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    せなかがかゆい

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    せなかがかゆい

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    オメガバもどきの勝デ。
    ※適当な独自設定があります。
    ※初稿なのでいろいろ粗いですが、話の雰囲気だけでもどうぞ。

    決着(オメガバのようなもの⑩)不意に視界が暗転し、影に取り込まれる錯覚を抱いた。
    ひたいの汗をぬぐいつつ空を仰ぐ。苛烈な光線で灼き尽くそうとしていた太陽が、どっしり構えた入道雲に隠されていた。その脇を灰色と薄藍の淡雲が競うように空を駆けてゆく。
    上空はずいぶん風が強いらしい。
    「ひと雨来るかなあ……」
    誰に問うでもない独り言への相槌であるかのように、ぶわり。熱風が走った。建物に体当たりした風は重く湿った匂いで、当てずっぽうな予報を裏付ける。
    なぜ当てずっぽうかといえば、最近の僕には天気予報を確かめる習慣がないからだ。かっちゃんが「傘持ってけ」と言えば、雨の予報なのかと合点し、「上着持ったか」と確認すれば、夜は冷えるのかもしれないと推し量る。今年初めての猛暑日には、黙ったまま塩飴を押し付けられたこともあったっけ。そんな彼の助言を、僕はひそかに「かっちゃん予報」と呼んで——ネーミングセンスについては不問としてほしい——享受してきた。
    改めて頼りきりな事実を振り返ると恥ずかしいけれど、大雑把なところのある僕が、彼の周到さや気遣いに敵うはずもない。つまり適材適所ってやつだ。
    だけどここ三日ばかり、僕はかっちゃん予報を受け取っていなかった。三日、それは僕がかっちゃんから逃げ出した期間と合致する。
    つがいのベッドで「巣作り」らしき行為に至った朝、僕は這う這うのていで職場へと脱走。今日まで事務所にある仮眠スペースの一室を独占するという横暴をはたらいている。
    たとえ自分に幻滅しようとも、仕事は投げ出せるはずがないし、無心になって動き回っているほうが、気が楽……なんて、ずるい打算も少々あった。
    ごめんなさい、オールマイト。あなたの弟子はこんなにも情けなくて頼りないヒーローです。
    そしてごめんよ、かっちゃん。僕は君の強さに応えられないばかりか、勝手に追い詰められて逃げ出す弱虫だ。
    こうして心苦しさを懺悔しながらもなお、ヒーローとして在ろうとする僕は図太いんだろう。つまりはいつもどおり。粛々と、だけど情熱をもって責務をまっとうする日々。かっちゃんと二人暮らし——彼曰く「同棲」だ——している部屋に帰らない以外は、至って平穏にヒーロー活動に勤しんでいた。
    パトロールパトロール、花火大会の警備をへて、またパトロール。あいまに酔っ払いの揉め事を仲裁してコンビニ強盗を捕獲。そうしてまた、パトロール。地道な活動を積み重ねる。
    「あ、デクだ!」
    管轄のまんなかに位置する小学校へさしかかったとき、はしゃいだ声に呼び止められた。
    「おーい、デクー!」
    ランドセルに加えて布製の手提げバッグ、さらに朝顔の鉢植えを抱えた少年二人が駆け寄ってくる。夏休みを前に私物を持ち帰らせる習慣は、僕らの頃から変わらないらしい。計画通りにいかず、終業日の間際まで大量の荷物を残してしまう部分もおんなじだ。
    「パトロール中?」
    「うん。みんなはもうすぐ夏休み? 大荷物だね」
    少年たちの前にしゃがみ、視線を合わせた。二対の瞳は来たる休暇への期待できらきら輝いて、今の僕には少しまぶしすぎる。
    「ちゃんと前見えてる? 車に気をつけて帰るんだよ」
    「はーい」
    良い子の返事をもらい頰がゆるむ。何度も振り返り笑顔を向ける姿に、懐かしさを覚えながら見送った。いやいや、僕が彼らと同じ年の頃には、幼なじみと無邪気に駆け回ることなんて滅多になかったけれど。
    苦笑いとともに首を振り、おもむろに立ち上がる。注意深い動作を心がけたにもかかわらず、一瞬だけ眼の前が白み、情けないことにたたらを踏んだ。意地で両足底に力を込め、すんでのところで地面への激突を回避する。
    「あっぶな……」
    次いでかすむ視界に、耳鳴り。頭の奥が拍動するような痛みに襲われた。これが熱中症や夏風邪のたぐいでないことは百も承知。僕の体調はいよいよ最悪の一途をたどっていた。そりゃそうだ。今まであふれるほどに与えられていた「かっちゃん」の存在が、突然として供給を絶たれたのだから。
    いや、絶ったのは僕自身なんだけれど。
    ヒートを誘発する要因をことごとく避けた結果。幼なじみ本人はもちろん、匂いや気配ですらも置き去りにした僕は、深刻なかっちゃん不足に見舞われていた。
    「やっぱり、Tシャツも持たずに飛びだしたのはまずかったなぁ」
    ぼんやり仰いだ空はあまりに青く鮮やかで眼に痛い。陽射しを遮っていた雲は流れ、昼下がりという安穏とした響きに不釣り合いなほど苛烈な光が首筋を灼いた。
    僕の急所であり、つがいに差し出すべきうなじだ。
    たとえ相手が太陽だとしても、かっちゃん以外に晒すのは憚られ、マントで隠してふたたびパトロールへ。アスファルトが反射する熱を意識して、一歩一歩踏みしめて歩く。
    逃げ出してからずっと、意識的に彼のことを考えないようにしていた。思い出してしまえば、さみしくてたまらなくなるし、欲しくて欲しくてヒートに至り、問答無用でみっともない姿を晒すことは明白だった。
    それにもかかわらず、僕は性懲りもなくプライベートの端末に表示された通知を思い浮かべる。
    ——ただいま。
    これはおそらく、かっちゃんが出張から帰ったときにくれたメッセージ。
    ——まだ仕事か
    ——どこで何しとる
    立て続けに送られて来た二通は翌日の夜。帰宅した様子もなく、返信もない僕の安否を案じてくれたはずだ。もともと素っ気ないほど端的な文章を送ってくるかっちゃんだけど、句読点がないのは珍しい。もしかしたら……もしかしなくとも、相当慌てていたのだろう。
    ——無視たァ、いい度胸だな。
    そうして送られてきた最新メッセージは今朝。事務所の伝手やらSNSの目撃情報やらで、ヒーローデクの無事を知り、僕がかっちゃんを避けていると確信した内容だった。
    たぶん、ものすごく怒っている。開封するのがこわくて、通知画面でしか眺められないけれど、中学時代の「イイ笑顔」が浮かぶくらい、憤りがひしひし伝わってきた。
    「……困った」
    感情任せで考えなしの出奔なんて、長く続けられるはずがない。そもそも、正式につがいになりたいと言い出したのは僕。それを都合が悪いから逃げ出すなんて裏切りにも等しいだろう。
    対するかっちゃんはひたすら誠実で、無意識に成熟を避けていた僕と向き合い、こわがらないように、呆れるほどゆっくり近づいてくれた。その理由の一つには、中学時代への贖罪も含まれているのかもしれない。フェロモンの暴走に巻き込んでしまったのは、明らかに僕に非があったけれど、彼は自責の念に駆られているようだったし。
    だけど僕らが共有した時間は、悔恨から生まれたわけじゃない。そんなもので説明ができないほど優しく、あたたかかく、本当に心まで欲しがられていると信じるには充分だった。
    寄り添うぬくもりに、触れる手のひらのやわらかさ、まなざしに含まれる温度。くちづけたときの匂い、絡み合う鼓動——つがいの存在を刷り込みながらも、行為に身を竦ませる僕から、恐怖を払拭し、幸せそのものであると教えてくれた。
    あふれんばかりの情熱はそのままに、誠実さと理性で本能に打ち勝つ、強いひと。そんな彼だからこそ、本能に溺れかけたままの僕じゃ隣に立てない。優しいばかりの空間に、戻れない。堂々巡りだ。
    「ほんと、困ったな」
    雑念というには熱を帯びており、思考というには破綻した物思い。仕事中に不釣り合いな感情で集中を欠いていたのが運の尽きだった。
    脳天が突き刺されるような衝撃が走り、次いで悲鳴が響く。
    「——っ、誰かっ!!」
    助けを呼ぶ声を認めると同時に地面を蹴って空へ。が、危機感知への対応としては、ほんのわずか遅れた。
    思わず空っぽの拳を握りしめる。ヒーロー活動は、常に危険と隣り合わせ。刹那の遅れが命取りになる。油断の結果、僕が怪我をしたならば自業自得だろう。だけど、届くはずだった手が間に合わずに誰かが苦しい思いをするなんて、悔やんでも悔やみきれない。——いや、反省は後回しだ。今は一秒だって時間が惜しい。
    浮遊しながら両脚を屈曲させ、発勁の発動に備える。黒鞭を伸ばして電柱に支点を据え宙を蹴った。
    弾丸のごとく駛走しながら、風圧にまけじと眼を凝らす。
    現場は南東にある大きな交差点だった。一日をとおして往来の激しい場所が、今は不気味なほど閑散としている。通行車輌が一様に路肩へと避難しているからだ。
    唯一動いているのは路線バスだった。日頃、安全を標榜して人々の生活を支えているはずの存在が、交通ルールなどないもののように逆走とUターンを繰り返す。運転士がトラブルに見舞われて制御を失ったのか、バスそのものに異常事態が起きているのか。いずれにしろ緊急事態だ。
    すでに臨場しているヒーローの姿も数名いるが、圧倒的に人数が足りていないのだろう。通行人や避難車輌が巻き込まれないように誘導と警備にあたっている。
    即座に状況を把握し、現場へとまっしぐらに空を駆けながらふたたび黒鞭を伸ばした。その突端が暴走バスに届く、その間際。
    「っ、そんな!!」
    「逃げて!」
    切迫した声が場を裂いた。現場にいたヒーロー、巻き込まれた人々。誰のものだったかは分からない。だが、いっそうの窮地を知らせるには充分だった。
    バスの進行方向にある脇道から、下校途中と思しき子どもたちが現れたのだ。朝顔の鉢植えと荷物を両手に抱えながら、夏休みへの高揚感をにじませた表情。小学校の前で手を振って別れた少年だった。
    背筋に冷たいものが走る。
    黒鞭で車体を捕捉後、エアフォースで駆動輪をパンクして停止させる作戦だった。だが、停止までの距離を考慮すれば間に合うはずがない。バスを捕らえたあたりで子どもたちと激突するだろう。それなら——!
    目標を変え、バスを追い越した。子どもたちを黒鞭で遠ざけて、さらに自身はバスの前に飛び込む。正体に構えて両足を踏みしめた。視界の端で子どもたちの無事を確かめたのもつかの間。
    派手な衝撃音とともに、両手から腕、肩へと速度を備えた力がかかる。勢い余ったバスに圧(お)され、アスファルトとの摩擦で足裏が煙を立てた。
    蛇行しながらもアクセルを緩めない鉄の塊は、電柱やカーブミラー、信号機と道にあるものをなぎ倒してゆく。
    「ッ、止まれえぇぇっ!!」
    食いしばった歯の隙間から気を吐きつつ、満身の力で押し返した。
    もっとじょうずなやりようがあったはずだ。そもそも危機感知を受けたときに、すばやく反応できていれば。子どもたちの存在に、早く気付けていれば。
    反省点を挙げたらきっと、両手の指でもなお余る。だからこそ今は、次々浮かぶ後悔を糧に最善を尽くすしかなかった。ぐっと踏み込んだ右足がアスファルトを割って地面に食い込む。続いて左足。これ以上の暴走を許すわけにはいかない。
    不意に、影が視界を横切り、轟音を伴う衝撃に襲われた。前傾姿勢になった肩に硬質な物体がのしかかり、痛みとともに食い込む。
    「ぐっあぁっ」
    折れた電柱の破片あたりだろうか。確かめる必要性も余裕もないから、とにかく停車させることだけに集中していた、そのさなか。
    「——デェェク!!」
    突如、視界に火花が散る。比喩ではなく、本当に光の粒がはじけたのだ。
    よく見慣れた光の正体は確かめるまでもなく、気づけば安堵に笑っていた。全身の力が抜けて崩れ落ちてしまう。バスが静止したことを確かめるだけで精一杯。ずきずきと拍動する痛みのせいで、意識が急速に薄らいでゆく。
    それでも僕に焦りはない。だって、彼が来た。誰よりも強くてかっこいい、みんなの、そして僕のヒーロー。君が来たならもう大丈夫だ。



    あたたかな陽射しに、輪郭をなぞられる。ひたいから、こめかみをたどり、頰へ。無造作に摘んだと思ったら、くしゃりと髪を掻きまぜて、またひたいへ。僕のかたちを確かめる手つきは同時に、心のやわらかい場所を慰撫する仕草にも思えた。
    かつてはこの手に怯えたことがあった。同い年ながら、僕にはない圧倒的な力を持っていたから。ときに鋭い牙のように、容赦なく威嚇したから。
    それにもかかわらず、眼をそらすことができなかった。だって、幼い頃から抱き続けた憧憬や羨望は簡単に捨てられるものじゃない。
    今だってきっと同じ。その手が触れるだけで、自身の浅ましさや、底なしの欲望をむき出しにされるというのに、拒めない。もっと欲しいと願い、ぬくもりを追いかけてしまう。それがつがいを求める本能に起因するものなのか、幼なじみを慕う心に拠るものなのか。結局答えは出ないままだけど、後者であれと願うばかりだ。
    望むままに頰を包む手にすり寄ってみれば、わずかにこわばった後、まなじりをなでてくれた。ためらい含みの指先が、持ち主のほのかな緊張を伝える。まぶたを閉じて視覚を失くしているせいか、その他の感覚が研ぎ澄まされているみたいだ。
    久しぶりに触れた手は、心があわだつほどあたたかい匂いがした。同時に届く優しい鼓動。ゆるやかに規則正しく命の証を刻んでゆく。ぜんぶ、ぜんぶ二人で向き合ったから知った、大切なこと。
    同じように大切なものを返したくて、手を伸ばそうとする——途端、泡沫の時間が弾けて消えた。やわらかな時間が急速に遠ざかろうとするけれど、引き止める方法がわからない。眼を閉じたままの僕は追いかけることすらできず、ただ暗闇でもがくばかりだった。手脚の重さがもどかしい。呼吸が詰まる。
    「——っ、かっちゃんっ!!」
    ようやくひらけた視界に映ったのは、知らない天井だった。目覚めたばかりの虚ろな僕を見下ろすのは、愛想のかけらもない室内灯。周りを囲むライトグリーンのカーテンに、ここが病院だと知らされる。
    右腕に左腕、続いて右脚と左脚。順繰りに伸ばしてから身体を起こした。多少めまいを覚えるが、痛みはすっかり引けている。気を失っている間にどうやら治癒を施されたらしい。ただし治癒後独特の怠さがないどころか、身体が軽い。今までの不調の原因であった「かっちゃん不足」が改善されており、ここ数日で一番清々しい目覚めだった。
    つまり、かっちゃんが付き添っていた感覚は、僕の願望が見せた夢ではなく、まぎれもない現実。あたりを見渡せば、そこかしこに残された息吹きや気配があった。ベッド脇にある椅子を中心に、僕の手のひらや頰、ひたい、鼻先にも。光も似た粒がきらきらと瞬き、留まっている。
    「これって、残り香……?」
    特殊体質を語るうえで「運命」と同じくらいドラマチックな現象として挙げられるそれは、深く心から結びついた二人にだけ見えるしるしだった。
    つがいを選ぶ際、重要な判断基準になるのは匂い。つまりフェロモンの相性だ。むしろ、互いの匂いを心地いいと感じられるかどうかが、すべてと断じても過言ではない。それは遺伝子レベルで証明されている事実。
    ただし今、僕が感じ取っている「残り香」は、正確には匂い物質ではないし、性衝動につながるフェロモンとも無関係の代物だった。
    端的に説明するなら、つがいの相手がその場にいた事実を示すもの。透明な足跡とでも表現すればいいだろうか。他の人には見えないし、特別な効果があるわけでもない。
    なぜそれがドラマチックかと言えば、先述のとおり、つがいのなかでも特に相手を思っている二人にだけ起こる現象だから。ただし真偽は不明のままだ。なぜなら他の誰にも見えないのだから、存在を確かめられない。過去には「残り香」を観測しようとした研究者もいたらしい。ただし、あらゆる捕捉個性に頼ってもサンプルを入手できずに諦めたという。
    そんな不可思議な現象が、まだ正式につがいになっていない僕らにも起きるのか。ますますもって謎だ。特別なつながりを望むがゆえの勘違いかもしれないし、かっちゃんへの飢餓感が見せた幻覚かもしれない。それでも、息をのむほど美しい光景を否定することなんてできなかった。
    かっちゃんが触れたと思われる場所を中心に、周囲を漂う光の粒子。おかげで僕の視界はジンジャーエールをそそがれたみたいだった。黄金色にきらめく光は、はじける気泡によく似ている。ほんのり残された気配には、あまみだけでなく、舌を痺れさせるような辛さと、遠くに漂う苦みも含まれて、複雑で魅力的。僕のつがいは、そういうひとだ。
    あまりに透明できれいな「残り香」を前にして、ようやく理解した。かっちゃんはきっと、逃げてしまった僕にひとかけらも怒っていない。ただ悲しくてやりきれなくて、さみしかったんだ。そんな不器用な幼なじみは、さみしさをひた隠しにして、僕が意識を取り戻す前に姿を消すことを選んだ。選ばせてしまった。
    目覚めたときの僕に気遣ったのか、拒絶をおそれたのか。どんな理由かはわからないけれど。
    「かっちゃん……ごめんよ」
    痛いくらいの想いを見せられ、眼裏が焼けてしまいそうだった。鼻をひとすすりして、必死になって涙は堪える。だって今は泣いていいタイミングじゃない。
    天井を仰いで、両手のひらでしたたかに頰を叩く。「残り香」がはじけて身体に馴染んでゆく気がした。指先に熱を感じながら、息を吸う。深く深く、同じだけ吐いて、また吸い込む。
    「帰らなきゃ」
    かっちゃんの隣に。どうしようもなく不恰好で、だけどいとおしくてたまらない僕らの生活に。
    そうして十分ののち、僕は息を切らせて宵の街を駆け抜けていた。意識を取り戻すなり退院を訴えた愚かな患者に、対応してくれたドクターは呆れていたけれど、じっと待ってなんかいられない。
    ——右、左、右、左。怪我をして搬送された数時間前なんて、嘘のように足が軽かった。まるでゲームに出てくる無敵アイテムを手に入れたみたい。もし許されるならば、壁づたいに走ってビルをひとっ飛び。あらゆる障害物を超えていただろう。
    できない代わりに、夜空を映した水たまりを跳ね上げ、いっそう加速した。やっぱり通り雨があったらしい。湿度を含んで重みのある夏の夜風だって、今だけは味方。背中を強く押してくれる。
    感情のまま帰路を急ぎながらも、僕の手はからっぽだ。根っこの部分は何も解決できていないし、ヒートになって我を失い、欲に溺れる自分がこわくて情けない。それでも眼を背けることなく、僕は僕のなかに棲む浅ましさと向き合わなきゃいけなかった。
    だって、苦しくても弱音を吐かず、ひたすら大切にしてくれた彼に応えたい。美しい光景を見せてくれた想いに、差し出された心のやわらかい部分に、同じだけのものを返したい。
    「かっちゃんっ」
    玄関を開けると同時に飛び込む。
    外から見上げたときに、カーテンの隙間から明かりがもれていたから、家にいるのはわかっていた。
    「かっちゃん、かっちゃん!!」
    靴を揃える時間すらもどかしく、三和土に脱ぎ捨てる。短い廊下をゆく足がもつれるのが滑稽で、それでも取り繕う余裕はなかった。
    リビングへと続くドアを開け放つ。ソファに腰掛けたまま、僕のつがいで、家族で、唯一無二の幼なじみが振り返った。
    「ただいま」
    答えることなく、かっちゃんが二、三度まばたく。無防備な仕草は起き抜けの子どもみたいでちょっとかわいかった。
    「僕、帰ってきたよ」
    また返事はない。それでも何度だって伝えたくて繰り返し、正面に回り込む。
    「かっちゃん、ただいま」
    静かな佇まいの彼は、洗濯物を片付けていたらしい。半分に折った靴下を脇に置いた。自然と視線は積まれた衣類へと流れ、わずかな違和感を結ぶ。角がずれたままのタオルに、ぞんざいに袖だたみにされたTシャツ。几帳面な幼なじみにしてはめずらしく、気の抜けた仕上がりだ。
    理由、というか原因はすぐに判明した。けれど、あまりに突拍子もないというか、信じがたい内容で、僕はつかの間木偶の坊となる状況に甘んじた。
    だって! まさか! 僕がいないからという理由で、かっちゃんの完璧主義が休暇中だなんて!!
    驚きのあまり感嘆符を連ねながらも、導いた答えに疑いの余地はない。だって洗濯物を片付けるとき、二人はいつだって隣り合って、互いの服を交換してたたんでいた。自分のものであればきっと、僕がおざなりにするだろうから。かっちゃんの衣類だと思えば、丁寧にあつかうだろうから。
    初めは多少の煩わしさを抱えながらも、僕は次第にこの習慣を好ましく思うようになっていた。なぜならそこには、互いを思う気持ちが存在したからだ。毎日お疲れさま、とか、清潔な服で心地よく過ごしてほしいな、とか。丁寧に扱うことは、穏やかな日々への祈りにも近い。だから大雑把な僕でも、気負うことなく出来ていた。一人だけなら面倒な作業も、二人ならば楽しみですらあった。何も言わないだけで、きっとかっちゃんも同じだったのだろう。
    何よりの証拠は、不自然な左側のスペースだ。広々としたソファでかっちゃんは右側に座り、真ん中に洗濯物を積んでいる。空いているのは一緒に過ごすときの、僕の定位置だった。
    「勝手に病院抜け出してンじゃねーよ」
    とうとう「ただいま」に応えることなく、かっちゃんは視線を外して苦言をひとつ。そのまま洗濯物と向き合ってしまう。
    「ちゃんと許可はもらったよ」
    「そういうことじゃねぇ。具合、まだ悪ィんだろうが」
    「大丈夫。心配かけてごめん。あと、昼間は救けてくれてありがとう。病院も……付き添ってくれてうれしかった」
    眼が覚めるまで居てくれたら、もっとすてきだったのに。そんなわがままを言えるはずもなく、薄金色の髪を眺める。かっちゃんの視線は手元に落ちたままだった。
    「あっそ」
    まるで取りつく島もない。ぞんざいにあしらわれた僕は今、かっちゃんが手にする洗濯物以下の存在だ。圧倒的に負けている。ちょっとくたびれた黒のタンクトップが憎たらしかった。だけど洗剤の香りに隠れて持ち主のいい匂いが揺れているから、咽喉から手が出るほど欲しい。触りたい。
    支離滅裂な思考がぐるんぐるん回転しては絡まって、今にもぶれそうなところで踏みとどまる。腹に力を溜めて意を決した。欲望でぐちゃぐちゃになる前に、理性を失ってしまう前に、かっちゃんと一緒に居たいと伝えなきゃならない。
    そうして口を開きかけたとき。
    「つーか、何しに来たんだよ」
    放たれた響きに背筋が凍った。だって、ずっとずっと、かっちゃんこそが僕の帰る場所だったから。道に迷って途方にくれた幼い日も、笑い方を忘れて独りの戦場にいた日も、僕を見つけて帰る場所を示してくれたのはかっちゃんだ。ちょっと強引だったけど、導く手はいつだって強く頼もしかった。
    だからこそ、「来た」の言葉が急所を貫く。咽喉の奥がひりひりして、鼻の奥がつんと痛む。
    「……帰って、きたんだよ」
    弱々しくいびつな声しか出せない自分を叱咤して、かろうじて涙だけは堪えた。だって、今泣きたいのは僕じゃないんだから。
    「かっちゃんと、一緒に居たくて帰ってきた」
    本当はもっとちゃんと伝えたかった。
    覚悟しておけ、なんて物騒な宣戦布告の裏側で、ずっと僕のペースに合わせてくれたたこと。傷つくことも厭わず、何度もなんども触れようとしてくれたこと。僕をまるごと欲しいと思ってくれていること。ぜんぶがうれしくて、ひとつひとつが闇夜を導く光に思えた。星のようにきらめき、迷ってばかりの臆病な僕をここまで運んでくれた。
    だから、僕は——
    「君とキスして、一緒に寝て起きて、ごはんを食べて……二人で暮らしたいから、帰ってきたんだよ」
    結局じょうずに説明できない不甲斐なさに、くちびるを引き結んでしまった。
    かっちゃんが顔を上げ、二人はただ向き合う。横たわる沈黙が邪魔で、少しでも近づこうと手を伸ばしかけた。だけど先回りするように、ため息まじりでかっちゃんが立ち上がる。
    「へいへい」
    僕を避けて脇を抜け、すれ違いざまに頰へ触れた。掠めたくちびるはひどく渇いて、熱など感じさせずに離れてしまう。まるで関心を失い、駄々を捏ねる僕に疲れてうんざりしたようなくちづけだった。
    たとえ望んだものが返されなくても、咎める権利なんて持っていない。なぜならこれは僕が招いた事態だから。かっちゃんの優しさにあまえて、自分自身と向き合わなかった当然の帰結だから。そう言い聞かせるしかなかった。
    きつくきつく、まぶたを閉じる。自業自得で生まれた痛みを宥めながら、必死に接ぎ穂を探していると、不意に強く腕を引かれた。とっさに踏み留まれず、足がもつれてぐらり。視界が傾いだ。
    「——嘘だわ。ンな顔すんな」
    よろめいた先で僕を待っていたのは、強くあたたかなまなざしだった。
    「帰ってくんのがおせーんだよ。クソ出久」
    大きな手のひらが頭を引き寄せて、肩に押し付ける。わずかな隙間すら惜しむように、背中に回った腕に力がこもった。
    久しぶりにかいだ匂いは濃密だ。抱きしめられる間際に見た瞳の色もあいまって、いちごジャムの瓶に閉じ込められた気分。あまくてどろどろしたものが、呼吸のたびに身体に侵入し、鼓動のたびに指先まで広がってゆく。
    むせかえるようなあまい香りに浸っていると、鼻先で輪郭をなぞられた。頰から耳の裏、首筋。動物のような仕草で繰り返されるのは、久しぶりのルーティン。僕と同じように匂いを確かめているのだ。
    「待ってよ、かっちゃん」
    いたたまれず、手を突っ張って離れようと試みるが、無駄な抵抗だった。力を増した腕に閉じ込められ、僕らは距離を置くどころかいっそう密着してしまう。
    「お風呂入ってないから、あんま嗅がないで」
    「うるせぇ。帰ってこなかったおまえが悪ィんだよ」
    道に迷った子どもみたいな声だった。ほんのり混じる湿った響きまで拾ってしまったら、これ以上の抵抗なんて出来るはずがない。
    「ごめん……ごめんね、かっちゃん。——ただいま」
    ありったけの心を込めて丁寧に告げると、ようやくかっちゃんが顔を上げる。切れ長の眸がゆうるり細まったと思えば、鼻先がつん、と頰を突いた。時間をかけてくちびるが重なる。うわくちびる、したくちびる。代わりばんこに喰んで、やわらかい粘膜どうしが擦りあわせた。はじめてをなぞるような触れるだけのキス。くちびるの端や鼻先、まなじり、こめかみへ。まるで「おかえり」を囁くように、顔じゅうへともたらされる。
    やわい熱が肌に灯るたび、閉じたまぶたの裏側に光の粒がはじけて散った。生まれたばかりの赤や薄黄金(うすきん)が踊るように揺れて、僕のなかを満たしてゆく。
    病室で見たのと同じ光——残り香——が生まれる瞬間だった。
    観測不可能で未知の現象は、都市伝説でもメルヘンチックな比喩でもなく、まして僕の錯覚や妄想でもない。おんなじ気持ちで触れ合う二人のあいだに、確かに実在する。
    「ん、かっちゃん……くすぐったいよ。——ふ、んぅ」
    離れていた時間を補うように、互いのくちびるは隙あらば触れたがる。ふと生まれた空間を追いかけては埋めるほどに。交わした熱で互いを融かし、ひとつになろうとするほどに。まるで二人の間には特別な物理法則があると錯覚させるような、強い力。
    近づくほどに引き寄せられて、触れていることが当然だった。おかげで強烈な引力に逆らって離したときは、せつなさとさみしさで涙すらこみ上げてしまう。
    「——やっとわかったよ。僕はかっちゃんが怖いわけじゃないんだ」
    ようやく切り出したとき、僕らはソファの真ん中でぎゅうぎゅうに身を寄せていた。ゴリラと揶揄される体躯の男二人が悠々くつろげる広さがもどかしい。だって今は一ミリだって離れたくなかった。かっちゃんも同じ気持ちだとすごくうれしい。そんなお花畑な願望を叶えるように、腰に回った手が僕を引き寄せる。
    キスしたあたりからほとんど言葉もなく、ただ頰をすり寄せたり、指を絡めては意味深に爪のかたちを確かめたり。かっちゃんの仕草は動物のじゃれあいと大人の親密さを行き来する。かわいいなあ、なんて余裕まじりの感想を咎めるように、指の間を絶妙なタッチでこするものだから、期待した肌があわだった。身体の奥にじんわり熱が広がる。
    それは今までならば忌避してきた感覚。だけど永遠に逃げ続けられるはずはないし、何よりもう二度と、かっちゃんを悲しませたくないのだ。
    深く息を吸って、隣にあるぬくもりを意識する。どこにいるのか、どこに居たいのか、自分の心を強く据えた。
    「僕が本当に怖かったのは、本能に負けてしまう『僕』だ」
    言葉足らずに始まった独白は、沈黙に受け止められる。胸の裡を読ませない反応に不安が募るけれど、きっと大丈夫。なぜならかっちゃんは僕を捕まえたまま、離れようとしない。欠片も揺るがず、どっしり構えた態度が僕を励まし、心をあらわにすることが正解だと教えてくれた。
    「あの日の僕は、情けなくなるほど弱くて……理性を失った挙句、暴走したんだ」
    かっちゃんの肩がちいさく揺れた。僕の指す「あの日」を正確に理解したのだろう。ようやく返されたささやかな反応に、彼が「あの日」の罪悪感に囚われていることを実感した。
    かっちゃんの心にあるやわらかい部分を抉ってまで、本当のことを話す意味があるのか、僕には分からない。気高い幼なじみは、誰が何を言おうと過去の出来事を「自業自得」と言い切り、謝罪なんて求めないだろう。謝られる事は彼の勝利条件にないからだ。
    「僕は自分がまた、あんなふうになるのがこわい」
    だから、これは僕のひとりよがりな告白。僕は僕の決着をつける。
    なし崩しに元の生活へと戻ることもできたはず。今までの延長で身体を添わせ、時間を重ねることで「つがい」にはなれるかもしれない。心を通わせたふたりとしての雰囲気を味わえるかもしれない。
    だけど僕はもう、彼がくれたたくさんのものに報いるには、足りないと思ってしまった。強くあることを己に課しながらも、自分の弱い部分をさらけ出した姿が、すごくかっこよかったから。何度も僕を救けてくれたから。だから僕も同じようになりたい。
    何より、かっちゃんのくれた「残り香」が僕のなかに降り積もって、きらきら明るく足元を照らしてくれる。だから導かれるままに一歩踏み出した。
    「あの日……通りかかったのが君だったから良かったけれど、そうじゃなければ……ぼくは——本能に負けた僕は、誰でもいいって縋っていたかもしれない」
    とうとう打ち明けた、最大で最悪の秘密。運命だとか半身だとか。世間はつがいの特異性ばかり持て囃すけれど、現実のヒートはもっと浅ましくてみっともなくて、理性や意思を失った場所にある。
    だけど僕は、かっちゃんだけが唯一無二で、特別がよかった。そうじゃないなら、運命なんていらないとすら思う。そうやって心はたった一人を求めているのに、制御を失くした本能が実際に求めたものは理想にほど遠い。そんな自分が、こわくてたまらなかった。
    「だから、あの日『本能に負けるのは嫌だ』って歯を食いしばったかっちゃんが、すごくかっこよく見えたんだ。おかげでヒートを抑え込めた。君が帰ったあとね、資料室で、本能に負けない意思を持とうって決めたんだよ。僕も強くなって、君にふさわしい人になりたかった」
    震える声を聞きとがめたのか、さらに身体を引き寄せられた。ようやく口を開いたかっちゃんが静かに問う。
    「ンで、それが俺を避けることに繋がるんだよ」
    「それがさ、君に触られるとぞわぞわするんだ……背中とか、おなかの奥とか。ヒートを起こしそうで、また自分を見失うのがこわかった。暴走して、誰でもいいからって誘ってねだる姿を見せたくなかった。君じゃなきゃ嫌なのに……僕は、かっちゃんだけがいいのに」
    だから無意識下で本能を封印した。あの日を境に今まで、僕の身体がヒートを忘れたのは、薬の効果でも体質の変化でもない。かっちゃんとの接触に怯えて避けることで、ただ無理やり蓋をしていただけだった。
    「自分勝手でごめん。気付いたあとも逃げ出したりして……何もかも、僕が情けないせいなんだ。君が苦しむ必要はどこにもないんだよ」
    ぼやけた視界をごまかすように俯いただけなのに、首を差し出して断罪を待つ気分に駆られ、いっそう泣きたくなる。きっとかっちゃんは糾弾したり非難したり、僕を責めることはないだろう。これまでのあたたかな時間や、優しいふれあいは、そう信じさせるのに充分だった。それでも緊張を拭えないのは、僕がかっちゃんを失いたくないから。生きてゆくために必要不可欠な存在だからだ。
    不意にかっちゃんが身じろぎ、ぴったり寄り添うぬくもりが失われた。寂寞感を覚えたのもつかの間、肩を掴まれて向かい合わせにされる。往生際の悪い僕はなおも顔を上げられない。
    「俺はあのとき、おまえのこと殺してやりたいほどムカついた」
    「そっか」
    直裁な言葉が胸を衝く。俯いたまま、顎を引くようにうなずくだけで精一杯だった。
    「本能に支配されたら、誰でもいいから誘って欲しがるテメェがムカついた」
    「……そっか」
    異論も反論もない。かっちゃんが話しているのは、先ほど僕がした自白とほとんど同じ内容だ。
    「自分を虐めるやつにまで尻尾振るのかと思ったら、許せなかった。そんなおまえを噛んだら、俺の負けだと思った」
    確かに、本能のままフェロモンを垂れ流した僕は、不特定多数を誘っただろう。だけどかっちゃんを求めたことだけは、嘘偽りのない本心だった。徹底的に嫌われていると信じていた時期だって、ヒートを封印してきた今までだって、いつも惹かれていた。僕はずっと、かっちゃんの隣を歩いていたかった。
    「違うよ。それは——」
    ずっと隠して来た想いを伝えたくて顔を上げ、僕は思わず声を失う。想像もしなかった表情に迎えられたのだ。むきだしの苛烈な言葉とはうらはらに、かっちゃんはただやわらかく笑っていた。
    「だから本能じゃなく、おまえの意思で欲しがらせたかった。……まァ、あんときはムカつくばっかりで、気づいたのはもっと後だけどな」
    細められた双眸の奥に炎が揺れる。まるで吹雪のなかで出会ったかがり火だ。凍えそうな身体と心に安心感をもたらす強さと輝きを持っている。
    あたたかなまなざしを呆然と眺めていると、ふと過去の声がよみがえった。
    ——這いつくばって土下座して俺を欲しがったら、つがいになってやる。
    本物のつがいになろうと提案したときの返事だ。
    あの晩は、触れられることに怯む僕の気持ちが、かっちゃんに追いつくまで待つ。そんな道筋を示されたと思っていた。確かに間違いではないだろう。だけどすべてではなかった。
    底の知れない欲望や「つがい」の仕組みに踊らされることなく、自分の意思で互いを選び、欲しがる。そんな当たり前の感情を自覚しろと言われていたのだ。
    確信をさらに裏付けるように、かっちゃんが突きつける。
    「俺の勝利条件は最初っから変わんねえ。緑谷出久の意思で爆豪勝己を選ぶことだ」
    絶対に勝つことを諦めないひと。ヒーローとしての信念だけに限らず、自分らしく生きるために勝つことを己に課したひと。かっちゃんの勝利条件が緑谷出久にあるなんて、僕に都合が良すぎやしないだろうか。
    「ふさわしい人になりたいだァ? 冷静なおまえがそう思った瞬間、俺の勝利は確定してんだよ」
    純度の高い想いをそそがれるあまり、めまいに襲われた。水平を失った正気が、ぐわんぐわん揺さぶられる。幸せすぎて酔っ払うなんて初めての経験で、「何でも過剰摂取は危険だなあ」なんて完全に他人事だった。そんな間抜けな僕が倒れないように、肩を掴んだ手の片方が背中に回って支えてくれる。もう一方の手のひらは僕のほっぺたを堪能。容赦なくつぶしては引っ張っている。
    「もう待たねぇからな。うだうだとクソめんどくせぇ理屈並べるおまえも、本能に堕ちたおまえも、丸ごともらってやる。——だからつがいになりたいって、もっかい言え」
    やわらかな笑みは打って変わって、ずっと欲しかったおもちゃを手に入れたばかりの、子どもみたいな無邪気さに塗り替えられている。昔からよく知る、最近では久しぶりに見た表情。勝利を確信したかっちゃんだ。
    「さっさと言わねえとちゅーすんぞ」
    「それって、どっちを選んでも君の勝ちじゃないか」
    つがいになりたいと告げるのは言わずもがな。たとえ黙ったままでも、キスを欲しがった——つまり間接的につがい関係を求めた時点で、彼の望む答えになる。
    周到に用意された二択はどちらも魅力的で選べない。だから僕はくちびるに弧を描いて伸び上がる。少しだけ高い位置にあるやわらかな場所に、心を込めたくちづけを贈ったのだ。
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