充分。
    続いて向かうのはキッチンだ。
    「昨日はご飯だったから、今日はパン〜パンパンパパーン」
    でたらめな唄とともに電気ケトルのスイッチをオン。冷蔵庫を覗いて「卵よーし、ベーコンよーし、レタスにトマトもよーし」。食卓の彩りを確認する。残り物のかっちゃんお手製、野菜ごろごろコンソメスープを温めれば、おなかも心も満たす朝ごはんになるだろう。
    材料を並べた頃、同居人の起きる気配が届く。わずかな待ち時間すらも惜しくて、リビングと廊下を隔てるドアへ向かった。出迎えのリズムはアレグロ。僕に尻尾が生えていたならば、きっとぐるんぐるんに切れそうなほど振っているに違いない。
    「かっちゃん、おはよ」
    「はよ」
    リビングのドアの前でかち合うと、かっちゃんが眼を瞠った。次いで双眸はたわんでゆるみ、やわらかく笑う。
    「寝癖、直ってねーぞ」
    からかいまじりに弾んだ声そのままに、僕の髪をぐしゃぐしゃ掻きまぜた大きな手のひらが後頭部を引き寄せた。てっぺんを少し逸れたつむじへ、ひたいから髪のはえぎわへ、てんてんとくちびるが降ってくる。あたたかい息吹きで髪がそよぐのを合図に、僕はほんの少しかかとを浮かせた。お返しのキスは頰と鼻先に宛てる。
    仕上げとばかりにくちびるどうしをしっとり重ね、かっちゃんが笑った。
    「出久のくせに、早起きじゃねえか」
    「へへへ。ここ何日か、すごくすっきり起きられるんだ」
    明確な変化を感じるようになったのは、ごく最近のこと。ちょうどかっちゃんとキスしたりハグしたり、つがいとして当然のふれあいを連ねるようになった辺りだろうか。生活に新しいルーティンが加わってしばらく。僕は心身ともに絶好調だった。
    これまでが不調だったつもりはない。ヒーロー活動に支障をきたすようなピンチは皆無だし、職務は毎日全力投球。ただ、この変化を敢えて言葉にすれば、レベルアップした感じ。自分の器が広がったという印象が強い。
    「かっちゃんと一緒にいるからかな」
    キッチンで朝食の準備を再開すると、ぼごっぼごぼごぼごぼご。傍らの電気ケトルが熱心に仕事を続けている。沸騰するお湯の唸り声に紛れさせ、とっておきの秘密をそうっと明かした。
    「君とぎゅっとして、その……キ、キス……できるようになってから、すごく調子がいいんだ」
    「……もだわ」
    「うん?」
    聞き取れなかった言葉を問うと、後ろから腕が周り、おなかのあたりで交差する。僕の背中とかっちゃんの胸からおなかが隙間なくくっついた。前から抱きしめられても、こうして後ろからでも、あつらえたように重なるかたちが不思議な一方で、当然だとも思えた。
    ふたりは半身で、一般に「運命」とも呼ばれる唯一無二の存在。だから互いのおうとつがぴったり重なる。だけど、今の僕はそれだけが理由じゃないと知った。
    耳にやわらかな熱が触れ、吐息とともに声がそそがれる。
    「俺も、……おんなじだって言ったんだよ」
    「へへへ」
    こうしてかっちゃんが言葉をくれて、臆病な僕を諦めず、手を差し伸べ続けてくれたから。僕らは互いを埋めるかたちになれる。きっとこの先も、ふたりのペースで僕たちらしい関係をつくってゆける。
    誇らしくて幸せな朝を味わった僕は、そう信じて疑っていなかった。
    ——それが、どうしてこうなった!?
    まばたきを二、三度繰り返し、寝ぼけ眼で状況把握に勤しむ。だけどいくら目を凝らそうとも墨を流し込んだような闇が広がるばかりで、一向に事態がつかめない。それもこれも、真っ暗な部屋で鼻先に黒い布が押し当てられているからだった。
    暗がりで視覚を奪われ、さらには両腕を拘束。状況だけなら事件や会敵を疑うところだが、危機感知は黙ったまま。僕自身も焦ることなく
    それもそのはず。匂いが、ぬくもりが、かっちゃんを示していた。
    なんと! 気がついたら、同棲している幼なじみの部屋で、彼に抱きしめられて寝ていました!!
    あれ、字面にインパクトがない。それもそうか。僕らはハグもすればキスもする。正式なつがいになるべく、たゆまず練習を重ね続けてきた。つまり、世間的には恋人や伴侶にも近しい間柄。同じベッドで寝るくらいは当然だろう。
    問題は、ここにたどり着くまでの経緯が、僕の記憶からきれいさっぱり失われているという事実。
    日勤だったかっちゃんを見送ったあと、遅番の僕は昼頃に出勤して、市街地パトロールへ向かった。途中、事故発生に伴う緊急出動の入電。パワー系とレスキュー経験豊富な数人で連携して対処に当たり、人的被害はゼロで事態は収束した。よし、ここまでは覚えている。
    その後に起きた一つ一つの出来事をなぞり、退勤して玄関を開けたところで僕の意識はブラックアウト。すっかりさっぱり思い出せない。
    そうして今、枕許の時計を見やれば日付が変わって午前二時。おおよそ四時間もの記憶が抜け落ちたらしい。
    精神操作系の個性だろうか? 発動条件は? 誰にどのタイミングでかけられた? 時差で発動するならば、個性所有者を探すだけでもきっとひと苦労だ。パトロールでも事故現場でも、不特定多数の人と関わったし、すれ違っただけの人もカウントしたら、街ひとつの人口に匹敵するに違いない。
    「……ど、どうしよう」
    今すぐかっちゃんを起こして事情を説明し、救急病院の個性科に飛び込むのが正解だろう。ただそれは、何事もなかった場合に限られる。たとえば万が一にも僕がかっちゃんに、よからぬことをしていたら——考えるだけで背筋が凍りついた。正気を失っていたのだから、可能性はゼロじゃない。
    とにかく、優先すべきは状況把握だろう。おそるおそるベッドから抜け出そうとしたところで、ぱちん。弾かれたように鋭く赤い双眸が現れた。
    「か、かかかかかっちゃんっ!?」
    構えもなく対峙した僕は、悲鳴じみた声とあげると同時にのけぞった。しかし離れるどころか、腰に回された腕にぐいっと引き寄せられてしまう。たくましい胸でほっぺたがひしゃげた面は、間違いなく不細工だ。
    「ったく、ブツクサうっせぇな。寝ろ」
    どうやら思考のすべてが漏れ出ていたらしい。文句はいつもどおりなのに、その響きはふあふあ頼りなく夢心地。まどろみのふちを彷徨いながらあどけない。本人には絶対に言えないけれど、すごくかわいかった。
    つられて僕もつい、子どもじみた口調になってしまう。
    「起こしちゃってごめん。だけど聞いて。個性事故に遭ったみたい。帰ってからの記憶がないんだ」
    怒られるのを覚悟して白状するけれど、かっちゃんはただ僕を抱きしめる腕に力を込めるだけ。眠そうな声のまま答える。
    「ンなことかよ」
    「ええええ」
    すげなく一蹴されて力が抜けると同時に、ほんの少し安堵した。慎重な彼が些事だと判断するなら、信じていいのだろう。
    「どこぞのモブ個性の精神操作じゃねぇし、記憶障害でもねぇ。……つがいへの欲求反応だろ。いー匂いぷんぷんさせて帰ってきたと思ったら、部屋入ってきて、かちゃかちゃ鳴いとったわ」
    「う、うそっ」
    個性事故どころの話ではなく、本能に塗れてとんでもない醜態を晒したらしい。
    まさか危惧したとおり「よからぬこと」をしでかしていたなんて……羞恥のあまり顔が熱くなる。できることなら今すぐ逃げ出して、地面にスマッシュ一発で穴を掘り、地底深くに埋まってしまいたかった。
    「嘘なんかつくかよ。てめぇ、ほんと覚えてねぇんか」
    不穏な思考を読んだのか、かっちゃんの腕が力を増す。強く優しい拘束から抜け出すなんてできるはずもなく、僕はやっぱり身をあずけたまま。せめてもの代わりに謝罪した。
    「うん、ごめん」
    「もういい。とにかく寝ちまえ」
    後頭部をぐいっと引き寄せられ、ふたたび頰をつぶされる。乱暴な仕草が苦しいのに、胸の奥は喜びに音を立てた。おかげで眠気は両手を振ってサヨウナラ。無言の圧で逃亡を阻止する男と、ぎゅんぎゅんと唸る心音を聞かれてしまわないかと恐れる男——僕だ——が残されてしまえば、まんじりともできるはずがなかった。
    「……かっちゃん、寝られそう?」
    「出来るか出来ないかじゃねえ。やるんだよ。プルスウルトラしろよ」
    「無理言うなよ」
    「ああ?」
    暗がりのなかで獣が唸る。身体をぴったり重ねているせいで、低い声がじかに鼓膜を震わせた。
    不機嫌なかっちゃんがおそろしい。だけど、こうして同じベッドに寝ていると、特別なふたりになれたような気がして、くすぐったいのも事実だった。おなかの奥でじんわり熱が広がり、痺れるような感覚に襲われる。切ないうずきは鼓動と同じ速さで響き、次第に加速してゆく。
    わけのわからない感覚に焦燥を覚えたとき、おおきな手のひらが、おもむろに背を上から下へ、下から上へ。時間をかけて往復した。続けて二回、ぽんぽんと叩いてゆるく抱き直される。まるで子どもをあやすような、張り詰めた神経をなだめるような仕草だった。
    優しいかたちの手のひらを意識するうち、唐突に理解する。薄布越しに味わう体温は、あのとき欲しいと告げることができなかった手だ、と。交わすことのなかった穏やかなぬくもり。それが時を経た今、惜しみなく与えられている。
    ——そうだ、あのとき。
    うだるような夏が再来し、ぶわりと全身があわだった。収まりかけていた拍動が乱れると同時に呼吸も浅くなり、身体を横たえているのにめまいに襲われる。触れるぬくもりを意識すると、鼓動がいっそうでたらめに走った。
    「……っ」
    まぶたの裏には、いつだって閉ざされた資料室がある。忘れたつもりになっても、大丈夫だと理解しても、決して逃げられない記憶。
    本能がただひとりを求めた。呼吸もままならないほどの熱に苛まれ、欲しくて、欲しくて、他には何も見えなかった。くるしい。だから欲しい。こわい。でも欲しい。
    あのときと、同じ衝動が身体を支配しようとする。
    まとまらない思考が渦を巻き、僕から理性を引き剥がそうとしていた。はぐれてしまわぬよう、必死で指に力を込める。だって僕がこわいのは、本当に恐れているものは——
    「——落ち着け。ゆっくり吸って、吐く事だけ考えろ」
    混乱のさなか、静かな声が耳に届く。荒げるでもなく、慌てるでもない。揺るぎない芯を持った強い声が、荒れ狂った思考を凪へと導こうとする。
    そうだ、浅い呼吸は視野を狭くし、心をぐらつかせる。ヒーローとしての禁忌事項だった。
    背中をさするリズムに合わせ、吸って吐いてを繰り返す。吸って吐いて、次はもっと深く吸って吐く。大丈夫。優しく触れる手のひらはずっとそばにあったもの。誰よりも僕を知り、いつだって透明な力で引っ張ってくれた。
    「……かっちゃん、ごめんね。もうだいじょぶだ」
    「ん。ヨクデキマシタ」
    返事とともに身体を反転させられる。拘束をゆるめたかっちゃんが、肩越しに低く囁いた。
    「どうしても無理ってなら、離してやる」
    「え?」
    先ほどから一変し、芯をなくした声はずいぶんと頼りない。
    離してやると言いつつも、えりあしを掻き分けるように、まあるいぬくもりが押し付けられた。ひたいで触れているのだろう。無機質な保護フィルムで覆われたそこは、つがいの証を刻む場所だった。
    「っ、……ん、うぁ」
    思わず吐息が漏れる。囁きの意味がわからず、答えにとまどっているうちに、今度はほんのりとがったものが、うなじにすり寄る。えりあしをそよがせる息吹きを感じ、鼻先で突かれているのだと気づかされた。
    「何かするつもりはねぇが、それでも無理なら部屋に戻れ」
    渇いた響きが提案する。終わってしまった昼間の天気を振り返るような、軽い口調に浅い笑いが混じった。
    「息ができなくなるくれぇには、まだ俺がこえーんだろ」
    「違うっ」
    思わず遮っていた。ふたたび身体を反転させ、正面からかっちゃんを見据える。薄暗い部屋で覗く瞳は、深い緋色だった。まるで彼自身が傷を負い、血を流し続けているような色。
    ——まるで、じゃない。
    彼はきっと、先ほどの反応を拒絶として受け止めた。そうして自分が傷ついたことは隠して、これ以上なく優しい方法で僕を解放しようとしているのだ。
    「違うよ。君がくれたものは、いつだって優しくて、うれしかった」
    朝陽の射すリビングの優しさや、ふたりで囲む食卓のあたたかさ、穏やかな時間を共有する歓び。ぜんぶ時間をかけて、ひとつひとつ教えてくれた。今のかっちゃんが深くやわらかい部分で僕を大切にしていることも、その思いのまま触れることも。拒絶に怯まず、自分が傷つくことも厭わずに、ただただ実践してくれた。
    傷つけてしまったことは変えられないけれど、少しでも癒す力になりたいのだ。
    「こわいはず、ないじゃないか」
    決壊しそうな涙腺に、零れるなと念じながら、目の前の身体に腕を回す。今、本当に泣きたいのは僕じゃなくて、きっとたくさん傷ついたかっちゃんのほうだ。普段より熱を帯びた逞しい身体が、感情の高ぶりを物語っている。
    「だから、ここで一緒に寝てもいい?」
    「おう」
    ぐっと一度だけ力が込められて了承が告げられる。咽喉の奥からしぼり出したような声に、やっぱり泣きたくなった。だって気づいてしまったのだ。僕が本当にこわいもの、恐れていたものが、かっちゃんではないという事に。
    「ねぇ、かっちゃん」
    呼びかけると後頭部に回った手が、きつくきつく顔を胸に押し付ける。言葉を奪われたのを口実に、僕は真実を噤んでしまった。本当なら、今すぐにでも白状しなければならないはずだ。僕が恐怖するものの正体を知れば、かっちゃんはこれ以上、傷つくこともないのに。
    「いいから、もう寝ろ」
    「……うん、おやすみ」
    解っているにもかかわらず、僕は口を閉ざしてしまう。言い訳でしかないけれど、自分自身でも引き寄せた答えが正しいかすら、まだわからないから。
    臆病で卑怯な振る舞いかもしれない。恐怖の本質から眼を逸らし、かっちゃんに何もかもを背負わせる行為は裏切りに等しいだろう。だけど、たとえ今すぐに告げられなくても、自分にきちんと向き合って頭のなかを整理したら、きっと。
    ——ごめんね、かっちゃん。
    声にできない謝罪を胸に、愚かな僕は、ただ包み込むぬくもりに意識を預けた。



    眠りというのは人間の三大欲求のひとつであり、生物として原始的な部分でもある。
    そのほか二つの欲求は、外力によって奪えたとしても、睡眠だけは不可能。一定の期間眠らないで過ごせば動物は気絶する——というか、強制的に眠ってしまうらしい。
    年齢ごとに異なる必要睡眠時間を無視して単純計算すれば、人生の三分の一程度は睡眠に費やしているわけだ。寝具や寝室の環境を重視する人が多いのも、なるほどうなずける。
    特別なこだわりがあるわけではないけど、強いて言うなら僕は雰囲気を大切にするタイプ。好きなものに囲まれて眠りにつくために、ベッドの周りはオールマイトグッズを取り揃えている。かっちゃん曰く「雰囲気もクソもねぇ! 落ち着けるわけねーだろ。ただのオタク部屋じゃねーか!」。なんだよ、自分だってオールマイトが大好きなくせによく言うよ。
    一方のかっちゃんは寝具の質を重んじるタイプで、落ち着いた色調の空間に装飾は少ない。寝心地のいいマットレスと、肌触り最高な掛け物で構築している。夏のシーツは冷感を誘う麻混じりで、しゃりしゃり心地いい。
    なぜ僕が彼の寝具を熟知しているかといえば、はじめて一緒に眠った夜以来、ほとんど毎晩、寝床を共にしていたからだ。正式なつがいであれば、当たり前かもしれない。だが数か月前は手も繋げなかった関係を思えば、ものすごい進歩だった。
    さてさて、ここからが本題である。「共にしていた」——なぜ過去形かといえば、三日前からかっちゃんが出張で不在のためだった。
    一人きりでベッドに潜り込んだ僕は、オールマイトシルバーエイジカラーのタオルケットをおなかに抱えて、ごろり。遠慮なく寝返りを打つ。
    ちなみに二十代の男性に推奨される一日のあたりの睡眠は、七時間程度らしい。現在、深夜〇時十二分。明日は六時起床予定だから、とっくに寝なければならないタイムリミットは過ぎている。だというのに、一向に眠気は訪れそうになかった。
    「ううう……参ったな」
    好きなものに囲まれて、これ以上ないほど落ち着ける空間。それにもかかわらず、眠りにたどり着くまでの何かが足りないのだ。普段、無意識にできているからこそ、改めて方法を考えてしまうとよけい深みにはまり込む。あり得ないことだけど、歩き慣れた道で迷子になったらきっと、こんなふうに心細くて途方に暮れてしまうのだろう。
    「——かっちゃん」
    何かが足りないなんて、あいまいな表現をしたけれど、答えは明白だった。
    返事のない一方的な呼び声が、夜にとけて消える。ひとりぼっちがいっそう身に沁みて、声に出したことを後悔した。
    食事もお風呂も、眠るのだって、ひとりでできて当然だ。不摂生はパフォーマンスの低下を招き、結果として守るべき人たちを危険に曝すし、生活を疎かにしたとばれれば、きっとかっちゃんに罵られる。
    だからこそ、ひとりでもきちんと生活しているはずなのに、満たされない感覚が付きまとって離れない。おなかはいっぱいなのに、味気ない。身支度は万全なのに、輪郭がぼんやりする。睡眠に至っては変化が顕著で、寝付けないし寝起きも悪い。これまでが充実していたからこその不足に侵蝕されていた。
    あたたかな息遣いや、やわらかく触れる手のひら、彼のまわりで揺れる香り、じゃれあいに込められたほのかな熱。ひとつひとつが失われたとき、生活そのものが渇いた砂のように感じられ、僕は完全に枯渇していた。
    もし今、かっちゃんが隣にいたら、悪態の一つでも吐き捨てて「寝ろ」。ぎゅうぎゅうと抱きしめて強制的に寝かせようとするかもしれないな。
    「あ……」
    想像はひどくリアルだった。最近ほとんど一緒に寝ていたせいか、寄り添うぬくもりも、抱きしめる腕の強さも。まるで本当に隣にいるかのように、克明に思い出せる。
    ——いずく。
    鼓膜をじかに震わせるような囁きは眠気のせいか、いつもより幼い。だけど低く掠れた声は、成熟を感じさせるもので、ひたむきな情熱が秘められていた。
    「かっちゃん……眠れない」
    妄想に話しかけるなんて、いよいよ不甲斐ないと理解しつつも、止められなかった。声を想起したらぬくもりも、においも、五感のすべてがそばにある。
    ——つべこべ言わずに、その無駄にでけぇ目ん玉つむっとけ。
    少し乱暴に、でもどこまでも優しく厚い手のひらで、視界をおおうだろう。想像すれば、ゆっくりと規則正しい鼓動まで聞こえる気がした。
    ひとつ、ふたつ、みっつ。数えるたびに、渇いた身体にあたたかな水がそそがれる感覚を味わう。陽射しをたっぷり含んで澄んだ水が、僕の内側を満たしてゆく。渇きを、癒してゆく。
    よっつ、いつつ、むっつ。重なるごとに意識がかすみがかり、やがてまどろみへと誘われる。抵抗することなく、引きずられるままに眠りのなかに身を投じた。
    そうして、ふたたびまぶたを開いたとき、世界は朝を迎えていた。
    かっちゃん不在となって四回目の朝は、驚くほど清々しい。薄眼で確かめたベッドボードの時計は午前六時を指している。昨晩、なかなか寝付けなかったとは思えないほど、すっきりした覚醒だった。
    麻混じりのしゃりしゃりシーツの上を、すーいすい。腕を広げて泳いでみれば、身が軽い。触れた布を手繰り寄せ、しわになるのも構わず胸もとに抱きしめる。
    「かっちゃんの、においだ」
    濃く香る存在を意識すると、もっと欲しくなり、肌ざわりのいい布に頬ずりした。こすれるたびににおいが立ち、胸の奥とその下にあるおなかの奥がきゅうっと収縮する。初めて一緒に寝たときと、よく似た感覚。うれしくて切ないうずきが、身体の隅々まで広がってゆく。
    久しぶりの満たされた感覚に、なかば恍惚としかけたとき、ふと疑問が過ぎった。僕のベッドに、こんなに気持ちのいいもの、あったっけ?
    好ましい布の正体を確かめようと、横向きに寝転んだまま広げてみる。あらわれたのは黒いTシャツだった。胸許には白抜きのプリントでAJIFRY。
    「え……」
    持ち主は言わずもがな。何度まばたきしても変わらない。僕はかっちゃんのTシャツを抱きしめて寝ていたらしい。徐々に鮮明になる視界が、更なる衝撃を伝える。
    思わず跳ね起きた。
    「う……嘘だろ」
    昨晩、間違いなく僕は自分の部屋で眠りについたのに、目覚めた場所はなんと! かっちゃんの部屋だった。シーツがしゃりしゃり気持ちいいわけだ。
    「そうじゃなくって!」
    出張しているかっちゃんの帰宅予定は今日の夜で、僕はひとりぼっちで自分のベッドに入ったはず。だけど目覚めた場所はかっちゃんのベッド。つまり、記憶がないながらも、自分の足で侵入したことになる。しかも、彼の衣類を大量に散らかして。
    呆然として周囲を見回した。
    抱きしめていたのはTシャツだったけれど、周りを見れば他にも彼のタンクトップやら、トレーニング用のジャージやら、予備のコスチュームにグローブまでも散乱している。
    「え、あ……うああ……まじか」
    しかも恥ずかしいことに、下着まで引っ張り出していたなんて!
    ふたたびベッドに倒れこみ、そんぶんに頭をかかえる。ごろごろのたうち回る間にも、黒いTシャツを抱きしめ続ける貪欲さに、ほとほと呆れてしまった。だけど、触れるたびにほんのりいい香りがするのだから、手放せるはずもない。
    「これって、まさか」
    自分が起こしたとんでもない行動の理由に、思い当たる節があった。
    僕のようなフェロモン分泌タイプがつがいを定め、心から受け入れる準備が整ったサイン。通称「巣作り」だ。相手の所持品や衣類をかき集め、自分の身の回りに置きたがる行為はヒートの前兆とも言われ、特別なつがい——半身どうし——に見られることが多いという。
    すなわち、僕のなかにある醜くて浅ましい欲望が、いよいよ覚醒したのだ。
    振り返れば、初めて一緒に寝たあの夜から、予兆はあった。短期間で二度も記憶——というか、理性を失って本能のまま行動し、その二回ともかっちゃんを求めたのだから。
    「ど、どうしよう……」
    途方にくれ、かっちゃんの衣類に埋もれたまま、ぎゅうっと身体を丸める。
    いつか受け入れたいと思った。彼の期待と、これまでの忍耐に報いる自分になりたかった。だからずっと、二人で練習してきたのだ。
    でも同時に僕は、弱くて浅ましい自分自身が、こわくてたまらない。
    それは、一緒に寝た夜に気づいた秘密だった。
    「かっちゃん、ごめん」
    情けないつぶやきは、一番告げるべきひとに届くことなく、朝の空気に散る。無意味だと分かりながらも、声に出さずにはいられなかったのだ。
    そもそも彼は謝罪なんて受け取らないだろう。自分の選択に覚悟を持ち、たとえ途中で躓いたとしても、誰かのせいにするひとではない。だから惹かれてやまないし、憧れてしまう。対して僕は、なんて独りよがりで傲慢なのか。
    うんざりして、ちいさく溜め息を落とす。
    指摘されてからずっと、彼の手が怖いのだと信じ込んでいた。かっちゃんの分析は的を射ていたように思えたし、僕の反応もまたしかり。何より僕は、幼なじみの言葉を疑いなく信じてしまう節がある。
    だけど、本当はおかしいと気づくべきだった。なぜなら僕にとって、彼は昔から特別で大切な存在だったし、心まで含めてつがいになりたいという言葉が、うれしくてしかたなかったんだから。
    過去には傷つけられたこともあったけど、それ以上に救けられ、支えられた経験のほうが多い。強くて、頼もしくて、輝けるヒーロー。そんな彼が触れることに、恐怖を抱くはずがない。
    「僕が……僕がほんとうにこわいのは、僕だ」
    改めて声に出すと実感が増す。ヒートで暴走し、表出する浅ましい衝動がこわい。渇望を埋めようと、欲に溺れる本能がおそろしい。
    理性を欠いた自分と向き合うのは、底なしの穴を覗く感覚によく似ていた。どこまでも続く暗闇には、緑色の眼を光らせた醜い獣が一頭。舌なめずりをして、餌に食らいつく瞬間を待ち構える。言葉や心はおろか、光さえも喰らい尽くす。
    中学生のあの日、夕暮れの資料室に来てくれたのはかっちゃんだけど、狂おしいまでの欲を埋めてくれるなら、誰にでも手をのばしてしまうかもしれない。そんな疑いを否定できないのは、僕が抑えきれない衝動を飼っているからだ。自分がひどく汚いものに思えた。
    特殊体質の在り方としては、正解なのだろう。そのためのフェロモンで、そのための機能だ。
    だけど、同じく本能に突き動かされながらも、かっちゃんは一度だって負けはしなかった。暴走した僕を前にしても、欲に屈することなく抗い、理性を勝ち獲った。
    中学生の頃は、僕を嫌うがゆえの拒絶かと思ったけれど、きっとそれだけが理由じゃない。
    「だって、君はいつだって優しかった」
    ——おまえを探すって決めて、見つけたのは俺だ。運命なんかじゃねえ。
    言葉のとおり、小さい頃からずっとずっと、まっすぐな意思で僕を探してくれていた。
    ——半身じゃなかったとしても、一緒に暮らすつもりだったわ。
    その言葉どおり、彼は自分の意思で僕を求めた。決意を証明するために傷つき、苦しみながらも待ち、ひたむきで揺るぎない想いを示し続けてくれている。
    ふかふか手触りのいいタオルや、あたたかい食事を用意してくれたこと。僕がごはんを作るときは悪態をつきながらも残さず食べてくれたこと。髪を乾かす丁寧な手つきも、気遣いながら触れる手のひらの熱も、何もかもが彼の決意を物語っていた。
    「なのに、なんで僕は弱いんだよ……」
    理性を失わないように、触れられることを避けてきた。そうしてかっちゃんを傷つけた。ようやくふれあいに慣れ、期待に応えようとすれば、今度は欲望で我を忘れてしまう。
    かっちゃんと同じように、自分の意思でつがいになりたいのに。心で、彼とつながりたいのに。僕はこうして、本能に溺れるしかない。
    「あーくそったれ」
    幼なじみを真似て悪態をつくけれど、すでに自分の中で膨れ上がる衝動を抑えられない僕の負けは決まっていた。ふたたび零した溜め息は熱く、生々しく湿って、不甲斐なくてたまらない。
    巣作りに至ったのだから、近いうちにヒートが来る。確信と恐怖が迫った。
    その日、ヒートを前にした僕は、ふたりで暮らす家から逃げ出した。奇しくも七月、あのときと同じ季節だった。
    Tap to full screen .Repost is prohibited