夏は来ぬ まだ日が登ったばかりのジョグジャカルタの古都の町並みを、肩に釣具を引っ提げ軽快に自転車で飛ばす。ボロブドゥールの日の出ツアー帰りの日本人達の日本語が聞こえてきて、綺麗だった、来て良かったという言葉に嬉しくなる。朝食を売るパサール(市場)でナシアヤム(鶏肉飯)を買って、一気に目的の湖へ。
「さて、今日こそ!」
生活の糧であった釣り人は、訳あって辞めたけれども、やはり釣りは好きだ。ここインドネシアには怪魚専門の釣り堀もあるほど、豊富な魚がいる。どぶ川ですら何かは釣れる。俺の目的は、最近この湖で目撃された300cmを超えるアロワナだ。普通は大きくても100cmほどなんだから、まさに化物。まるで子供の頃に憧れた竜を釣るみたいな、夢のある話だ。
海ではサビキ、川ではルアーが好きな俺だが、何故かこの湖では昔ながらの釣り針に餌を刺して釣るシンプルなやり方にこだわっている。ロマンがある。
俺は釣竿を準備して釣り針に小さな海老を刺した。なるべく臭いの強い餌の方が、きっと引きがいい。
そのまま、ヒュン、とオーバースローで投げ入れる。美しく張った湖面に映る古代の宮殿が、俺の作った波紋で揺れた。よし、いいところに投げられたぞ。感覚で、釣り針が底の方に着いただろうタイミングを測って、リールのベールを戻してハンドルを巻く。さあ、後はアタリが来るのを待つだけ。
ゴポリ、と聞いたことのない音がした。湖に何かいる。アタリか?と思った瞬間、ザバッと音がして、その影は立ち上がった。
今の今まで、もちろん人などいなかったはずの場所から現れたものだから、俺は驚いて釣竿を離してしまって、足に当たる。
滴る水、濡れた肌は青白く、貼りついた髪の毛は不思議なグラデーションの紫色をしていた。整った顔立ちには気品があり、スルタン(王族)なのかもしれない。
何よりも、右目が、燃えるように光っている。明るい朝の陽射しの中で、生まれたての恒星のように目映い。
男は無言のまま、不機嫌そうにぺっ、と口から水を吐き出した。
「くそったれが…どこだここ…」
深く優しい声だったが、前言撤回、気品はないぞ。
「ジョグジャカルタの湖だよ、兄ちゃん迷子かい」
俺がそう答えると、
「ジョグジャカルタってどこ、何州?」
「state?propinsiのことか?そのまんまだが、ジョグジャカルタ特別州だよ」
男は首を傾げた。
「アメリカにそんな州あった?」
「アメリカじゃない、ここはインドネシアだ」
「WTF!」
「おーおー、そんな美男子なのに口が悪いな、兄ちゃん」
男の右目に燃える炎が消えて、ざぶざぶと重そうに水を掻き分けて歩いて来た。
「その声、やっぱりボニ!?何で!?」
どうして俺の名前を、と聞こうとした時、男の身体がぐらりと力なく倒れる。俺は慌てて支えた。水に濡れているのに、男の身体はとんでもなく熱かった。
帰って、服を脱がせて身体を拭き、俺の服を着せる。下着はとりあえず省いて、ラフなTシャツとハーフパンツ。濡れた服は洗濯機に入れた。ズボンのポケットを確認したが、特に何も入ってないし、カバンすら持っていない。せめてパスポートはないと、大使館に行くにもどうしたらいいのか分からない。
とりあえず落ち着く為にコーヒーを淹れていると、ベッドに寝かせていた男が起き上がった。
「まだ寝てろ、お前熱があるぞ…あ、コーヒー飲むか?」
「飲む、最悪だよ、もう」
男は随分と親しげな雰囲気だった。まあいいか。俺はコーヒーの入ったカップを渡した。
「…何これ」
「コーヒーだけど」
「粉だらけだけど!?」
「ああ、兄ちゃんアメリカ人なんだっけ。ちょっと待ったら沈んでくるから、上澄みだけ飲むんだよ」
「その兄ちゃんって何、気持ち悪いなあ、ボニ。いつもみたいに浮奇って呼んでよ…って!ああ!」
ウキ、と名乗ったその男は思い出したように俺に掴みかかる勢いで言った。
「ねえ!ふーふーちゃんかアルバーンに連絡してくれない?時差的に無理ならユーゴでもサニーでも、とりあえずNoctyxの誰かに」
俺はウキを宥めるように静止した。
「その、兄ちゃん…じゃなくて、ウキさん。何で俺の名前知ってんの?」
ぴたり、とウキの動きが止まった。
「ボニ…?冗談は止めて、とりあえずスマホかパソコン貸して」
「スマホ…?って何だ?さっきからウキさんの言ってることがほとんど分からないんだけど」
その瞬間、泣いているのか怒りに震えているのか分からないような顔でウキは唇を噛んだ。
「暴走…しちゃったんだ…俺…」
「大丈夫かい、ウキさん」
俺がそう声を掛けると、さっきまで随分親しげだった雰囲気が一変した。完全に初対面の人間と話すような空気になる。
「あ…あの、大丈夫です、俺…すみませんでした。ご迷惑をお掛けして」
そう言って、コーヒーカップを置いて立ち上がろうとするから、慌てて止めた。
「何してるんだ!いいから、ちょっとウキさん、熱がある人間を見捨てられるわけねえよ、本当にいいから寝てな」
無理やり寝かせて抱き枕を持たせる。
「すみません…ありがとうございます」
熱のせいなのか疲れているのか、すぐに寝息が聞こえてきた。
そして、辛そうに譫言を言う。可哀想に、涙が一筋伝っていたから、そっと親指で拭いてやった。
譫言は、よく聞いてみると、全部男の名前だった。俺は腹を抱えて笑った。
ウキは何と丸二日間眠っていた。その間、俺は数時間おきに水分を取らせ、朝晩にはブブル(粥)を食べさせた。額に冷やしたタオルを置いてこまめに汗を拭き、身体が湿るほど汗をかけば着替えさせた。その時だけ一瞬目覚めては、俺を見て「ボニ、側に居てね」「ボニが居てくれて良かった」と心細そうに言う。まるで雛鳥か何かのようで、段々と俺は立派な成人の男のはずのウキの事を少し可愛いと思い始めていた。
明け方、すっかり熱が下がった様子のウキが俺に言った。
「あの…何と言ったらいいか…本当にありがとうございます」
夢うつつの時の甘い声とはうって変わった他人行儀な言葉を、なぜか一瞬寂しく思った。
「いいってことよ、気にしなさんな、それより朝飯を食べに行かないか、金は気にしなくていいから。外食がほとんどだし、安いんだよ」
ウキはしばらく考えて、はい、と返事をした。
俺はいつも行く市場の屋台にウキを連れて行き、興味津々のウキにメニューを説明した。まあ無難に鶏肉が多いし、ここは鶏と魚が旨いんだ。
運ばれてきた朝飯を、ウキは嬉しそうに頬張り、美味しい!と喜ぶ。
「おー!良かった、旨いだろ、沢山食えよ」
俺が笑うと、ウキは目を細めて言った。
「どの世界でも、ボニはボニなんだね、良かった。その笑い声聞くと、安心する」
他人行儀な空気が打ち解けて、俺は嬉しくなった。
「あー…そうだった。ウキ、何で俺の名前知ってるんだ?」
「俺とボニは…その…知り合いだからだよ」
「どこかで会ったことがあったか?」
「あったよ。でも、ボニは知らなくて当然だから気にしなくていいよ」
さっぱり意味が分からない。もう少し聞こうとしたが、これ以上は話さないというウキの考えのようなものが読み取れて、俺は聞くのを止めた。
「オーケーオーケー、言いたくないなら無理しなくていいさ」
そこからしばらく、奇妙な同居生活が続いた。大使館に行ってはどうかと提案したが、それはこの世界を壊すかもしれないからダメだとしか答えなかった。
俺は釣りをしたり、仕事をしたり、まあ今まで通りの生活。そこにウキが加わって、一緒に飯を食べたり、ゲームをしたり、何と言うこともなく楽しかった。日中はウキは何か行動しているようだったけど、特に詮索はしなかった。家事をしてくれるだけで助かる。
「イエス!イエス!やっと勝ったぞ!ウキ、本当にこのゲーム強いな!でもこれで俺の勝ちだ、アリガトウゴザイマァス!」
一番好きなボードゲームは二人用で、ルールを教えるとウキは信じられないくらい強かった。そうこなくちゃつまらないから、ますます熱中する。
「あれ、ボニその日本語覚えてるんだ?」
ウキが笑った。
「あー、言わなかったか?観光ガイドもやってるんだよ。だから日本語は多少話せるぞ、漢字は読めないけどな!」
「…そういう意味じゃないけど、まあいいや。俺も少しだけなら話せるけど、漢字は難しいよね。そっか、優しくてキュートで声が素敵なボニらしい仕事だね」
「あはは、誉めても何も出ないぞ、よし、勝ち逃げだ!もうおしまい!」
実際、もう夜も遅かった。
虫除けの天蓋カーテンを開けて、ウキにベッドの奥側と抱き枕を譲って、電気を消して背中を向けて横になる。
「さすがにベッドもう一つ買うか?狭いよな、悪いなあ」
「いいよ、本当は俺、床でいいんだけど」
「ダメだ、虫が出たりして危ないぞ」
「それは大丈夫にしてあるから、能力で。単純に、二人で寝てたとこに一人で寝るのは寂しいよ」
「まあ、それはそうだな」
夜中、ウキはしょっちゅう泣きながら譫言を言っている。俺は何となく目を覚ました。
…そんなに沢山呼ぶ名前があるのに、何でお前の彼氏達は誰一人助けに来ないんだよ。愛が足りてないぞ、愛が。
涙を拭ってやると、オッドアイがぱちりと開いた。
「…ボニ?」
「大丈夫か?魘されてたぞ」
「あ…うん、大丈夫。あの…変な頼みなんだけどさ、ハグしてくれない?」
「…それはやめとけ。俺にハグされたら、お前の男どものこと、みーんな忘れさせちまうからな。その覚悟が出来てからにしろ」
俺が豪快に笑うと、ウキも笑った。よしよし、それでいい。
「…ありがとう、ボニ」
その日を境に、ウキが魘されることはなくなった。
ウキは花農家の手伝いとナイトバーでのシンガーの仕事を決めてきた。てきぱきと仕事をするらしく、よく職場から花をもらって来る。週に一、二度ステージに立つシンガーの仕事の方も、その美貌と歌声で順調のようだった。
「インターネットがない生活なんて耐えられないと思ってたけど、案外悪くないよ」
朝飯を食べながらウキが言う。
「そのインターネットっての、よっぽどウキの元いた世界では大事だったんだな」
「そうだよ。テレビや映画はこっちにもあるのに不思議だよ」
「よく分からないけど、まあ悪くないなら良かったな」
「あ、そうだ、ボニ、インドネシア語覚えたいからさ、簡単なことはこれから英語じゃなくてインドネシア語で話して」
「分かった」
俺はそう言うと、インドネシア語の早口言葉やことわざをわざと早口で言った。
「もう!簡単なやつだって!」
二人でゲラゲラ笑いながら、屋台を出て家に戻る。仕事の準備をしながら、ウキが食堂に忘れ物をしたから取りに行くと部屋を出た。
一度は見送ったものの、インドネシア語の出来ないウキが心配になって、俺は慌てて追いかけた。小道を歩くウキが見えた。そして。
「ウキ!」
大きな白い蛇がウキのすぐそばにいた。俺は走ってウキの手を掴んで蛇から離れる。腕を見ると、咬まれたような痕があった。俺は慌てて傷口に口を付けて吸い出した。唾液と共に吐き出して、
「大丈夫か、すぐに病院に」
と言うと、ウキは驚いた表情で
「大丈夫、ありがとう。蛇がいたの、気付かなかったよ。俺、咬まれてないよ」
「え?」
「これ、咬まれたんじゃなくて、昨日ちょっと怪我しただけだよ」
「何だ!そうかぁ、良かった、ごめんな、びっくりしただろ。でも咬まれなくて本当に良かったな」
「うん…びっくりした…ボニがワイルドでかっこよくて」
俺は何だか照れ臭くて大きく笑って返した。さっきの食堂に行き、忘れ物を取って引き返す。道すがら、ウキは何か言いたそうにずっと考えているようだった。
「あの…」
「ん?どうした、ウキ」
「ボニ…やっぱり、ハグしてくれない?」
「ハハハ、前も言っただろ?お前の男どものこと、みーんな忘れさせちまうぞって」
「…うん。だから、ハグして」
一瞬、言葉の意味を考えた。俺はウキを横抱きにして家まで駆け出した。この場合『お姫様抱っこ』の方が正しいかもしれない。
「うわっ、ちょっとボニ!」
聴こえないふりで鼻歌を歌う。
「何歌ってるの!」
「日本の歌だよ」
「嘘!日本語じゃないよ」
「日本語だぞ、ただ100年以上前だから、鬼滅の刃より昔の歌なんだよ」
「そんな昔の!?」
インドネシアではテレビのCMで使われていたから知っているけど、確かに日本語じゃない。
走って家に着いて、ウキを下ろして、扉を閉めて。
「イエス!来い!ウキ!!」
俺はウキを思いっきり抱き締めた。
卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ