桐生との約束は、いつも一方的なものだった。
1.
「何やぁ桐生チャン、その顔」
「げっ…」
199X年クリスマス。
その日、神室町には雪が降っていた。
前日まで降り続いていた雨は、急な寒波で雪へと姿を変え、奇しくもその年の25日はホワイトクリスマスに相成った。幸せそうな恋人たちや、プレゼントを抱えた親子、そんな笑顔ばかりの人混みの中に、浮かない顔をした男が一人。
曇天の空と同じ灰色のスーツを身に纏ったその男は、片頬に季節外れの真っ赤な紅葉を携え、不機嫌さを露わにした表情でとぼとぼと歩いていた。
「真島の、兄さん…」
振り返った瞬間、心底面倒くさそうな声を上げて顔を顰めた桐生に思わず笑ってしまったのを覚えている。
一応これでも、彼よりも幾らか真島の方が年齢的にも、立場的にも上であるはずなのだが。見かける度にしつこく構いすぎたせいか、今ではすっかり可愛くない表情をするようになってしまった。
だが、こんなところがまた一段と構いたくなる要因となっているだなんて、つゆとも知らぬ可愛い弟分は、低い声で「何か用ですか?」と訊ねるのだった。
「こりゃまた派手にやられたのぉ…、女か?」
質問には答えず、痛々しく腫れ上がっている頬を指の先でなぞってみると、桐生は口を噤んで気不味そうに雪でぬかるむ地面へと視線を落とした。
きっとそれは彼の癖なのだろうが、あまりにも分かりやすすぎて笑いが漏れる。大方、女遊びでヘマをして引っ叩かれたに違いない。だが、仔細を話したくないのか、桐生は黙ったままただジッと地面を見つめていた。
「ほんま、女っちゅう生き物は面倒で敵わんな。桐生チャンもそう思わへん?」
赤い紅葉の輪郭を指でなぞりつつ、自身の過去を振り返ってみると嗤ってしまうくらい録な思い出がない。己の経験だけでそんな台詞を吐けば、弾かれたように桐生が顔を上げて真島を仰ぎ見た。
顔に似合わず黒々とした目を大きく見開いて、何をそんなに驚くことがあるのか、ポカンと開いた口を見ていると、何だか無性に指を突っ込みたくなる。頬をなぞる手はそのままに、反対の手を僅かに持ち上げれば、開いた口を恐る恐るといった様子で動かして、あろうことか桐生は「真島の兄さん…て、女に興味あったんですか?」と、真島に向かって訊ねたのだった。
「はぁ?…何やぁ桐生チャン、俺んこと男好きやと思っとったんかぁ?」
昔から女遊びは控えめだったとはいえ、まさかそんな風に思われているとは考えもしなかった。態とらしく心外だと眉を下げて悲しい顔をしてみれば、さすがの桐生も言葉足らずだったと気が付いたようで。
「あ!いや…、そう言う訳じゃなくて…」
取り繕うが如く首を振り、慌てたように真島の言葉を否定する。
「その…、女を連れて歩くこともないし…、喧嘩くらいしか興味がないんだと…」
彼としてはだいぶ言葉を選んだつもりなのだろうが、大概なのは大して変わらない。それでいて妙に的を射たことを言っているのだから、益々可笑しくなって吹き出すように笑い声を上げてしまった。
「ヒヒヒ!…なるほどなぁ。確かに桐生チャンの言う通り女より喧嘩の方が好きやけど、別に興味がないって訳やないで?」
「はぁ…、そう、ですか」
その時、桐生が見せた表情といえば、真島にまるで興味ないと言いたげなものだった。桐生の方から言い出したことだというのに、あんまりだと思いつつも腹の底から湧き上がってくるのは愉快な気持ちだった。
いや、寧ろ変に取り繕っておべっかを使われるよりは、こうして物怖じせず素直な言葉をぶつけられる方がよっぽど気持ちがいい。
一人にやにやと可愛い弟分顔を眺めていると、その視線に気が付いた桐生が気味悪そうに眉を顰めて後ずさった。
「まぁでも、そうやなぁ…」
取られた距離を詰めるように桐生の肩を抱き寄せる。すると、がっしりとした肩が厚い布の下で小さく震えたのが分かった。
それは恐怖からだったのか。
それともまた別の感情からだったのか。
「…桐生チャンには、興味深々やで?」
ほんの少しだけ低い位置にある耳にそう吹き込んでみれば、慌てて耳を塞ぎ、心底嫌そうな顔で「いや…、俺は…大丈夫です」と桐生は答えた。
「何やねん、大丈夫て!」
堪らず腹を抱えながら広い背中を叩く。バシっと響いた音に桐生は口先を尖らせたが、終に何を言うでもなく、恨めしそうな目で真島を見上げた。
嫌われても構わないから、早く解放されたい。そんな声が聞こえてきそうな視線を向けられたところで痛くも痒くもない。
それどころか、一層、桐生一馬という人間に対して興味が募っていく要因となっていることに彼自身気が付いていないのだ。
「あっ、そうや!」
「…何ですか?」
もはや隠す気もないのか、面倒くさそうに返事をする桐生の目を覗き込むと、曇りのない真っ直ぐな瞳が真島を見返した。
極道というどこまで行っても悪にしかなれない道を選び取ったにもかかわらず、何年経っても彼の目は曇ることを知らない。こそがまた好ましい要素の一つではあったが、それをわざわざ教えるのもおかしな気がして。敢えて何も言わずに黒い瞳を見つめ返した。
「もし将来、お互い寂しい独り身やったら一緒に暮らさへん?」
「は?」
それはふと思いついただけの考えだった。けれど、声に出してみると、これ以上ないくらいの名案のような気がしてならなかった。
「そしたら毎日喧嘩できるし、桐生チャンとなら楽しく過ごせそうや!我ながら名案や!桐生チャンもそう思わへん?」
天才かもしれない。そう思ってすぐさま桐生に同意を求めたのだけれど、間髪をいれず返ってきたのは「普通に嫌ですけど」という大変素直ないい返答だった。
「ほーんま桐生チャンは素直でかわええなぁ〜」
可愛さ余って憎さ百倍ならぬ、憎たらしさ余って可愛さ百倍、とでも言えばいいのか。可愛くない顔をしている桐生の頬を両手で挟んでふにふにと弄へば、全てを諦めたのか彼は大人しくされるがままだった。
「楽しみやなぁ〜」
それが初めて桐生と交わした一方的な約束。
おそらく、桐生は約束を交わした認識などなかったであろう。この時に限って言えば、真島とて本気で言った訳ではなかった。
だというのに。
軽い気持ちで口にした"約束"に、その後ずっと縛られることになるなんて。
過去の己は想像すらしていなかったのだ。