すてきなわたしの夢 7 金曜の夜、イタリアンバルのドアの前で、会計を済ませる立香を待つ。
ほどなく、上機嫌の立香が出てきて以蔵の腕にしがみついた。
「いぞーさん、お待たせ~」
ハートの絵文字が見えるような口調だ。
「そしたら、行こっか。いいお茶買ったの、淹れて飲もう」
「茶か……茶なら、ちっくと飲むがが遅れたちえいろう?」
「え?」
以蔵の言葉が思いがけなかったのだろう、立香は目を丸くした。
「ケーキ買うてあるがじゃ。今夜はうちん家に来んかえ」
「ケーキ……なんで?」
「おまんと食いとうて」
「なんで、うちじゃなくて?」
「おまんと話いとうて」
「何の話だろ……」
「着いたら話す。おまんがえいなら行くぞ」
「はい」
以蔵の腕に掴まり、立香はふわふわと歩を進めた。
ぎりぎり都区内の駅で降り、徒歩十五分のところに以蔵の家はある。出勤せん仕事じゃき駅から遠くやちえい、と思って借りたが、こんな風に人を招く時は少し後悔してしまう。
それでも立香は、にこにこと笑いながら以蔵と並んで歩く。
住宅街の中のコンビニに行き当たった。
「何ぞ欲しいものはあるかえ」
「明日の朝ごはん」
明日は土曜日で、立香の仕事も休みだ。着替えに帰る必要もなくゆっくり朝を迎えられる、と思っているのだろう。
しかし、話し合いの結果によっては夜のうちに家を出さなければならなくなる。
とはいえ、おにぎりなら開封しなければ持ち運びできる。
立香はシャケと昆布と明太子のおにぎりを手にしてセルフレジでバーコードを読み取らせている。
「支払いは……」
『交通系ICカード』を選んだ立香がスマホを出す前に、以蔵は己のスマホをセンサーにかざした。
セルフレジは軽快な音を立て、レシートを吐き出す。
「……どうしちゃったの?」
立香の疑問に、
「気にしなや」
と返し、ボディバッグから出したビニール袋におにぎりを入れる。
「以蔵さんの分は?」
「コンビニの飯は高いき、わしはグラノーラでえい」
ビニール袋を持ち、更に歩いて以蔵の家に着いた。
ぎりぎり昭和に手が届かない頃に建てられたらしい二階建てアパートの一階に入り、電気を点ける。
立香の部屋に比べたらずいぶんとみすぼらしい。
一応2DKにはなるが、DK部分にはあまり余裕がない。
交流サイトで近所の住人から安く買ったダイニングテーブルは二人用で、締切が近いと作業しながら食事を摂るので、あまり使っていない。
テレビの大きさも、立香の部屋のものの半分ほどだ。
「こっちは仕事の道具ないんだね」
「切り替えが大事じゃき。四六時中仕事んこと考えちょったら病みかねん。フリーじゃき、余計に健康のことは考えないかん」
とはいえ、酒も煙草もやめられていないのだが。
「仕事場も見たいな」
「後での」
後はないかもしれん、という言葉は胸の中に隠す。
立香をテーブルに着かせ、流しの手前の冷蔵庫からケーキのパッケージを取り出し、中身を一切れずつ皿に開ける。
電気ポットで沸かしたお湯で紅茶を淹れ、スティックシュガーと一緒に差し出す。
立香はベイクドチーズケーキにフォークを入れ、一口大の切れ端を口に入れる。
「甘ーい! おいしい!」
「スーパーで二個三〇〇円んやつじゃぞ」
「以蔵さんちっていうロケーションがいいの」
砂糖を加えて混ぜた紅茶をすする立香に、以蔵は意を決した。
(……まぁ、ケーキは独りになってから食うてもえいきの)
二人でケーキを食べ終わり。
「立香……藤丸立香さん」
改まった口調に、立香は顔を上げる。
「なぁに?」
「おまさんに言わないかんことがある。いつまでも今のままじゃいかんき……」
「怖いなぁ」
おどけて笑う立香だが、少しだけ頬がこわばっている。不穏な空気を感じているのかもしれない。
「立香さん……今更言うがも何じゃけんど、わしとつき合うてくれんろうか」
心のヘドロをさらい、まっさらになった底で、純粋な感情が輝いた。
昼間打ち合わせをし、夜肌を重ねるにつれ、心の鎧がぼろぼろと崩れていくのを感じていた。胸に満ちる濁った感情も、奉仕のたびに薄まった。
認めなければいけなくなった。
己が最初から立香に惹かれていたことを。
熱心に以蔵を勧誘し、作品を褒めてくれた。
以蔵の勧めた本を、きらきらした目で買ってくれた。
稚拙なデビュー作を読んで、共感の涙を流した。
そんな立香に、もっと己の内側を見てもらいたくなった。
たとえ立香が性的な意味でしか以蔵を必要としていなくても。
己を慰めてくれる道具からこんなことを言われたら、困惑するだろう。
向けられる感情がうっとうしくなるに違いない。
それでも、言わずにはいられなかった。
もう、己を隠して肌を重ねるのは限界だった。
用済みと言われてもいい。
立香が向けてくれた切実な感想があれば、この先も漫画を描き続けられる。
たとえ今立香から依頼されている仕事が打ち切りになっても、ささやかな希望を抱ける。
今の割り切った関係は、以蔵のためにならない。
そう思って、告白した。
立香は金色の瞳を大きく開き、じっと以蔵の顔を見た。
(……あぁ、こりゃ、脈なしじゃな)
「もちろん、立香さんが面倒じゃち思うがなら、わしはもうおまさんとは――」
「何言ってるの?」
立香は首を傾げた。
「わたしたち、もうつき合ってるじゃない」
「……は?」
ひどく間抜けな声が出てしまった。
「やだぁ……なんだか以蔵さんが真剣な顔してるから、お別れを切り出されるかなって怖かったんだけど」
てひ、と笑う立香の顔があまりにも幸せそうで、動揺を隠せない。
「……立香、おまんいつからわしとつき合うちゅう?」
「え? つき合うって先に言ったの以蔵さんだよね?」
「は?」
「つき合ってない人とデートなんてする?」
「……はぁ?」
疑問と詰問の入り交じった声しか出せない。
「わし、ほがぁなこと言うちゃぁせんろう」
「言いました」
「いつ」
「初めてわたしを抱いてくれた時。『手伝って』って言ったら、『つき合ってやる 』って」
「いや、いや、いやいやいや」
以蔵は首を振る。
覚えはないが、言葉の綾でそんなことを言ってしまったかもしれない。
だがそれは、あくまで『身体の関係として』であって、『恋人として』という文脈ではなかったはずだ。
だから以蔵は言い返す。
「おまん、抱いてくれるなら誰でもよかったがじゃろう。αの女抱くがは取材になるらぁ言うて」
「……あんな風に誘わなきゃ、αの女なんて抱いてくれないって思ってた。実際、わたしのあそこ見て引いてたよね」
否定はできない。
「そっか……つき合ってなかったんだ……ちょっと悲しい」
そう言われたら反論したくなる。
「ほんまは逢うた時から好いちょった。おまんか身体の関係を持ち出さざったらもうちっくと早う気づけたがじゃぞ」
「……わたしのせいか。まぁ、しかたないね」
立香はそうこぼして、以蔵を見た。
「わたしね、どうしても抱く側でいたくなくて。正直早く誰かに抱いてほしかった――でも、ね」
立香は金平糖を舐めたような顔で笑った。
「以蔵さんがそんなわたしに『つき合ってやる』って言ってくれて――まぁ、誤解だったんだけど。それでもずっと優しく、丁寧にしてくれて」
丁寧と言うよりは、見たこともない性器に戸惑っていたのと、クライアントの思うように振る舞おうとしていたからだ。
「そんなにしてくれたら、好きになっちゃうに決まってる」
「ほうかえ……」
「誰でもよかったわけじゃないよ? 以蔵さん――土井先生は真摯に仕事に向き合ってた。わたしの無茶も受け取って、できることはできる、できないことはできないって返してくれた。わたしに合う本もわたしを見て選んでくれた。こんな人に肌を許せたらな……って思っちゃった」
「……おまんなぁ……」
「ん?」
「のう、立香。教えとうせ。どういておまんはほうまでして女になりたかった? 正直、おまんの身体は男に抱かれるようにはできちゃぁせん。αに生まれたなら、αでおった方が楽じゃろう。ほいでも、おまんは今んままでおりとうない。どういてじゃ?」
立香はあごに親指を当てて考えるしぐさをした。
「……長くなるよ?」
「えいよ、聞いちゃる。ごとごと話しぃ」
「ありがとう――あのね、わたしにはお母さんもおばあちゃんもいないの」
「みてた……亡うなったがか?」
「そうじゃない。『いない』の」
「どういうことじゃ」
人間は単体生殖ができない。母親だけならどうにかして精子を調達する手段もあるが、父親だけで子は生まれない。
「αはΩに種つけして、子どもを作る。それは知ってるよね」
もうちっくと言い方あるろう……と思ったが、αの間での常識はβとは違うというのは既に学習した。以蔵はうなずいて、先をうながす。
「よりよい子を作るためなら、より質のいいお腹を持つΩを見つけた方がいい。運命の番なんて、めったに出逢えないんだから。
だからね、Ωを斡旋する業者がいる。βの間で生まれたΩが、持て余されて売られるのは珍しくない――Ω自体は少ないけどね。αはそんなΩを買うの」
「たまるか……」
βには現実とも思えない話だ。
「お母さんはそうやって買われてきた。四人子どもを産んで、はした金を握らされて追い出された。わたしを育てたのはシッターさんで、わたしは母乳を飲んだことがない」
「……」
「おばあちゃんは……もっとひどい。
お父さんは五人きょうだいだったんだけど、末っ子の男の子――わたしにとっては叔父さんだね――がΩだった。αが多い家系でも、そういうことはないわけじゃない。
おじいちゃんはね、おばあちゃんにひどい折檻をして、自分の息子を売った。金が欲しいわけじゃない、αの家にΩなんていたら恥さらしだって。叔父さんの存在はなかったことになった。わたしは戸籍を見て知って、お父さんのまたいとこさんに食いつくように聞いた」
「ほがぁな……」
それ以上に言葉が見つからない。
βの以蔵が汲々と日々の生活を営んでいたのと同じ世界線で、αたちはそんな非人道的な仕打ちを行っていたのか。
己の苦労なんてたいしたことはない。
そんな錯覚を抱いてしまう。
「たぶん、うちが特別ひどいわけじゃない。αがたくさん生まれるような家は、多かれ少なかれ同じようなことをしてる。
αに生まれたら、子どもを作って一人前だって言われる。Ωを買って、妊娠させて、αの子を取り上げて、母親なんていなかったことにする」
立香は一度言葉を切って、力を籠めた。
「わたしは、子どもなんて欲しくなかった」
金色の瞳が潤み、涙がなめらかな頬を滑った。
「Ωに子どもを生ませて捨てる。そんなのは、顔も知らないわたしのお母さんみたいな人を増やすだけ。誰かを不幸にしてまで保つ世間体なんてない。幸い、うちにはきょうだいがいる。わたし一人が子どもを持たなくても、家はなんとかやっていける」
ぽろぽろと涙をこぼす立香が痛々しくて、しかしかける言葉が見つからない。
己がαであること――踏みにじり、搾取する側の人間であることに傷つき、苛まれてきた。
周囲の鈍感さも、立香を苦しめていただろう。こんなことを誰にも話せず、孤独だったはずだ。
以蔵も加害に関わっていた。
(傲慢なα様じゃ、らぁて)
己の恋が裏切られたと思ったからとはいえ、立香の人間性をステレオタイプだと思い込んでいた。立香という人間をしっかり見るのに時間がかかった。
(ひどい男じゃ……の)
以蔵の想いをよそに、立香は続ける。
「――そう思ってるうちに、気づいたの。わたし、女だって。αにだって女性器はある。だから、お母さんみたいな人を増やさなくても子どもができる。
別に子どもを可愛がりたくなったわけじゃなかった。この世を自分のものだと思ってるαに当てつけたかっただけ。ざまぁみろって言いたかっただけ。ばかだよね?」
自嘲する立香に、
「いんや……おまんがほう思うがはしかたないき。おまんが背負うちゅうもんを思えば無理はないき……こじゃんとづつなかったのう……」
「でもね、今は違うの」
立香は愛おしそうに潤む目を細めた。
「当てつけなんかじゃなくて。好きな人と、二人の想いの結晶を囲んで暮らすのって、幸せなんじゃないかなって」
それは、つまり。
以蔵が得心するのと同時に、立香は両手を突き出して振った。
「あぁ、違うよ! 今すぐとか、以蔵さんととか、そういうんじゃなくて……ただわたしが、αであることを捨てれば幸せになれるかもって思っただけで……だからそんなプレッシャーは感じないで……」
「立香」
呼びかけて立ち上がり、椅子に座った立香の肩を抱き寄せた。
「もちろんわしも、結婚じゃの子作りじゃのはまだ考えちゃぁせん。連載もない漫画家が結婚したいらぁ言うたち、鼻で嗤われるががオチじゃ。けんど……わしとおることでおまんがちっくとでもえい方に変わったがなら、わしはおまんとおれてよかったと思うがじゃ」
「以蔵さん」
立香は立ち上がって、以蔵の首に腕を巻きつかせた。悲しげで、同時に希望も含まれた嗚咽が聞こえる。頬の触れる肩口が湿る。
その背をさすりながら、以蔵は耳許に言葉を落とした。
「のう立香……おまん、自分のあこがどうなっちゅうかわかるか?」
ふるふると頭が横に振られる。
「今、指が二本は入るようになっちょっての。ローションこじゃんと塗ったら、わしんが入るかもしれん」
「ほんと」
立香は顔を上げた。希望の宿る顔からは、これまで見せていた薄暗さが抜けている。
「やってみなわからんけんどの……おまんに無理はさいとうない。ただ、試すことはできる」
「もう、ぜひ! 痛いのも我慢するから」
「アホ、我慢さいてまでやることやない――じゃけんど……今、わしはおまんのナカに入りたいとも思うちゅう。おまんをわしでまけさいたい」
「うん……来て」
赤面して足の指先を揃える立香を、より強く抱きしめた。
自然とキスをして、服越しにうっすらついた脂肪を撫でさすっていたら、立香が熱の籠もった口調で言った。
「当たってる……」
「昨日は抜いちゃぁせんきの」
立香との話がどうなるかわからなかった。もう身体を重ねられない覚悟をしていたが、あわよくばとも思っていた。
(抜くがなら、立香が去んだ後独りでもできるき――らぁて)
同時に以蔵は、立香の反応も感じていた。
「おまんのも、当たっちゅうぞ」
「そりゃ、だって、好きな人から欲しいって言われたら」
硬く勃起した、孕ませるための器官をこすり合わせる。何枚もの布に阻まれていても、欲を煽られる。
「洗うちゃるき。風呂場もボロうて見せとうないけんど」
「広くなければくっつけるよね?」
「……まぁ、ほうじゃの」
そんな風に己を求めてくれる女が可愛くないはずがない。
立香はαである以前に以蔵の女だ。
「ほいたら」
腕を解いて、手を取って浴室に導く。
この手を離したくない。
そんな欲に火が点いてしまった。
いつ風が吹き、あるいは水をかぶって消えるかもしれない、か弱いろうそくの火。
それでも、今はそれを大事にしたかった。