おかえりの場所 すっ、と胸に深く空気を吸い込んだ。
室温は快適、掃除は、まあ、及第点。シンクや食器は念入りに磨いた。
何より俺の犬と、預かっていた浮奇の猫が、落ち着きなくそわそわしている。動物というのはすごいな。俺のサイボーグの能力を以てしても分からないことを、当たり前のようにやってのける。
いつでも連れて来られるようにと買ったキャットタワーの上で、猫はいつもと違う少し悲痛な声で鳴く。
「はは、君の主人を呼んでいるんだな、もうすぐか?」
犬は母の帰りを待ちきれない子供のように、窓に向かって大きな声で吠えた。
「こら、お前の主人は俺だろう?」
俺は笑いながら落ち着かぬ様子のその頭を撫でた。クンクンと、切なそうに鳴くから、彼にとって浮奇がどれだけ大切な人間なのか分かる。
「そうか、主人の気持ちが分かるんだな、お前には」
犬達が騒ぎ出して何と10分も過ぎたあたりで、ドアが開いた。
「ふーふーちゃん、ただいま」
穏やかな愛しい笑顔が、儚くまっすぐに、滲むように揺れた。
「おかえり、浮奇」
俺よりも早く、犬が大きく吠えて、尾を振りながら浮奇に飛び掛かった。
「こら、俺より早く抱き付くな、俺が先だ」
笑いながら呼びかけたが、人間が敵うわけもない。
「あはは、ふーふーちゃんの負けだよ」
両手の荷物を受け取って、肩に乗った猫を撫でる浮奇に笑いかける。旅の為の身軽な服装は、彼の美しさをよりシンプルに際立たせていた。
「まさか猫にも負けるとは、サイボーグも形無しだな。浮奇の猫君はとてもお利口にしていたぞ、存分に褒めてやってくれ」
「本当に?偉いね、お利口さんだね!」
浮奇が繊細な所作で猫の眉間を優しく一撫ですると、さっきまでみゃあみゃあと浮奇を呼んでいたはずがすっかり大人しくなって浮奇の足元に寄り添っている。手を洗いに移動するのに合わせて二匹が着いてくるのを、浮奇は微笑んで受け入れていた。
俺もお前も、動物には好かれるよな。人間にはからっきし、好かれるか嫌われるかはっきりしているのに。
メイクを落として部屋着に着替えた浮奇が、お待たせ、とやってきた。
「ああ、ずっと待ってたぞ、ずーーーーっとだ」
態と口を尖らせると、浮奇が吹き出した。
「あははは、やめて、何でそんな可愛いの」
「お前の帰りを『ハチ』みたいに待っていたからさ」
「その話前にしてたね、俺思い出すだけで泣きそうなんだけど」
ほら、と浮奇に両腕を差し出す。勢いよく、しかし羽でも生えているかのように軽やかに胸に飛び込んできた、俺の良知良能。やっと心に温かさが、身体に血が戻ってくるようだった。
「おかえり、羽は伸ばせたか、俺の天使」
「おかげさまで。ありがとうね、待っててくれて」
「待つのは嫌いじゃないんだ…お前にだけはな」
お前を待っている間は本当に色んなことを考える。思い出しては、救われるような温かさがあって、ただ俺にはお前が必要なのだと思い知る。
「笑って、待って、許し合う…それって愛だよね」
「そうだ。ヒトが忘れがちなものだ」
ゆっくりと、抱き締める腕に力を込める。この繊細な羽根が折れてしまわないように。
「あ、どうせふーふーちゃんご飯食べてないんじゃないかと思ってさ、二人で食べようと思ってたこやき、テイクアウトしてきたよ。他にもお土産はたくさんあるんだけどさ、猫のお世話とか、全部…本当にありがとう」
「その通り、お前が帰って来たら一緒に食べたかったからな」
抱き締める腕を解くのは名残惜しかったが、
「ほら、待てばその分いいことがあるだろう?」
とウインクを一つ浮奇に投げて、俺はコーヒーと紅茶を淹れに、キッチンに向かった。
おかえりとただいま。日本の作品には、アニメやドラマや映画に限らず頻繁に出て来る言葉だ。似た表現をすることは不可能ではないが、それぞれたった四文字で、この万感の想いや日々のささやかな幸せを込められる言葉もないのではないだろうか。
それに、誰もいない部屋に帰っても日本人は「ただいま」と言う。俺には最初は意味が理解出来なかった。
きっと、それは祈りなのだ。習慣から来るものであっても、いつかは「おかえり」が返ってくるようにと希う祈りだ。
永い孤独の後、きっとそれは一際染み渡るだろう、今の俺のように。
コーヒーと紅茶のカップを持って戻ると、浮奇はたこやきのパックを嬉しそうに広げながら俺の分の割り箸を割り、すぐに手に取れる場所に置いてくれていた。
「俺には一人の時間が人一倍いるけどさ、不思議なんだよね」
最初は青のりやかつおぶしが歯につくからと俺の前では食べたがらなかったのにな。
「何がだ?」
「綺麗なものを見たらふーふーちゃんに見せたくなるし、これ好きそう、あれも好きそうって、一時もふーふーちゃんは俺の中からいなくならなくてさ、ありきたりかも知れないけど、離れているほど近くに感じるって、こういうことを言うんだね」
「それならまだましな方だぞ」
二人で手を合わせて「いただきます」と唱える。これは食べ物となった命と作り手への感謝、そして美味しくなる魔法の呪文だ、お前と二人なら、いつだって、何だって幸福の味がする。
そして、お互いに箸を持って、自分ではなく相手に食べさせる。うん、美味い。と呟きが漏れる。
俺はソースの付いた浮奇の唇の端を、ペロリと舐めてやった。
「起きている間だけ思い出すなら、お前はまだましな方さ。俺は夢の中までお前がいるんだからな、月の女神セレンと羊飼いのエンデュミオンだろ、まるで」
誰それ?という言葉を黙らせる為に、俺は二つ目のたこやきを浮奇の口に放り込んだ。