鬼────────────────
手を伸ばすことの意味を、知らずに生きてきた。
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1、
怒号、罵倒、あるいは嘲り。無知な相手を騙す人間。他者への思いやりは幻想で、悪意ばかりが隣にいる。
それでもなお死ねない体を引きずり、望みもしない悪意を砕くために、生きるために研鑽を続ける。
はたして、この生に意味はあるのか。
はたして、この命に意味はあるのか。
だれが、それを教えてくれると言うのか。
今日も誰かを傷つけた拳の、あるいは誰かに傷つけられた己の心の痛みすら忘れて眠りつく。
「あぁ、空虚だ」
俺はずっと空っぽのまま、生きてゆくしかないのか。
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「こんなところで子供が1人、迷子か?」
「帰るところです迷ってない」
面倒なヤツに会ってしまった。初めに浮かぶのはそれだけだった。温厚そうなこの男。家に帰るところだと言っても聞かないのはなんだ。この辺りに野宿していると言うのに、帰るもクソもない。
「ーーしかし最近この辺りに人の気配がすると思って、来たのだが。近くの焚き火は君のやったことではないのか?」
わかってるなら首を突っ込むな、と、言いかけてやめる。帰る場所がないと分かれば、何をされるかわからない。
「勘違いをしているようだけどそんなもの、俺は知らない」
「ーー違う、いや、そう警戒するな。困ってるのかと思って。その、何か事情があるのだとしても、この森の中で野宿なんか危ない」
「ーーいえに、かえるから」
そんなことを言わせるな。近づくな。放っておいてくれ。
「しかしもう今から麓まで降りるのは厳しいと思うが。まして君の足では」
「へいきだ」
「………」
男は黙り込んで、俺に近づいてくる。思わず後ずさる。逃げるか。面倒だ。追ってはこないだろう。荷物は……くそ、位置が悪いな。持って行けそうにない。あとで回収できるか?ーーどうせ碌なものが入ってないから捨てたって構わないけど。
「悪く思うなよ」
ひょい、と持ち上げられた。というか、異様に早くなかったかこの男は。これだな?と、俺の荷物まで拾って歩き始める。
「おろせ」
「聞けないな。お前も俺の話を聞かないのだから、お互い様だろう」
「なんなんだ、お前は」
「知らないのか。この山には鬼がいるって」
それは俺のことなのだが。
「ーーしるか」
「はは」
面倒くさくなって抵抗を止める。
ーー鬼は俺以外知らない。
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2
貧相な小屋に連れてこられると、男は「あの辺りは今日は熊が出たから」と静かに話す。そういえば父と狩りをしたことがあったけど、流石にクマはなかった。遠い昔すぎて覚えてないだけかもしれないが。
「ーーオレはモリヒト。君は?」
「……」
「言いたくないか。それだと、君をなんと呼べばいいかわからないな。」
「呼ぶ必要はないからいい」
男は不服そうな顔をしていた。なんなんだこいつは。
「ーーところで君は好き嫌いはあるか?」
呑気にそう言うと、今日は猪なんだが。と、笑う
。
「ーー勝手に食えばいいだろ」
「君も一緒にどうかと思ったんだが」
「ーーなんで?」
心底わからない。なんの目的で。何を考えて。どうしてこんな意味のないことを。
「1人より2人の方が美味しいんだ」
そんなこと。
「だから、寂しいオレに付き合ってはくれないか?」
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世界は嘘と悪意に塗れている。手を伸ばされること。その先には落とし穴がある。人間は生きるためならば簡単に他人を蹴落とす。
半ば、面倒になって。
どうせ死ねないのだから。
きっと、この男だってオレを騙すのだろうけど。
「ーーおいしい」
「そうか。」
ほんの少し、嬉しそうな声で、その男は言う。
ーーこの世界には悪人だけではないこと、それくらい理解していて、けれどもそんなことは霞むくらいにオレの生きてきた道は泥沼で、暗闇で、冷たくて。そう言うものと割り切って。
「やはり体が冷えていたんだろう。」
囲炉裏、暖かい食事。誰かの穏やかな声。
「ーーおかわりならある」