スクールライフ延長戦 校舎棟の中央には中庭があって、生徒たちの交流の場となっている。ベンチに座って談笑したり、球技に汗を流したり、いつの時代も学校は生徒の賑やかな声で溢れている。
授業を終えて教室を出ると、中庭を見下ろせる窓際にあたるがいた。数人の女生徒に囲まれながら、清々しいまでに表情筋を緩ませている。なんてだらしのない顔だろうか。通り過ぎる際にうんざりした面持ちで一瞥したが、あたるは面堂に見向きもしなかった。
「――いやいや、モテちゃって大変」
程なくして職員室の扉を開けたあたるが、開口一番に軽口を叩く。スキップするかの勢いで隣の席に座っては、手にしていた出席簿を机の上に乱雑に置いた。その音がやたらと耳触りだったのて、面堂は臆面もなく顔を顰めた。
「モテる? 利用されているの間違いじゃないか?」
あたるの軽薄な口調についうっかり反応してしまうのは、学生時代からの面堂の癖だった。それに対してあたるも律儀に返事をするからいざこざが絶えない。
「利用ぉ? なんの話だ」
訝しむように眉根を寄せたあたるが、キャスターをころころと動かして面堂の方へにじり寄ってきた。わざわざ面堂のデスクで頬杖をつき、まるで小馬鹿にするように下から見上げてくる。そのふてぶてしさに思わず拳を握りしめたが、振りかざしたい気持ちをなんのか宥めて、ため息で散らした。
「貴様な」
あからさまに息をついて、むかつく鼻にデコピンをお見舞いする。痛て、とあたるが間抜けな声を上げたことで、少しだけ溜飲が下がった。
「なにすんじゃ」
「うるさい。あのな、この際だからはっきり言ってやるが、少しばかり声を掛けられたからってモテているという安直な考え方は滑稽だぞ。それに相手は大事な生徒だ。教え子に手を出すなんて教師の風上にも置けん。先ほどだって大方、期末テストの内容を教えて欲しいなどという話だったんだろ」
息を吐く間もなく流れるようにつっぱねてやるも、面堂の言葉が響いていないのか、あたるは平然とした表情を浮かべていた。あまつさえ、すっきりしたか、とまで言ってのける。
「…は?」
「言いたいことは言えたか?」
「…だいたいは」
「あ、そ。そりゃ良かった。男のやっかみはモテないよ、面堂先生」
「やっかみだと? 失礼なことを言うな」
何が楽しいのか含みのある顔で笑ったあたるが、面堂のペン立てから一本奪い取り、近くにあった面堂の出席簿に落書きをし始めた。おれの方が人気者で悔しいんだろ、と節をつけてからかってくるので、それに対してはきちんと訂正を入れた。それよりも気になるのは、あたるの手元だ。
「貴様、なにしてる」
「なにって、お守りだよ、お守り」
「お守りだと?馬鹿なことを言うな」
分厚い紺色のカバーをめくった出席簿の一枚目になにやら書き込んだあと、あたるが満足げに面堂を覗き込んだ。視界に飛び込むのは「面堂のタコ」との走り書き文字。なんとまあご丁寧に決してうまいとは言い難いイラスト付きだ。「お守り」だなんて言うから何をしたためたのかと思いきや、ただの悪口じゃないか。
「なんだこれは」
「だからお守り」
あたるの言うことがいまいち理解出来ずに首をひねっていると、至近距離でぽんと肩を叩かれた。
「いちいち生徒に妬いてたら身が持たんぞ」
なんて、甘えるように言って、デスクに項垂れながら上目遣いをする。その顔が、ベッドの上でしか見せない色気を孕んでいたので思わず息を飲んだ。職員室にはほかの教師もいたが、ちょうど死角になって見えない。疾しさにも似た興奮が駆け上がっていく。
「…おい、諸星」
「なんですか、面堂先生」
こういう時ばかり、「先生」をつけるから性質が悪い。面堂先生、ともう一度名前を呼びながら、デスクの下で太ももを撫でられたので素っ頓狂な声が出そうになった。あたるの人差し指が「の」の字を描くように面堂のスラックスの上を何度も走っていく。縦横無尽ででたらめで、それでいて強請るような動きに反応しかける。耐えるように無意識に唇を食む。
「…貴様、ここをどこだと思ってる」
「どこって学校だろ」
あっけらかんとした表情が癪に障る。
開き直るな、と言い掛けたところで、あたるの手が移動した。太ももの付け根の溝を人差し指で何度も往復するような動きに軽く目眩がする。どこで覚えるんだ、そんな仕草。
「貴様なんかクビになれば良いのに」
「おれがいなくなったら張り合いないぞ」
「んなわけあるか」
ぎり、と奥歯を噛み締めていると、面堂の限界を見計らってか、あたるの手の動きがぱたりと止まった。現金にも名残惜しさを感じてしまうんだから、男の性というものは恐ろしい。
「…こ~んなに可愛い子たちが近くにいっぱいおるのに、お前を選んでる時点で分かるだろ」
あたるの声に熱が帯び始めたところで予鈴が鳴った。続けて、教頭に名指しで注意された。
「面堂先生と諸星先生、じゃれてないで次の授業の支度をしてください」
別にじゃれているわけではないのに、心外だと反論する余裕もなかった。もやついた気持ちを抱えつつ、デスクの上に準備しておいた教科書類を手にして立ち上がる。いつの間にかあたるは、職員室から消えていた。逃げ足だけはいつも早い。
それからというもの面堂が出席簿をめくるたびに、あたるの落書きが目に飛び込んでくるようになった。くせのある丸文字で書かれたともすれば悪口は、腹が立つのに見るたびにあたるを思い出した。悔しいかな、それは安心とも呼べた。まあ、これは余談の話で。
この日は一人で昼食を終えたあと、煙草を吸うために屋上へ行くと先客がいた。
「…なんじゃ、面堂か」
「なんだとはなんだ」
あたるは屋上の柵にもたれながら、流れゆく雲をぼんやりと眺めていた。昼はどこで食べたんだ、と聞こうとして、すんでのところで止めた。あたるが時おり、男子学生と一緒に空き教室で駄弁っているのを、面堂は噂で知っていた。今日もおそらく、そんなところだろう。
出会ったころに比べると、ある程度成熟した関係を築けてはいたが、あたるも面堂もそれなりに距離感は大事にしていた。目に見えない境界線を、互いに理解して牽制する。阿吽の呼吸みたいなものだ。
屋上から出ていくのも気が引けて、なんとなくあたるの隣に並び、胸ポケットから煙草を取り出した。視線を感じたので右隣に視線を彷徨わせると、はっきりと目が合ってしまった。
「…なんだ、じっと見て」
面堂が煙草を吸う姿なんて珍しくないだろうに。それこそ、したあとは無性に吸いたくなる。
「いや、べつに。おまえ、煙草はうまそうに吸うよな」
煙草は、とあえて言われると癇に障る。まるでそれ以外はうまく咀嚼できないような言い方をしないでいただきたい。
喧嘩を売っているのか、と紫煙を吐き出すと、あたるが首を左右に振った。それから、ほかにもうまそうに食べるのを知ってるぞ、と含みのある笑みで続けた。答えを聞くのに思わず臆してしまうような笑顔に、面堂は脱力する。その刹那、あたるが脈略のないことを言い出した。
「おれもちょっと吸いたい」
言うやいなや、面堂の指に挟まる煙草を咥える。少し屈んだ体勢で。風が吹いてあたるの髪の毛が揺れた。これではまるで面堂が手づからあたるに煙草を与えるように見えるじゃないか。
動揺を悟られまいと深く呼吸をした。隆起したあたるの喉仏が上下にゆっくり動いている。煙を吸い込むたびに頬が少しだけこけて、施されているときの独特なシチュエーションを思い出した。
う、わ、と声にならない声が漏れる。火が回って先端がどんどんと短くなっていく。指先がじりじりと熱い。それなのに、動けない。ふいに目が合った。ふっと幼げに笑ったあたるが、面堂の味がする、とだけ言った。煙をうまく吸い込めなかったのか、けほ、と一度咳き込んで目を眇める。
「…お前と学校で煙草を吸うとはなあ」
そのへんにあった空き缶に吸殻を投げ入れてから呟く。人生何が起こるか分からん。感情が読み取れない表情であたるが軽く目を伏せた。それからちらりと面堂を見上げ、出来ることが増えていくな、と言った。
屋上での喫煙も、職員室で過ごす時間も、出席簿への落書きも、高校時代は出来なかったことだ。すかさず、「出席簿に落書きをしたのは貴様だけだろう」と言い返すと、何が面白いのかあたるが笑った。学生時代、それよりももっと強烈な問題児行動があったことは、この際目を瞑って。
「お守り、効いたろ」
そう言って首元をさする。三日前につけた痕がシャツの隙間から見え隠れする。ふいと目を逸らすと、がっつきすぎじゃ、と窘められた。
「そいや、学校でキスはしたっけ」
「…え?」
「どうだったっけ? 面堂先生、覚えてますかぁ?」
鮮烈なトラブルを覚えてないとは言わせないぞ。トラブルを含めると、一度、二度…何度だっけ。いや、律儀に思い出さなくて良い。
「…貴様、意地が悪いぞ」
「意地も悪いし、記憶力もありませぇん」
だから面堂先生教えてよ。すりすりとすり寄ってきては、面堂の肩にもたれかかる。たまに見せる甘えた仕草は、そういう気分の証だ。誰が来ても良いように、いつでも振り解ける体勢は取りつつ、でも少しの間だけこの体温に触れていたいと思うこの気持ちは、きっと境界線の間で揺れている。
「…見えるところは噛むなよ」
面堂の沈黙をどう受け取ったのか、あたるが消え入りそうな声で言った。俯いたまま独り言のように呟くので、思わず聞き逃しそうだった。視界に入り込む赤い耳の先を確かめてから、ばれないように深呼吸をする。
「…見えないところだと良いのか?」
「…揚げ足を取るなんてガキのすることだぞ」
聞くのは野暮ってもんだろ。掠めるだけのキスは言わずもがな煙草の味。
遠くの方で聞き慣れたチャイムの音がした。