微糖コーヒーと夏休み・・・
大学の夏休みも半ばの朝。
ネロは半分寝ぼけたまま冷蔵庫から1リットルのペットボトルのコーヒーを取り出した。つけっぱなしの古いクーラーの音が静かな部屋に響いているが、もう慣れていて気にならない。シンクの横に出したグラスに半分ほど氷を入れる。未開封のフタを開けてコーヒーを注ぎ、食パンを袋から取り出す。温めておいたトースターに食パンを入れる。オレンジ色のトースターの中をぼんやり眺めながら、シンクにもたれてアイスコーヒーを一口飲む、が。
「え、甘あ……」
部屋に一人なのに思わず声が出た。
ネロはコーヒーにシロップや砂糖は入れない。昨日の夜、バイト帰りにコンビニで買ったのも、ブラックコーヒーのはずだ。けれどネロの口の中には甘すぎるコーヒーの味が広がっている。
グラス片手に冷蔵庫のドアを開け、ペットボトルのラベルを確認すると「微糖」とある。ネロは、はあー、と小さくため息をつく。
無糖のボトルを手にしたつもりが間違えたらしい。
毎朝どうしてもコーヒーを飲みたいわけではないし、取り立ててこだわりがあるわけでもなかったけれど(だからコンビニで適当なペットボトルのコーヒーを買っているわけで)、今朝はアイスコーヒーが飲みたい気分なのだ。それにコーヒー以外、家には今飲み物が水しかない。トーストに水、という朝食は休日にはふさわしくないとネロは思う。
味気なさすぎる。
近所のコンビニに買いに行くか?と閉めていたベランダのカーテンを開けて外をのぞくと、まだ8時台だというのにすでに外はカンカン照りで、窓を開けなくとも外がうだるように暑いだろうことがわかる。
ネロが窓際にて寝ぼけた頭で、夏の日差しを浴びつつ、なおもコンビニに行くか否かについて葛藤していると、寝間着のポケットで携帯が震えた。のろのろと携帯を取り出してみると、通知画面には友人からのメッセージが表示されている。
ファウストからだ。
ネロはぽち、と画面をタップしてトークルームを開いた。
「おはよう。この前言っていた映画、今日見に行く」
改行。
「君も一緒に行く? 行くなら13時の回か16時半の回」
ネロは端的なメッセージを読み終えると、ほぼ反射で通話ボタンを押した。
・・・
ネロにメッセージを送り終えて、ソファで文庫本を開こうかとしていたファウストの目の前で、ブブブ、とテーブルの上に置いた端末が震える。こんな朝に普段電話なんてかかってこないから、ファウストはびくっとして端末を手に取った。
画面に表示された名前は、ネロ・ターナー。1つ年上の友人だ。
以前バイト先で一緒になって、何となく気が合った。自然と二人で話すことが多くなり、そのうち偶然にも同じアパートに住んでいることがわかった。シフトが最後までかぶったある日、歩いて一緒に帰ったら、最後まで同じ道だったのだ。
仲良くなってきたとはいえ、ただのバイト先の人間で、お互い思い切り笑って偶然だな、と言えるような性質では無い。家を知られてしまって(致し方ないのたが)、相手は嫌な気分にならないだろうかと思ってしまい、さらにお互い同じようなことを思っているのがわかってしまい、二人揃って苦笑いで自分たちの住む部屋を見上げた。
どちらかがバイトを辞めたら気まずくなるだろうか、とも思っていたが、ネロの距離の取り方は絶妙で、お互いそこをやめてからもなんだかんだと付き合いが続いていた。し、なんなら今も二人とも引っ越しもせず同じアパートに住んでいる。
「もしもし?」
ファウストはいつもよりは緊張しながらネロからの電話に出る。
「あ、ファウスト?」
しかし携帯のスピーカーから聞こえる声はどう考えても寝起きの、別に焦っても困ってもいないネロの声だったので、ファウストはひとまず安心した。
「びっくりした、何?」
「悪い悪い。おはよう」
「うん、おはよう」
「あのさあ、ファウストもう朝飯食った?」
「まだだけど」
「今、家にコーヒーある?」
「コーヒー? ペットボトルのやつならあるよ。豆はない」
脈絡のないネロの質問に、ファウストはとりあえず素直に答えていく。
「そのペットボトルのコーヒー、もらいに行っていい?」
なるほど、とファウストはやっと合点がいった。
ネロの部屋を出て、廊下の奥の階段を上がれば、すぐファウストの部屋がある。
「コーヒー切らしたのか」
「うん。てか間違えて甘いやつ買っちまった」
「は?」
「今どうしてもコーヒー飲みたくてさ。でも外めっちゃ暑そうじゃん」
ネロに言われて、ファウストは窓の外をみやる。確かに晴天でいかにも夏日だった。
「あ。それか俺、朝飯作るから一緒に食わねえ?」
「コーヒー代として?」
「まあそんなとこ。無料でオムレツとサラダと……」
電話の向こうで、冷蔵庫をゴソゴソする音が聞こえてファウストは一人ソファで笑ってしまう。
「ベーコンかソーセージ選べるし、ヨーグルトもつくよ」
機嫌よさそうな声でそう言われて断る理由はなかった。
頂こう、僕がそっちに行くから君は準備してて、と答えるとネロは了解、と嬉しそうに答えた。
・・・
「ラベルに書いてあるだろ」
「まあそうなんだけどさあ、このラベルの色とか無糖っぽくない?」
「いや、微糖って書いてある」
ていうか、無糖っぽい色って何?とファウストは思う。テーブルをはさんだ向かいでは、ネロが書いてあるけどさ、と眉を下げている。
ネロは疲れている時に買い物したりすると、たまに間違ってものを買ってしまうことがある。その度に反省するのだが、しばらくするとまたやってしまう。ネロとしては、誰しもよくあることだと思っていたが、ファウストにはそういったことはないらしく、別に否定はしないが理解できないと顔に書いてある。
クエスチョンマークがファウストの頭上に飛んでいるのが目に見えそうだ、とネロは笑えてきた。
「まあそのおかげでこんな立派な朝食を食べられて、僕は嬉しいけどね」
二人の前のテーブルには、ほとんど空になった皿が並んでいる。
ネロ特製のふわふわのオムレツに、丁寧に水切されて手作りのドレッシングで和えられた葉野菜とトマトのサラダ、こんがり焼かれたソーセージと苺ジャム入りのヨーグルトで、ファウストの胃は満腹だった。
「片付けは僕がやるよ」
「え、いいよ。俺が呼んだんじゃん」
ネロは止めるが、ファウストは譲らない。
「別に午前は暇だったし、僕は階段降りただけ」
ファウストはこういうときやると言ったら聞かないので、ネロは降参してまかせることにする。
手伝おうとしても追い払われるので、友人がキッチンで食器を洗っている音を聞きながらネロはベランダ側の窓を開けた。百円ライターでタバコに火をつける。安アパートで薄い仕切りのすぐ横は隣の部屋の領域だが、ベランダでならタバコを吸っても文句を言われない。
あんまり暑いので、夏は足を部屋のフローリングに置いたまま、細めに窓を開けてベランダに身を乗り出してタバコを吸う。ほんの少しの時間でも外に出れば額が汗ばむ陽気だったけれど、たまに風が吹くと少し気持ちがいい。これも朝のうちだけなんだよなと思いながら、ネロは吐いた煙が流れていくのをぼんやり眺めている。
「ネロ」
と、片づけを終えたファウストが、キッチンを出てネロに声をかける。
「ありがとな、ファウスト」
ネロは短くなったタバコをもみ消して、灰皿代わりのカップ酒の瓶に吸殻を放り込む。窓を閉めて、うーんと伸びをするネロに、ファウストがペットボトルを掲げて見せた。
「いいよ。それでこの甘いほうのコーヒー、どうする?」
「あー、どうしよ。ファウストも飲まねえよな」
ネロは首を傾げる。
「これだけでは僕も飲まないけど、牛乳を入れたら甘くても飲めるよ」
「そうなの?」
「うん、コーヒー牛乳って甘くない?」
「銭湯とかで飲むやつみたいな?」
「そう」
「たしかに」
それなら俺も普通に飲めるわ、とネロは窓を閉めながらファウストかしこいな、と褒める。
「じゃあ毎日風呂上りに飲むか」
そう言って、ネロがファウストも飲む?と聞くので、ファウストは風呂上りに僕の部屋に持ってきてくれるのか?と笑う。
「甲斐甲斐しすぎるだろ」
ファウストが小さく笑ってそう言うと、ネロは、そう?とやや照れたようにごまかしたけれど、飲みきれないしなあ、と頭を掻く。
ネロに意地悪したいわけでもないから、ファウストはちょっとだけ眉を上げて、じゃあ僕も飲んであげようと言う。
どうせお互い夏休みだし、映画を見て感想を言い合って、冷たくて甘いコーヒー牛乳を飲みながらだらだらと話をするのもいいかもしれないなと、二人とも似たようなことを思っている。
・・・