ロキとメビウスいつものTVAにある食堂はリフレッシュルームよりもずっと殺風景で、ここは食事をするためだけに作られたとしか思えない場所だった。ロキはメビウスと向かい合ってつまらなさそうにプレートに乗ったサラダを突っついていた。ほとんど手をつけずにいるロキとは反対に、メビウスは綺麗に皿をあけて食後のデザートがわりにスプライトを飲んでいた。
微笑みさえ浮かべているように見えるメビウスに、ロキは頬杖をついたまま尋ねる。
「ここの食事はなぜこんなにも不味いんだ。まるで生命を維持するためだけに作られてるようで、味も何もあったものじゃないな」
「そう?僕は普通なんだけど」
「いいか、世の中には美しく素晴らしい味わいの食べ物がたくさんあるんだ。いくら時間の流れが違うとはいえ、限られた時間を生きるお前たちが食事を楽しもうとしないのか不思議で仕方ない」
サラダを突いていたフォークを投げ出して、ロキは肩をすくめてみせた。TVAの職員であるならば美食に耽る事は不可能で、そもそもここは仕事をする場所なのだから必要な栄養が取れて食べられないほど不味くなければ問題はないと組織としては考えられていた。メビウスもそう聞かされていたし、基本的にTVA職員は常に忙しいので食事を楽しむという暇自体がなかった。だが、言われてみれば食事が美味しいとその組織に従事する職員の満足度は上がるはずなのは間違いなく、ロキの言う事も一理あるのではとメビウスは感じていた。
「我々は忙しいからね。僕は昇進してエージェントになったから余裕もできてるけど、それより下のミニッツメンの彼等なんて本当に食事をとる時間も全然ないくらいなんだよ。だから、ゆっくり食事を楽しむなんて事はできないんだ」
「ふん、つまらない奴らだ。何のために生きているんだか」
「そりゃ、神聖時間軸を守る大切な役目を果たすためだよ」
「またそれか。それはここに来てから何度も聞かされた。だがなメビウス、この世に生を受けたのだから楽しまないのは勿体無いと思わないのか?このつまらない場所で面白くもない仕事をし続けるだけなんて」
最後はメビウスだけでなく、近くにいる他の職員にも聞こえるようにロキはわざと声を大きくして言った。やれやれ、本当にロキという人物はどのロキでも面倒な性格をしているんだな。
メビウスは飲み終わったスプライトの缶をコトンとテーブルに置くと「じゃあ、聞かせてくれないか。君はここで何を食べたいんだ?」と穏やかな口調で問いかけた。どんな主張であっても一度話を聞く、それはメビウスが見つけたロキとの付き合い方だった。その主張が正しくとも間違っていても、それをする事でロキの態度は一度落ち着く。目の前にいるロキも、他の変異体のロキも皆必ずこの特性を持っていた。ロキに共通するのは「他者に受け入れて欲しい」という強い願望を持っている、そうメビウスは考えていた。
メビウスの言葉を受けてロキは勿体つけるように腕を組んで見せてから答えた。
「そうだな。まずはまともなコーヒーを飲めるようにしてもらいたい。ここで出るのは茶色い水でしかない。香りも風味もあったものではない」
「そうか、あのコーヒーマシンのじゃだめかい?」
「当たり前だ、あんなもの!コーヒーの芳しい香り、深く香ばしい味わい。まともな味を知らないのなら教えてやるぞ」
「そうか、その他には?」
「次はデザートだ。チョコバーですら不味いぞ。どうやったらあんな事ができるんだ」
「うーん、あれはそこそこ職員に人気があるんだけどな」
「なんてことだ、ここにはまともな舌をした人間がいないのか!?」
嘆くように頭を抱えるロキに、メビウスは「まあまあ」と宥める言葉をかけると話を続けた。
「じゃあ話を変えよう。僕は正直に言って君ほどものを知らない。それは事実だ。だから、聞かせてくれないか?君が素晴らしいと思えた食事の話を」
メビウスが言った言葉は本心からで、資料で読んでも動画を見ても実際に感じる事はできない。剪定をするためにタイムパッドを使って特定の国や時間や星に行く事はあっても、仕事を済ませばすぐに本部に引き返さなければいけない。タイムパッドを不正に使用してどこかで勤務以外に楽しんでいると処罰の対象になってしまうので、メビウスは基本的な情報としては知っていてもそれらがどう感じるのかを知る術がなかった。ジェットスキーもその一つで、どれだけの性能を知ってどれだけの美しさを知っても、実際に乗った人間だけが得られる体験という記憶を得る事は出来ずにいる。ロキはメビウスが知らない体験を多く、それこそ人間が生まれた頃から知っているのだから、それらがどういうものなのかその口から聞いてみたくなった。
「私の話を聞きたいのか?」
「ああ、そうだ」
「何か悪い事があって私に話を聞かせろという者は多いが、自ら私の話を聞きたがるなんて」
「そう?でも、僕は君の話を聞くのは嫌いじゃないよ。勿論、戯言はごめんだけど」
「ふん、私の話が戯言かどうかはお前たちが勝手に判断する事だ。私は最初から最後まで戯言など言った事はない」
そう言ったロキが少しだけ寂しげに見えた気がしたが、メビウスは話を続けた。
「じゃあ、そうだな。アスガルドで一番良かったのはなに?」
「アスガルドの食事は素晴らしいぞ!お前も食べてみるがいい。そうすればここの食事など灰の塊だとしか思えなくなるだろう」
「ははっ、君は本当にはっきり言うね。それで、一番良かったのは?」
ぐいっと体を乗り出して再び尋ねるメビウスに、ロキは腕を組んだまま指をトントンと叩いて記憶を巡らせているようだった。いくつか候補があるのかどれにするかを真剣に検討しているようで、人々から神と崇められている存在である男がこんなに子供っぽい仕草を自分に見せるようになったのをメビウスは喜ばしく感じていた。TVAに来た当初のロキを考えると、懐かなかった猫がじゃれついてくるのを目撃したようなそんな嬉しさだった。
「一つに決められない?じゃあ言い方を変えるよ。君が一番心に残っているのはなに?」
上下に動いていた指がピタリと止まった。ふらふらとしていた視線がメビウスを真っすぐ見据える。どこまでをさらけ出すべき相手なのかを見定めるように、メビウスの瞳の奥のさらに奥までを覗き込もうとしていた。
そうして少しの沈黙があった後、ロキは口を開いた。
「……私がまだ小さな頃だった。母上が私だけのために菓子を作ってくれた。豪勢なものではない、パイ生地にベリーのジャムが入った小さな菓子だった。よく覚えている、あの日は父上と兄上が出かけていて母上と私だけが宮殿に残っていた。別に寂しいとは思わなかった。父上も母上も、平等に私たちを愛そうとしてくれていたんだろうが、私はそう思えていなかった。兄上ばかりが愛されている、兄上ばかりが贔屓されていると。だから、その時も『ああ、またか』としか思っていなかった。そんな私を母上は見抜いていたのだろう。一人部屋で本を読んでいると母上が私を呼んで、私だけの為にそれを作ってくれた。王妃である母上が私のために菓子を作ってくれたんだ。二人でそれを食べながら『二人には秘密ですよ』と言って、私だけにこっそり魔術を教えてくれた。あの時に食べた菓子、それが私の心に最も残っているものだ」
ぽつりぽつりとロキの口から紡がれた言葉に、メビウスがそれまでに感じたロキの印象を大きく変えてしまいそうだった。人々に神と崇められる男が、拭いきれない寂しさを抱えた子供時代を送っていた。これまでに読んだ資料では知っていたが、実際に本人の口から聞かされると単なる資料上の人物ではなく血肉の通った一人の人間なのだと心を強く動かされる。
「美しい思い出だね。僕はそういう過去がないから、君が凄く羨ましいよ」
いつもよりも肩の力が抜けたように見えるロキへ、メビウスは柔らかな口調でロキへと話しかけた。
「この話をしたのは、メビウスお前が初めてだ」
「それは光栄だ」
「不思議だ、魔術師でもなんでもないお前にこうやってペラペラと話してしまうとはな」
「後悔しているかい?」
「いや、いいんだ。お前くらいだぞ、メビウス。私の話を聞きたがった酔狂な人間は」
「そうなのかい?」
「この私が言うのだから間違いない」
「僕はそんなに自分が変わってるとは思わないんだけど」
ロキの言葉に納得できず首をかしげるメビウスに、ロキは「ああ変わり者だ」とさらに続ける。
「だからここの食事でも満足しているのだな。私もお前の事が分かって来たぞ」
「僕を知ったところで、面白くもなんともないと思うけど」
「だが、お前だけが私の事を知るのはフェアではないだろう」
「それを言ったら、僕は君の事は全部知っているんだよ」
「それは神聖時間軸の私だろう。いま、お前の目の前にいるロキの事は知らないのではないか?これから私が何をするか、お前は知っているか?」
「いや、見当もつかないね」
ロキはテーブルに乗り出しメビウスにグッと体を寄せると、周りに聞こえないよう小さな声で言った。
「私はお前のタイムパッドを使って、お前がずっと眺めているジェットスキーとやらがある時代へ行くんだ。そしてお前をそれに乗せる」
突然のロキの話にメビウスは目をパチパチとさせて「なにを言い出すんだ!?」とメビウスらしからぬ素っ頓狂な声をあげた。
「お前が知っているロキはこんな事をしないだろう?お前の知らない私を教えよう、だから私にはお前が知らないお前を教えてくれ」
ロキが繰り出す魔術と同じ緑の目がウィンクをパチンと一つメビウスに送る。
「友よ、さあ行こうではないか」
そう言って、ロキは立ち上がると戸惑っている顔のメビウスの腕を取る。
「タイムパッドの不正使用だって怒られないと良いなぁ」
まだ職員がまばらに残っている食堂を二人そろって出て行きながらメビウスはぼやいた。