圧倒的オカン属性月島さん③【完】「最近雰囲気変わったよね」
「えっ」
休憩室で杉元君に言われて持っていた缶をぎゅっと強く握り締めてしまう。同期入社の杉元君は、数少ない私の素を知っている人であり、『外面』を作りすぎてしまった私の良き理解者だ。数ヶ月前に片思いが成就した、と報告してきてくれてから、休憩や飲みの席ではもっぱら彼の惚気を聞いていた。
「雰囲気?え、そんなに変わった?」
「あぁいや、『いつもの君』が滲み出てるとかそういうんじゃなくて、最近嬉しそうというか、肩の力抜けてるなーって思う事があるってだけ」
「肩の力、ねぇ…」
杉元君の言葉に首を傾げる。自分では変わったと感じることはなく、いつも通りのつもりだったから。
「別に、普段どおりだけどなぁ」
「えーほんとに?何か変化があったんじゃない?プライベートとかさ」
彼の問いかけに一瞬固まった。変化…と言える変化は、いっこだけある。繁忙期後に風邪を引いた翌週から、隣人である月島さんと週に一回のペースで一緒にご飯を食べるようになった事…だ。
体調が回復した後、週末にお礼のお菓子と、購入してもらった食材諸々の費用を計算して月島さんに渡した。いらない、と断られたがプライドが許さないので…!と押し付けてしぶしぶ受け取ってもらった。彼の部屋の前での問答だったけど、その向こうからカレーのいい匂いがして、つい部屋の方に目を向けてしまったら、
「よければ食べて行きますか?」
と誘ってくれた。流石に、と断ったけれど、早速作りすぎたんですよ、と苦笑されてしまったので、そういうことなら…とお部屋にお邪魔した。月島さんの部屋も必要最低限の家具のみが置かれていたけれど、私の部屋よりうんと綺麗に片付けられていた。流石だな…と関心しながらリビングに足を進める途中、キッチンにある寸胴鍋に思わず目がいった。…作りすぎた、は本当だったんだな…と内心思いながら、勧められるままにダイニングテーブルの椅子に座った。
「カレー、大量に作る方が美味くて…毎回凄い量になるんです」
苦笑しながら出してくれたお皿には、つやつやと輝くご飯と、野菜ごろごろのカレーが適量盛られていた。魅惑的な香りに両手を前で合わせ、いただきます…!と告げてからスプーンで掬ってひと口食べる。ヒリ、とするスパイスとほんのり感じる甘み、それに大きめだけどしっかりと火が通って食べやすい野菜とお肉。流石としか言いようのない味に、思わず頬が緩んだのは言うまでもない。黙々と食べ進め、問われるままにおかわりを頼み、結局3杯食べてしまった。美味しかったです…!と告げれば嬉しそうに月島さんが微笑んでくれて、心拍数が妙に上がったのは全力で秘密にした。
その日以降、半月に一回、2週間に一回、と声をかけられる頻度が少しずつ短くなり、3ヶ月経った今、週に一回、土曜日の夜に月島さんの家で夕飯をご馳走になるのが当たり前になってしまった。最初は流石に申し訳ない…という気持ちがないわけじゃなかった。けれどあの美味しいカレーを食べてしまったら断る意思がぐんと弱くなり、その次の餃子も、生姜焼きも、匂いで負けて誘いを受け、つい食べ過ぎるほどご馳走になってしまい…気付いたら週一で月島さんの部屋のインターホンを鳴らしていたのだ。そして気付いた。
嗚呼、胃袋を完全に掴まれてしまった、と…。
「胃袋ねぇ」
一瞬固まったのを目ざとく気付いた杉元君に、何かあったな?と仕事終わりに居酒屋に引っ張られて根掘り葉掘り言わされてしまった。仕事でお世話になっていた月島さんが気づいたらお隣になっていたこと、体調を崩してものすごいお世話になってしまったこと、ひょんなことから一緒にご飯を食べる仲になったこと…彼のご飯に胃袋を掴まれたことも。
「ダイナナの月島さんが料理か、イメージになかったけど凝り性そうだし向いてそうだね」
「向いてるどころじゃないの、めっちゃ美味しいの…量が尋常じゃないけど」
「そんなに?」
私の話を聞きながら杉元君がビールジョッキを傾けた。今日は金曜、明日を気にせず飲めるのは良いことだ。
「たとえば、餃子だと60個は作ってる。他のおかずなしで餃子パーティーしても私には20個が限界だった。残りは月島さんが白米と一緒に食べてたけど」
「うわやば…そもそも量食べる人なんだね」
「そうみたい。食費もばかにならないから普段は控えめにしてるけど、時々無心で作っちゃうんだって」
レモンハイの入ったグラスを揺らしながら説明すると、そういうもんかぁ、と杉元君がつぶやいた。
「にしても、隣だったからって部屋に入れちゃうとか、君らしくないね」
「あの時は焦ってたと言うか…ここまでばれてたらもういいかな、と」
「月島さんなら口固そうだし、無意識に大丈夫って思ったのかもね」
杉元君の言葉に頷いた。彼なら変な広め方はしないだろう、と思ったのは確かだし、実際彼は私の話は一切漏らさずにいてくれた。お陰で今も平和にダイナナさんとのやり取りができている。
「最初の印象が良かったから、心開いた感じ?」
「…心…開いてる?」
「開いてるでしょ。会社であんなに猫かぶってる君が、部屋に入れるし素は見せるし、看病までさせちゃうとか」
「それは不可抗力…」
「だとしてもさ。何が何でも自分でやろうとするでしょ、君は」
杉元君の問いかけに無言を返す。確かにそうだ。あの日、月島さんが来なかったら恐らく私は杉元君に電話したと思う。必要な食料をドアに引っ掛けてもらうなりして、後は自分で何とかしただろう。あの日、私が鍵をかけ忘れてて、月島さんが電話をしてくれたから、そのままお世話になってしまった。
「もうその時点で、大分心開いてるし…胃袋掴まれたって言ってるけど、ほんとにそれ胃袋だけ?」
「は?」
「気付かないうちに他のものも掴まれてんじゃない?」
ニヤリと笑う杉元君。じとりと睨んでから、レモンハイを煽った。
「…自分が今絶賛幸せだからって…私もそうなるとは言えないでしょ」
「んー?俺も別に『恋してる?』なんて聞いてねぇけど?」
「……」
同期入社で長い付き合いとなった杉元君には、隠し事をしてもすぐにばれる。まぁ逆も然りで、彼に好きな人が出来たときにすぐ気付いて、今みたいに居酒屋に引っ張っていって根掘り葉掘り聞いたのはいい思い出だ。あの時と同じことをされていると気付いて、思わず溜息を吐いてしまう。
「別にさ、それは恋でしょ!とか言うつもりはないよ。でも、君が少しでも心許す相手ができたって事が普通に嬉しい」
「……」
「今の気持ちにどう名前をつけるかは君しだいだし、つけなくても良いと思う。どう進むかは君が決めることだよ」
「…うん」
「…俺は、いつも色々応援してくれていた君が幸せになってくれればいいな、と思ってる」
「…ありがと」
「ん」
杉元君の言葉に素直に感謝する。うちの会社は少数精鋭で、同期入社は彼だけだった。外面を作る前を知っているのは社内では杉元君だけで、私が変わっても彼は変わらず接してくれて、こうして気の置けない仲になった。だから彼の言葉だけは素直に受け取れてしまう。
「…まぁ、月島さんが何も考えてないとは思えないけどね…」
「? 何か言った?」
「いや別に」
杉元君がつぶやいた言葉は居酒屋の賑やかさに紛れて聞こえず、話題はもうすぐ付き合って1年が経とうとしてる杉元君の、彼女への贈り物のお悩み相談に切り替わった。
◇
翌日。18時を過ぎたのを確認して自宅から出て隣の部屋へ。お昼頃月島さんからメッセージが届き、今日はから揚げであることが分かっている。近所のリカーショップでビールとウィスキー、それに炭酸を買っておいたのでそれも持って行く。
いくらなんでもご馳走になりすぎているから費用を折半したい、と言ったのに月島さんは頑なに受け入れてくれなかった。こちらが誘っているのだから気にしないで欲しい、と言われても無理なので、色々考えて話し合った結果、食事に合うお酒を私が持って行く、という案が採用された。私も月島さんもお酒に強く、食事に合いそうなお酒を選ぶのも、二人でそれを飲みながら美味しいご飯を食べるのもお互い中々に気に入っていた。
インターホンを押すと、バタバタと近づいてくる足音がして、すぐに扉が開かれた。
「こんばんは」
「こんばんは、お邪魔します」
当たり前のやり取りになった挨拶を交わして、私が持っていた袋を月島さんが掴んだ。
「ウィスキーか、いいな」
「から揚げと言ったらハイボールでしょう!」
私の言葉に月島さんが小さく笑った。何度も一緒に食事をするようになって、時々敬語が外れるようになった。少しずつ変化していく距離感に、そわそわとむず痒さを覚えながらも嫌ではない自分が居て、内心苦笑した。
部屋に入ると揚げ物の匂いが充満していた。食欲をそそられる魅惑の香りだ。
「今二度揚げが終わる所だから、座っててくれ」
「はーい。あ、飲み物どっちがいいです?」
「…ハイボールだな、濃さは任せる」
「了解。冷蔵庫少しあけますね」
冷蔵庫傍に袋を置いて月島さんはコンロの方へ、私は冷蔵庫を開けて空いたスペースにビールを入れ、冷凍庫から氷の入った容器を取ってリビングへ向かう。すでに用意されていたグラスに氷を入れ、ウィスキーを注ぐ。月島さんは気持ち濃いめ、私は普通。
「よし、食べるぞ」
キッチンから出てきた月島さんの手には、大皿にこれでもかと盛られたから揚げの山。端にポテトも添えてある。
「今日も凄い量…!」
「揚げ物はやるまでが面倒だからな…作れるときに一気に作るのがいい」
変わらず主婦目線な月島さんに笑いそうになりながらも、月島さん用に作ったハイボールを渡す。
「では、いただきます」
「いただきまーす!」
『乾杯』
グラスをこつんとぶつけて、まずはひと口。それから揚げたてのから揚げを口いっぱいにほお張る。あふれ出る肉汁と、しっかり漬け込まれた鶏肉をはふはふと味わい、熱くなった口にキンキンに冷えたハイボールを流し込んだ。
「~~~っ、最っ高……!」
ぷは!と息つく私を満足そうに月島さんが見ている。それから大きな口にから揚げをほお張り、咀嚼してハイボールのグラスを傾けた。
「…はー、美味い」
納得したかのように頷きながら二個目を取る月島さん。私の手も止まらず、ほぼ会話がないままから揚げの山はどんどんなくなっていく。ハイボールは2杯目からはセルフで。私が2杯目を作る時、月島さんは2杯目を飲み干した所だった。くし切りで揚げられたポテトも塩加減が絶妙でまた酒が進む。
「揚げたてのから揚げ久しぶり…」
「肉はまだあるが、追加するか?」
「いや、おなかいっぱいになってきたし、私はもういいかな」
「わかった」
そう言って、あと数個となったから揚げを自分の取り皿に入れ、大皿を持って月島さんが立ち上がった。火をつける音が聞こえたので、自分用の追加を揚げるのだろうか?と思いながら取り皿に残していたポテトをちまちま食べながら残ったお酒を飲み干した。
「ほら」
数分後、月島さんがお盆に載せて持ってきたのはふたつのお椀だった。私の目の前に置かれたそれには、かき玉汁が入っている。おだしのいい香りが鼻をくすぐった。
「シメにどうかと思って。具は卵だけだから重くないだろ」
「最高です…!」
ありがたい心遣いに感動していると、月島さんが小さく笑って向かいに座った。置かれたお椀を両手で持って、ふうふうと冷ましながらひと口すする。優しい味が広がって、油でこってりしていた身体にじんわりと染み渡った。
「はーーーおいしーーー染みるーーー」
「大げさだな」
私の感想に月島さんがくつくつと笑った。
「大げさじゃないですよ。いつも美味しいご飯を食べさせてもらって、今日だってこうやってシメまで用意してくれて…もう月島さんのご飯がない生活は考えられないですね」
私の言葉に、お椀に目を向けていた月島さんが顔を上げた。
「…そんなにか?」
「そんなに、ですよ。カレーの時点で胃袋掴まれてます」
月島さんの問いかけに正直に答えれば、一瞬目を見開いたあと、ふと真顔になった。
「…胃袋だけか?」
「え」
持っていたお椀をぐっと傾けてかき玉汁を飲み干した月島さんが、コトリとお椀を置いた。
「最近、社内で結婚を決めた奴がいてな」
「え?はぁ…」
「営業の奴で、宇佐美って言うんだがわかるか?」
「あぁ、あのやり手の…ご結婚するんですか、めでたいですね」
「あぁ。その相手が今の俺の部下で…付き合ってるのも知らなかったから驚いてな」
「へぇ」
突然始まった会話に相槌を打つ。宇佐美さんといえば美人な顔立ちで、物腰はやわらかく、飴とムチの使い方が絶妙な、敏腕すぎる営業さんだったはずだ。
「部下の方は別の会社からウチに来た人なんだが、とても優秀な人でな。宇佐美と話してるところを見てもとてもお似合いに見えて」
「素敵ですね」
「それで、他社だったその人と宇佐美がどうして結婚まで至ったのか気になって、宇佐美に興味本位で聞いてみたんだ」
「へぇ、なんて返ってきたんですか?」
「『胃袋掴みました』」
「…へ」
「詳細は省くが、まぁそうらしくて」
「胃袋…」
「その話を聞いて、なるほどと思って」
「は」
「実践してみたんだが…無事掴めたみたいで良かった」
ふ、と小さく笑う月島さんと目が合って、ぶわりと顔が熱くなった。まて、それってもしや…
「つ、月島さ…」
「俺、あなたの事が気になってたんだ、営業に居た頃から」
「…へ?」
「どんな要望にも応えようとあれこれ気にかけてくれるところも、他愛無い雑談も聞き漏らさずに他の話題につなげていく頭の回転のよさも、普段はきっちりしてるのに、笑うと少し幼く感じるくらい可愛らしい所も」
「ちょ、ちょっと待って…!?」
「ただ、仕事の相手だから。それ以上になる事はないし、本当になんとなく、いいな、と思ってたくらいだった。…隣に住んでるって分かるまでは」
「……」
目を細めながら話す月島さんは、淡々としているけれどどこか表情は柔らかくて、どんどん胸が苦しくなっていく。
「本当はエレベーターに乗ってきた時点でもしかして、と思った。けど急に離しかけたら驚かせてしまうし、プライベートで仕事相手と関わるのは面倒なのも理解してた。だから知らないふりをしようと思った。けど隣に住んでるって分かって、しかも郵便物が混ざりこんでいたら、流石に言わないわけに行かないと思って」
「……」
「あなたは見た目を気にしてたみたいだが、それに関しては気付かなかったというより、気にならなかった。普段のあなたは仕事で会う時よりも可愛くみえるな、くらいで」
「っ!」
「…男っていうのは、内心で何思ってるか分からんもんだ。幻滅したか?」
出くわした日に私が言った言葉を返すように月島さんが言う。
「…見た目覚えてないって、言ってたのに…」
「随分焦ってるようだったから、ああでも言わないと落ち着かないかと思って」
「う…」
確かにそうかもしれない。あの日、月島さんが全く気にした様子もなければほとんどおぼえていない、とまで言ってくれたから、そのまま脱力したのだ。最初から彼の手のひらの上だったのか、と思うと頭を抱えてしまう。
「仕事とプライベートを切り替える事は悪いこととは思わない。だがあなたの場合は如何せん油断しすぎることがある。風邪ひいたと聞いたあの日、ドアに鍵がかかっていなかったときは流石に背筋が凍った」
「…すいません」
「……熱に浮かされた言葉とはいえ、男に『ひとりにしないで』なんて言うべきじゃない」
「う…」
「あれは流石にくるものがあった…理性を総動員して耐えられた自分を褒めてやりたいくらいに」
さっきから信じられない言葉が次々と月島さんから零れていく。何があっても全く動じない月島さんが、感情がわかりにくい月島さんが、眉間に皺を寄せつつも、見たこと無い柔らかな表情で、私のことが気になるなんて言っている。
「仕事であんなに敏腕ぶりを発揮しているのに、普段は少し抜けている、なんて、俺からしたら魅力にしか見えない」
「は、え、」
「あなたが俺に少し気を許してくれたのがわかったから…少しでも関わるきっかけが欲しくて、その時に宇佐美の言葉を思い出した。あなたはおにぎりの時もおかゆの時もおいしいと笑っていたから、胃袋掴めないかと思って」
「えぇ…」
「まぁ、期待通り掴めたみたいでよかった」
微笑みながら、残っていたハイボールを飲み干した月島さん。グラス3杯。彼がそれだけで酔う人じゃないのは分かっている。
「それに、反応を見るに、胃袋以外も掴めているようだし、な」
「!」
彼の深い色の瞳が細められて私を捉えていく。…杉元君が言っていた言葉が、頭を過ぎった。
「……あの、」
「あぁ」
「……掴まれてるかもしれません、胃袋以外も。でも…」
「別に、今すぐどうこうなりたいわけじゃない」
「…え?」
自分の中の感情に、名前をつけようと頭をフル回転させる。好き、なのかもしれない。けれど確信が持てない。私が知っている月島さんは、真面目だけど、優しい所もあって、ご飯を作るのが上手な人。何が好きなのかとか、誕生日とか、踏み込んだことは何も分からない。少し前まで母のようだとまで思っていた人に、『恋』と名をつけていいものなのか…。そんな私の考えを読み取ったように、月島さんが呟いた。
「元々長期戦のつもりだったからな。むしろ早いくらいだ。…俺はね、あなたが俺が作ったものを食べて幸せそうに顔を綻ばせている所を見るのが好きなんです」
「は…」
「今までは食事だけの付き合いだったが、これから…もう少し色々知ってくれたら良いと思ってる。あなたのことも、知りたい。俺が知っているのは少し生活力が乏しくて思ったよりおちゃめな人ってだけだから」
「う…!」
言葉にされると中々に痛い。月島さんのお陰で部屋は大分綺麗になったんだから…!
「俺の作った飯が好きならいつだって作る。困ったことがあればいつでも聞く。だから…あなたは安心して、落ちてきてくれれば良い」
「っ…!」
まるでもう落ちるのが確定しているみたいに言われてしまい言葉に詰まる。仕事相手としては頼りになるが、対峙すると適わない。
「…私を知って、幻滅することがあるかもしれないですよ?」
「あなたが見せたくないものを知って、看病もした。それでも俺はあなたに魅かれてる」
せめてもの抵抗も、まっすぐな言葉にやられて成す術がない。
「ううう…!」
「はは!…まぁ今日はこの辺でやめておこう。…これからは、遠慮せずにいくから」
覚悟しておいて欲しい
低い声で、ずしりと響く言葉だった。月島さんは席を立ち、自分のお椀とグラスを持ってキッチンに向かってしまう。さっきまであったほんのりと甘く柔らかな空気は、水音と共に流れていく。
「汁物、飲み終わったらお椀こっちに」
「…は、い」
どうやら本当に長期戦をする気らしい。…正直、今すぐに答えを出さなくて良いことにほっとしている自分が居た。自分の気持ちの変化に気付けたのも最近で、どうするべきか迷っていたから。きっとこれも、月島さんの優しさなんだろうと思うと、また胸が締め付けられたような気がした。
もう一度お椀を持って、すっかり冷めてしまったかき玉汁を飲み干した。冷めても優しい味が、じんわりと胸に沁みていく。
「ふぅ…」
深く息を吐いて、翻弄されていた感情を落ち着かせた。長期戦、やってやろうじゃない。自分の気持ちと向き合ういい機会だし。そんな事を考えながら、テーブルに残っていた食器をお盆に載せて、洗い物をする月島さんのほうに向かった。
私の中で渦巻いている気持ちに名前がつく日は、思ったよりも近いかも知れない。そんな予感を感じながら。
【END】