生徒に嘘はつけません 授業を終えて職員室へ戻るとすでにあたるがいた。目が会った瞬間に「よっ」と声を掛けられたので、立場上簡単に会釈だけして、隣同士に配置された席へと座る。不本意な席順は担当学年が同じゆえに起こった悲劇で、因果ともいう。
憂鬱な気持ちのままに大仰にため息をつけば、あたるが椅子に座ったまま体を近付けてきた。先ほどの授業はあたるの担任クラスだったので、いつにも増して骨が折れたのだ。
「おれのクラスのやつらどうだった?」
面堂の心情を知ってか知らずか、あたるが平然とした顔で笑う。
「担任が担任なんで相変わらず問題児ばかりだ」
一時間の授業のなかで面堂がどれほど苦労をしたか懇々と説明をしてやるも、あたるは意にも介さず。あまつさえお菓子を食べながらという無作法さだった。
「あ、そう、そりゃ良かった。あとで褒めちゃろ」
「褒めるだと? 貴様、ぼくの話を聞いていたか?」
問題児だと言ったんだ。突っぱねる口調でにべもなくあしらい、授業用の資料の整理に取り掛かる。不意にあたるの方から香る甘ったるい匂いに思わず視線を彷徨わせた。いや、さっきから気にはなっていたが。
「貴様、何を食べとる」
「え、ポッキーだけど」
なにを今更、といった面持ちであたるがふっと笑う。ぽりぽりとクッキー生地を噛み砕く音に交じって、チョコレートの香り。視界に映るあたるの舌を直視出来ない、そんな自分にも腹が立った。
「…ポッキーって」
赤いパッケージのチョコレート菓子は面堂も何度か見掛けたことがあった。とはいえ、生まれてこの方口にしたことはない。よく見れば、あたるのデスクの上にはいくつものお菓子が乱雑に置かれていて、その中に見慣れないウォークマンもあった。大小さまざまな色とりどりのパッケージは華やかで、見るからに生徒からの没収品だ。なんと呆れたやつ。
「…生徒から没収したものを勝手に食べるんじゃない」
「でも、もったいないだろ」
「そういう問題じゃないだろう」
あっけらかんと言ってのけるあたるを見ながらも、少しだけ心に違和感が残った。お菓子くらい校内に持ち込んでいる生徒はたくさんいて、暗黙のルールみたいなかたちに落ち着いている。わざわざ没収するものでもない。
「貴様が生徒から何かを没収するなんて珍しいな」
規律やルールに抑圧されることを良しとはしてこなかったかつての学生が、率先して行う行為とは思えなかった。生徒の気持ちに寄り添いたいなどという殊勝な心意気を持ち合わせているようには見えないが、未成熟な子どもが自由に憧れる気持ちを汲み取ってやれる人間だとは思う。だからおそらく教職を選んだ。
「たまたまじゃ。見つけてしまったもんはしょうがないだろ。それに、」
大事なもんを他人にとやかく言われる筋合いはないわな。含みのある台詞を独り言のように続ける。子どもをあやすような口ぶりと妙に大人びた横顔に刹那だけ釘付けになった。あたるの唇の端には少しだけチョコレートがついていて、瞬きをしている間にあっという間に舐め取られてしまう。情事を彷彿とさせる舌の動きに、心臓がどきどきし始める。
視線を下ろして上げて、下ろしてもう一度上げると、飄々とした顔のあたると目が合った。
「なにを百面相しとる」
「…してない」
あたるは相変わらずの態度で、面堂と会話をする間もぽりぽりとお菓子を食べ進めるので、あたりに小気味良く滑稽な咀嚼音が響いた。僅かな沈黙をどう受け取ったのか、喉仏を上下させたあと、「面堂も食べるか?」と聞かれて拍子抜けした。
「誰が食べるか」
「だって、物欲しそうな顔しとるから」
「しとらん、失礼なことを言うな。…貴様、ぼくにも食べさせて何かあった場合の共犯に仕立てるつもりだろ」
「…あ、それも良いな」
「あほか、たたっ斬ってやる」
そうこうしているとチャイムが鳴って、次の準備へと向かう教師たちの会話や椅子を引く音などが聞こえてきた。
「次授業ないのか?」
「うん」
「いつ授業してるんだ?」
「面堂先生が知らない間に」
「…つまらん冗談言いおって」
「妬いた?」
「誰が妬くか」
「じゃあ、食べるか? ポッキー」
「じゃあってなんだ、脈略がないだろ」
「良いじゃないか、ほれ――」
と、あたるがポッキーの先端だけを口に含んだまま、面堂に近付いてくる。ほれほれ、と器用に揺らす仕草はまるで面堂を誘惑しているようだった。つんと尖らせた上唇が赤くて目のやり場に困るし、こういう時に限って、職員室は二人以外に誰もいないし。ぱちぱちと、石油ストーブが燃焼する音だけが響く。
「…貴様、こんなところで…」
「はよせんとおれが全部食うぞ」
「…意地汚いやつ」
ええいままよと勢いに任せて一口食めば、口のなかで菓子が甘い菓子が解けていった。呼吸のくすぐったい距離にはあたるがいて、触れていないのにキスした感覚に陥る。面堂が飲み込んだことを認めたあたるが、口元についたチョコレートを拭いながら、これで共犯だな、としたりげに笑った。
ホームルームのあとに一人の女生徒を呼んだ。少し不安げに近付いてきたおさげ髪の女生徒が、面堂が手にしている茶封筒を見るなり、ぱっと顔を輝かせる。
「諸星先生ですか?」
「え?」
「さっき、預かってくれてて、それ」
主語のない会話に理解が追い付かず、目をぱちくりさせていると、女生徒が困ったように眉を下げた。
「…どうしても手元に置いておきたくて持ってきたんですけど、でも今日、抜き打ちの持ち物検査があるって諸星先生がこっそり教えてくれたんです」
「諸星…先生が」
返してやってくれと手渡されたウォークマンの理由を、あたるは一切言わなかった。たぶん、おそらく、彼女がこれを持ってきた理由をあたるも知らない。咄嗟に大事なものと理解したのだろう。持ち物検査が好きな正義感を振りかざすだけの教職員というのはいつの時代にも存在して、そのほとんどが執拗でときに理不尽な性格であることが多い。だからゆえの咄嗟の判断だったと勝手に推測した。
なんだ、けっきょくのところ生徒のためじゃないか。数時間前にあたるとした会話―そしてもれなく恥ずかしい行動まで―を思い返しながら、なんとも言えない気持ちで女生徒のつむじあたりを見つめる。
「…勉強に関係ないものを学校に持ってくるのは、正直ぼくは感心できない」
どうしても伝えたくて、手渡すときに嫌味たらしくならないように言った。面堂なりの矜持みたいなものを崩すつもりは更々なく、自分の考えを真正面に伝えると、女生徒は「分かってます」とだけ言った。その声色が凛としたものだったので、きっと面堂の想いは届いたのだろう。
「…でも、嬉しかったです、私は」
その気持ちだけは、本当だから。
そう言いながらも、でも、と続ける。
「まさか、お菓子まで取られるとは思わなかったけど」
「…ああ、やっぱりあれは、“おまけ”か」
「“おまけ”って?」
くす、と呆れたように笑った女生徒が、諸星先生お腹空いてたのかな、と言って髪の毛を耳に掛けた。人がまばらになった教室はどこかすっきりとしていて、かつて通った高校の放課後を思い出した。教室の奥の方をなんとなしに眺めていると、面堂先生と名前を呼ばれた。
「もしかして、面堂先生も食べた?」
上目使いで尋ねられる。脳裏に浮かぶあたるに悪態をつきながら、ああええと、だなんて我ながら煮え切らない声が漏れた。
「…それは、そうだな、秘密だな」
「秘密、ですか」
面堂先生にそんなこと言われると思わなかった。きょとんとした顔で女生徒が目を瞬かせるので、居た堪れなくなってしまった。あとで覚えていろよ、諸星。