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    xxshinopipipi00

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    xxshinopipipi00

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    「前世の親友が転生したら女になってたので、今世では一緒に幸せになります。」(3)
    Twitterに投稿していた第7話〜第10話をまとめました。今回で夏編が終わり、話は次くらいから動き始めます。

    前回(4話〜6話)→https://poipiku.com/532896/8693349.html

     到着したのは、海沿いのリゾート地に建てられた古風な旅館であった。建物自体はかなり古いが、その内側は改装を繰り返し、積み重ねてきた時代の重みと厚みを残しながらも、悪い意味での古臭さが拭い取られている。
     駐車場に車を停めると、迎えの従業員が恭しく荷物を受け取ってくれた。
     お待ちしておりました、と大きな玄関にずらっと並ぶ仲居たちの姿に、夏油はすっかり気圧されてしまったようだった。
    「え、まって。なにこれ」
    「何って、旅館だけど」
    「こんないいところだなんて聞いてない!」
    「パンフレット渡しただろ。見てないの」
    「見たけど!」
     驚いているのか戸惑っているのか、五条の影に隠れるようにして、夏油はその身を小さくする。声をひそめて動揺した様子の彼女を気遣ってか、代表らしい年配の男性はさっと合図をして従業員たちを下がらせた。
    「悟様、ようこそおいでくださいました」
    「変わんないね、ここも」
    「ええ、少しばかり古くなりましたが」
     支配人の男性は、五条に対して丁寧な言葉で話しかけた。五条の側はそれを当然のように受け止めて、軽く世間話に付き合ってやる。その間に仲居たちが二人の荷物を回収して、部屋へと運び込んでくれた。
    「お連れ様はお一人ですか?」
    「そ。こういうとこ慣れてないから、よろしく」
    「ええ、ええ。もちろんですとも」
     父親くらいも歳の離れた男性は、にこにこと嬉しそうに笑っていた。あー、これは勘違いしてるな、と五条は内心で思う。けれどそれをここで一生懸命に否定したところで、何も得なことはない。どうせ真面目には受け取られないのだ。
     まだ彼の後ろに体を小さくしている夏油が、くい、と五条の手を引いた。
    「悟、知り合い?」
    「ん、ここの宿は小さい頃によくきてたからね。支配人ともその頃からの付き合いでさ」
    「そうなんだ……」
     小声で言葉を交わす彼らに、支配人はなおも嬉しそうだ。
    「お部屋にご案内します。海の見えるいいお部屋ですよ」
     そう言って彼は二人を先導して、ふかふかの絨毯の敷かれた廊下を歩いて行った。
     通されたのは、旅館の一番端にある、離れのような大きな部屋だった。
     入り口から右手が寝室、左手側にダイニングテーブルとリビングエリア。普段の五条の部屋よりもさらに広い一部屋には、海を一望できる大きな室内浴場が備え付けられている。
     五条はこの部屋に覚えがあった。一度両親に連れられてここにきた時に通されたのも、このタイプの部屋だったはずだ。
     部屋の説明を受けている間も、夏油は落ち着かない様子で五条の後ろにくっついていた。
    「そんな緊張しなくても」
    「いや、するだろこんな部屋……寝室だけでも私と硝子の部屋の二倍くらいあるんだけど……」
     大きな窓の向こうには、一面の太平洋。ここまでくる間にも高速道路から見えていた海は、こうして部屋の窓に切り取られると、また少し違った表情を見せてくれる。
    「ほら、海も見えるよ。確かお風呂からも見えるはず」
    「ほんとだ……」
     支配人が静かに退席した後で、促されるまま、夏油は部屋の中をゆっくりと歩き出した。
     部屋の設備を見て回る彼女は、その度に「うわぁ……」と感嘆の声をあげていた。少しすればようやく少し慣れてきたのか、緊張していた表情も緩んでくる。
    「すごい部屋だね、本当に」
    「いいとこでしょ」
    「うん。次は硝子も連れてきてあげたいな」
     窓から海を眺めながら、そんなことを彼女は言う。その言葉に「そうだな」と頷いて、五条はリビングスペースのソファーにのんびりと腰を下ろした。
     夏の盛り、日はまだまだ長い。多少傾いて黄色くなり始めているとはいえ、秋の夕暮れとは違いそんなにすぐに夜はやってこない。大きな窓から差し込む光が明るく部屋の中を照らして、二人分の影を板張りの床に落としていた。
     リビングのテーブルの上には、館内の案内が置いてあった。クリアファイルにまとめられたそれを眺めながら、夏油は楽しそうに瞳を輝かせる。
    「ほんとに広いんだね、ここ」
    「いいとこでしょ」
    「うん」
     室内浴場とは別に、館内には温泉も別に用意されているとのことだったが、五条にはそこまでこだわりはなかった。前世も今世も、不特定多数と肌を晒して過ごすことにあまり慣れていないのだ。
     その一方で夏油は大浴場の温泉にも行ってみたいと言うので、それにはついていくことにした。せっかく一緒に来ているのに彼女一人で館内を歩かせるのは気が進まないし、まああるものは使えばいいか、とも思ったのだ。
    「大きいお風呂って、それだけでちょっと嬉しいだろ」
     着替えをまとめたバッグを抱え、楽しそうに表情を緩める彼女を見ていると、それをわざわざ引き止めようなんて気にもならなかった。
    「そういうもん?」
    「そういうもんだよ。今の部屋はお風呂小さいから、余計にかな」
     彼女が家入と暮らしているマンションは一応バストイレ別の部屋らしいが、それでもあまり広くはないのだと、彼女は言う。その前まで使っていたのが施設の大きめの風呂だったので、余計に窮屈に感じるのだろう。
     じゃあ後で、と脱衣所の入り口で分かれて、二人はそれぞれに温泉に浸かった。
     まだ日の高いうちから入る温泉に、久々の運転で疲労した体を癒して。露天風呂から見える海の景色が徐々に夕日に染まっていくのをのんびりと眺めて。五条にしてはゆっくりと時間かけて上がってきてみるも、夏油はまだ待合室には戻ってきていなかった。
     こういう場では女性の方が時間がかかると言うのは常識だ。別に何か予定があるわけでもないし、五条は扇風機のある待合室でのんびりと腰を下ろして、用意されていた雑誌を眺めて過ごした。
     五条が待合室に来てから二十分ほどで、脱衣所から夏油が出てきた。
    「お待たせ。ごめんね、待たせちゃった?」
     浴衣に着替えた彼女は先ほどよりも膨らんだ鞄を手に、へにゃりと眉を下げる。それに五条はひらりと手を振って立ち上がった。
    「いや、俺もさっき出たところだから。気持ちよかった?」
    「うん、さっぱりした。露天風呂行った?」
    「行った行った。明るいうちの露天風呂もいいな」
    「ね、海が見れる温泉なんて贅沢だなあ」
     温泉で体が温まったのか、彼女の顔はじんわりと赤く染まっていた。血色の良くなった顔が五条を見上げてふにゃ、と笑う。
    「悟、顔赤くなってる。水飲んだ?」
    「まだ」
    「お風呂上がりは水分取らなきゃダメだよ」
     ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、待合室の隅にあるウォーターサーバーに夏油が向かう。戻ってきた彼女の手から水の入った紙コップをもらい、ぐい、とひとつ飲み下す。よく冷えた水がつるりと喉から腹へと滑り落ちていく感覚に、五条はほう、と息をついた。
    「んじゃ、部屋帰ろーぜ。多分もうすぐ晩飯」
    「やった、ちょうどお腹すいたなって思ってたんだ」
     夕食は部屋のダイニングテーブルに用意されることになっているとのことだったので、二人はこのまま部屋に戻ることにした。
     先ほどよりもだいぶ薄暗くなった窓の外。夕陽に照らされる海が遠くに見えて、その反射する光がキラキラと散らばっている。
    「明日は海行こうな」
    「この辺って海水浴場あるんだっけ?」
    「歩いて行けるところにあるはずだけど。遠くても車出すし」
    「それもそっか。楽しみだな」
     ゆっくりと館内を歩いて戻りながら外を眺めて歩く。お盆のシーズン明けとはいえ、まだまだ館内の宿泊客はそれなりにいるようだ。二人と同じ浴衣を着た客たちが館内でくつろいでいる姿がちらほらと見られる。
     家族連れもあれば、友人同士なのだろう女性たちの姿もあった。その中で、五条は一組の客に目を留めた。
     若い男女の組み合わせ。今の五条たちと同じように、揃って浴衣を着て、部屋に戻るところなのか並んで廊下を歩いている。
     肩を並べる彼らの距離は触れ合いそうなほどに近い。なるほどね、と思いながら、五条はそっと視線を外す。
     それと入れ違いになるように、あちら側から視線を感じた。ちらりと目を向ければ、あちらの男性がふいと視線を外すところだった。
     ──きっと、あちらも同じことを考えたのだろう。それが勘違いであることを、しかし五条はわざわざ正してやろうとは思わない。
     彼女とそういう関係にあるのだと、そんな勘違いをされることが、次第に五条には愉快に思えていた。若い男女が二人並んで仲良くしているというだけで、世の中の目は全てその方向に騙される。その実彼らがただの友人、一番大切な親友同士であって、それ以上でもそれ以下でもないなんて、思いもしないのだ。
     男女の間に友情は存在しない、なんて言葉は、この数ヶ月で無数に向けられてきたものだった。
     それでも、夏油傑は五条悟にとって、ただの親友だ。この大切で大切でたまらない小さな存在には、その名こそがふさわしい。
     くつくつと小さく笑いをこぼした彼に、隣の夏油がどうかしたのかと手を引いた。
    「悟?」
     何かあった? と無垢な瞳を向ける彼女に、なんでもないよ、と五条は首を振る。
    「早く帰ろ」
     そう口にして、そっと彼女の浴衣の背を手で押した。完全に無自覚で伸ばしてしまった手に触れた、微かに湿った温かな感触。その感触にまた一瞬心臓が跳ねかけたけれど、それを表に出さないことにはなんとか成功した。



     広いテーブルにこれでもかと並べられた海の幸に、夏油はまたしても目を輝かせた。
    「どうしよう、こんなの食べたらスーパーのお刺身もう食べれないよ」
    「ふは、なんだそれ」
     無数の皿やら小鉢やらに盛り付けられた量の数々。それを順に口にしては表情をとろけさせ、「おいしい……」と幸せそうにため息をつく彼女に、五条もうれしくなってしまう。
     その日に取れた新鮮な食材で作られる繊細な味は、家での再現もなかなか難しいものだ。五条が一言レシピをよこせと言えばおそらくは提供されるのだろうけれど、レシピが同じだとしても食材が違えば同じ味になるはずもない。
     非日常の体験ができるから、ここは高級なのだ。その非日常を夏油にも感じてもらえたようで、五条は料理に夢中と言った様子の彼女に、くすりと笑った。
     ちょっとだけ、という言い訳付きで、彼女のそばにはアルコールがちょんと並べられている。選べるドリンクの中に日本酒があることに気づいた彼女が、じゃあ、と注文したものだ。未成年であることは当然支配人にはバレているのだけれど、そこはそれ。後から五条がちょっとだけお咎めを受ければ済む話である。
     旅館と懇意にしている酒蔵が作っている、いわゆる地酒。小さなグラスにとろとろと注がれる透明な液体を、彼女は実にうまそうに口にする。
    「そんなおいしい? それ」
    「うん、すごい美味しい。ちょっと辛口なのがまたいいね」
     あいにくとアルコールを一切受け付けない五条には、彼女に賛辞を受けるそれを共有することができない。
     まあ、彼女が嬉しそうならそれでいいか。そう思いながら、その幸せそうに緩んだ表情に、五条もまた口元を緩めるのだ。
     のんびりと夕食をとったあとは、何をするでもない寛ぎの時間である。
     リビングスペースに戻った彼らは、ふかふかのソファーに体を沈めて、はあ、と幸福のため息をついた。
    「食べすぎちゃった……」
     ふふ、と笑う夏油に、五条も笑みを返す。
    「美味しかった?」
    「うん、どれもこれも美味しかった……これあと二日あるんでしょ? もう戻れなくなっちゃうな」
    「また来ればいいでしょ。いつでも連れてくるよ」
    「本当に? ふふ……それは嬉しいな……」
     少しだけ、と言いながら、彼女が口にした日本酒はグラスに三杯。小さめのグラスとはいえ度数はそう低くないはずだ。ソファーの背もたれに体を預ける彼女の顔は、ほんのりとあからんでいた。
     備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、彼女の手にぽんと握らせてやる。しっかりした手つきでその蓋を開けた彼女は、こくこくとよく冷えた水を飲み下した。
    「ありがと、悟」
    「すげー眠そうな顔してるけど。もう寝る?」
    「んー、まだもったいないなぁ……」
     とろん、と目尻を下げて、夏油はつぶやく。そんなことを言ってはいるものの、すでに彼女の瞼は瞬きのペースをだいぶ落としている。
     放っておいたらそのまま寝落ちしてしまうだろう様子に、五条はしかし何もしないでおいた。眠りたければ眠ればいいのだ。どうせ明日もこの部屋に滞在するのだし、いつも忙しくしている彼女にはこのくらいの休息が与えられて然るべきなのだから。
    「さとる……」
    「ん?」
    「なんか話してて」
    「ふは、何その無茶振り」
    「寝ちゃいそうなんだもん」
     むす、と唇を尖らせる様子に、何言ってんだ、と五条はけらけらと笑ってしまった。
     彼女の要望に応えるべく、五条は適当に口を開いた。普段からずっと、ことさらにこの十日あまりは普段以上にずっと、二人でなんでもないことを話している。累計してみれば一体何時間くらい喋っているのか、正直五条には想像もつかなかった。
     今日だって朝車に乗り込んだところから宿に着くまでの数時間はずっと笑いながら喋っていたし、宿についてからも風呂で別れている時間以外はずっと、部屋の中には二人の声が満ちている。
     それでもまだまだ、彼女との間には交わす言葉があった。どんな些細なことでも、彼女に向かって音にすると、それだけでなんだか楽しいもののような気がして。
     何てもない時間が、些細なことが、夏油と一緒にいるというだけで、五条には特別になる。幸福で穏やかで楽しい瞬間になる。
     そんな風に感じられる相手は生涯にそう多くはいないことを、少なくとも五条はよく理解していた。前世でも今世でも、五条にとってそういう相手は夏油だけだ。
     ふかふかの背もたれに沈み込む彼女は、五条の言葉に半ば眠りに落ちかけながらも返事を続けてくれた。このままなら恐らくあと十分もしないうちに眠ってしまうことだろう。
    「傑、ベッド行きなよ」
    「んん……やだ……」
     せっかく広くて柔らかなベッドが用意されているのに、ソファーで眠ってしまってはもったいない。普段は安物のマットレスか五条の家の客用布団しか使っていないのだから、こういう機会に高級寝具を試してみてもいいと思うのだけれど。
     はあ、と呆れたように五条は一つため息をついて、部屋の隅に用意されていたタオルケットを手に、彼女のそばへと足を運んだ。
     風呂上りに着た浴衣のままで、彼女はゆっくりと息をついている。その体にタオルケットをふわりとかぶせてやって、くるみこむようにその体を包む。そうして布で覆ったその体を、五条は恭しく抱き上げた。
    「ん、なに……?」
    「じっとしてないと落とすよ」
    「ええ……」
     ぱちりと瞼を持ち上げた彼女は、自身が五条に抱き上げられているということに驚いたように目を瞬かせた。落とす、という五条の言葉だけは理解したのか、驚きながらもその腕の中で彼女はじっと身を固める。
     驚いてしまったのは五条も同じだった。世間一般以上には体を鍛えているという自負もあったので、抱き上げられないとは思っていなかったけれど。それにしたって、彼女の体は五条の想像を遥かに上回って軽かったのだ。
    「傑、ちゃんと飯食ってる?」
    「食べてるよ」
    「ほんとに?」
     あまりの軽さにそんなことを心配してしまうほどには、その体は華奢であった。
     じっと五条の腕に身を任せる彼女は、そんな五条の驚きと心配も知らず、楽しそうにくふくふと笑った。
    「落とさないでよね」
    「じゃあちゃんと掴まってて」
    「はぁい」
     笑いながら返事をした夏油が、その腕をするりと五条の首へと回した。
     ぐっと近付く距離。もとより近かった体の、その顔が、肩が、首が、さらに五条に近付く。掴まる場所を探してするすると五条の肩をまさぐる手の感触。大浴場に備え付けてあったシャンプーの匂い。その匂いの奥に、華やかに甘い彼女自身の香りが潜んでいる。
     ――どきん、と。一つ大きく心臓が跳ねる。
     あまりに大きく跳ねたので、胸にぴったりと触れている彼女にその異変が伝わってしまうのではないかと思うほどに。
     リビングから寝室までのほんの数十歩が、途方もなく遠くに感じた。ごくりと喉を鳴らしそうになるのを何とか堪え、一歩一歩を踏みしめて、この腕の中の存在を決して取り落とすものかと、ぎゅうと腕に力を籠める。
     その腕の中で、立った数十歩の間に、夏油は再び眠そうに瞼を落としていた。
     間近で伏せられた瞳、その縁を飾るまつ毛が、彼女が呼吸をする度にゆっくりと揺れる。アルコールが入ってほんのり赤らんだ頬の、きめ細かな肌、そこにうっすらと並ぶ産毛まで見えるような至近距離で、五条はその寝顔に視線を吸い寄せられてしまう。
    「すぐる、」
     無防備に晒された首筋、さらりと流れた艶やかな黒髪に、そっと鼻先を寄せようとして、――はっと、我に返る。ふるふると頭を振った五条は、先ほどよりも足早に寝室のベッドを目指した。
     小さく囁いた声には、五条自身も知らない何かが滲んでいるような気がした。それが何なのかを直視することができないまま、彼は腕の中の親友を、再び恭しくベッドに横たえた。
     白いシーツの海にくたりと横たわる体。その体をくるんだタオルケットを剥がして、肩までシーツを引き上げようとして。
    「んん、」
     体に触れる布の感触に気付いたのか、夏油が小さく声を上げた。それと同時にころりと彼女は軽く寝返りを打って、ベッドの上に仰向けになる。
     その拍子に、彼女の着ていた浴衣がばさりとめくれた。布の下の無防備な肌、その面積が一気に大きくなる。
     はだけた胸元には柔らかな曲線が浮かんでいた。女性の体の持つ特有のなだらかなライン。五条の体にはないその滑らかさは、肌の柔らかさまで想像させる。その下に隠された下着の縁だろう黒のレースがちらりと覗いて、五条は咄嗟に顔を背けた。
    「っ、……はー、もう……」
     大きくため息をついて、五条はがしがしと頭を掻いた。極力その肌を視界に入れないよう気を付けながら、はだけてしまった浴衣の袷をぐいと乱雑に合わせてやって、もう一度シーツをその肩までかけてやって。
     そうしてその場にしばし立ち尽くして、五条は深々とため息をつく。
    「人の気も知らないで……」
     彼の目の前で、肩まで白いシーツに覆われた夏油は、穏やかにすやすやと寝息を立てていた。今の彼女の体は顔と首以外全て隠されているけれど、ついさっき目の前に一瞬晒された白さは確かに五条の脳裏に焼き付いている。
     いったいどうしろというのだろうか。いくら親友だからと言って、今の五条は夏油にとっては異性であるはずなのだ。それだけ気を許されているということなのだとは思うけれど、その信頼が今の五条には少しつらい。
     つらいと、思ってしまっている。
     親友で、そんな目で見たりはしないようにと気を遣っているつもりだった。けれど、どれだけ気を遣おうとも、今の五条は健全な男子大学生なのだ。
     もうすぐ二十代を迎える若い男の体は、理性でどれだけ抑え込もうとも、本能的な反応を無にすることはできない。
     ずっと目を背け続けている生殖本能というやつが、今この瞬間、それよりももうずっと前から、五条の理性に牙を剥いていた。
     親友なのだ。体こそ異性のものになってしまってはいるものの、その魂は前世で同性だった相手で、この世の誰よりも大切にしたい、尊重したい相手なのだ。こんな本能などに負けて、このたった一人の親友を失うわけにはいかない。
     ――隣に立つ男が自身に性的欲求を向けているなんて知ったら、夏油はどう思うだろう。
     信頼していた相手に裏切られる感覚なんて、夏油には感じさせたくはない。彼女にとって五条は絶対に安全な男で、たとえ異性であろうとも親友であり続けられると彼女は確かに信じていて。彼女が信じるそれを、五条が裏切る訳にはいかないのだ。
     ――絶対に、隠し通さなくてはならない。
     ぎゅっと強く、彼は自身の手を握りしめる。決意する。彼女のために。自分の前で油断しきった寝顔を晒す、誰よりも大切な人のために。
    「……寝よ」
     二つ並べられた広いベッド、その反対の端まで、五条はため息をつきながら向かう。本能に呼応しているこの体、じわじわと首をもたげつつある熱情が治まるまでは、到底眠れそうにもなかった。
     


    「もうほんと綺麗なところだったんだよ」
     端末に入った写真を眺めて、何度目か分からないコメント。嬉しそうに繰り返すのは夏油で、その正面で彼女の言葉を聞くのは、合宿と帰省から戻ってきた家入だ。
     彼女の不在の間ずっと五条の家に泊めてもらっていたのだと聞いた時には、これはさすがに何か進展があっただろうと家入も思ったのだが、話を聞いている限りではどうやらそんなこともなさそうである。
     夏油の端末に収められた写真には、目の前の人物と今ここにいないもう一人が、青い空に白い雲、広々とした海と砂浜を背景に、楽しそうに笑っている。夏らしい景色の下には夏らしい薄着で、海を前にはしゃぐ二人。夏油が自身の端末で撮った写真の数々には、当然ながら同行者兼運転手の男の姿が多数収められていた。
     家入がいない間に、二人はちょっと遠出をして、海に遊びに行ったらしい。海辺の高級温泉旅館に二人で泊って、日中は思い切りはしゃぎ、夜は料理に舌鼓を打ってゆったり。そんな理想的な旅行をしたのだと、不在の間の話を聞いたときに、夏油は教えてくれた。
    「悟が免許持ってたんだよ。びっくりじゃない?」
    「そうか? 前世でも自分で車運転してたろ」
    「そうだっけ。私は前世でも免許取らなかったからなあ」
    「まあ呪詛師は免許取らないよな」
    「まあね。移動するなら呪霊の方が便利だし、非術師の中で免許講習なんて受けてらんなかったしね」
    「それもそうだ」
     まだ蒸し暑い九月の頭。真夏の盛りよりは多少夜は涼しくなってきたからと、彼女たちは部屋の窓を開けて、扇風機を回して過ごしている。女同士の気楽さで、ほとんど下着のような部屋着で時折体を団扇で扇ぎながら、夕食後ののんびりした時間を迎えていた。
     五条と夏油が以前から――前世、夏油が離反する前から、ずっと特別な関係でありつづけたことを、家入は知っている。今となってはそのことを知っているのは家入と当の本人たちだけだが。
     生まれる前のこと、違う世界の違う場所で違う生き方をしていた頃のことを覚えている。そんな荒唐無稽な話を本当のことのように語り合えるのは、同じ記憶を持つ人間同士だけだ。夏油は家入と二人の時には、こうして気軽に前世のことを話題に上げた。
     五条の前では前世の話をほとんどしていないらしい、というのは、家入も気づいていた。それがどちらの配慮、どちらの意思によるものなのかまでは分からない。もしかしたら、二人ともなのかもしれない。
     前世の彼らの終わり、その形を、家入は知らない。五条から感嘆にあらましを聞かされてはいたけれど、現場を見たわけでもなければ、夏油の遺体を確認したわけでもない。その終わりは二人だけが知っているし、少なくとも五条は、それを自身の外に吐き出したいとは思っていないようだった。
     親友の形に開いた胸の穴を後生大事に抱えて、一人で呪術界を背負って立っていた男。その後ろ姿しか、家入は知らない。それは違う命として生まれなおした今世でも同じらしい。彼は自分の中のものを、夏油以外の他者にうまく共有できないでいる。同じ記憶を持っていると知っている、家入に対してすらも。
     夏油も初めは似たようなものだった。高校入学時に知り合ってから、長い時間をかけてようやくこういう話ができるところまで来たのだ。全く世話の焼ける、と家入は内心ずっと思っている。
     ぱたぱたと手にした団扇で自身の体を扇ぐ夏油。それをちらりと見て、家入はくすりと笑う。
    「ブラ見えてる」
    「硝子だからいいの」
     けらけらと笑う夏油は、そう言いながらも、ちょっとだけ胸元の布を上へと引き上げるような仕草をした。
     ノースリーブの部屋着、その大きく開いた襟ぐりから、彼女の豊満な体が覗いていた。女性目線でもなかなか立派に育ってるな、と思うのだから、きっと五条にはもっと目に毒なことだろう。
     よく耐えてるよなあ、と家入は他人事のように思う。前世が男だったからなのか、もともと自身の体には無頓着なのか、夏油は時折驚くほど無防備だ。
     目に余るときにはこうして注意してやるが、それも彼女自身にどこまで響いているかは疑問である。「硝子だから」と気を許していることを示される、そのこと自体は悪い気はしないのだけれど、恐らく同じだけの無防備さを晒されている五条には少し同情してしまう。
    「ていうか夏油、また育ったんじゃないの」
    「え、硝子から見ても分かる? 夏前に買ったばっかなのにまたカップ合わなくなってきちゃってさあ」
     これいつになったら止まるんだろ、と夏油は自身の胸を両手で持ち上げる。たぷん、と音のしそうなほどたわわに実った脂肪の塊は、薄い部屋着にその丸いシルエットを浮かび上がらせている。
    「前は男だった身としては、自分の体になんか思ったりするわけ?」
    「はは、まさか」
     冗談交じりの家入の言葉に、夏油はくすくすと笑って返した。
    「なんで私が女なんだろうね。悟だったらきっと最高に可愛い子になっただろうに」
    「アイツ前世も今世も顔だけはいいからなあ」
    「酷いな硝子。スタイルだっていいだろ」
    「フォローになってないぞ」
     軽口を叩いて、二人は揃って笑う。この場にいない、この女子学生専用マンションには入れない、もう一人の旧知の話は、いつだって二人の間で定番だ。
    「前世でも夏油の方が五条よりは胸あったよな」
    「胸筋のことね。でも悟は着やせするタイプだから、たぶんそんなに変わらなかったんじゃないかな」
    「あー、まあ確かに。脱がせたらえぐいタイプだったわ、アイツ」
    「悟、今でもちゃんと筋トレしててえらいよね。見えないけど大分筋肉あったよ」
    「へえ、そうなんだ」
    「うん。旅行の時もさ、リビングで寝てたらひょいって抱き上げられてびっくりしたよ」
     さらりと夏油が口にした言葉に、家入は目を丸くする。
    「え、抱き上げられた? 五条に?」
    「あはは、実はね」
     リビングのソファーで眠りに落ちかけていたところを、五条が抱き上げてベッドまで運んでくれたのだと。少しだけ気恥ずかしそうに夏油は語った。半分眠っていたから鮮明には覚えていないけれど、彼の思ったよりも優しい手つきに驚いたことは記憶にある。
    「意外と優しいところあるよね。悟」
    「……そうだね」
     本当に言葉通りの感想以外を抱いていなさそうな夏油に、家入はそう答えるよりほかに言葉を持たなかった。その優しさを向けられているのは夏油と家入だけなのだけれど、とうの夏油にはその自覚はないらしい。
     気の毒だな、と思っていたけれど、これは本格的に先が長そうだ。仮にも男という肉体の性を持つ相手に、夏油傑という女は刺激が強すぎるのではないか。これが五条でなかったら、この旅行の時と言わず、夏休みに泊まりに行った日の初日、もしかしたらそれよりもずっと前に、彼女はとうに襲われていたことだろう。
     夏油のことを全く異性として見ていないわけではないだろうに。当の夏油は昔の感覚で、五条のことも同性だと思っている節があるが、実際にはあちらは若い盛りの男で、夏油はたいそう魅力的な異性なのだ。
     内心で家入はそっと五条に同情すると同時に、その忍耐を讃える。今度少し話でも聞いてやろうと決めて、彼女はテーブルの上のグラスから水を飲み干したのだった。

    * 
     
     長いと思っていた夏休みは、しかし気付けばあっという間に終わりを迎えようとしていた。
     始まったときにはまだまだ盛りとばかり勢いづいていた太陽は、九月も末の今となっては徐々に陰りを見せ始めている。これから始まる後期、短い秋と長い冬の時間を予見させるような季節。まもなく以前の大学生活が戻ってくる。
     あの旅行が終わってからも、五条と夏油の距離感はなにも変わらなかった。ずっと同じ、前世からの親友。性別を超えた友情。少なくとも夏油からはそう見えるように、五条は努力していた。
     あの旅行で自覚してしまった肉欲を、紛れもなく五条は持て余していた。前世のころからあまりそういった欲求を強く感じることのなかった彼には、生まれ変わってこうして身の裡に生じる衝動は半ば戸惑いを産むものだ。
     まあ、健全な男子大学生なのだから、この生理現象はある意味では仕方のないものだ。早々に五条はそう諦めて、割り切って、そして発散に指針を振り切った。
     夏油自身に向けることのないように、彼女以外のところで発散させればいいだけの話である。幸運なことに五条にはたいそう整ったルックスがあり、探そうと思えばそういう相手には事欠かない。自分ひとりで慰めるという手段はもちろんあったけれど、一度試みようとした瞬間に、脳裏に親友の顔とあの日見た柔らかな肌の輪郭が浮かんでしまって、それ以上続けることができなかった。その日は頭から冷たい水を被って、なんとかその衝動を抑え込んだが。
     自慰では夏油のことが頭に浮かんでしまう。記憶から余計なものを引っ張り出さずに済ませるには、目の前に誰か別の相手が必要なのだろう。
     そう思って、夏油と会わない日を見計らって、五条は適当に相手を見繕うことにした。できれば後腐れなく別れられて、夏油のことを重ねないで済むような、全くタイプの違う女がいい。面倒ながらも夜中に繁華街をぶらぶらと歩いていれば、そういう声掛けがいくつかあって。その中から一番マシな相手を選んで、手近なホテルに入った。
     女なら、異性なら、誰でもいいだろうと思っていた。初めてなんだけど、と告げれば相手の女は嬉しそうに笑って、何かと奉仕してくれた。
     若い体は単純で、そういう意図で触れられれば当然反応を返すし、それなりに高まってもくれる。自身の体の上で乱れる女の姿を見上げては、その姿が親友のものでないことに安堵すると同時に、どうしようもない虚しさにも包まれるのだけれど。
     それでも、物理的に発散することで、夏油といるときにそういう反応をしかかることは格段に減った。彼女にはその変化は伝わらないだろうし、伝わるべきではない。
     満たされない、とは思っている。気持ちいいけれど、それだけ。身体的には満足しても、それだけだ。それ以上を求めてはいけないとも分かっている。
     初めにひっかけた女はそれなりに相性もよく、何より五条の嫌がること――つまりは、五条の心を求めるとか、唯一になりたがるとか、そういうことをしなかった。もしかしたら内心では思っていたのかも知れないけれど、少なくともそれを表に出したりはしなかった。
     その女以外にも、そこそこの数の女に五条は相手をしてもらった。その多くは二回目もない、一度きりの関係だったけれど。初めの一人、その女だけは、五条の望むような関係を築いてくれた。
    「他の女のこと思い出してるの?」
     事後のベッド、甘い雰囲気も何もないホテルの部屋。常に彼女は一本だけタバコを吸ってから、ホテルの部屋を後にした。朝までのんびり眠ることにしていた五条はなおもベッドの中でごろりと横たわっている。
     先ほどまで抱いていた体には、五条の痕跡は残っていない。基本的には相手主体に動いてもらっているので、五条からあちらの体に手を伸ばすことはほとんどないのだ。
    「……なんでそう思うの」
    「最中、ずっと目が合わないから。何か考えてるのかなって」
     非難するでもなく、淡々とした口調で、彼女は問いかける。単なる事実確認なのだろう。五条はその問いに、ゆるく首を振った。
    「逆。考えないようにしてる」
    「へえ。重ねてるわけじゃないんだ」
    「重ねたくないんだよね」
    「なんでまた」
    「親友でありたいからさ」
     彼の言葉に、女はからからと笑った。何それ、と笑い交じりの声。薄暗い天井を見上げたまま、五条はぽろりと言葉をこぼす。
    「信頼されてるから。裏切りたくない」
    「ふうん、一途なんだね」
    「?」
     返された言葉の意味がよくわからなくて、五条はこてんと首を傾げた。ずるりと体をよじって女の方に顔を向ければ、女は手の中のタバコを灰皿に押し付けているところだった。じゅう、と先端の火種が音とともに煙を上げて、息絶える。
    「その親友のこと、好きなんだ」
    「……え?」
     その言葉に、五条は驚いて体を起こす。まん丸に見開いた目に、女はなおも楽しそうに笑った。
    「だって、どう考えてもめちゃめちゃ意識してるでしょ、それ。意識的に考えないようにしないとその子のこと考えちゃうくらいさ」
    「……それは、そうかも」
    「付き合ってる相手を抱いてても、他に好きな女いたらそっち思い浮かべちゃうって、結構あるらしいよ。あ、これは前の彼氏の受け売りね」
     浮気されて振られたんだよね、とあっけらかんと女は笑う。その言葉にはなんと返せばいいかわからず、五条は黙ったままでいる。特に反応を求めていたわけでもないらしい女は、黙ったままの五条にやれやれと首を振った。
     想像もしない言葉だった。五条にとっては、その言葉はもっと純粋な意味に他ならない。
     夏油傑のことは、大好きだ。それは間違いない。彼にとって夏油傑は前世からの親友で、この世の誰よりも信頼し、大切にしたい相手だ。どれだけ一緒にいても飽きない、どころかもっとずっと、この先もずっと、隣にいてほしいと願う人間だ。夏油に対してそう思うことに、肉体の性別は関係ない。夏油が今世でも男だったとしても、五条は間違いなく同じことを考える。
     だからこそ、そこに乗ってきた肉欲が煩わしく、邪魔で、厄介だと思ったのだ。夏油との間にこんな感覚は不要で、それを相手に向けるのは何よりも夏油に対する裏切りのように思えて。
     けれど、女の口にした「好き」という言葉は、「恋愛感情を抱いている」という意味だ。
     ――自分は、彼女のことを、そういう意味で好きなのだろうか。
     夏油が女だから、雄としての生殖本能が理性とは違うところで反応してしまっているのだとばかり思っていた。けれど、もしかしたらそうではないのだろうか。女の体に男の本能が反応している、それだけのこと、ではないのか。
     押し黙ったまま考え込む五条に、女は一つ息をついて、自身の服を手に取った。
    「なんか余計なこと言ったかも。ごめん」
    「……いや、うん」
    「きみも拗らせてんね。がんばれ」
     またすっきりしたくなったら呼んで。そう言うと女はてきぱきと布を身に付けて、髪をさらりと整え、そのまま部屋を後にする。ホテルの部屋には、五条ただ一人が取り残された。
     情事の痕跡の僅かに残るベッド。そこそこちゃんとしたホテルの部屋に、仄かにタバコの匂いが漂っている。
    「……傑」
     ここにはいない親友のことを、五条はそっと思い浮かべた。ぐちゃぐちゃになってしまった内心は、まだまだ整ってくれそうにない。
     自分が夏油のことをどう思っているのか、改めて考えなくてはならない。ずんとのしかかる現実に、五条はため息をついた。



    「どうしよう硝子~~」
    「はいはい、どうしたどうした」
     共有のリビングで勉強していた家入のところに、夏油が泣きついた。夏休みももう終わりだというのに彼女はまだまだ忙しく、実習に次ぐ実習で目の下にくっきりくまをつけた彼女は、風呂上がりの夏油がぴたりとその横にくっついてくるのをなんでもない顔で受け止める。
    「お金がない…………」
     すんすん、と膝に顔を埋める夏油に、家入は「またか」とため息をついた。
     彼女が万年金欠であることは、一緒に暮らしている家入が一番よく知っていた。学費は奨学金で出ているとはいえ、その審査のためには学業にかなり真剣に励まなくてはならない。けれど奨学金だけでは生活は難しく、バイトによる収入は必須だ。バイトを頑張れば頑張るだけ、学業に割く時間は足りなくなる。その微妙なバランスをバイトの方に傾けすぎて本末転倒になりかける学生の話だって、二人の周りにはずいぶんたくさんあった。
     それにしたって、そんなに嘆くほどだろうか。少なくともルームシェアをしていることで生活費は必要最低限まで抑えられているはずだし、バイトと学業を今の所彼女はかなりうまく両立しているように見える。少なくとも家入はそう感じていた。
    「なんでよ。奨学金やばくなった?」
    「それは流石にないけど……」
    「ならどうしたの」
    「……留学したくて」
     おっと、そうきたか。タバコを吸いたい衝動を抑えるために咥えていたキャンディを落としかかった家入は、すんでのところでその持ち手の棒を捕まえた。
    「でも今の生活で一杯一杯でお金がないんだよ」
    「あー、それはそうだろうね…」
     正直貯金を少しずつ取り崩しながら生活していることは家入も知っている。その中で留学に必要な金額を捻出するのは非常に困難だろう。
     はあ、と深々とため息をつく夏油に、家入は黙って手元のノートを参考にパソコンのキーボードに文字を打ち込む。明日までの実習レポートがまだ山のように残っていた。
    「留学したいんだ?」
     けれどちゃんと彼女は夏油の話を聞いてやる。突き放すような真似はしない。高校生の頃から長い時間をかけてようやく困ったことは相談するよう教え込んだのだ。彼女と五条の前世の後悔を二度と繰り返さないために。
     それにしたって、ずいぶん急なことだ。今まで彼女の口からそんな言葉を聞いたことなどなかったのに、いつの間に考えるようになったのだろう。
     家入の問いかけに、夏油は膝に顔を埋めたまま頷いた。
     アメリカの大学に行ってみたいのだと、彼女は消え入りそうな声で語った。夏休みの間に参加したシンポジウムで、たまたま講演に来ていた向こうの研究者と話す機会があって、その研究内容に彼女は非常に興味を惹かれてしまったのだという。研究者の側も夏油がくるなら招待状を出そうとまで言ってくれている、らしい。
    「奨学金は?」
    「交換留学の対象外だから、こっちの大学は休学して行くことになりそうでさ。一応留学証明出したら奨学金は続けてもらえそうなんだけど、そもそも渡航費用とか向こうの生活費とか学費とか、考えたら考えただけ足りないんだ……」
    「あー、まあ、向こうの学費結構いい値段するらしいもんねえ」
     うー、と俯いたまま唸る夏油に、家入は「そっか」と相槌を打った。
    「ちなみにいくら足りないの」
    「ざっと二百万円……」
    「うわ。ガチで足りないやつじゃん」
    「そうなんだよ……」
     提示された額は家入の想定よりもさらに一つ桁が大きい。普段の生活では数万円の買い物すらそうそうないような生活をしている彼女には、より一層高額に感じられることだろう。
     かたかたとキーボードを鳴らす家入に、夏油はぽすんと体を預ける。風呂上がりの揃いのシャンプーの香りがふわりと漂う。
    「五条には相談したの」
    「してない……」
    「なんで」
    「……だって、悟は絶対自分が出そうとするじゃん」
    「するだろうね」
    「それが嫌なんだよ……」
     はああ、とまた彼女の呼吸が床に落ちた。なるほど、分からんでもない。今世では大学生だというのに不労所得で高額納税者をやっているらしい五条。その彼にこんな話を聞かせたら、「いくらいるの? 二百万? 足りなかったらまずいし三百万くらい振り込んどこうか?」とかいって、さらっと彼女に資金を渡してきそうだ。夏油も同じように想像しているらしく、それが嫌なのだという。
     家入なんかは、貰えるものは貰っとけばいいとに、と思うのだけれど。五条はどれだけ金を持っていようとも自分で使いたいようにしか使わない男なのだから、その彼がくれるというのであれば、それは五条もそのように使われることを望んでいるということだ。遊びに使うのであればいざ知らず、勉学のための留学費用にしたいというのなら、出世払いの投資だとでも言って貸してもらえばいい。家入だったら早々にそう割り切って借りに行くのだけれど、夏油はそうではないようだ。
     家入はそっとキッチンに立って、電気ケトルにお湯を沸かした。ふたつのマグカップを用意して、片方にはミルクを入れて電子レンジへ。もう片方にはインスタントコーヒーの粉を入れて、ケトルのお湯を注ぐ。温まったミルクには蜂蜜をスプーンに一杯垂らしてやった。
     ふたつのマグカップが、小さなローテーブルに並んだ。
    「私もコーヒーがいい……」
    「夜中に考え事なんてしてもいいことないよ。大人しくこれ飲んでさっさと寝な」
     ぽす、とまだ少し湿った髪を家入は撫でる。
     まあ、自分に甘えられるうちはまだいいのだ。本当に切羽詰まった時、本当に追い込まれた時には、誰にも相談できず一人で悩んでしまう人間だということを、家入はよく知っている。こうして相談してくれれば、何か解決策を考えてやることはできなくとも、少しくらいは気分を紛らわせられるだろうし。もし何かあったときに何も知らなかった、なんてことにはならないはずだ
     。
      ずず、と安っぽいコーヒーを口に流し込みながら、家入はノートパソコンの画面を眺めた。
     しぶしぶと夏油はもう片方のマグカップを手に取った。
    「……悟さあ、あんなに人間できてたっけ」
    「まあ、夏油が死んでからもあいつだいぶ長く生きてたからなあ」
     いろいろ思うところもあったんでしょ。画面を眺めたまま、家入はつぶやく。
    「……そっか。私がいなくても、悟は生きてたんだもんね」
     ずず、と彼女はホットミルクをすする。口の中に広がる温かさと甘さが優しい。
    「ちゃんと五条と話したほうがいいと思うけど」
    「うん、まあ、わかってはいるんだけど」
     半分ほどまで飲み込んだマグカップを、夏油はそっと両手で包み込んだ。
    「なに。まだ何か悩んでんの」
    「んー……悩み、ってほどじゃないんだけどね。自分でもよく分からないんだ」
     あはは、と夏油は苦笑いだ。なんだそれ、と家入が呆れたように息をついた。
    「どうにもならないこと考えてないで、さっさと寝なよ。夜更かしは美容の敵だぞ」
    「硝子は?」
    「私はまだレポートおわんないから」
    「美容の敵じゃないの」
    「このレポートの方がよほど強大な敵だから、共同戦線ってやつだよ」
    「なんだそれ」
     ふは、と小さく吹き出した夏油は、おつかれ、と目の下を真っ黒にした同居人の頭をぽんと撫でた。
     かつて、まだ彼女が前世で生きていた頃、夏油が高専を去る前には、長身で胡散臭い笑みを浮かべた男は、たまにこうしてぽんと頭を撫でてくれていたっけ。そんなことを思い出しては、家入はふと目を伏せる。手の大きさは違うけれど、その仕草は記憶にあるものと同じだ。
    「――私はさ」
    「うん?」
    「お前らがクズだってよーく知ってるけど。それでも、」
     それでも、一生懸命生きてたんだなってことは分かってるよ。
     かたかたとキーボードを叩きながら、家入はそう口にした。
    「後悔しないように生きなよ。せっかくただの人間になれたんだから」
     あの頃のように、明日の命もわからないような生活ではないのだから、少しくらい欲張ったって怒られはしない。そう家入は思う。あんなに頑張ったんだから、生まれ変わった今回くらいは好きにすればいい、とも。
    「ありがと、硝子」
     夏油は彼女の言葉にへらりと笑って、のんびりと立ち上がった。空になったマグカップを回収してさっと洗い、彼女はリビングを出ていく。
    「おやすみ」
    「おー、おやすみ」
     眠そうに目をこする硝子に、あんまり無理しちゃだめだよ、と夏油は苦笑いを返すのだった。
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    xxshinopipipi00

    SPUR ME7/30新刊サンプル第4話です。
    当主×呪専の五夏、唯一の1年生すぐるくんが五条家の当主様に気に入られる話。
    すぐるくんが五条のおうちに行く回です。モブが若干でしゃばる。

    前→https://poipiku.com/532896/9061911.html
    イカロスの翼 第4話 目の前に聳え立つ大きな門に、夏油はあんぐりと口を開けた。
     重厚な木の門である。その左右には白い漆喰の壁がはるか先まで繋がって、どこまで続くのか見当もつかない。
     唖然としている少年の後ろから、五条はすたすたと歩いてその門へと向かっていく。
     ぎぎ、と軋んだ音を立てて開く、身の丈の倍はあるだろう木製の扉。黒い蝶番は一体いつからこの扉を支えているのか、しかし手入れはしっかりされているらしく、汚れた様子もなく誇らしげにその動きを支えていた。
    「ようこそ、五条の本家へ」
     先に一歩敷地に入り、振り向きながら微笑んで見せる男。この男こそが、この途方もない空間の主であった。
     東京から、新幹線で三時間足らず。京都で下車した夏油を迎えにきたのは、磨き上げられた黒のリムジンだった。その後部座席でにこにこと手を振る見知った顔に、僅かばかり緊張していた夏油は少しだけその緊張が解けるように感じていたのだけれど。
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