気づくと暗闇にいた。
左右も上下も分からなくなるほどの暗闇に浮遊感を感じて、自分がちゃんと立てているのかさえ不安になる。辺りを見渡してもどこまでも闇が続いているだけで、出口は無さそうだ。
と、突然何かに体を強く押されて前のめりに倒れ込む。目を見張った瞬間に、ファルガーは硬いものに頭を打ちつけていた。
強い衝撃に目を開けると、そこは見慣れた場所だった。手脚の動きを確認して傍にあるベッドを支えにしながら起き上がる。部屋が夢と同じような暗闇に包まれている所をみるにまだ深い時間のようだ。どうやらベッドから落ちたらしいことを理解して、ファルガーは小さくため息を吐いた。
「ベイブ、やってくれたな」
ベッドの端からは浮奇の脚が見えている。自然と落ちたのではなく、浮奇に蹴落とされたのだろうことはよく分かっていた。
浮奇の寝相が悪いのはファルガーが出会った頃からだ。今夜のように蹴落とされることもあれば、腹筋を鍛えようか考えさせられるほどの勢いで腹の真上に手やら脚やらを乗せられることもある。眠る時は自分の右側にいたはずなのに目が覚めて左側にいた時にはさすがに絶句した。
本人から言われたこともなく、ファルガーから浮奇に話したこともない。ベッドからの落下を繰り返す度にファルガーは自身の手脚がサイボーグであることに感謝していた。ぶつけて痣が出来ていたらさすがに気付くだろうし、理由を問い詰められて正直に答えでもしたら顔を青くして「もう一緒に寝ない」と言い出す姿が想像に容易い。
同棲を始めるにあたって家具を新調する話になり、これ幸いと広いベッドを提案したら「くっついて眠れるから狭くてもいいのに」と言われた時は、さすがにちょっと言ってやろうかと思ったけれど。とにかく自身のよく回る舌を最大限に活用して浮奇を丸め込んだファルガーは、無事に広いベッドとお高めだが手触りの良い浮奇の選んだシーツを手に入れた。
しかし、そう簡単に解決する問題でもなかったらしい。ベッドを新調したのにも関わらず、一緒に眠った回数の半分以上はベッドからの落下をいまだに繰り返しているのだ。
ファルガーは思いつく限りの方法を試していた。
浮奇が気付かないようにキスで気を逸らしながら半分以上が浮奇の方へ偏ったところで抱き合って眠っていても、いつの間にか反対へと押しやられてファルガーが落ちるところまで移動している。少し寂しい気持ちを抱えながらも浮奇を壁側に寄せて寝かしつけてから距離を取って眠ったこともあるが、気づいた時には浮奇に蹴落とされていたので自身の精神安定のためにも抱き合って眠ることにしている。自身が落ちない方へ行ってみようかと思い浮奇が眠ってから壁側へと体を入れ替えたこともあったが、逆に近づかれて全身でのしかかられて眠るどころではなかった。
とにもかくにも、いまだ決着はついていない。
「んんっ、」
子供がぐずる時のように揺れる声が暗い部屋に溶けて、ファルガーは思考を現実に引き戻した。浮奇の腕が何かを探すようにシーツの上を滑る。手の届く範囲に何も見つからないことが分かると投げ出された手脚を引き寄せて体を小さく丸め込んだ。
「ふ、ちゃ...どこ、」
寂しさを詰め込んだ今にも泣き出しそうな声にファルガーは弱い。今さっき蹴落とされた事などすっかり頭から抜け落ちて、ファルガーは浮奇の隣へと寝転んだ。きつく握られた手を撫でて解けば開かれたそれが今度はファルガーの指先を掴んで自分の頭の上へと誘導する。ファルガーは苦笑を漏らしながら強請られるままに頭を撫でてやった。
「...ふちゃ、」
手入れを欠かさない指通りの良い髪の感触を楽しむように優しく触れていれば、詰められて浅くなっていた息が穏やかなものへ変わる。擦り寄って甘えたかと思えば決して捕まらず逃げてしまう猫のような恋人が、自分の腕の中で安心して穏やかに眠ってくれるこの瞬間がたまらなく好きだ。例え何度ベッドから蹴り落とされても一緒に眠りたい理由のひとつだった。
「俺を蹴落とさなければ、ずっと撫でてやれるんだがな?」
浮奇の寝相が悪い理由に、何となく検討は付いていた。今まで寝てきた男に文句を言われた様子もなければ昔馴染みの友達に揶揄されている様子もなく、当の本人から何か言われたこともない。ファルガーだけが知っている。
それはきっと、ファルガーの前でだけ浮奇が深く眠っているからだ。
元々眠りが浅くて細切れに目が覚めてしまうのだと聞かされたのは、初めて一緒にベッドに入った日だった。はっきりと目が覚めるわけではなく眠りが一時的に途切れて夢現になるらしい。ファルガーも深く眠るタイプではないから気にしなくていいと告げたのを覚えている。目が覚めた時に身動ぎして起こしたら申し訳ないからと少し距離を取ろうとした浮奇を引き寄せたことも。そうして腕の中に閉じ込めた浮奇の指先がいつもより冷えていて何でもないような表情をしながら心の内で怖がっていたことに気付いた。決して幸せとも穏やかともいえない過去を知っているから丸ごと抱き締めて愛したくて離れないように手を繋いで眠った。
結果的にファルガーは人生で初めてベッドから落ちる経験をした。予想外の出来事に意味が分からず放心しながら何とか眠ったファルガーだったが、翌朝初めて朝までぐっすり眠れたと瞳を輝かせる浮奇にこちらまで嬉しくなって夜中の不可解な出来事はすっかり頭から抜け落ちた。そうして暫く間の空いたお泊まりで再び床に蹴落とされたファルガーはようやく何かが可笑しいことに気付いた。
浮奇が深く眠れているならば蹴落とされることは構わないのだが、追い出した張本人でありながらシーツの上を探し求めて手を伸ばし泣き出しそうに名前を呼んでくるのは辛くて、こうしてお互いが穏やかに眠れる方法を探している。
いつか笑い話として浮奇に教えるつもりだが、今はまだ自分だけが知っていたい。
ファルガーの真夜中の攻防は、まだしばらく続きそうだ。