「星が綺麗ですね」「っは、」
息が詰まるような嫌な感覚に意識が覚醒する。
布団の端を固く握りしめた手は汗でぐっしょりと濡れていた。
ズキズキと酷く痛む頭は何も覚えてないが、身体は漠然と悪夢を見ていた感覚を覚えている。
身体を起こして早鐘を打つ胸に手を当て、乱れた呼吸をゆっくりと整える。
「っふー……ふー…」
震える呼吸音とカチカチと無機質に刻む時計の音が、嫌に耳に響く。
サイドテーブルに置かれたアナログ時計を掴んで顔を寄せると、長針は3時を少しすぎた所を指していた。
生憎、すっかり目は冴えてしまったようだ。
(…散歩でもするか)
眼鏡を掛けてふらりとベッドから降りる。小さく伸びをして扉を解錠すると、冷たい空気の沈殿した廊下へと足を踏み出した。
外に繋がる扉を開くと、冷たい夜風が頬を撫でる。消灯時間の過ぎた基地内は驚く程に暗い。月の無い空は、星が眩しいほどに瞬いていた。
すぅ、と深呼吸をする。冷えた夜の空気を肺いっぱいに吸い込むと、身体の芯からじんわりと熱が解けて行くように感じた。
ゆっくりと歩を進めて、星灯りの下にふと見覚えのある背中が見えて足が止まる。
「… 」
名とも言えぬその言葉を口にすると、夜色の彼はゆっくりと振り返った。静かな光を湛えた瞳がこちらを捉える。
「眠れないのですか?」
心地よい、落ち着きのある声が空気を揺らす。
「うん。…どうにも目が冴えちゃったからさ。」
「そうですか」
短い返答。彼はいつもに増して多くを返さない。ただ静かに、こちらの事を待っていたように見える。
さふ、さふ、と柔らかに積もった雪を踏みしめて、彼の元へ歩み寄り手を差し伸べる。
「良かったらさ、夜の散歩に付き合ってくれるか?」
「…ええ、もちろん」
彼は少し驚いたような顔をして、直ぐにいつもの笑顔に戻った。
「わっ…手、冷たいな」
触れた手の、死んだ氷のような冷たさに驚いて、思わず声を漏らす。一体いつからここにいたのだろうか。そんな事を考えながらその冷たさを優しく包み込むと、自分の指先の温度と相手の指先の温度とが混じりあって溶けて行くように感じた。
どちらからともなく、肩を並べて歩き始める。雪を踏みしめる音がいつもより鮮明に耳に届く。昼間から降り始めた雪は未だにはらはらと降り続いていた。
「そういえば、なんでこんな時間にここにいるんだ?」
ふと、隣に投げかける。
「…何となく、外の空気が吸いたかったので」
「そっか、同じだな」
言の端から何となくはぐらかされたような雰囲気を感じたが、気にしないようにしてそっと相槌を打つ。
「貴方こそ、こんな時間に外に出てくるのは珍しいですね。嫌な夢でも見ましたか?」
言い当てられて、ドキリと心臓が跳ねる感覚。本当、なんでも見透かされるもんだ。
「まぁ…そんなことかな」
内容は覚えてないけど、と笑うと、隣の彼もまた優しく微笑んだ。
そんな調子で、暫くの間お互いにぽつぽつと何気ない答酬を交わしながら歩を進めていく。話題はそのうち、最近読んでいる本が面白いだとか、この前いい紅茶を見つけただとか、いつもしているような他愛のない話へと移ろっていく。言葉は絶えること無く、2人の間を柔らかに紡いだ。
どれだけ歩いただろうか。ふと、隣の足音が止む。建物から少し離れた、フェンスの手前。夜の眠りに着いたポーラスの中でも一際暗闇に沈む一角は、機械の稼働音さえも遠くに聞こえる。
星々の囁く音が聴こえそうなくらいだ。
「夜は一層星が綺麗に見えますね」
不意に発せられた彼の声は、冷たく澄んだ夜の空気に混じって凛と響いた。
光の先を見つめるバイザーに反射した星の光がチカチカと目に眩しい。
つられて視線の先を追うと、小さな宝石を散らしたかのような星々が今にも振り落ちて来そうな程に瞬いていた。
思わずほぅ、と小さく息を着く。久々にこうしてちゃんと星空を見上げた気がした。
…ふと。果たしていつだったか、幼い頃に流星群を見る為に夜に家を抜け出した事があったな、なんて思い出す。
そうだ、確か、あの時も。
「…昔、地球にいた頃…友達と流星群を見た事があってさ。」
気が付けば、喉元まで上がってきた言葉が音となって零れていた。独白のようなそれを、隣の気配が静かに続きを促しているように感じて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「いつの間にか居なくなっちゃったんだ、あの子。また一緒に流星群見ようねって、約束したんだ」
守れなかったけど、と言いかけて口を噤む。
「だから……なんだろうな、懐かしいなって」
まだまだ言いたいことがあった気がするのを無理やり飲み込んで、独白に終止符を打つ。隣の彼が小さく息を飲んだ事にも気が付かないまま、曖昧に笑ってみせた。
「なんでかな、今更そんな事を思い出しちゃってさ」
暫くの沈黙が辺りを包む。何となく、相手の顔を見れない、気がした。
「…なぁ、1つ我儘言っていいか?」
「…良いですよ」
少しの間を置いて返された言葉にありがとう、と小さく呟いて、視線は宙に向けたままに言葉を続ける。
「今度さ、地球で流星群見たいな」
眼前に広がる星々は当然、息を飲むほどに綺麗だ。光源の少ない基地なら、流星群はさぞ鮮明に映るだろう。
…ただ、何となく。おぼろげな思い出の中の、あの日と同じ空を見たくなった。
「…」
「ダメかな」
困ったようにはにかむと彼は顔を綻ばせた。
「いえ、とても良いですね。また明日一緒に調べてみましょうか」
今日はもう遅いですから、と付け加えられる。
「うん、ありがとな」
柔らかに微笑んで礼を述べると、ぱちん、と目線が合う。
「約束、ですよ」
昔より夜目が利くようになった瞳は、闇夜の中のあどけなさを含んだ笑顔をはっきりと映した。
「うん」
小さく頷くと彼は満足そうに目を細めた。
つられて目を細めて、不意にふぁ、と欠伸が漏れる。心地よい眠気が緩やかに顔を出し始めたようだ。
「帰りましょうか」
控えめに手を引かれて踵を返すと、2人分の足跡を辿りながら来た道を戻っていく。
歩を進める度に、遠く聞こえていた機械達の呼吸音が鮮明になっていく。夢から、現実に引き戻されるような、そんな、不思議な感覚。
ふと、視界の上で一筋の光が零れる。
「あっ」
弾かれたように顔を上げるが、既に宙は静かな光を湛えるのみだった。少し惜しく思って小さく息を着くと、隣の彼は可笑しそうに笑った。
「幾らでも見られますからね」
「分かってるけど…」
少し拗ねたような声を出せば、また彼はくつくつと声を押し殺して笑う。
肌を撫でる風は相変わらず雪を纏って酷く冷たい。それでも、その中で繋がれた手はじんわりと温もりを伝えてくる。
まだもう少しだけ、この夜を繋ぎ止めていられる。その事に少し嬉しさを覚えているのに、僅かに頬が熱を帯びる。
…。
(…「約束」)
酷く甘い言葉を口の中で転がして、1層深くなる夜の中を、2つの影は歩んでいく。