酒と魚・・・
「あ、卵」
自分の前を飛んでいたネロがいきなりそう言って箒のスピードをゆるめたので、ファウストはびゅん、とネロを思いっきり追い越してしまった。
「何?」
一旦止まってネロのほうを振り返ったファウストは大きな声で聞き返す。ネロはふわりとすぐに追いついてきて、眼下の街を指さす。
「悪い、昨日卵切らしちまったんだった」
ぽり、と頭を掻いてネロはファウストの顔を伺った。
「市場寄って帰りたいんだけど……」
彼らが上空を飛んでいる街ではちょうど大きな市が催されていた。ネロは市の様子を見て、魔法舎のキッチンのことを思い出したらしかった。
別にいいけど、とファウストが頷くとネロはにかりと笑う。
「なんか他にも良さそうなもんがあったら買って帰ろうぜ」
今日、東の魔法使いの年長者二人は朝からそろって任務に出ていた。
魔法舎から箒でしばらく行ったところにある中央の国の東側にある村からの依頼だったけれど、行ってみれば難しい任務では無くて、彼らはやや肩透かしをくらいながらも穏便に解決策を講じて帰っている途中だった。あまり時間もかからずに解決できたおかげでまだ日も高い。
二人は市場から少しだけ離れたところに降り立って箒をしまい、連れ立って市場に入っていく。
中央の首都ほどではないが、二人の立ち寄った市場はそれなりに大きかった。大きな街道の近くにある街だからだろう、果物や野菜を扱う店から肉や魚を扱う魚もしっかりそろっている。
ファウストが魔法舎から買い出しに出ることはあまりない。中央の国は彼の出身国だといえども暮らしていたのは何百年も前のことで、この街だって名前は知っていても、ずいぶん変わったな、と思いながらあたりを見まわす。
ネロのほうは初めて来る市場だからと、できるだけ良さそうな店と品を見定めつつ、慣れた様子で店の間を歩いていく。
ネロが卵を買った店の隣に店を構えていた保存食や乾物を扱う店をファウストは興味深げに覗いていて、「これを1束もらおう」といつのまにやら自分も買い物を済ませていた。ネロもあまり見慣れない植物を乾燥させたもので、「それ美味いの?」とネロが尋ねたところ、ファウストは首を横に振って、「食べたことがない」と言う。
真顔でネロを見ながら「本業に使えるんだ」とだけ言うので、ネロはそんなもん食材と一緒に売ってんの?と思いつつ、これまでの授業で取り扱ったことのある材料である場合のことを考えて藪蛇を避けるべく、なるほど、と頷くにとどめた。
「あ」
通りの真ん中で、のんびりと色々な店を冷やかしながら自分の前を歩いていたネロがいきなり立ち止まるので、ファウストは危うく彼にぶつかりかけた。
「おい、今度はなんだ」
ファウストが眉間に皺を寄せているのを見てネロは慌てて謝った。が、振り返ったネロの顔が上機嫌、────というかほぼ満面の笑み────なのを見て、ファウストは眉を上げた。
「悪い悪い。良いもん見つけてさ、ほらあれ!」
今度ネロが指さした先には、何の変哲もない魚屋があるだけだった。新鮮そうな魚が幾種類か並んでいて、店構えも良さそうな雰囲気を漂わせてはいたが。
「魚屋がどうした」
「魚屋じゃなくてさ、売ってる魚だよ、ほら右のさ、ちょっと奥にある」
ネロがあれ、と指さす先にあるのは見た目は特に変わったところのない薄青い鱗に覆われた魚だったが、ファウストはその魚を知っていた。
「クーゲルか」
たしかに滅多に見かけることのない魚で、そもそも普通の市場で買えるようなものなのか、とファウストはやや驚いた。
ファウストの認識では、それは食用ではなくて、完全に毒魚だったから。
「君……、誰か殺る気か」
まじまじとネロを見てファウストが言い放った言葉を聞いて、ネロは一瞬ぽかんとした。それから、思い切り声を出して笑い始めた。
「あはは!」
ネロがあんまり可笑しそうに笑うので、ファウストはむ、とネロを睨む。そんなにおかしなことを言ったつもりはない。
「違うよ先生」
やっと笑いをひっこめたネロは、しかし相変わらず上機嫌な顔のままファウストに言う。ネロが珍しくわかりやすく機嫌よくなっているのを見て、ファウストはなんだか珍しいな、と思う。
「これ、めちゃくちゃ美味いんだって」
「食べたことがあるのか」
ファウストの知識では、クーゲルと言えば「見かけても絶対に食べてはいけないもの」だったから、ネロの言葉に驚く。必要に駆られてその毒を使う場合の注意すべき点や処理方法に留意することが必須である類の魚だったから、ファウストはそれが魚屋で売られていること自体不思議だった。
「クーゲルってさ、ちゃんと毒抜きしたら普通に食えるんだ」
「へえ」
毒抜き、とファウストは目を丸くした。
「食わねえ地域もあるけど、北だとどこでも普通に食うよ」
「そうなのか……。食べてはいけないものだと思っていた」
「ああ…、何百年か前は結構そういう地域も多かったみてえだな」
ネロは頷いた。たしかに、ファウストが東の国の嵐の谷へ引きこもる前の時代であれば、そういった見解が一般的だっただろうな、と納得する。
「毒を取り除いてさばくのが難しいからさ、だんだん処理の方法がいろんな地方に普及していったんじゃねえ?」
「ふうん」
そうだったのか、と納得するファウストに、「でも先生の言う通りクーゲルの毒が致死毒なのには違いないし」、と言ってネロは口の端を上げてにやりと笑った。
「まあ、俺は自分以外がさばいたのは食わねえことにしてる」
「それは……」
「まあ、ある程度以上魔法使いが死ぬってことはないだろうけどさ。魚の毒でもんどりうって苦しみたくたくはねえもんな」
「毒抜きの難易度が高いってことか……?」
怪訝な顔で尋ねるファウストに、ネロはまあな、と頷く。
「でも美味いんだよなあ」
ネロはしみじみとそう言って笑った。
「一匹しか出てないみたいだからさ、今日の晩飯の後にでも食おうぜ。あんたが嫌じゃなかったらだけど」
「嫌じゃない。美味いんだろ?」
君がそう言うなら食べてみたい、というファウストに言われ、ネロは少し嬉しくなってはにかんでしまう。
「いや、あんた的にこれ猛毒なんだろ。いきなり食うのはあんまりかなって思ってさ」
するとファウストはふふん、と笑った。
「でも運良く君が凄腕シェフだから、僕は安心して珍味を味わえる」
なぜか勝ち誇ったような表情で笑うファウストを見て、ネロは驚いた顔を一瞬して、そして明るく笑う。
「あはは、そこは任せてよ」
ファウストはネロが魚屋の店主とやりとりするのを横で眺めていた。魔法舎の料理人はいかにも慣れた様子で店の主人に声をかける。
「どうも、おじさん、この魚もらうよ」
「お、お目が高いな。はいよ、免状は持ってるかい?」
「ああ、ほら」
ネロはポケットから取り出した財布から、こともなげに一枚の紙を抜き取る。中央の国ではクーゲルをさばくのには免許が必要で、買うときにもその免状を見せなければならない決まりらしかった。
店主は見定めるようにそれをじっくりと眺めてから、「どうも。若いのにたいしたもんだ」と笑顔を見せると、丁寧に魚を包んでくれた。ネロは店を離れるとすぐにきっちり保冷の魔法を包みにかけて、満足げに抱えなおした。
市場を出ると、人気の少ない場所で箒を取り出した二人は荷物を持って再び箒にまたがる。
上機嫌で横を飛んでいるネロを、ファウストは横目でちらと見た。
「あれ、本物なのか」
「まさか」
ネロは眉をあげて、悪びれずに言う。
彼の言う「あれ」とは、当然さきほどネロが財布から取り出した、毒魚であるクーゲルをさばくための免状のことだ。
「ここだと東の国とは違う免許になっちまうしさ。そんなのいちいち取ってられねえよな」
それにそもそも、ネロがこの魚の捌き方を覚えた時代の北の国ではそんな規則はなかった。今も無いかもしれないが。
「東の国では本物を持っていたような口ぶりだな」
ファウストがからかうと、ネロは苦笑いして肩をすくめた。
「持ってねえけどさ……」
「だろうな。冗談だよ」
ファウストが小さく笑うと、ネロの横顔も笑った。
「先生は、免状持ってねえ料理人がさばいた魚でも食ってくれんの?」
ネロの言葉にファウストは真面目に頷く。
「君が信用できるうえに素晴らしい料理人だということは十二分に知っている。むしろ僕が頂いてしまっていいのか」
さらりと褒められて、ネロはやや照れながら、もちろん、と頷く。
「今日のとこは一匹だけしかないし。こういうのは内緒にして手に入れた奴だけで食っちまうのがいいよ」
「そういうものか」
「そうそう」
軽口を叩きながら空を飛ぶうち、陽が少しずつ落ちてきた。魔法舎のある方角には橙色の雲が棚引いていた。暮れていく空の下に煌めく大きな都、無数の街灯が見えてきて、魔法舎が近づいてくる。
*
夜。
「美味しい……」
ファウストは思わず唸っていた。
自分のさばいたクーゲルを一口食べたファウストが思わず眉間に手をやってその味を嚙みしめているのを見て、ネロは笑顔にならずにはいられなかった。
「だろ?」
食堂での夕飯のあと、二人は晩酌がてらテーブルを囲んでいる。卓上にはもちろんネロが腕を振るった魚と、それに合わせた数品のつまみが並んでいる。
他の魔法使いたち―――主にクーゲルを美食として認識している年長の魔法使いたち―――に見つからないよう、料理はネロの部屋でサーブされた。生のクーゲルをさっぱりとしたソースで仕上げた一品を、ネロも口に運ぶ。
「はあー、美味い」
久しぶりに食ったわ、とこちらは顔を綻ばせて、ファウストの持ってきた酒を口に含む。
「先生の持ってきてくれた酒もうまい」
満足気な顔のネロの横で、ファウストはフォークを再び口に運ぶ。
一切れをじっくり味わってから、ファウストは頷いた。
「これ、北の国の酒だろう。北でよく食べられる魚なら合うかもと思って」
「うん、たしかに北でよく魚に合わせる」
先生、引きこもってたとか言うけど酒選ぶセンスいいよな、とネロ言われて、ファウストは微妙な顔になる。
「魔法を使っても酒を一から自分で作るのは難しいから、たまに外に出たときにまとめて店で色々買ったりしてたんだ。それに、賢者の魔法使いになってからはシャイロックの作った酒を飲んだり、僕の好きそうなものをすすめてもらうこともあったしな」
なるほどな、とネロは納得する。
一年に一度だけとは言え、シャイロックと定期的に会えるということは、彼の人間性の貴重さはもちろん、酒が好きな魔法使いからすれば別の面でもずいぶんありがたいことだ。
それに、シャイロックはどうやら以前からファウストを信頼できる魔法使いとして認めていたようだし、またおそらくファウストその人自体を気に入ってもいる。酒が好きでセンスがよさそうとくれば、教えてもらえることはいくらでもあっただろう。
「だからまあ、嵐の谷で独学ってわけでもない」
「シャイロックに酒のこと聞くって、最高の先生じゃん」
「まあそうかも」
二人は今日もおそらくカウンターに立っているであろう彼の姿を想像して微笑んだ。魔法舎で暮らすようになって、お互いシャイロックのバーには時々顔を出していることを知っていた。
二人でぺろりと皿の中身を平らげてしまい、グラスを傾けてゆったりと余韻を楽しんでいると、ファウストが不意に顔を上げてネロに尋ねる。
「君は?」
「うん?」
「料理は独学? ほら、こんな珍しいものの料理の仕方なんて誰かに習うものじゃないのか」
ファウストも寛いだ気分で、珍しくネロ自身のことをたずねた。
「答えたくなかったら答えなくてもいい」
律儀にそう付け加えたファウストに、ネロは瞬きをして、別に嫌じゃねえよ、と前置きしてから答える。
「料理は独学の部分も多いけど、この魚のさばき方はガキんときに教わったんだ」
悪い思い出ではないらしい、ネロが懐かしそうにぽつりと話を続けるので、料理にまつわることだと昔の話もしやすいのか、とファウストは内心思う。
「初めてさばいた時はさ、ちゃんと毒抜けてるかわかんないから。そこらへんの池とかにさばいた身を投げて、食った魚が浮いてこないか見たよ」
「なるほど」
「今考えたら池に投げ捨てるなんて勿体ねえけど。その時住んでたあたりじゃ、そこまで貴重な種類ってわけでもなかったし、それに、死人を出すわけにはいかないだろ」
そう言って苦笑するネロに、それはそうだな、とファウストは真面目に相槌を打つ。
「んで、大丈夫だったらそこらへんの飢え死にしそうな犬なんかにやるんだ」
昔暮らしてたとこにいた魚の中には、人間とかなり違う毒の分解ができるやつもいたからさ、ネロはそう話しながらボトルから酒をグラスに注いでらファウストにもボトルを差し出す。
「んでまあ、犬が食って死なないなら、多分毒は取り除けてるってわけ」
「初めて人に食べさせるのは怖くなかったのか」
ファウストの素朴な質問に、ネロは眉を上げた。
「初めて食べたのは当然俺だよ」
言われて、ファウストは目をぱちりと瞬かせた。
「とんだ実験だ」
「はは、まあな。でも、この魚の毒では一匹たりとも殺してねえよ。もちろん人も」
冗談なのか、矜持なのか、そう言って足を組んでネロが笑うのでファウストも眉を下げてふふ、と笑った。
「若い時から凄腕シェフだったんだな」
「いや……、そんなんじゃねえけどさ……」
ぽりぽりと頭を掻くネロを見て、ファウストは少しばかり笑ってしまう。
自分で言い出しておきながら、同じようなことを人から言われると照れ出すネロをファウストはそろそろ見慣れてきた。
「初めて食ったクーゲルの一皿はさ、信じられないくらい美味かったな、あれは」
ネロは昔のことを懐かしく思い出しながら、ではファウストがはじめて人に呪いをかけたのはいつどんな時だったのだろうな、とふと思う。けれどそれは聞いていいことなのか、ネロにはわからない。この先も聞くことはないのかもしれないし、もしこういう夜がまたあるのだとすれば、いつか意外にさらりと聞くことになるのかもしれない。
けれど今日のところはただうまい酒と料理と、他愛ない話で過ごせることが心地よくて、お互いそのことをそれぞれに感じられていて、彼らにはそれだけで良いのだった。
二人の夜は穏やかに夜は過ぎてゆく。
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