イカロスの翼 第3話 また来る、と言った言葉の通り、五条はその後定期的に高専を訪れるようになった。
初めこそ慌てて対応に走っていた教師陣も、三度目になるころにはすっかり慣れ。校内放送で夏油を呼び出し、その間応接室に一人で放置しておく、なんて、以前ではありえないような雑な対応になった。
「僕がほっといて、って言ったんだよ」
応接室の黒いソファーに、ずいぶんカジュアルなシャツとチノパンのスタイルで現れた五条は言った。一般科目の授業中に放送で呼び出され飛び込んだ応接室、五条が一人で座っていることに仰天した夏油に対する言葉である。
先生たちは、と尋ねたところ、彼はけらけらと笑った。
「まあ、別に公的に視察に来てるわけじゃないしね。ただの卒業生の母校訪問なら、こんなもんじゃない?」
「そうかなぁ……」
彼の言うことは確かにその通りかもしれないが、それにしたって、である。仮にも五条家の当主をこんな応接室に一人放っておくなんて。
とはいえ、それでいいと判断したのはおそらく夜蛾である。夏油の現在の担任で、五条にとっても恩師に当たる男。かつての教え子だというのであれば、まあ分からないではない。
八割ほど納得した顔の夏油に、五条は楽しそうに笑っていた。
「二週間ぶりだね」
「うん」
おいで、と彼は夏油に向かって手招きをして、自分の正面の席を促す。それに従って黒い革張りのソファーに腰を下ろせば、ふかふかの座面がぎし、と軋んで深く沈み込んだ。
あれから五条は、およそ二週間に一度ほどの頻度で高専を訪れるようになっていた。三回目の今回は、初めて出会ったあの梅雨の晴れ間からおよそ二月が経過して、夏の盛りもようやく終わろうかと言う時期である。
呪術師の繁忙期だという夏。それを夏油はなんとか越えることができた。単独での任務がまだ許されていないので、一つ上の上級生と組んで、日本中のあちこちを飛び回った夏だった。
「また増えてるね」
それ、と五条が指差すのは、夏油の腹である。そこにはこの夏に新たに取り込んだ呪霊たちが無数にひしめき合っている。
「面白いのはいた?」
「うん、まあほとんどは低級だけどね」
答えるとともに、夏油は一匹の呪霊を呼び出す。ソファーの隣にずるりと現れたのは、チョウチンアンコウのように長い触覚を頭から下げた、人間と呼ぶには随分悍ましい形の呪霊である。
五条はその呪霊をじっと眺め、「ふうん」と興味深そうに目を細める。
「寄生型……いや、洗脳型か。いいね」
「正解。と言っても上級の呪霊じゃあないからね、心身に極度に不安定な状態の人間じゃないと操れない程度さ。術師には効かない」
「だろうね。心霊スポットに遊びに行くようなタイプの人間には効くんだろうけど」
「うん。実際、山奥の心霊スポットに来た人間に術をかけて幻覚を見せて、もう一回訪れさせたところを襲ってたみたいだ」
先週行ってきたばかりの任務の話を、夏油は目の前の男に話して聞かせた。うんうん、と彼は楽しそうにその話を聞いて頷いている。
「呪力操作もだいぶ馴染んだみたいだね」
「それも見てわかるものなの?」
「わかるさ。流石に初見じゃ無理だけど、傑のことは経過を知ってるからね」
夏油は自身の手のひらを顔の前に翳してみる。薄く薄く呪力を広げる訓練は、今も継続中だ。初めて教わった日から一週間ほどは呪力の操作に随分苦労したけれど、少しずつその操作も体に染み付いて、この二月でずいぶん扱いに慣れたように思う。自分の体でも肌感覚でしか感じられないそれを、五条は目で確認できるというのだから、随分便利なものだ。
「体術の授業でも褒められたよ。上級生たちにもほぼほぼ負けなくなった」
「へえ、やるじゃん。頑張ってるね」
その言葉に、夏油は照れ笑いを滲ませた。
他の誰に褒められるよりも、この人に認められるのが一番嬉しい。無論それは彼が現代最強の術師という他の追随を許さない実力者であるから、というのもあるのだろうが、それだけでもない。
彼に憧れを抱き、彼のようになりたいと思っている。その彼に認められ、褒められれば、そりゃあ嬉しいに決まっている。
「そう言えば聞いたよ、今度二級に上がるんだって?」
「ああ、やっとね」
「どうせ上げるなら夏前に上げればよかったのにね。そうしたら単独任務だって任せられたのに」
「まあタイミングの問題だからね、仕方ないさ」
二級術師までの昇級のタイミングは不定期だ。その実力が認められれば、手続き的には大したこともなく上がってこられる。まあ、実力の問題でここに到達できない術師もそれなりにいるのだということは、夏油も知っているけれど。その点は夏油には関係のないことだった。
「一級昇格狙うときは言うんだよ。うちの術師から推薦出させるからさ」
「悟が推薦出してくれるんじゃないんだ?」
「僕が推薦出したら、傑と任務同行できなくなっちゃうでしょ」
当然のように五条が言うので、夏油はきょとんとしてしまった。
「悟が私の昇格査定についてくるのかい」
「そ。あ、でも僕そういうところ妥協しないから、実力不足だと思ったら傑でも不合格出すからね」
僕だからって甘えないように、と彼は冗談めかして言う。その言葉に夏油もつられて笑ってしまった。
「そりゃあ真面目に頑張らないとね」
「そうそう。ま、傑なら大丈夫だと思うけど」
「あんまり期待されると逆に査定厳しくなったりしない?」
「あはは、どうかなぁ」
ソファーの上で足を組んだ五条は、膝の上で頬杖をついてにこりと笑った。
彼がそういうことをしないというのは、無論夏油もよくわかっていた。彼はそういうところはきちんとしている。きちんと夏油の実力を見極めてくれることだろう。
近い未来、彼に自身の力を見極められるのだと思うと、気持ちが引き締まるようだった。彼の前で醜態をさらすわけにはいかない。さらに鍛錬に励まなくては。
「さて、と」
夏油が内心で決意を新たにしているところに、五条はそう呟いて、組んでいた足を解いた。
「じゃあ、今日も一本付き合ってくれる?」
「もちろん」
問われた言葉に、夏油は大きくうなずいた。
初めて会ったあの日以来、五条は定期的に高専を訪れては、夏油と手合わせをしたいと言うようになった。
夏油としては望んでもないことだ。特級を相手に手合わせができる機会なんてそうそうない。彼が他の学生たちに同じように声をかけているところは見たことがないので、きっとこれは夏油だけの特別扱いだ。
特別扱い、と考えると、少し気恥ずかしいような、くすぐったいような気分になる。嫌なわけではもちろんないけれど、それをまっすぐ感じるとなんだか落ち着かない気分になるのも確かだった。
彼がどうして自身に目をかけてくれるのか、それが夏油には判然としないのだ。彼からしてみれば、夏油はおそらく数多いる自身の後輩の一人、自身よりも弱い術師のうちの一人にすぎないだろうに。夏油が他の術師と違うのは、その身に刻まれた術式が少し珍しいものである、という一点だけだ。
初めて会った時にも、彼は術式に興味を持っていたようだった。だからきっと、夏油に目をかけてくれるのは、この術式を面白いと思ってくれているからなのだろう。夏油にこの術式がなければ、あの日声をかけられることだってなかったに違いない。
――だからといって、落ち込むようなことはないのだけれど。
事実として呪霊操術は夏油の体にある。彼が目をかけてくれているのは、「夏油傑の体に刻まれた呪霊操術」であり、どんなたらればを重ねたところでその事実は変わらない。
使えるものは使う。目標とする男の背中に追いつくためならば、それがその男自身であったとしても、ありがたく活用する。そう決めた。
行こうか、と彼は夏油に声をかけた。それに一つ頷いて、夏油は柔らかなソファーからゆっくりと立ち上がったのだった。
*
「だいぶ動きよくなったじゃん」
床に転がった夏油の顔を覗き込むようにして、汗一つかくことなく五条は言った。
彼の顔の向こうには、体育館の天井があった。ずいぶん遠くにある天井の明かりは、今は黙って二人を見下ろしている。昼下がりの黄色い光が、二階通路の窓から体育館の中へと差し込んできていた。
一本付き合って、と言われただけだったのだけれど、最終的にはトータルで五、六本ほど相手をしてもらった。そのすべてが当然のように完敗で、夏油はこうして汗だくになって、息を切らしてその顔を見上げるばかりである。
「はー、くっそ……」
思わず悪態をつけば、五条は楽しそうにけらけらと笑う。
「早く僕に術式使わせるくらいになりな~」
ひらりと手を振った彼は夏油の視界からその姿を消す。すたすたと体育館を出ていく足音と、その振動を床から感じながら、夏油は乱れてしまった呼吸を整えるべく大きく息をついた。
呪力操作にもだいぶ慣れ、かつての自分よりもだいぶ動けるようになったという自負はあった。その点は先ほど五条も認めてくれていた。
けれど、やはり五条悟は強い。呪力操作だけで、術式もフル活用した夏油を難なくいなし、こうして床に転がしてしまうのだから。
まだまだ、もっと強くならなくては。彼と手合わせをするたびに、夏油はその決意を新たにする。反省すべき点は無数にあった。
あれこれと自身の反省点、手合わせの最中に考えたこと、感じたことを頭の中でこねくり回していると、再び体育館の床に足音がした。さっき離れていったばかりのそれと同じ音にその方向へと顔を向ければ、スポーツドリンクのペットボトルを両手に持った五条がニコニコと歩いてくるところだった。
「まだへたばってんの、傑」
「うるさいな」
足を振り上げて勢いをつけ、よっ、と夏油はその場で起き上がる。そのまま床に胡坐をかくようにして座れば、彼はその目の前に、手の中のペットボトルを差し出した。
「まだまだ暑いからね、水分補給しっかりしな」
「ありがと」
さわやかな青色のボトルを受け取った夏油は、ぱき、とそのキャップをひねる。そのままごくごくと飲み下せば、体の中に冷たい感触がじわりと広がって、すっかり熱くなってしまった肉体と思考の両方を冷ましてくれるようだった。
そうして一息ついたところで、彼らは先ほどの手合わせの反省会を始めた。
あの時の動きはよかった、とか。そのあとのこの判断は、こうしたほうがよかった、とか。
「呪力操作が追い付いてきた分、術式を利用する意識が下がってない?」
「あー、それはちょっと自覚あった。自分で突っ込むよりも呪霊に突っ込ませたほうがいいシーン、あったよね」
「傑の場合、なまじ体術が結構できるからね。呪霊の細かい操作より、自分の体を動かすほうに優先度が向いちゃいがちなのは、まあわからないでもないけど」
せっかくなんだからうまく使わなきゃ、と五条は笑う。
彼は夏油と一緒にいるときには、その素顔をさらしてくれていた。基本的にはずっとアイマスクやサングラスで瞳を隠しているらしいのだけれど、夏油はむしろそちらの姿を見たことのほうが少ないくらいだ。
脳の処理情報が増えて負荷がかかるのだとは聞いていたけれど、その負荷を厭うこともなく、五条はいつだってその瞳で夏油を見守ってくれていた。自身では気づけない、わからないことを、彼はいくつも指摘して、その解決方法を一緒に考えてくれた。
彼の指導はわかりやすい。呪力の流れが見えているからなおさらなのだろう、その指摘はいつ建だって的を射ているし、非常に参考になる。さらにはその解決策のアイデアまで持ち合わせているというのだから、大したものだ。
「悟、先生になればよかったのに」
「僕が?」
ふと思いつきでつぶやいた夏油の言葉に、五条は意外そうにぱちぱちと目を瞬かせた。
「なんで?」
「だって教えるのうまいし。目がいいからかな、指摘が的確だよね」
「そうかな」
「そうそう。まあ、たまに全然わけわかんないこと言うけど」
くすくすと笑う夏油に、五条はなおも不思議そうな顔をする。
本格的に指導を受けたわけではなく、たった数回アドバイスをもらっただけだから、夏油にもそこまで強く言えるような根拠はない。けれど、少なくとも今の夏油には彼の話は分かりやすかったし、理屈も理解できる。まあ、彼自身が感覚でしかつかんでいない部分の説明は全く分からないのだけど。
「そっか。僕が教師ねえ」
くつくつと彼は喉を鳴らして笑う。その声に、今度は夏油の方がきょとんと目を丸くした。
「何で笑ってるの?」
「いや、思ってもみなかったから」
「教師向いてるかも、って?」
「うん。ほら、僕ってあんな家にこんな能力で生まれちゃったからさあ。生まれた瞬間から成人したら家督を継ぐのが決まってたわけ」
だから、他の仕事なんて考えたこともなかったのだと。彼は何でもないことのように口にした。
「――そっか」
言われてみれば確かにそうだ。呪術御三家の五条家の跡取り息子が、他の仕事と二足の草鞋をするなんて、だれが思うだろう。無論本人が望めば不可能ではないのだろうが、ただでさえ多忙そうな今の彼の生活に、別の仕事が割り込む余地などない。物理的に時間が足りないのである。
「なんか、ちょっともったいないね」
「?」
夏油の言葉に、五条はこてんと首を傾げた。
「だって、悟ならなんだってできそうなのに」
それは夏油の本心だった。
その身に刻まれた術式と、呪力を見通すこの世でただ一つの目。彼が最強たる所以を語るときには決して外すことのできないそれらは、しかしそれだけで五条悟を最強たらしめているわけではない。
その能力を十全に使う思考や発想、能力、センス。そのすべてが平均と比べて非常に高いレベルで重なり合っているからこそ、彼は最強たりうるのだと、夏油は思っている。
術式やその目がなかったとしても、彼はきっと途方もなく優秀な人間だろうと思うのだ。たまたまその能力がこちら側──呪術師としての力にだいぶ傾いてしまっているだけで。
夏油のそんな言葉に、彼はくす、と笑みをこぼした。
「傑にそう思われてるのは光栄だな」
彼はその手を伸ばして、ぽすん、と夏油の頭を撫でた。大きな手が汗の滲んで束になった髪をわしわしと掻き回す。うわ、と声をあげて夏油は体をのけぞらせ、それからけらけらと声をあげて笑った。
「ほら、早いとこ着替えてシャワー浴びておいで。ご飯連れてってあげる」
「うん」
五条の言葉に頷いた夏油は、ぴょんとその場で立ち上がる。
こうして五条が高専を訪れた日は、彼と何本か手合わせをして、その試合に対するフィードバックをもらい、その後二人で食事に出かける、というのがすっかりお決まりとなっていた。
今日も二人ともそのつもりで、夏油はばたばたと寮のシャワー室へと走って行く。汗臭い体でついていくのが嫌だ、と訴えたところ、シャワーを浴びる時間だけはなんとか確保することができたのだ。
「暑いから応接室戻ってて!」
すぐ浴びてくるから、と言い残して、少年の背中は体育館から消えていった。
五条はその背中をくすくすと笑いながら見送る。
「なんだってできそう、ねえ」
本当にそうだったらいいんだけど。
小さく呟いた声を掻き消すように、夏の終わりの蝉の声が大きく体育館に響き渡る。ひぐらしの声だ。
夏の終わりは近い。西日の差し込む体育館を後にして、五条は校内の応接室を目指して歩き出したのだった。