アザレア(1) 耳に届いた物音で、意識がゆっくりと浮上する。ぼんやりと目を開けた先にあるのは見知らぬ天井、カーテンを透かして入り込む朝の光。
瞬きをした瞬間、世界がひっくり返るような心地がした。ぐわんと揺れる視界と、頭が割れそうな痛み、胸のあたりの気持ち悪さ。
「うえ……」
まごうことなき二日酔いである。何度も経験したことのある、どうしようもない体調の悪さ。むくりと体を起こすと眩暈がさらにひどくなるようだ。肌に触れるシーツの感触から、どうやら裸で寝ていたらしい。
ここはいったいどこなのかと、彼は周囲を見回すために体を起こす。途端、既に頭の中にあった違和感はことさらに強く主張を始めて、呻き声と共に彼は再びベッドに沈みこんだ。
聞こえていた物音が、その呻きと共に止まる。足音が近づいてくることにようやく気付いて、彼はようやく、自分以外の人間がこの部屋にいることに気が付いた。
「起きた? 水飲む?」
尋ねてきたのは、男の声だった。からっとした声に夏油は改めて体を起こそうと、ベッドに肘をつく。沈み込んだ時にばさりと顔を覆った自身の髪をぐいとかきあげると、近づいてきた人影がベッドサイドにしゃがみ込むところだった。
「コーヒー淹れようと思ってたんだけど、飲める? ……って、その顔色じゃ無理か」
男はくすりと笑い、彼の顔を確認するように覗き込む。
「頭痛薬ある?」
「ない……」
「じゃあ俺のあげる」
一度しゃがみ込んだ男はすぐにまた立ち上がり、部屋の隅の棚の中をがさがさと漁る。そうして一度キッチンに戻り、グラスに水を汲んで戻ってきて、彼が体を起こすのを助けてくれた。脇の下から背中に腕を通し、捩ったような状態になっていた彼の体をまっすぐにして、ベッドの上に起き上がらせたところで、グラスと錠剤を渡された。シートに入ったままのそれには、彼も見たことのある市販の頭痛薬の名前が印字されていた。
シートから取り出した二粒の錠剤を彼が水でこくりと飲み下すのを、男はベッドに軽く腰掛けたままにこにこと眺めていた。
冷たい水が体の中に入ってくると、喉を滑っていく冷たさで気持ち悪さが少しマシになる。残った水も飲み干したところで「もう一杯のむ?」と男が尋ねてくるので、彼は素直に頷いた。男はちょっと待ってて、と彼の頭をくしゃりと撫で、空になったグラスを手に再びキッチンへ戻っていった。
背の高い男だった。常識離れして美しい造形の顔立ちには、同じく常識離れした美しい青い瞳。まつ毛と同じく真っ白い髪がふわふわと揺れて、朝の薄明りの中にキラキラと輝いていた。
「…………誰?」
その背中に、彼――夏油傑は、小さく呟いたのだった。
*
昨夜の記憶は、正直あまり残っていない。
都心の繁華街で終電をなくし、朝までどうしようかと思ったところまでは覚えている。彼は行きつけのバーにいて、そしてその時点で既に、普段の彼ではありえないほどに酔っていた。
夏油はそれなりに酒には強い質である。飲み会をいくつか梯子したくらいでは、潰れもしないし記憶も消えない。
ただ、昨日はその珍しい例外だった。
昼間から大学の同期達と集まって飲んでいた。せっかく数年ぶりにメンバーが集まるのだからと初めはちょっといいレストランなんて予約して、ワインと共に美味い飯を食った。夕方になる前には昼間から開いているチェーンの居酒屋に飛び込んで、さらに追加でハイボールと日本酒。十九時ごろに三軒目、こちらもまた適当な居酒屋で、さっきの店になかった日本酒をどんどん注文した。二十二時ごろに全員へべれけになって解散し、彼はそのまま四軒目の行きつけのバーに顔を出した。
普段であれば、解散した時点で彼もそのまま帰宅していたことだろう。その時点でかなり酔っている自覚はあったし、そのままもう一軒なんて行ったらそのまま眠ってしまうだろうなと分かっていた。
それでも、その日はそのバーに足を運ばずにはいられなかったのだ。
今日彼らが集合したのは、メンバーの一人の婚約祝いのためだった。結婚する前から祝うのは世間的には珍しいことなのだが、それには理由がある。
そのメンバーは、大学生のころから同期の女性のことがずっと好きで。何度振られても諦められず、ずっとアタックを続けていたところ、大学を卒業してから三年目にようやく交際に至り。それからさらに三年を経て同棲、そして婚約に至ったのである。大学生のころから彼がその相手のことをずっと諦められないでいたのを、メンバー全員がよく知っていたので、今回は彼を盛大に祝ってやろうということで、婚約祝いパーティを開催した、という次第だ。
おめでとう、と既にメッセージ上では何度も伝えた言葉を声を揃えて口にして、肩を組んで、背中を叩いて、グラスをぶつけ合って。そんな祝いの席が設けられた日だった。
最後に足を運んだ行きつけのバーは、新宿の二丁目にある、所謂そういう場所であった。酒とつまみと、同じ指向の人間同士の出会いを提供する場である。
夏油はゲイであった。自認したのは大学生のころで、このバーには時折出会いと相手を求めて足を運んでいた。見繕う相手はいずれも一夜限りの相手、もしくは交際等を前提としない所謂セフレばかり。彼には本命が別にいるのだということは、常連の誰もが知っていた。
―—その本命の相手が、婚約祝いパーティの主役だった。
大学生のころからずっと、その友人のことが好きだった。好きだと気付いた時には、彼はすでに婚約相手の女性のことを好きになっていて、それを同期のメンバーたちにも教えてくれていた。
気付いた瞬間に失恋確定。それでも理性でどうにもできないのが恋心というもので。
相手がノーマルで、自分のことなど絶対にそういう対象には見てくれないのだと分かっても、夏油は彼のことを好きでいるのをやめられなかった。いっそ友人関係もなくしてしまった方が楽になれるかも、と思いはしても、そんな勇気もない。
一番つらかったのは、彼がメンバーの中では特に夏油のことを信用し、信頼してくれていたことだった。
ゲイであるというのに、夏油は女性からよくモテた。寄せられる好意のすべてを丁寧に断っていたので、一度も交際に発展させたことはないけれど、何故か彼はそんな彼に、どうやって相手にアタックするのがいいだろうかと、そんなことをよく相談してきた。
ずっと彼のことが好きだった。友人として好意と信頼を寄せてくれていた彼のことを、ずっと裏切っていた。
婚約おめでとう、と笑顔を見せて、その内面を絶対に漏らしてはいけない。友人として取るべき態度を完璧に演じなければならない。
その日はこの十年間の夏油の裏切りに対する断罪の日のようだった。
*
部屋にはじんわりと出汁の香りが広がっていた。見知らぬ部屋は朝の白い光の中、未だくらくらと歪む視界にそのシルエットを映し出す。家具の類はあまり多くない。寝室と居室を兼ねた広めの一部屋と、扉を超えた向こうのキッチン、それにちょっとしたダイニング。それがこの部屋の構成のようだ。夏油から見える範囲ではそうだった。
温められたカップの中には、二日酔いにいいというしじみの味噌汁が、ほかほかと白い湯気を立てていた。フローリングに敷かれたラグの上、さっきまで寝かされていたベッドにもたれながらそのカップの中身を一口すすると、口の中にしょっぱさと味噌の風味が満ちる。薬のおかげで頭痛と眩暈はだいぶ治まっていたものの、まだ胸の気持ち悪さは消えてくれない。
はあ、と息をつく夏油の前には、長身の男が頬杖をついてにこにこと笑っていた。彼の手元にはコーヒーのカップがあり、砂糖を溶かすのに使ったスプーンが顔を出している。
インスタントの味噌汁は、この男が用意してくれたものだった。たまたまこの前気分が向いて、たまにはこういうのもいいかなと思って買ったんだよね。まさかこんなところで役に立つなんて思わなかった、と彼は明朗な声でいう。不思議と彼の声は二日酔いの頭にそこまで響かなかったが、それでもまだ気持ち悪い感じは胸にしぶとく残っていて、夏油は「ああうん、そう……」と返事をすることしかできなかった。
彼は五条悟と名乗った。真っ白い髪に青い瞳をしているものだからてっきり外国人かと思ったのだが、日本人だったらしい。
「顔色ちょっと良くなってきたね」
五条は夏油の顔にかかる前髪をそっとかきあげて、耳にかける。その仕草がずいぶんと様になっていて、妙に気恥ずかしくなってしまった。
「昨日のことは思い出した?」
「あー……なんとなく、ぼんやり」
「俺と会ったのも?」
「……うん、まあ、それもなんとなく」
そっか、と五条はなおも微笑んでいる。なぜそこまで彼が上機嫌なのかが夏油には分からない。
夏油は裸で寝ていた体になんとか下着を履いてTシャツを被っただけの無防備な姿だった。昨日着ていたジャケットは壁にかけられているのが見える。廊下の向こうから聞こえる洗濯機の音からするに、それ以外の夏油の服は既に彼によって洗濯されてしまっているようだ。今彼が着ているTシャツは目の前の男のもの、下着も彼の新品のものを借りている。
そうして与えられた服に着替えている間に、徐々に夏油にも昨夜の記憶が戻ってきていた。
四軒目で行きつけのバーにたどり着いたこと。そこのカウンターで、馴染みの店主や他の顔見知りの常連を相手にいろいろと吐き出している間に、終電が過ぎてしまったこと。昼間から飲み続けていたこと、そもそもストレスの高い一日であったことが災いして、普段より深く酔ってしまったこと。
そうしてカウンターで潰れていた時に、隣に座った男に声をかけられたことも、しばしの思考の末ようやく思い出した。その男が目の前の白い男――五条で、夏油は彼に今日一日のことを洗いざらいぶちまけて、傷心のまま彼に泣きついたのだった、と。
その男と見知らぬ部屋にいて、自分は裸で寝ていて、何ならじわりと体の節々や腰回りが痛いことを考えると、そこから昨夜何があったのかを察することは難しくない。
「悪かったね、世話になって」
夏油はそう言って目を伏せる。ふふ、と目の前の男は笑って、「いいよいいよ」と手を振った。
「俺も同意の上だし。他にどうしようもなかったし、放っておく気もなかったしね」
「……ありがとう」
気遣われているのだろうとは思う。それでもそう言ってもらえるのであれば、その気遣いに甘えて詫びを重ねるのはやめておく。
夏油の手にしたカップが空になったのを見ると、彼はそのカップを受け取るべく手を差し出した。そのまま彼はキッチンへ洗い物に出ていく。その背中をぼんやりと眺めながら、夏油はクッションを抱えたまま大きく息をついた。
気分が悪い。腹に軽く物を入れたおかげで多少ましになってきてはいるが、それでも本調子とは全く言えない状態だ。
酒のせいだけではないというのは明らかだった。目を閉じると昨日の飲みの記憶が蘇ってくる。大学時代からの友人の婚約を祝う一日は、夏油にとっては地獄のようで。なお辛いのは、その地獄を誰にも明かせないということだった。
そう多くない洗い物を済ませた五条が戻ってきても、夏油は反応することができなかった。
「気分悪い?」
「……うん」
「水は?」
「……今はいらない」
そっか、と五条は呟くと、夏油の隣に腰を下ろした。肩が触れ合いそうなほどのところにやってきた彼だったが、不思議とその距離感は夏油には不快ではない。むしろほんのりと触れる体温は少し心地よくもあった。
部屋は朝の光の中にある。壁にかけた時計が示す時間は、七時を目前にしたころだ。とうに電車は動き出しているので、帰ろうと思えば帰れるはずなのだけれど、五条は一向に夏油を追い出そうとする姿勢を見せなかった。自身のことを気遣ってのことなのだろうと察しが付くのが却っていたたまれなかった。
「今日なんか予定とかあった?」
尋ねられる言葉に、夏油は首を横に振る。
もとより昨日の予定が入った時点で、翌日は使い物にならないだろうと想定して、何も予定は入れていなかった。本来ならば昨日はちゃんと終電で帰って、一人で思う存分二日酔いと失恋の心の痛みに呻き散らかし、そうして何とか人の形を取り戻して平日の仕事に戻るつもりだったのだ。
まさか、三十も間近のこの年になって、酔って記憶をなくしたうえに見知らぬ男の部屋で朝を迎えることになるとは思わなかった。
「ごめん、薬効いてきたし、そろそろ帰るよ」
いくら気さくそうな男でも、自ら家に上げた人間に「さっさと帰れ」とは言いづらいだろう。そう思って夏油の方からそう切り出すと、五条はぱちぱちとその白いまつ毛を上下に動かし瞬いた。
「きみにも都合とか予定とかあるだろ。私は一人でも大丈夫」
体調が悪いというのは間違いないが、何か病気なわけでもない。この家がどこにあるのかは知らないが、あの後新宿から連れてこられるくらいの距離なのだろうから、最悪夏油の家までタクシーを呼んでもいい。帰宅して大人しく水を飲んで寝ていれば、夕方ごろには回復するだろう。まさか回復するまでこの部屋に居座るわけにもいかないし。
一晩共に過ごしただけの相手なのに、これだけ世話をしてもらっただけでも、夏油には十分だった。これ以上は夏油には何も返せない。
そう思っての言葉だったのだけれど。しかし五条はそれに返事をするわけでもなく、夏油の背中にそっと手を回す。彼の手はずいぶんと穏やかに夏油の背を撫でていく。
「何……?」
「大丈夫って顔じゃないよ」
彼はくすりと笑う。
「二日酔いだけならいいけどさ、多分そうじゃないでしょ」
「……そんなこと」
「覚えてないかもだから言っとくけど。おにーさん、昨日泣いてたんだよ」
え、と夏油は思わず顔を上げて、隣の男を見る。
「失恋したって言ってたけど。そうなの?」
「……うん、まあ。そうだね」
間違いでもないのだが、全く正しいというわけでもない。言葉を濁すように曖昧に頷くと、五条はじっと夏油の顔を覗き込むようにして見つめる。
昨日失恋した、というわけではないのだ。失恋自体は、彼のことを好きだと気づいたその瞬間から、かれこれ十年間ずっとしている。昨日はその中でも特にきつい日だった、というだけで。
昨日の自分が彼にどのくらい話したのかは分からない。酷く酔っていたので、きっと話していたとしても支離滅裂だったことだろう。もう一度簡単にそのあらましを語ってやれば、五条は頷きながら夏油の話を聞いてくれた。
どうしてこの男を相手にそんなことを話しているのだろうと、話しながら思う。彼と出会ったのは昨夜のことで、名前しか知らないのに。五条に背中を撫でられていると、ひどく慰められる気分になるのだ。
あのバーで出会ったということは、そして一夜を共に過ごしたということは、彼も同じ性的指向を持っているのだろう。夏油の受けた傷のことも、彼なら受け止めてくれると、思ったのかもしれない。
「ねえ、あのさ」
話を聞いていた五条は、不意にそう言って呼びかけた。何だろうかと夏油がその先の言葉を待つと、彼は背中を撫でていた手をするりと滑らせて、夏油の手をそっと握る。
「もし今フリーなんだったらさ。俺と付き合ってみない?」
告げられたのは、そんな言葉だった。夏油はぽかんと口を開き、「は、」と言葉ですらない音を発した。
夏油にはもうずっと固定の相手はいない。性的指向を自認したときからずっと本命がいたので、他の誰かを特別にしたことはなかった。固定の相手を探そうと思ったこともあったけれど、どうしても勝てない本命が別にいるというのがネックだった。まずそんな条件、つまり「別に本命がいるから絶対本気になることはないけど」という前提をクリアする相手がそんなにいなかったのだ。一夜限りの相手や、性処理のためと割り切った付き合いをする相手はそれなりにいたけれど、気持ちを求められるとそれに応えることができなくて、それで関係は終わりになってしまう。初めはその条件を理解してくれた相手でも、回数を重ねるごとに期待させてしまうようで、そう長くかからないうちにダメになってしまうのだ。そのうち相手に内情を話すこともやめてしまって、ただ「固定の相手を作る気がない」と伝えるだけになった。
そもそも夏油の体格でネコだというのも、あまりよくなかった。夏油に言い寄るのは彼より小さな――と言っても彼は平均以上の体格なのでどうしても比率が高くなってしまうのだが――男性ばかりだった。彼に抱かれることを求めて寄ってくる男たち。そういう相手はそもそも夏油の要求を満たさないので、必然的に分母は少なくなりがちだ。だというのに、その僅かな分母の中でも夏油に入れ込んでしまう相手はどんどん増えていって、選べる相手自体が減っていく。
そうやって誰かと心のやりとりをすること、誰かにやりとりを求められることに疲れてしまって、ここ数年は固定の相手を作ることなく生きてきたのだった。
「付き合うって、」
何を言っているのだろうかと、夏油は戸惑うばかりだった。その戸惑いに彼も気付いているのだろう、握った手にぎゅうと力を籠めると、覗き込んだ顔にまっすぐ視線を合わせた。
彼の青い瞳は夏の空のように澄んでいた。恐ろしく美しい顔は、しかし人形のように無機質ではなく、妙に人間らしい。間近に迫るその顔はいっそ迫力すら感じられて、夏油は目を奪われてしまう。
「実はさ、一目惚れだったんだよね」
その目元がじわりと赤みを帯びるのを、夏油は信じられない気持ちで眺めた。
「昨日おにーさんがカウンターで泣いてるの見てさ、なんかこう、ビビッときて」
「……え、そういう趣味……?」
「違う違う、そういうことじゃなくて。俺だったら泣かせないのにって思ったの」
だから、俺にしてみない?
重ねられた手のひらが熱い。その熱さは、五条の言葉が本心からのものであると示しているかのようだった。
彼は知っている。夏油に本命が別にいるということを。その相手にずっと失恋し続けて、それでもなお諦められないでいることを。彼の内情を知った上で好意を伝えてくる相手というのは、夏油にはずいぶん久しぶりのことだった。
「……きみのことは、別に好きにならないかもしれないけど。それでもいい?」
握られた手の熱さを直に感じてしまっては、はっきり断ることはできなかった。
別に今この時点では、夏油は五条に対して何も感じていない。好きだと彼は言うけれど、夏油の方は別にそういうわけでもない。一晩泣きつき体を許した間柄だから、今この距離も受け入れているが、それ以上の感情は特にないのだ。
けれど。それでも、まっすぐ見つめる五条の瞳が、握られる五条の手のひらが、一目惚れをしたのだという彼の言葉を裏付ける。彼の差し出す好意が本心からのものなのだと訴えてくる。それをバッサリと捨てられるほど、今の夏油は強くはなかった。
―—正直、疲れていた。気付いた時からずっと失恋し続けるこの十年間に。傷つけられ続ける心を一人で抱え、癒すこともできないでいる人生に。
五条は夏油の言葉にその青い瞳をまん丸にして、それからとろけるように破顔した。
「いいよ、それでも」
「本当に?」
「まあ、いつかは好きになってくれたら嬉しいとは思うけどね」
それを夏油に強く求めるつもりはない、と彼は言う。
ずいぶん殊勝な物言いに、意外な気持ちで夏油はその笑みを見返した。青い瞳のはまった顔は作り物のように美しく、そして夏油だけをまっすぐに映していた。
「聞いたよ。おにーさん、しばらく特定の相手は作らないようにしてたんでしょ」
彼が口にしたのは、自身の他者に対するスタンスだ。なんで知ってるんだ、と夏油はその顔を見返す。
「あそこのマスターが教えてくれた。おにーさんのこと連れて帰ろうとしたときに」
「……ラルゥか」
顔なじみの店主を思い出して、夏油は嘆息する。
彼とはもう十年近い付き合いになる間柄だ。互いにそういう目で見ていないからこそ、いろいろとあっけらかんと話ができる、気さくな相手だった。彼であれば夏油の交友関係のことはよく知っているだろうが、それをこの――初対面の、見ず知らずの男に話したというのは、なんだか少し意外だった。
ああいう店の店主をしているくらいなのだから、きっと彼は夏油のことに限らず、常連客の様々な事情を把握しているのだろう。それを他者にほいほい喋るような性質では、長く店を営み続けることなどできはしない。普段の彼は、聞き上手で口の堅い、信用のできる男なのだ。
その彼が、夏油と初対面だと分かっているはずのこの男に、夏油のことを話したという。夏油が意外に思うのも当然というものだ。
夏油の反応に五条はにこりと笑みを浮かべる。
「だから、逆に交渉の余地ありだなって思ってさ」
「逆に?」
「逆に。全部わかった上でそれでもいいから、って」
なるほどね、と夏油はその言い分に苦笑いを返した。
言葉は多少軽めではあるが、その内側にあるのは執念にも似たものだろう。何としても夏油と一定の関係を築きたいという、執念。それを彼は一目惚れと呼ぶのだ。
「おにーさんの好きなように、都合よく使ってよ。俺はおにーさんの役に立てたら嬉しいし、何かを求めるつもりもないし」
青い瞳をまっすぐに夏油に向けて、彼は衒うことなくそう告げた。
あまりに都合のいい言葉だ。夏油にばかり利があって、相手には何も得るものがない。まずは好きでいることを許してほしい、何ていうが、夏油が彼に同じ気持ちを帰さないまま時間が過ぎても、彼は同じことを言うのだろうか。
自分が変わらないと信じてやまぬ青年に、夏油は「ふふ」と笑ってしまった。
「そのおにーさん、っていうの、もうちょっと違う呼び方できない?」
彼が年下であることは夏油にも分かっているが、そんな風に呼ばれる年齢もそろそろギリギリだという自覚のある夏油には、なんだかその呼び方はくすぐったかった。別の呼び方を求めてみれば、彼はその美しい顔をきょとんとさせて、首をかしげて見せる。
「おにーさん、名前なんていうの?」
「……私、きみに名乗りもしてなかったの?」
今度は夏油の方が驚いてしまう番だった。一晩を共に過ごした相手だというのに、五条はこちらの名前も知らなかったのだ。名も知らぬ年上の男に、一目惚れしたからというだけの理由で交際を迫る、目の前の男もイカれている。
「スグル、ってお店では呼ばれてたけど。本名?」
「うん。――夏油傑だよ」
改めてよろしくね、と夏油が言えば、男はぱっと顔を明るくして、大きく頷いて見せた。
「傑って呼んでいい? 俺のことは悟って呼んで」
「はいはい」
隣に座った男は、笑顔のまま夏油の肩をぐいと抱く。犬だったら大きく尻尾を振っているだろう喜びように、夏油はなんだかくすぐったい気分になってしまった。
彼の腕が体に触れるのは、不思議と嫌ではない。まあ、相性のいい相手、生理的に嫌悪を抱かない相手でなければ、いくら酔っていても一晩一緒に眠ったりはできないだろう。
―—もしかしたら、意外と上手くやれるのかもしれない。
そんな予感と共に、夏油はその青年の腕に、自身の体を委ねてみることにしたのだった。