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    hoshinami629

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    hoshinami629

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    支部にある「視爾夢夢」からカットしたもの。サンプルにはこの部分も載っていた気がする。結局、李斎や回生、耶利のことを追い切れないと思ってカットしてしまいましたが、何か勿体なかった気もする。でも、李斎のこれからについて考えるには、阿選を討つよりももっと時間が必要な気がして……。

    #十二国記
    theTwelveKingdoms
    #戴

    視爾夢夢没供養①「李斎」
     朝堂を出た処で、後ろから声が掛かる。振り返れば、其処にいたのは先程壇上に座していた李斎の主公だった。先程の視線の意味を思い出しかけたところで、機先を制する形で驍宗が言葉を継ぐ。
    「少し、話があるのだが。――この後の予定は?」
     特に急用や面会の約束も無かった為、首を横に振る。参ります、と答えて踵を返す。驍宗が執務を行う書房へ歩を進めながら、李斎は用向きを半ば予想し、半ば摑めず、隣を歩く主を見た。
    「主上、恐れながら……。先程の軍議については、お気を病まれませぬよう。私が鴻基攻略に当たれないのは、私も皆も承知の上ですし……」
     驍宗はその言葉にすぐには答えず、相槌を一つ打って後は黙々と書房へ向かう。心配して下さっているのだろうか、と何となく思いながら、李斎も矢張り黙した儘、複雑な気持ちで王に従った。
     書房へ入ると、泰麒が書卓の横の席に座っている。二人の姿を認めて嬉しそうに立ち上がるのを受け、李斎はゆっくりと叩頭する。
    「今日は李斎も来てくれたのですね」
     宰輔は午前の執務を王と共に国政に充て、午後を首都州の政務に充てるのが慣例だ。未だ瑞州の奪還がならない今、泰麒は午前を驍宗と共に政務の時間と定め、午後は正頼を師として勉学に充てていた。軍議にも一応出席してはいたものの、御簾を上げる様子は見せなかった。
    「蒿里、李斎。これからの事について二人に相談したい事が幾つかある。中には承服し難いものもあるやもしれぬ、忌憚の無い意見を聞かせてくれ」
     驍宗はそう言って書卓の前に座し、李斎にも席を勧めた。李斎は慌てて固辞したが、話は長いと言い返され、おずおずと席に着く。
    「一つ目は先の軍議だ。本来ならば李斎は瑞州中軍の将、霜元や臥信と共に鴻基の奪還の主軸を担うに相応しい立場だろう。しかし、その――」
    「主上、承知しております。どうぞお気になさらないで下さい」
     李斎はそういいながら、右の二の腕があった辺りに手を遣る。其処には袖の布地が緩やかに流れるのみで、腕も腕の代わりとなる物も存在していない。隻腕の将軍では、いざ戦闘となった時に自分の身一つ満足に守れない。以前は飛燕がその弱点を補ってもくれていたが、その相棒も今やこの世から旅立った。李斎の将としての働きぶり――軍の指揮能力は疑うべくも無いが、一軍人としての力には今一つ不安が残る。それが驍宗、そして李斎自身の、苦くも正直な感想だった。
    「……すまない。だが最悪の場合、鴻基で乱戦となる可能性もある。私は麾下を――何より蒿里の忠臣を、むざむざ殺すような事はしたくない」
    「そう仰って下さるだけで、かたじけのうございます」
     泰麒はその言葉を聞いて、では李斎と僕とで留守番ですか、と驍宗に問う。
    「ああ。李斎の軍は江州に残し、万が一の際の防衛を任せようと思っている。蒿里の身体の事を思えば、如何に鴻基を奪還出来る目算が高いとは言え、戦場となるかもしれない場所に近付けたくはない。江州城で待って貰うのが良いだろうと思案するが」
     泰麒は折り目正しく頷くと、李斎に笑い掛ける。
    「――という事の様です。僕も一人で留守番は心細いですが、李斎となら安心です。宜しくお願いしますね」
    「万が一、阿選が裏をかいて江州城を急襲した時には、李斎、また蒿里を頼むぞ」
     悪戯めいた言い方に李斎は微笑して、承りました、と穏やかに答える。驍宗はほっとした様に息を一度緩めると、再度李斎を見据えて口を開く。
    「二つ目は、これからの事だ。――李斎、腕をどうする? 将軍職を続けるには、今言った様に隻腕の儘では難しいだろう。義手を作るか? 義手と良い騎獣。この二つがあれば将軍職も務まると思うが。或いは――将軍以外の職という手もある。お前が望むなら夏官に席を用意するし、必要ならば大学への入学に必要な手続きを取っても良い」
     驍宗の声は温かく、また真摯だった。李斎はその真情を込めた言い方に、却って返すべき言葉を見失ってしまう。いつかは決断しなくてはならない事を先送りにして来た。その自覚はあった。今までの事が事であるだけに、誰も李斎を急かしたり、問い詰めたりする事は無かったが、何となく気にされているのは感じ取っていた。遂にそれが主の口から出た。李斎はもう逃げる事は出来なかった。
    「――……正直、迷っております」
     李斎は俯き、左手を右腕の切断面――肉が盛り上がった不思議な部位に這わせながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
    「私は、主上が捕らえられた時の事が忘れられないのです。腕一本失うと、人はあんなにも弱くなるのだと思い知らされました。私が主上をお守りする筈が、却って守って頂く有り様で。しかも、あの時はまだ飛燕がおりました。私の右腕が使えない事を良く理解し、庇ってくれる騎獣が……。しかし、次の騎獣にすぐそれを望む事は出来ません。私はあの時よりも更に弱くなっている……。その思いが、己の力への疑念が、頭を離れないのです」
     李斎は王と宰輔、それぞれの面をゆっくりと見返す。誠実な二対の瞳が、李斎を気に掛けて眼差しをこちらへ注いでいる。
    「義手を用いる事に否やはございません。騎獣も――……少し時間を要するかとは存じますが、良い相棒に巡り会える可能性も大いにございます。けれど、私は怖い。またあの様な事になってしまったら、私は……」
     其処まで言ったところで、不意に泰麒が手を挙げる。李斎が言葉を切ると、麒麟はすらりと立ち上がって李斎の許へ歩み寄る。無言で右の上腕部――その残滓に置かれていた左手を取り、泰麒は静かに口を開いた。
    「李斎、大丈夫です。――大丈夫にしましょう。僕に幾つか考えがあります。李斎の不安の雲を払う考えが」
     李斎は意外な言葉に、はあ、と言って思わずまじまじと泰麒を見詰める。青年は明るく笑顔を返すと、後で英章の処へ行きましょう、と言った。
    「英章の?」
     驍宗が不思議そうに泰麒へ問う。どうやら、泰麒の言葉は驍宗にとっても慮外の事であったらしい。
    「はい。――項梁を借り受けられないかと思いまして」
     その言葉に、再度驍宗と李斎は首を傾げる。宰輔は二人の不思議そうな表情に、にこにこと笑みを浮かべている。
    「これでもね、僕も色々と作戦があるんですよ」



     英章の書房は夏官府の最奥、内側から鍵の掛かる珍しい房室だった。密談にもってこいだ、という一言で在所を定めた将軍だったが、泰麒と李斎、そして泰麒の護衛役の耶利が赴いたところ、不在である旨を下官が告げて来た。
    「軍議の後、回生を連れて何処かへお出ましになりましたが」
     宰輔の唐突な訪問に狼狽えつつも、職務に忠実な下官はその様に述べる。回生と、と李斎は確認する様に呟く。聞き慣れない名に、泰麒は小さく首を傾げた。李斎はご安心を、と言って下官へ礼を述べ、入れ替わる様にして今度は泰麒に先んじる形で歩き出す。
    「英章の居場所に心当たりがあるのですか」
     泰麒は李斎に並びながらそう問う。李斎は、ええ、と答えると、夏官府の東、仮の冬器庫や厩舎のある辺りを目指す。行き先を簡単に説明すると、宰輔は折り目正しく頷いて見せる。
    「台輔がいらっしゃるには、むさ苦しい場所かもしれませんが」
     泰麒はその言葉に苦笑を見せる。はにかむ様な笑みに、以前よりも少しだけ長くなった髪がさらりと揺れた。
    「気にしないで下さい。僕も軍の訓練がどんなものか興味がありますし……。それよりも、英章の居場所が分かるのは何故?」
     李斎は、簡単です、と笑んで、見えてきた二つの人影を指差す。
    「回生が英章の許にやって来て以来、あの様に剣や槍、弓射を教えているのです。ああ見えて、英章は面倒見の良い上官ですから」
     李斎が示した先では、二人の人間が槍による打ち合いを行っていた。一人は英章、もう一人は泰麒よりも幾分か年若の少年。あれが回生か、と泰麒は仔細を知らないなりに見当をつける。
     英章と回生が打ち合う様を廊から眺める。英章は三人の姿に気付いて視線を遣ったが、少し待てと言わんばかりに片手を振った。李斎は堂々と泰麒を待たせて悪びれない態度に少々むっとしたが、当の宰輔はにこにことそれに応じている。見れば、少年は水平に構えた槍を威勢良く英章へと向かわせた。が、軽く弾かれて後退する。体制を立て直し、今度は振りかぶる様にして英章に対するも、師はその隙を突く形で刃を接近させる。思わず上段の槍を引き付けて構えようとした結果、柄と穂先とが触れて耳障りな音が響く。
    「槍は敵に接近せずとも殺せるから強い、その事を考えろ」
     英章の厳しい声に、少年は表情を引き締めて再度後退する。耶利が泰麒の隣でもぞもぞと身体を動かす。訓練に興味津々といった風情で、隙あらば混ざりかねない目の色だった。瑞々しく好奇心を傾ける、年相応の瞳。李斎にはそれが微笑ましく思える。小さく笑み、改めて回生に目を転じれば、今度は柄の中程よりやや後ろを持ち、穂先を英章の頤辺りへ向けている。良いぞ、と李斎は心中で回生を応援する。すぐには踏み込まず、突くか突かないかの間合いを保つのは上手いやり方だった。と、英章が穂先を払い除ける様にして前進する。回生はそれに合わせて後退しながら、横へ薙がれた槍を英章の懐へ突き出す。ぴたり、と英章が歩みを止める。刃は英章の身体の一寸程手前まで迫っていた。
    「そうだ、鎧を着けていない者にはそのやり方で良い。――鎧を着けていたら?」
     英章はそう言って構えを解く。回生は少し考えた後に、足、と答える。英章は頷く。
    「腿を狙えよ。脛を狙ってしまうと、柄と穂の連結部を踏まれて壊される可能性がある」
     回生は静かに、はい、と答えた。その声を聞いて、漸く英章は廊にいる泰麒達を振り向く。
    「お待たせしてしまって申し訳ございません」
     泰麒は微笑して頭を振る。柔らかな口調で回生にも挨拶をすると、少年は驚いた様に叩頭した。
    「――回生と申します。この夏から、縁あって英章様の許で学んでおります」
     短い説明は、何か複雑な事情がある事を感じさせるのに十分だった。泰麒はそうですか、と言うと目線で英章を窺う。英章は英章で李斎を見る。李斎はまた泰麒に視線を注いで、一瞬三人の間に奇妙な沈黙が降りた。
    「――面を上げて下さい」
     泰麒はそう言うと、困った様な表情をちらりと見せる。李斎が口を開きかけたが、英章がそれを制する形で言葉を発す。
    「回生については、また改めて。――それよりも台輔、急に李斎を伴って私の処へお出でになったという事は、項梁ですか」
     李斎はその言葉に首を傾げる。先程、泰麒も項梁を借り受けると言っていたが、その事を英章が既に諒解しているのはどういう訳だろう。
     李斎の混乱した様な表情を尻目に、泰麒は穏やかに笑む。英章はそれに微笑みを返すと、下官を一人呼んで、項梁を書房へ連れて来るよう命じる。
    「回生、訓練はまた後で。少し用が出来た」
     少年はその言葉に黙って頷く。英章は半歩踏み出した後、何かを思い出した様にもう一度少年を振り返る。
    「先程の槍さばきは良かった。――実戦では、過たずあの様に動け」
     回生はその言葉に頬を赤くすると、大きな声で、はい、と答えた。英章はそれを見てから、泰麒達を伴って書房へと進む。
    「その……私には今一つ話が見えないのだが」
     李斎がずんずんと進む英章の背に訴える。英章は何を思ってか小さく肩を竦めてそれに応じた。
    「そもそもは台輔と項梁の謀なんだ。私は担がれたというか、巻き込まれたというか」
     李斎は益々話が見えず、泰麒の横顔をまじまじと眺めながら歩みを進めるばかりである。当の泰麒はにこにこしながら、李斎に直接提案したら断られそうで、とだけ言う。え、と李斎が返したところで廊を右に折れれば、書房の扉の前に項梁が佇んでいるのが見える。師帥として衣袍に身を包んでいるのを見ると、同道した際の記憶よりも精悍な立ち姿に感じられる。温和そうな細い目だけが、如何にも武人風の姿の中で浮いていた。男は物静かに一礼すると、一行を書房に通してから自分も入室する。
    「急に呼び出して済まないな」
     英章は泰麒に上座を勧めると、項梁にそう声を掛ける。いえ、と手短に答えて男は、にっと笑う。
    「台輔と以前から相談しておりましたしね。――英章様の勧めもあり、落としどころとしても良いのではないかと」
     そう言うと、項梁は李斎の方を向く。劉将軍、という声は意外にも笑い含みだった。
    「皆が鴻基へ行っている間、暗器を学んでみませんか」
     その言葉に、李斎の混乱は最高潮に達した。
    「……は?」
     ぽかんとしている李斎に、英章は、だからちゃんと説明しろと言っただろう、と言わんばかりの視線を泰麒に送る。項梁も苦笑しながら、やれやれ、と呟いた。
    「どうやらそのご様子だと、台輔も英章様も、劉将軍に説明を怠っている様ですね」
    「あ、ああ」
     李斎が混乱の中から何とかに発した返答に、項梁は一つ頷く。
    「――以前台輔から劉将軍について、ご相談を頂いた事があったのです。僭越ながら……右腕の事、騎獣の事、何より将軍のこれからの事について」
     李斎は意外そうな表情で泰麒を見る。宰輔は僅かに屈託のある笑みを浮かべて李斎を見返す。
    「……李斎が悩んでいるのは知っていました。そして、答えがなかなか出せずにいる事も。けれど私は、我儘かもしれませんけれど、李斎に将軍を続けて欲しくて。李斎が軍人としての自分を枉げたくないのを知っていましたから……」
     それで、英章と項梁に相談したのです、と言って泰麒は二人を見遣る。英章はその言葉に一つ頷く。
    「台輔に軍の再編についてご相談した際、項梁を連れて行ったんだ。その時に少し」
    「そうしたら、項梁から申し出てくれたんです。膂力や腕力の差を埋めるのに、暗器は丁度良いって」
     項梁は首肯すると、自分の左腕に隠していた飛刀をちらりと見せる。
    「暗器は相手に複数の武器で応戦出来ますし、意表を突いて腕っ節の差を埋める事も出来ます。何より、敵に必ずしも接近せず戦う事が出来る。――無論、劉将軍がお嫌でなければですが」
     李斎は益々当惑して、相槌とも返答とも、呻き声ともつかない声を零した。暗器は特殊な武器だ。軍という環境で扱う事を求められるのは、まず剣と弓、それから槍や矛で、暗器はその中には入っていない。項梁の様に自ら求めて熟達する人物はいるものの、誰でも扱える武器だとも思えない。
     ――新しく挑戦をするのが怖い。
     李斎は己の心中にある怯懦に気付いて苦笑する。そう、李斎は今、怯えている。がむしゃらに突き進んで勝ち得た結果に肩の力が抜けて、いざ振り返ってみると、自分は余りに多くのものを失っていた。それら無しで生きていく事なんて考えられない。そんな痛みが後から襲って来ている。
     ――穴を埋めなくてはならないのは分かっている。
     喪失の穴をその儘にして良い訳がないと思う。けれど、埋め合わせはなかなか見付からなかった。どれもこれも、穴の形とは違う。喪失の空洞にぴったり合うものを求めると、嘗て其処にあったものの輪郭が思い起こされて、却って胸が疼いた。
     泰麒が唐突に提案した埋め合わせは、李斎が思うに、空洞とは全く違う形をしている。その事が李斎を戸惑わせる。李斎の胸に空いた風穴の形を知らない泰麒ではない。その事を李斎は確信している。ならば何故、全く違う形の土で空洞を埋めようとするのだろう。泰麒を信じているだけに訝しく思った。
    「思いもよらぬ提案だというのは、分かっています」
     李斎の心を読んだかの様な言葉に、はっと面を上げる。泰麒は遠慮がちに頷くと、膝の上で両手をぎゅっと組んだ。
    「突然の事で、驚かせたし、戸惑わせてしまっているのも分かっています。でも、李斎に此処で諦めてしまう事で後悔して欲しくなくて……。これは僕の我儘なのですけれど」
    「そんな、我儘だなんて」
     李斎が言えば、泰麒は複雑そうに笑う。英章がそのやり取りを見て、一つ溜息をつくと口を開いた。
    「李斎に必要なのは今までとは全く違うものなのではないか、と台輔が仰ったんだ。私もそれには賛成だった。利き腕が無いという実際上の点からも、心持ちの上でも――何か違う事をした方が良いと思った」
     李斎は思わず英章の顔をまじまじと見詰める。柳眉を顰めた表情は剣呑そのものだが、彼の心の内が表情の通りではない事位、李斎はとっくに心得ていた。分かり難い、けれど篤実な気遣いをして来る男だ。その英章が、李斎に今までとは違う事をやってみろと言う。
    「両腕があった頃と同じ様に剣を振っても、両腕を引っ提げている者にはどうしても劣るだろう。やり方を変える必要がある。利き腕と騎獣と、過去と同一のものを求めたところで巡り会えないだろう。――選び取るものを変える必要がある」
     ずばりと斬り込む様に放たれた言葉は、李斎に届くに至って不思議と柔らかなものを帯びた。英章の言葉は、李斎にとっていつでもそうだった。
    「……そうだな、その通りかもしれない」
     李斎は俯くと、飛燕の姿を思い起こした。愛騎はもう、何処にもいない。何処かに存在しやしないかと追い求めるのは、死への冒瀆だ。同時に、隻腕である自分の不甲斐なさを嘆くばかりで新たな方策を立てないのも、矢張り過去への冒瀆なのだろう。
    「しかし、暗器か……」
     その意外さと途方も無さに、李斎は茫然としてしまう。余りに遠い土地への旅だ、と思った。どんな山を、或いはどんな川を越えて行けば良いのかも分からない旅路。李斎が全く歩んだ事のない道々。
     ――けれど今まで歩いて来た道は、此処で行き止まりだ。
     行き止まりの道を先には行けない。目的地が違ってしまっても、仮令急峻な道だとしても、先のある道を行くのが旅人というものなのではないか。李斎は自分を叱咤する様に、心中でそんな風に呟く。
     ――確かに、そうおかしな提案でもない。
     片腕しか使えない事が不利になる武器は多い。弓や槍はそもそも片腕では扱えず、剣は斬り結ぶとなると不利だ。短槍は片手で扱うが、代わりにもう片方の手に楯を持つ事が前提になる。そう考えると、暗器を習ってはどうかという提案はごく現実的だった。
    「やって駄目そうなら、また違う方策を考えましょう」
     考え込む李斎に、項梁が和やかにそう言った。李斎はちょっと意外に思って、仲間の顔を見る。温和で鷹揚な目だ。
    「何が何でも習得しなきゃいけない、って訳ではないですから。これが将軍の肌に合うなら良いし、無理ならまた違うやり方を考える。――それで良いんじゃないですかね。これからは、時間がうんとありますから」
     李斎は何度か目を瞬かせると、そうか、と呟いて、失った右腕の残滓に触れる。――時間はうんとある。自らに言い聞かせる様に口にした。
    「……李斎は思い詰め過ぎだ、何事も」
     英章がぼそりと言う。泰麒がその言葉に一つ笑いを漏らす。
    「この事、驍宗様には秘密にしていたんです。驍宗様が知ると、李斎に直接伝えようとするでしょう? そうしたら李斎は断れないじゃないですか」
     其処まで言って、泰麒は言葉を探す様に、えっと、と言い淀む。
    「向こうでこういう時、トライアンドエラーって言ったんですけど。試して、駄目だったらやり方を変えて、そしてまた試して……って。そんな風に試行錯誤してゆくしかないんだと思うんです。それを、李斎は自分に許してあげて欲しい。驍宗様もそうですけれどね」
     泰麒が付け加えた最後の一言に、英章は可笑しそうに笑う。李斎も釣られて笑んだ。そう、この面々の主公も勤勉一辺倒の人物だ。以前より柔和になったとはいえ、根の生真面目さは相変わらずだった。
     ――そんな風に、他人の事だとすぐに分かるのにな。
     自分の事となると、すぐさま閑却してしまうのは李斎の癖の様なものなのかもしれない。けれど今はもう少し、傷付いた自身に構うべきなのだろう。
    「項梁、不甲斐ない弟子になるかもしれないが――頼む」
     そう言って頭を下げれば、項梁は些か慌てた様に、いや、こちらこそ、と頭を下げる。
    「何も、劉将軍の為ばかりではないのです。私にも丁度良い提案だった……と言いますか」
     李斎がその言葉に首を傾げると、英章がにやりと笑ってそれに応じる。
    「項梁が、東架に迎えに行きたい者がいると言ったからな。ならば死ぬ様な事はするなと言ったんだ」
     李斎はその言葉に、目の前の暗器使いと出会った情景を思い起こした。彼には道連れがあった。女と、その子供。家族の様にして連れ立って歩いていた。
    「あの時の……」
     李斎がそう言えば、項梁は気恥ずかしそうに、ええ、と言って笑いながら項に手を遣った。
    「無論、出陣するつもりでした。軍人として命に従う事と、私個人の願望とは別問題ですからね。しかし、その……」
    「私が無理に言ったんだよ」
     英章が項梁の言葉を遮る様に発言する。
    「私は回生に生きて戴の未来を見て貰いたいと思うし、項梁に対してもそう思う。だから連れて行かない、それだけだ」
     英章はそう言うと立ち上がって、鍵を掛けた扉を開け放つ。其処には先程の少年が立っていた。
    「分かったか、鴻基攻略にお前は連れて行かない」
     回生は眉をきつく顰めて、首をゆっくりと横に振る。英章は溜息をついて室内へ戻ると、少年もそれに続いた。
    「お前をみすみす死なせる様な決断は私には出来ない。基寮だって、お前がその歳で死ぬ事は望まないだろう」
    「――でも、約束したんだ。一緒に宮城を取り戻すって……」
     その声には悲痛な響きがあって、李斎は思わず回生の表情にまじまじと見入った。死者との約束を果たせないのは、格別の辛さがある。李斎も――そしてこの場に会したどの人物も、それを良く知っていた。
    「駄目だ」
     英章は不機嫌そうな目と顔で、切って捨てる様に言い放つ。
    「英章様が駄目と言っても、絶対について行く」
     回生は顔を真っ赤にして言い返す。無鉄砲なところは相変わらずだな、と李斎は心の何処かで呟いた。
    「なら、お前を其処の木に縛り付けてから進軍しよう」
     英章が意地悪い笑みを浮かべて言うと、回生は更に顔を赤くする。
    「じゃあ、それまでは縛り上げられない様に温和しくするよ。英章様が此処を発ったらすぐに追い掛ける」
     英章は首を振って肩を落とすと、ともかくも回生を室内に招き入れ、扉をまたぴったりと閉ざす。その儘どっかりと元の席へ腰掛けた。不機嫌になる様子がないのは李斎からすると意外だったが、困っているのは言葉の端々から窺われた。
    「……お前、死んだら基寮に顔向けが出来るのか? どの面下げて冥府へ来たのだと言われるぞ」
    「でも、この儘行かない方が顔向け出来ない様に思う。ずっと、事ある毎に仰ってたんだ。宮城を、って。主上や台輔の事も言っていた。何年もずっとだ。死の床でも言っているのを聞いて、約束までしたのに、行かないなんて俺には出来ない」
     英章は心底弱った、といった風情で腕を組む。李斎も項梁も口を噤んだ。気持ちは分かるが、まだ回生は若い。幼いとすら言える。そんな年端もゆかぬ若者を、みすみす戦場へ送る様な事は出来ない。――だが、どうやったら諦めて貰えるのか。その場の大人達は、三者三様にそれについて思案を巡らせた。
    「――あの」
     やおら、場に声が響いた。全員の視線が一斉に耶利に集まる。泰麒に付き従う少女は、一同を見回して言った。
    「私と、二人一緒は駄目でしょうか」
     英章がぱちぱちと目をしばたかせる。数瞬、何とも言えぬ沈黙が流れた。耶利は戸惑う大人達を尻目に、もう少し言葉を補わねばと思ったのか、泰麒へ一瞥を投げてから言葉を継ぐ。
    「主上と台輔にはお話ししてあります。――その、一度軍に入った方が良いのではないかと思っていまして。元はと言えば主上からお声掛けを頂いたからなのですが。私は軍で武術を学んだ訳ではありませんので、これから国官として官位を頂戴するのなら……と。ただ、年齢も身分も中途半端でどうしようかと思っていたのです。回生が危うい時は私が守れます。私だけ、或いは回生だけでは一人分の働きが出来ないというなら、二人で一人分と数えて頂ければ良いでしょう」
     英章と李斎は呆気に取られた表情を見せ、泰麒は興味深そうに微笑んでいる。項梁はその様子にくっくと笑い声を漏らした。
    「……回生を勝手に巻き込んだ提案になりますけど」
    「俺は行けるなら何でも良い」
    「だそうですよ、英章様」
     耶利はそう言って回生と共に英章を見る。英章は心底嫌気が差すといった表情を見せる。
    「英章、耶利の事ですが」
     泰麒が微笑んだ儘発言する。
    「主上からのお声掛けという事もあって、耶利は本当なら主上の軍に入って貰う予定でした。無論驍宗様は将軍ではありませんから、その内何割かは英章の軍からという事にはなりますが……。ですので、耶利や回生についてご懸念があるなら、私から驍宗様へお話ししてみます。余り英章を悩ませてしまうのも申し訳ないですし」
     英章はその言葉に、首を振る。
    「いや、寧ろ私の軍に入って貰いましょう」
    「良いのですか」
     今度は泰麒が目を瞬かせる番だった。
    「飽くまで反対するものと」
    「反対ですよ」
     英章はぴしゃりと返す。回生をその儘厳しい目でちらりと見る。
    「死ぬ為に戦うのは愚か者のする事です。死ぬ可能性がある処へ、たかだか約束一つの為に行くのも。けれどその愚かな輩の肩を、耶利が持ってくれるという。愚かで使えない奴が戦場に行けば必ず死ぬ。けれど、愚かではあるが腕が立つなら生き残るかもしれない。それ以上は知った事ではない」
     耶利と回生は、思わず顔を見合わせてにやりと笑う。李斎が英章を見れば、安堵する一方で、矢張り何処となく不安そうな様子である。
    「大僕がいなくなって大丈夫なのか」
     李斎は耶利に念押しの様に問い掛ける。耶利はこくりと頷く。
    「そもそも、こちらに項梁と李斎が残るのでしょう? その上台輔の使令もいる。私がやれる事なんて殆ど残っていませんよ」
     確かに、と李斎は思って一つ頷く。項梁はそれまで口を利かずに聞き役に徹していたが、にっと笑って回生の背を叩いた。
    「可愛い子には旅をさせよ、って奴ですな」
     英章はその言葉に苦り切った表情を浮かべて、ふん、と鼻を鳴らした。
    「あんな頑固者、何処が可愛いやら」
     嫌みったらしく、けれどその中に紛れもない情を宿して英章は嘆息する。耶利と回生は再度頷き合う。とその時、閉められていた書房の扉から音が聞こえた。外側から鋪首を鳴らす音である。英章は立ち上がると再び扉を開けた。
    「――何だ、千客万来だな」
     英章はそう言いながら、扉の外にいた人影を室内に招き入れる。まず扉の隙間から室内へと姿を見せたのは霜元で、中の顔ぶれに些か驚いた様に目を見開いている。
    「……と、これは失礼を。台輔がいらしたとは」
     一同を見回すとすぐに泰麒へ一揖し、折り目正しく詫びる。泰麒は相も変わらぬその物腰に、幼い頃に霜元を騎士の様だと思った事を懐かしく思い出した。
    「いえ、気にしないで下さい。今丁度話し終えたところなのです」
     軽く手を振ってそう答えれば、然様でしたか、と霜元も仄かに笑みを返す。それに続いて友尚が姿を現わす。あ、と小さく呟くと黙礼をした。
    「友尚も、どうぞ私には構わず。話も終わりましたし、入れ違いで戻ります」
     軍議の続きでしょう? と問えば、友尚が、ええまあ、と歯切れ悪く答える。身の置き所がない、とその瞳が如実に語っていた。驍宗麾下の中で将軍職の務めを果たすのは大変だろう、泰麒はそんな事を彼の様子から察する。
     ――驍宗様の麾下は結束が固い。その分、輪の外の者を弾き出す……。
    「では、私は此処で。李斎はどうしますか? 私が引っ張り回してしまいましたけれど、軍議の続きなら――」
    「ああ、もし宜しければ李斎をお借りしたく」
     霜元がすぐさまそう答える。李斎はその声に一つ頷くと、では、と言って席を立ち、泰麒を見送る。耶利もそれに続いた。
    「回生、それから項梁も出ていろ」
     少年は英章の言葉に一つ頷くと、室内に残る面々に丁寧に一揖する。項梁も同じ様に会釈して、宰輔、大僕に遅れて扉へと進む。
    「台輔……ありがとう存じます。私一人の身の振り方にまでお心を砕いて下さって」
     扉の前で李斎がしみじみとそう声を掛ければ、泰麒は嬉しそうに笑う。
    「色々な事をしてみましょう。僕もちょっとずつ、様々な事に挑戦してみますから」
     その言葉に、李斎の頬にも微笑が移る。二人の視線が少しだけ結ばれ、また離れる。ややあって、では、と言うと泰麒はするりと室内を後にした。それに続き、耶利と回生、項梁も出て行く。重い扉が李斎の手によって閉められると、英章が李斎に、錠を、と声を掛ける。がちゃん、という音と共に再度房室は密閉された。



     英章の許を退出した後、泰麒と耶利、項梁、回生は何とはなしに同じ方向へと歩き出した。泰麒は真っ直ぐ驍宗の許へと復命の為に戻るつもりでもあったが、同時に項梁と少し話したい気もしていた。一方、耶利は耶利で回生ともう少し話したい様な素振りを見せる。そんな様子を項梁が目を細めて眺めていると、回生がやおら耶利に追いついて真っ直ぐな目で切り出した。
    「――その。耶利は……強い人、なのか?」
     辿々しい言い方だった。泰麒と項梁は両者の肩越しにちらと目線を合わせる。
    「先程の申し出は有り難かったし、断るつもりもないのだけれど。でも、冷静に考えてみると、俺は貴方の事を何も知らないなと思って……」
     尤もだ、と項梁は今更ながらに思う。次いで、阿選の偽朝の渦中にあって耶利が――というよりも、正確に言えば其処にいる宰輔が――彼を振り回した幾つもの出来事を思い出す。麒麟とは思えぬ果敢なやり方に度肝を抜かれ、それを抑えるどころか油を注ぐかの様な耶利のやり方に更に仰天されられた事が幾度もあった。今回の回生も、そんな耶利の身軽さ――と言えば良いのか、思い切りの良さと肝の据わったところに振り回されていると言って良いだろう。何処となく過去の自分を思い出させて、項梁は口の端で笑みを作る。一方、回生に真っ直ぐな正論をぶつけられた耶利は、目をぱちぱちと瞬かせると、ちょっと困った様に腕を組んだ。
    「――確かに、その通りだ」
     冷静な様で直情な、勢いの儘に進み後先を考えない耶利の一面に、泰麒もくすりと笑う。
    「まず、私は間違いなく回生よりは強い。――武芸の技倆の事を言うのならば」
     その言葉には項梁もすぐに頷いて見せる。回生は数歳年上の少女の自信ありげな様子と、上官でもある項梁の様子に、少々たじろぐ素振りを見せた。
    「何なら手合わせをしても良い」
     そう言って少女は双剣の柄に手を置いて見せる。回生は一も二もなく、こくりと頷いた。
    「先程の場所はどうだろう。兵卒が鍛錬を行う場所だから、思い切り武器を振り回しても問題ない」
     回生がそう言えば耶利も首肯する。泰麒はちょっと首を傾げたが、体感としては――こちらの世界には正確な時刻を知る為の手段がない――一刻と経過していない様に思われたので、黙って二人の手合わせを見守る事にした。驍宗の方も、何も泰麒の復命が無ければ政務が滞るというものでもないだろう。そう考えて項梁を見れば、肩を竦めて泰麒の視線に応じてくれた。
    「台輔は主上のところへお戻りにならなくて宜しいので?」
     一応、そんな風に声を掛けてくる。耶利がちらりとこちらを向いたが、笑って首を振って返した。
    「そんなに急ぎの用事でもありませんでしたし、僕は大丈夫ですよ」
     項梁は然様ですか、と言うと年少の二人を促す。両者は足早に進んで行き、すぐに泰麒と項梁の視界から走り去ってしまった。
    「――おい、大僕なんじゃないのか」
     項梁が呆れ半分、笑い半分でそんな風に独りごちる。泰麒も笑いながら頷いて、ゆっくりと二人の後を追い掛けるべく足を進める。
    「耶利が最近、年相応な感じがして安心しています」
    「そうは言いますけれど、台輔と耶利は殆ど同じ位の年齢では?」
     言ってから不遜だったかと思ったが、宰輔は気にした風もなく、ああ、と言って笑う。
    「僕が年齢不相応に見えるのだとしたら、要らぬ苦労を積んだせいでしょうね」
     要らぬ苦労。その言い方に、何となく項梁は首を傾げる。前の驍宗失踪と奪還の顛末に、要らぬという形容を選ぶ泰麒ではないだろう。しかし泰麒の苦労と言えば、何よりもまずそれだった筈だ。その辺りに感じたずれを、しかし言葉にし損ねて、項梁は黙って泰麒を見返す。
    「いえ、この前までの事ではないです。そうではなくて、蓬莱にいた時を思い出して」
     蓬莱。項梁にとっては伝説にしか知らぬ不可思議な異郷。泰麒の生まれた場所であると同時に流された場所。其処から六年余戻る事が叶わなかった上、穢れによって病んだ。白圭宮での数ヶ月で泰麒が巻かれた怨嗟と血を考えるならば、蓬莱とは麒麟にとって獄に等しい環境であっただろう。具体的な六年の過ごし方を知らぬ儘に、項梁はそんな事を考えた。
    「……僕は胎果として蓬莱で生まれました。ですから僕には父母がいるのです。角を斬られ蓬莱に流された際に行き着いたのは、その父母のところでした」
     父母のところ。その言葉は泰麒の蓬莱での穢瘁とは正反対の響きに感じられた。庇護してくれる人間が少なくとも二人、家族という形で存在したのは幸運だったのではないだろうか。項梁は泰麒の言葉に訝しい思いを抱きながら黙っていると、向こうから静かに言葉が続いた。
    「僕は麒麟らしくない、もしくは宰輔らしくないと、項梁が感じているのを知っています。項梁だけではないですね、驍宗様も、李斎も……僕が最初に戴へ来た時から、ほんのりと僕を異分子として、らしからぬ者として皆見詰めている」
     その言葉にぎくりとして、思わず項梁は隣を歩く泰麒を注視する。青年は笑って首を一つ振った。
    「棘のある言い方になってしまいましたけれど、別に僕がそれを嫌なものとして受け止めていたという事ではないです。ただ、事実として僕は蓬山で生まれ育った訳ではないし、麒麟として育てられた訳でもない、という事ですね。そして向こうでも、矢張り人間らしからぬ者だと思われていました」
     泰麒はそう言って、ほんの少し額に指先を当てる。角と呼ばれる、霊力の源が其処にはある。嘗て斬られ、李斎の奔走と嘆願によって再び得られたそれ。この世界と泰麒自身とを分かち難く結びつける何か。――高里要を、真の故国喪失者としてしまった所以。
    「あちらには麒麟や神仙は存在しません。人間らしからぬ者は、単なる異分子と見なされます。殊に僕には暴走した使令がいました。単なる異分子というだけでなく、有害な異分子。六年余りを過ごす中で、僕に与えられた地位はそんなものでした」
     うっすらとした笑みには、切なげなものが滲む。項梁は益々言葉を見付けられなくなって、ただ泰麒を見詰め返す。
    「最初は優しかった父母も、徐々におかしいと思うようになりました。そうでなくとも、父と母とは上手くいっていなかった。その亀裂を僕が大きくした様なものですね。幽鬼じみた獣を身辺に飼っていて、不意に人を殺してしまう子供。そんなのが家にいたら堪ったものではないでしょう」
     泰麒の声は飽くまで冷静だった。その強靱さに、項梁は矢張り不相応な――らしからぬ、という感想を抱く。それは一つには麒麟らしからぬという事であり、もう一つは十七、八歳の青年らしからぬという事でもある。その思いを察し、解きほぐそうとして、目の前の青年はこんな話をしてくれているのだろうか。
    「僕が家族を壊した様なものです。――挙げ句の果てに、暴走した使令が父も母も、弟も殺してしまった……」
     項梁はその言葉に、小さく息を呑む。使令の暴走、その言葉は以前から李斎に説明されていた。しかしそれが具体的にどの様な事であったのか、項梁は知る機会を逸し続けていた。それどころではなかったと言っても良い。泰麒のこれまでを具に聞くだけの余裕がある状況に、二人で佇んだ事がなかったのだ。そうした事情を先に聞いていたら、或いは憐れみの情だけが湧いたのかもしれなかった。けれど泰麒の為人を――その勁さを知った上で本人の口から過去を聞くと、何やら鬱勃と怒りが湧いた。蓬莱の人々の無理解と無情さにであったかもしれず、また事の直接的な原因である阿選への怒りだったかもしれない。けれど何にも増して怒ったのは、目の前の青年に差し向けられた運命に対してであった。
     先に行っていた耶利と回生の打ち合う様子が見えて来たところだった。侃、と武器同士がぶつかって響く鋭利な音。やあ、とう、という勇ましい掛け声。項梁が長らく馴染んで来た、人を殺す為の訓練。
    「僕があの世界にいるという事は、あの世界を乱し、破壊し、不幸にするという事でした」
     泰麒は二人の打ち合いを眺めながら、ぽつりとそう口にする。項梁はその言葉に頭を振る。――己とて、そうではないのか。人を殺す訓練ばかり積んで来た。殺す事によってしか――武によってしか為し得ぬ事は確かにある。今回の一部始終もそうだった。泰麒は驍宗を救出する為に、人を殺傷すらした。だが、矢張り武こそがこの青年を異郷という監獄に追い遣りはしなかったか。人を斬る事が麒麟を病ませた。阿選が麒麟の角を斬れたのは、彼が将軍であったからだ。使令が暴走して人を殺すのは、偏に使令が麒麟を武力で護る存在であるからに他ならない。
     ――武は、この世を穢し、破壊する。
     ならば、確かに項梁もこの世を破壊し、この世を不幸にする一助となっているのかもしれなかった。若々しい二人が剣を打ち合わせる様子を眺めながら、項梁はそんな事を考える。
     初秋の爽やかな風が吹き抜けたが、頭の奥のぼんやりとした熱は払える気がしない。熱とは即ち、運命への怒りだ。自らの運命を嘆いた事はないのに、不思議と他人の運命には怒る事が何度かあった。泰麒についてもそうだったし、思えば園糸についてもそうだった。幼子の埋葬すら満足に叶えられない彼女が只管に哀れだった。その隣に、縋るようにしてくっついていた栗も。二人に与えられた運命に怒った。それを止められなかった自分にも。
     ――だから、助けたかった。せめても、力になりたくて……。
     送って行く、と言った。当て所ない旅だった。ずっと殺し、傷付けて来た。それを疑問に思った事もなかったが、自分が与えられた役割を十全にこなすだけで世が善くなる訳ではなかった。七年前の文州で、唐突にその事を理解させられた。それ以来英章との連絡手段もなく――即ち、己の役割を果たすやり方すら分からず、ただ彷徨っていた。木工の様な姿に身を窶したのは、日銭を稼ぐ為が一つと、子供の為に何かをしたいと感じたからだった。戴の方々へ足を向けると、痩せた子供、一人きりの子供が否が応でも目に留まった。
     ――路傍に捨てられ、凍死する子供もいる。
     それを責められない位の寒さと貧しさが国土にはある。けれど、その只中で彼女は墓穴を掘ろうとしていた。掘ったところで腹がくちくなる訳でも、懐具合が良くなる訳でもない、詰まらない穴だ。生きる事だけを考えるならば無用の穴だった。貧窮の底にあっても揺るがぬ愛情を見た気がした。殺しても得られないもの、寧ろ殺せば殺す程に傷付けてしまうものを。
     ――それで、声を掛けたんだ。
     子供思いの母親だった。共に旅をして感じたのは、その事だった。明日どうなるとも知れぬ身空ゆえに、常に不安そうにしていたけれど、その不安が愛情を蝕む事を断固として拒否する強さがあった。栗、栗、と話し掛けながら手を引く姿。手助けするつもりで、助けられていた。人を簡単に殺しておきながら一人とて生かせやしない自分と、何という違いだろうと。
     目の前の宰輔もまた、弱い様で強かった。項梁が守った様に思えて、実のところ項梁は、目の前の蒲柳の質とも思える青年に守られ、救われた。
     だから尚の事、運命へ怒る。
     ――何故、天はこんなにも弱き者達に苛酷な運命を与えるのか。
     泰麒は強くならざるを得なかった。語られた蓬莱での日々からも明らかだ。強き者として生まれた訳ではない。弱く生まれた。弱く生まれたがゆえに運命に呑まれ、揉まれて、強くさせられた。項梁の様に強さを望んだ者とは違う。項梁は若い頃、力が欲しかった。軍人を志すとはそういう事だった。人を殺傷する権能が、技倆が、確かに欲しかった。それによって誰かを守る事が出来、何かの役に立つ事が出来るのだと信じて疑わなかった。それが強さを望む者だ。けれど泰麒も園糸もそうではない。突然困難が降りかかり、彼等を試した。試される中で強くなるしかなかった。
     ――そうした全ての運命に、怒る。
     そして、運命の火の粉を少しも払えない自分自身にも。
    「……それでもね、僕が向こうの世界を故郷だと思えているのは、あちらで出会った大切な人がいるからなのです」
     涼風が青年の大きな袖を膨らませた。項梁は暗く混沌とした怒りをなぞっていた思考を、ふと外へと向ける。隣で、華奢な青年が静かに笑っていた。
    「僕のあちらでの六年余りは、耐える為に耐える、無為の日々でした。失った事すら忘れてしまって、焦りだけが心に残っていて。――その人がいなかったら、僕はこちらへ戻った後も、きっとあちらでの無為を赦せなかった。何て時間を無駄にしたんだろう、としか考えなかっただろうと思うんです」
     耶利が回生の剣を鋭く跳ね上げる。くるくると空中を舞って、剣は回生の後方に転がり落ちた。
    「もう一回!」
     回生が威勢の良い声を上げ、剣を握り直して耶利へと向かう。
    「けれど、あの人がいたから。僕があれだけあの世界の人達を巻き込み、傷付け、殺したのに、それでも彼処に居て良いんだと言ってくれた人がいたから……。だから僕は、過去を消してしまいたいと思わずに済んでいるんです」
     過去を消してしまいたい。その言葉にはっとして、項梁は耶利と回生の鍔迫り合いを眺めた。顔を赤くしている回生と、涼しい表情の耶利。まだ細い二人の腕。額に湿る汗。
     ――栗も、いつかあんな風になるのだろうか。
     柄にもなくそんな事を想像した。一昨年と昨年の冬とでは、栗の衣の大きさが随分と変わっていたのを思い出す。無事に新しい衣は用意出来たのだろうか。
     ――次の秋にもなって、漸くそれを思い出すとは……。
     戴の秋は、澄み渡る様な紺碧の空だ。こんなにも明るい光、澄んだ空を、項梁は久しぶりに感じた気がしている。去年の今頃、自分は東架の街道沿いで、秋が死んでゆくのだと思ったものだった。
    「……私もね、冬というのは、秋が死んでゆく事なのだと思っていたんです」
     項梁はそう言って、僅かに髪の伸びた青年に笑む。秋が死んだと思った去年の冬、出会った青年は喪に服す様な切り詰めた髪をしていた。
    「若者を見ては、自分の過去の無力を嘆きました。子供を見ては、路傍で凍死する様を想像して哀れに思いました。どうして俺は殺す事しか出来ないのだろう、どうして命一つ守る事が出来ないのだろうと」
     けれど違いましたね、と言って項梁は耶利と回生に目を向ける。
    「冬が来るってのは、秋が死ぬ事ではありませんね。冬の隧道を通って、また春へと歩んで行く事です。文州で軍を離れてからずっと、自分の無力を何処かで感じていました。そんな過去なら要らないと、何処かで思っていた。救われたかった。自分が救われたいから、代わりに誰かが救われているところを見たくて、園糸を助けた様な気がします」
     口を突いて出た言葉だった。あの、膿むような怒りを拭い去りたかった。運命を洗い清めたかった。
    「けれど、俺も園糸に救われたんです。何もかも――他人も、自分の心も死んでゆく時を過ごすのは辛かった。けれどあいつは確かに、人を一人生かそうとしていました。その事が酷く尊く思えた」
     回生の剣がまた宙に浮く。肩で息をする少年。耶利は余裕綽々といった風情でにやりと笑む。さしずめいたずらっ子の笑いといったところだ。回生はむっとした様子で耶利へと向かって行く。
    「まだまだ!」
    「自分の通って来た過去は、遠回りの道や寄り道が沢山あるのでしょう。馬鹿みたいな進路を採った事だって、一度や二度じゃない。けれど、其処でだけ出会えたものが一つでもあれば――それは無駄なんかじゃない。そして何物にも出会えなかったなんて事は、この世には無いんです」
     そう、信じたいのです。男は呟く様に、祈る様に言った。その言葉に、泰麒は穏やかに眦を下げる。
    「項梁は、強いですね」
     その言葉に、言われた当人は皮肉な笑みを見せる。
    「強くあるのは、良い事ではないかもしれません。必ずしも」
     泰麒は首を傾げてこちらを見る。項梁は肩を竦めて見せた。
    「……若い頃の私にせよ、回生にせよ、武芸を志す者は、それを身に着けて強くなる事を望んでいるのです。強さそのものへの渇望もありますし、強くなれば何かを守る事が出来るのだと信じているからでもあります。しかし」
     しかし、と言いながら男は青年の黒曜石の様な瞳を見る。其処には明滅する火花、燧石から飛び散る最も小さな火が隠れている。
    「しかし……。どうなのでしょう。強さを望み強くなれば、我々は強いのでしょうか。私は違うと思う。それは台輔を拝見して思った事でもありますし、園糸と旅をして感じた事でもありました」
    「僕は弱いですよ」
     余りに間髪を容れず、またきっぱりとそう言い切る泰麒が、項梁には眩しい。それだった。その弱さに立脚する姿勢が、項梁には輝いて見える。
    「……ええ。台輔は、こう言っちゃ何ですが弱くていらっしゃる。台輔ご自身で出来る事は本当に限られている。特に白圭宮でお供していた頃は、使令もおらず信頼出来る臣も少なかった。そうした場面で台輔に可能な事はごく少ない。様相は違いますが、園糸もそうでした。貧しくて、家のない子連れの女です。この国で最も弱い存在だと言っても良い。――だから、強くならざるを得ない」
     泰麒はその言葉に、不思議そうにこちらを見返す。項梁は苦笑して先を続けた。
    「耶利が台輔を、内に勁い方だと評していましたが、私もそれには賛成です。台輔は弱くていらっしゃる。――けれど、弱さゆえに運命に呑まれて、弱さに安住させては貰えずお強くなった。そういう七年ではありませんでしたか? 園糸もそうです。貧しくて弱かった。弱いから放浪せざるを得なくなって、強くさせられた。両者とも、強さを望まず強くなった」
     その過程で折れる者の多さを思えば、その様な強さをいたずらに尊ぶべきではない事は分かっている。けれどそれでも、その得難い強さの前に項梁は膝を折りたかった。
    「強くなる前に死んでしまう者、変節してしまう者がいる事も分かっています。それが殆ど全てなのだという事も。だから、そうなるべきだなんて言えません。弱い者は弱さを捨てない儘に赦されて欲しいとすら思います。――けれど、その艱難をくぐり抜けた人を見た時、俺は、得難いと思うのです。明るい空を見ている様な気がするのです」
     泰麒はその言葉に、黙って空を見上げた。雲一つない、晴れ上がった清涼な空。清められた次の運命。
    「……そういう七年でした、項梁の言う通り」
     ややあって、泰麒は徐ろにそう言葉を紡ぐ。耶利がまた回生の剣を払い除けた。いつの間にか、回生だけが泥だらけになっている。
    「だから、他の人の七年が気掛かりなんです。李斎も、霜元も、臥信も、英章も、友尚も――皆、痛みを必死で堪えている」
    「他人の心配ばかりじゃないですか」
     病み上がりの者の台詞とは思えず、項梁はついそんな風に零す。泰麒は数瞬の後、そうかもしれませんね、と言って淡く笑う。
    「……皆、大切なものを失ったり、捩じ曲げられたりしています。だからかもしれない、救われたくて、その分誰かを救おうとして、他人の事ばかり考えてしまうんです」
     泰麒は項梁の言葉を心の中でなぞりながら、ゆっくりとそう口にする。
    「項梁は強い。困難な道をずっと歩いて来て、平原まで出た。傷を抱えながら歩いて、傷は癒え始めた。――けれど先程、項梁自身が言っていましたよね。その道を歩き切れずにいる人も多くいます。深手を負って歩けぬ者、余りの急勾配、余りの遠い道程に折れてしまう者」
     泰麒は其処まで言うと、ちょっと考え込む様に顎に手を添える。
    「強いという事は頼もしい事です。僕は項梁の言う通り強くさせられた面もあるけれど、同時に強くならなければと思った自分もいました。誰かに凭り掛からずに生きられるようにならなきゃ、って。幼い頃からそうだった気がします。余りにも僕は無力でした。ずっと、何も出来ない儘だった……」
     泰麒はその言葉を紡ぎながら、目線を下げて耶利と回生の影を見詰める。組み合っては離れるそれは、芝居の殺陣さながら闊達に動き続ける。
    「でももう、それを万人に強いる時代は終わった。そう思いたいんです」
     一人で困難に立ち向かう事。一人でこの道を歩み切る事。それが出来なくても、もう赦されて良い筈だった。何を失おうと、何を折られようと、その儘に受け容れられて良い筈だった。
    「項梁が僕のことを弱いと言ってくれたのが、嬉しいんです。僕は強くなりたかった。けれど、今は弱さを忘れずにいたい、と思っています。道の途中で地べたに伏した人々に添いたい。心ならずも泉下へと向かった者達にも添いたい。――彼等の弱さは、其処にあって良い筈のものだったのだから……」
     園糸の姿をしていた。脆く、弱々しく、けれどそれだからこそ何よりも輝いているもの。――人を殺す事と対極にあるもの。
    「殺さなくて良いって事に、安堵しているんです」
     男は無意識の内に、そう漏らした。殆ど自分でも意識していない言葉だった。
    「もう殺したくない。もう、誰も……」
     小さな声だ。風に掻き消えてしまいそうな、弱々しい声。けれどそれは確かに泰麒の耳へ届いた。もう誰も、誰かを殺さない世になれば良い。それは泰麒も心から願うところだった。
    「――参りました!」
     威勢の良い声が聞こえる。その言葉に二人が振り向けば、回生の喉元に耶利の剣が突きつけられている。蒼天が、こんなにも高く広がっている事を改めて知った。
    「それは、得難いことではないですか?」
     泰麒がごく小さく言った。これもまた弱々しい、儚い言葉だった。花の様な、虹の様な、北国の春の光の様な。
    「勝負あったな」
     いたずらっ子が笑っている。陽光が、きらきらと光っていた。
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