高杉学生から見た書生さんとお嬢さんゆるふわ学制解説
帝大
旧制東京帝国大学の略。三年制。
現在の東京大学本郷キャンパス(三~四年)に相当。
一高
旧制第一高等学校の略。三年制。
現在の東京大学駒場キャンパス(一~二年)に相当。
師範学校
旧制東京高等師範学校の略。四年制。教師を育てることに特化した学校。
附属中も含め学費は無料。現在の筑波大学の前身。
中学
旧制中学校。五年制。尋常小学校卒業後に進学。
現在の中高一貫校に近い雰囲気。
高等小学校
二~三年制。尋常小学校卒業後に進学。『高小』とも。
現在の(進学を前提としない)中学校に相当。
尋常小学校
六年制。現在の小学校に相当。
単に『尋常』とも。
ゆるふわ貨幣価値
1円=現在の1000円ほど
100銭=1円
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万全に準備をしていたおかげもあり、一高への入試は大成功した。
しかし、成功しすぎたことがもたらす失敗もある、と高杉晋作は初めて知った。
(首席なんぞ取るんじゃなかった)
後悔しても後の祭りだ――と思いながら、晋作は学ランの袖に級長の腕章を巻いた。
少なくとも一年生の間は学級を管理する担任教諭を助け、晋作自身も目を光らさなければならない。
(つまらん)
晋作には秩序を維持しようなどという気はまったくない。逆に閉塞した場を乱し、混沌の中で生まれた星のまたたきを集める方が向いている。
けれども、今後の学生生活のことを考えたら、趨勢に逆らうのは賢くない。
まずは、同級生の顔と名前を覚えることにした。
日本の頭脳の精髄を集めた学生は、必ずしもまっすぐ中学を卒業した者ばかりではない。
高等小学校を経由した者、学費が無料の師範学校附属中から進路変更した者。
一族中から集められた資金と期待を背負っている者も、書生をしながら中学に通っていた苦労人もいる。
官僚の父を持った晋作は、中学とは別に英語塾にも通っていた。
恵まれた環境を最大限に利用したことに対して、引け目や負い目はまったくない。
それも持って生まれた才能のうちだ。
級長という秩序の徒になりながらも、晋作は同級生の話を聞くのが楽しくなっていた。
岡田以蔵も級友の一人だった。
ひどい土佐訛りからわかるように、高知の出身。紹介された東京の商家で、書生をしながら中学を出たという。
「僕にはわからんが、書生と言ったら働き通しなんだろうな?」
「まぁ、ほうじゃの。四時には起きて予習してお家の掃除して、中学から帰って薪割って夜は復習じゃった」
「不服の溜まりそうな生活だな」
「ほうでもないぞ。お家の皆様は書生かたけにまっことようしてくださった。食うもんにも困っちょった貧乏士族を引き取ってくれてのう」
以蔵の学ランには袖を直した跡があった。
「こん学ランも中古で買うたがをお嬢さんが直いてくださったがじゃ。ありがとうてお家に足ぃ向けて寝られん」
ずいぶんと忠義に篤い男だ。実直さは学者の方が向いていそうだが、環境からして官僚になるべく一高の門を叩いたのは容易に想像できた。
(海千山千の連中にどれだけ対抗できるかな……?)
学級には五十人近くの生徒がいる。他にも話を聞くべき者は両手の指にも余る。だから以蔵から離れ、次の生徒の許へ向かった。
四月中には全員の顔と名前が一致し、五月の終わりには彼らの得意科目と苦手科目を覚えられた。優等生然とした連中がグループを作るのを見つつ、バンカラの問題児から視線を外さず、学級全体に目を配るのは、それはそれで面白くなった。
普段の晋作ははめを外す側だが、この時期でなければ取り締まる側にはなれないだろう。これも経験だ。
五月のある日、岡田以蔵が寮長に外泊届を出した。
全寮制の一高で、ほいほい外泊を認めたら、寮の秩序は保てない。だから、しっかりした保証人を立てて届け出をさせている。
今回以蔵の保証人になったのは、中学時代に寄宿していた商家の主人だった。
「どんな用事なんだ」
「お家に人手が必要になっての」
眉間に寄ったしわから、愉快な用事でないことは察せた。
以蔵は予定通り六月の土曜日に外泊して、日曜日に帰って来た。
「……」
ひどい顔だった。目の下にはくまが刻まれ、殺伐さと悲しみが同居していた。
「法事でもあったのか」
晋作の軽口に、以蔵は数秒視線をさまよわせてから首を下向けた。
「……人を殺いた」
罪と後悔にまみれた声だった。
「その割には血痕のひとつもないじゃないか」
「刃物は目に見えるもんばぁなやい」
そう言って以蔵は寮の廊下の奥に消えた。
心が惹き寄せられた。面白いことが起こっている。
以蔵から目を離さないようにしよう、と決めた。
月曜日の以蔵は授業に身が入らず、漢文の授業で指されても答えられずに教室の後ろに立たされていた。
しかし本人はそのことには頓着していないようだ。
終業後、以蔵は校舎から寮に戻らず、校門をくぐってどこかへ行った。門限ぎりぎりに帰って来た以蔵は、マントの下に何かを隠していた。
点呼の後、寮舎を出た以蔵を追うと、裏の食堂の外壁にもたれて貧乏徳利を取り出していた。
貧乏徳利は、陶器の徳利に店の名前が焼き込まれていて、酒の持ち帰りに重宝されている。飲み終われば、洗って店に返す。
以蔵の手の中にある徳利は、優に四合は入る大きさだ。
未成年でも一高生は一人前扱いされるから、酒は現金払いで買えるだろう。
手酌で酒を猪口に注ぎ、くいっと飲み干す以蔵の隣に、晋作は腰かけた。
「なんじゃ、あっち行きや」
犬を追い払うように手を振られる。
一度立ち上がった晋作に以蔵は安堵したようだったが、茶碗を持って戻ってきた晋作を見て盛大に顔をしかめた。
「ご相伴にあずからせてもらうぞ」
「わしん酒じゃ。おまんにやる分は一滴もない」
「級長権限だ。何か腹に抱えている者がいたら、教室がまとまらない」
「御託はえい。邪魔しな」
そう言う以蔵の学ランの胸ポケットに、十銭銀貨を一枚ねじ込む。以蔵は眉をひそめたまま茶碗に酒を注いだ。
「うん、安酒だな」
「一円で買える酒らぁ、こがぁなもんじゃ」
「土佐は酒もうまいんだろう。清酒が名産だと聞くぜ。舌が肥えちゃいないのか」
「……味らぁ、どうでもえい。飲みとうて飲んじゅうわけやないき」
ならどうして、と聞くほど、晋作は愚かではなかった。
酒精で喉を焼き、脳を揺さぶることで、思考を鈍らせることはできる。
(人を殺いた)
その言葉の真意はわからないが、独りで肴もなしに飲みたくなるような事情も、おそらくある。
――まぁ、しかし。
「岡田くん、もう一杯くれたまえ。安酒でも、飲めば気分はいい」
「どういておまんにくれちゃらないかんがじゃ。これは三日保たいとうて買うたがじゃぞ。小銭で分けちゃるがは一杯ばぁじゃ。飲みたこうたら自分で買うて来ぃ」
交渉は決裂のようだ。晋作は茶碗を逆さにして最後の一滴を口に入れた。
「ところで岡田くん」
以蔵は胡乱げに晋作を見た。
「なんじゃ」
「僕は人を殺したことがない。人を殺した時は、どんな手応えがするんだ」
以蔵は歯が折れるのではないかというほどに歯ぎしりをした。晋作を飴色の左目でじっとにらみ、やがて視線を逸らした。
「――芍薬の切り花をがくごと握りつぶす。手ん中でたすうて壊れもんにかあらん花びらが折れてわやになる。残ったがは、目も当てられん花びらじゃったもんと、花粉の混じったえずい汁じゃ。あがぁに綺麗じゃった芍薬は……もうない」
ずいぶんと美しい比喩だ。もっと鉄臭さが香るような、凄惨な話を期待していたのだが。
「ほれ、もうえいろう。級長様はようたんぼ一人にかかずらっちゅうわけにもいかんろう。わしはここで誰も誘わいで飲んじゅうき、独りにさいとうせ」
抜き身の刀のような危うさがどうにも気になるが、他の連中も見なければいけない。
「また誘ってくれよ」
「誰も誘っちゃぁせんわ」
以蔵は晋作の方を見ず、猪口を傾けた。
夏休み前の考査の結果が、廊下に張り出された。学年全体の中から級友の名前を拾う。
以蔵は下から十番目だった。
飲酒の悪癖をやめず、授業中も抜け殻のようでは、しかたないかもしれない。
東京に家のある者、また帰省できる者は、休みの間寮から家に帰る。終業式の前夜、打ち上げの酒盛りのため、五人が定員の一部屋に十人ほど集まった。群れたがらなかった以蔵の寝間着の袖を掴み、参加させた。
よくも悪くも素直な華族の息子が、赤い顔で楽しげに言った。
「お前ら、聞いたか。『かぐや姫』の話」
「知らんな」
晋作が相槌を打つと、華族の息子は笑った。
「商家の令嬢が、縁談をえり好みしててな。宝物を持って来る花婿を待っていて」
ちり、と隣から怒りの火花が飛んできた。横目で見ると、以蔵の目許に朱が注がれていた。
細く見えてもたくましい上体に、力が入っている。
「ようやくお眼鏡に適った婿殿と祝言を挙げたら、婿殿は親に交際を反対されてた娘と逃げたらしい」
くすくすと、込み上げる笑いを抑えながら、華族の息子は言う。
「『ジューン・ブライド』を気取ったようだが、まぁ間抜けな話だよな。やっと選んだ花婿から捨てられるなんて、しかも金はあるからよく着飾ってただろうにな……」
「岡田くん、大丈夫か?」
晋作はさりげなく以蔵の背中をさすった。視線を向ける同級生たちに、片目をつぶってみせる。
「すまん諸君、岡田くんが雪隠に行きたいらしくてな。吐物が撒き散らされたらことだからな……ちょっと僕らは外すぜ」
目尻を吊り上げ、荒い息を吐く以蔵を無理やり立たせて、部屋から引きずり出す。
廊下の端の便所の前で、以蔵は漆喰の壁を殴った。
「壁なら殴っていいわけじゃないが……どうした」
「――なんちゃぁない」
明らかになんでもなくはない。
刺激があったとしたら、先ほどの華族の息子の話だろう。
帝にも嫁げず、月にも帰れなかった『かぐや姫』。
『ジューン・ブライド』――もちろん、一高生ほどの教養があれば知っている。六月の花嫁は幸せになれる、という西洋の言い伝えだ。
そういえば、以蔵は六月に外泊を取っていた。
(お嬢さんが直いてくださったがじゃ)
不機嫌そうにしていても、主家の話をする時はほんの少し楽しげだった。
それに、確か寄宿先は商家だと言っていたような。
「……のう、高杉」
何度か深呼吸をしてから、悔恨のにじんだ声で以蔵は言った。
「おまんは知っちょったか、さっきんかぐや姫の話」
「いや、初耳だったが」
「けんど、聞いてもうたろう。面白おかしゅう他人に話すか」
以蔵の質問に、華族の息子の下衆な表情も思い出す。
「気取っていた人間の失敗や不幸を面白がるやつも、確かにいるな」
「――っ!」
以蔵は顔色を変えて、晋作の寝間着の襟首を掴んだ。
「おまんにお嬢さんの何がわかるがか!」
「落ち着け、僕の言っているのは一般論だ。単なる不幸は僕にとっちゃ面白くない。創意工夫や奇想天外なことは面白いが……その花嫁も気の毒なことだったな」
「――ほうか」
以蔵は晋作から離れて、背を向けた。
「どこへ行く」
「独りで飲む。こんままじゃ眠れん」
よろよろと頼りなげに去る以蔵を見ながら、晋作は考える。
『かぐや姫』は、以蔵が仕えていた商家の令嬢だろう。温かい感情を向けていた主筋の者が下世話な噂の種になっていたら、腹立たしくなるのは道理だ。あそこで以蔵を連れ出し、華族の息子を殴らせなかった晋作はえらい。
しかし、解せないこともいくつかある。
六月の外泊から帰って以来、明らかに以蔵は荒れている。酒を飲み、授業もろくに聞かず、自堕落に過ごしている。
令嬢の件が噂になったのは、もう少し後だろう。よほど高貴な姫君でもなければ、祝言が注目されることもない。
令嬢に横恋慕でもしていたのか――それなら、縁談が壊れて喜んでもいいものだが。
(人を殺いた)
(芍薬は……もうない)
ヒントは見えているはずなのだが、なかなか全貌を掴めない。
翌日、実家へ帰る支度をまとめた晋作は、自室の布団の中でぐったりしている以蔵に呼びかけた。
「二日酔いか」
「ほうじゃ、いちいち呼びな」
「君は帰省しないのか」
「ほがぁな金はないき。しゃんしゃん去ね」
晋作はそれを無視して枕許であぐらをかく。
「なぁ、岡田くん」
「去ね言うとろうが」
「本当なら、君の事情を根掘り葉掘り聞きたい。だがそれで君が暴力沙汰でも起こしたら元も子もない。退学者なんて出したら、級長としての僕の評価が下がる。だから聞かんが……そうやって酒に逃避するのもよろしくない。二日酔いから覚めたら、勉強を始めたまえ」
以蔵はあお向けになって晋作を見た。飴色の左目はどろりとしていて、覇気がなかった。
「心が乱れるなら、何か他のことをすれば気がまぎれる。だが、酒はただ頭を鈍らせるだけだ。酒代もばかにならないだろう。勉強なら金もかからん。第一」
晋作は以蔵の眉間に指を当てた。
「君の主家は、飲んだくれの落伍者に投資していたわけじゃないだろう?」
「……」
以蔵はその言葉にしばし目を見開き、伸び放題の癖毛をばりばりと掻いた。
「……わかったき、おまんはざんじ去ね。わしは見られざったら何もせんジャリやない」
そう言うと起き上がって、かたわらの手ぬぐいを取る。
「顔洗うて来る。おまんの言うことにも一理ある。藤丸のお家ん皆様はわしん将来に期待しちゅう」
そして、わずかに唇を動かした。
「ほいでわしん罪がのうなるわけやないけんど……」
その言葉には強い自責の実感があった。
芍薬の花をつぶすような殺人とは、どのようなものか。
答えが返って来ないとわかっているから、余計に気になった。
◆ ◆ ◆
一高生も三年になれば、自然と世間擦れする。
日曜の昼過ぎ、晋作は同級生から声をかけられた。
「高杉、お前も新聞縦覧所に行かないか」
「いいな」
晋作は二つ返事で首肯した。
新聞縦覧所とは、新手の遊郭のような店だ。
場末にあるうなぎの寝床の長屋で、売り子の娘が新聞を売っている。
娘から新聞を買った客の男は、奥の間で新聞を読み始める。
そこへ娘が盆に茶を載せてやって来る。
客と娘は互いに一目惚れして、身体を重ねる――
という体裁で、娘に春をひさがせる。
認められた遊郭以外の場所で売春しては取り締まられ、罰される。
しかし新聞縦覧所で行われているのは客と娘の自由恋愛だ。交際している女に着物代を渡すことも珍しくはない。
――と、店側は主張する。
理屈と膏薬はどこにでもくっつく、とは言うが、まんまと通ってしまう晋作も愚かな男だ。
新聞縦覧所は他の店よりも相場が安いので、女ひでりの一高生の御用達になっている。
部屋に戻って財布に小遣いを詰め、二、三人の同級生が待つ食堂の前へ向かう。
廊下の向こうから以蔵がやって来た。
晋作はにこやかに声をかけた。
「よう岡田くん、僕らはこれから新聞縦覧所に行くんだ。君もどうだ」
「高杉」
同級生の一人が、晋作の学ランの袖を引っ張る。
「岡田は」
言い終わる前に、以蔵は首を振った。
「わしはえい。おまんらで楽しんで来ぃや」
「ほら、行くぞ高杉」
引っ張られるようにして下足場へ向かい、下駄を履きながら同級生が言う。
「お前、聞いたことないのか。岡田の噂」
「さぁ」
知っているが、わざととぼける。
「岡田は男色なんだ」
「そうだ。俺たちも何度か誘ったんだが、絶対に来ない」
「カフェーもだ。中学が一緒だったやつに聞いたら、昔は行ってたみたいだが」
女三人集まればかしましい、と言うが、男も負けてはいない。
「女なんて寮母のおばちゃんしか知らん一高生だぞ? 若い女を抱きたいと思わんやつはどうかしてる」
「あいつは今首席を争ってるが――そんなに銀時計が欲しいものかね」
「そうだなぁ」
同級生たちの批評を聞き流す。
「高杉、お前は岡田とよく話すだろう。気をつけろよ。二人きりにはならんようにしろ」
「ご忠告、痛み入る」
口では礼を言う晋作だったが、心の中では舌を出していた。
人の偏見を聞くのは楽しい。無自覚のものならなおさら。将来帝大を卒業して、この国の頭脳を担うことになる一高生のものならもっと。
男色家は女を買わないだろうが、女を買わない者がみな男色家とは限らない。
(初歩の論理だろうが)
おまけに、男色家に触れた男は、己が襲われるのではないかと恐れる。
彼らが寮母を女と見ていないように、男色家から性の対象と思われないという発想がない。
それだけ自分に自信を持っているのか、若い女をみな性の対象として見ていることの裏返しか。
(こんな阿呆どもでも一高には入れるんだな)
呆れが面に出ないよう、何気ない笑顔を作る。
以蔵が男色家かどうかはどうでもいい。
そうだとしても、以蔵という人間への評価は変わらない。
一年の秋以来、以蔵は抜け殻だったのが嘘のように勉学に取り組み始めた。
自然と成績も上がり、今では学年でも十指に入っている。
しかしその態度は、首席の名誉を狙う者のものでも、学びを楽しむ者のものでもなかった。
泥沼から逃げようと必死に駆けているような。学問に立ち向かうことで、目の前のものから視線を逸らしているような。
そんな風に勉強している男は他にいない。
ただのガリ勉にはない殺伐さを、晋作は気に入っていた。
(人を殺いた)
あの切実な、自らの胸に刃を突き立てたかのように自虐的な声。
芍薬を握りつぶすかのように、誰を殺したのか。
それがわかるまでは、以蔵から目を離せない。
華やかな歓楽街はやがて色を失い、ごみごみした建物が増えてきた。
ドブ川の臭いに、
「やっぱり新聞縦覧所はこうでないとな」
と言う。
同級生は、
「帝大出たら、高級店に行こうな」
と請け合った。
◆ ◆ ◆
「僕に学者や官僚が務まると思うか?」
と聞けば、十人が十人、
「無理だな」
とうなずいた。
晋作は帝大卒業後、巧みな弁舌と破天荒な計画で出資者を募り、会社を作った。
心に響いた商品を買い付け、それを求めていそうな顧客と交渉して売る。
面白いものを売りたくなるうちに、夏の台湾行きの船に乗った。
大変に暑くて、一週間の旅程のうち丸一日を宿でひっくり返って過ごした。
(北海道や樺太も気になるが、よく準備をしないとな……)
と思いながら自宅へ帰ると、一通の封書が届いていた。
差出人は岡田以蔵。
確か官僚になったはずだ。
中には結婚式の招待状が入っていた。
男色家だと思っていた連中は驚くだろうな……と思いながらよくよく見ると、開催場所は『藤丸家』とあった。
(藤丸……)
どこかで聞いたような。
出席の返事を送り、予定を空けて当日を迎えた。
同期と久々の再会を喜び、近況を語り合ううちに、先に新郎が入って来た。
満面の笑みと濡れた目尻は、一高から帝大までの六年間で見たことのないものだった。六年間漂わせていた陰鬱な影が消えている。
そこまで嬉しいのか……と思っているうちに、白無垢からお色直しした花嫁も廊下から現れた。
紺と橙を基調にした色打掛は、実によく似合っている。
美しい。
しかし、少々とうが立っている。女学校に通っているような、結婚適齢期の娘ではない。
同期の席がざわつく。
そこでふと、一高での以蔵の言葉が脳裏をよぎった。
(おまんにお嬢さんの何がわかるがか!)
(藤丸のお家ん皆様はわしん将来に期待しちゅう)
また、『かぐや姫』を巡る噂も思い出した。
花婿に逃げられたかぐや姫は、その後も縁談に恵まれることなく嫁き遅れた、と。
点と点が繋がった。
「諸君」
晋作は卓の同期に言った。
「岡田くんはこのお宅の令嬢にずっと惚れてたんだ。おそらく、書生だった頃から。だから女遊びもしなかった。令嬢もきっと、岡田くんを想って貞操を守っていた。筋が通っていると思わんか?」
「おぉ!」
同期は沸いた。
「岡田……そんなことを目指していたなんて」
「男色だなんて思っていて悪かった」
「花嫁殿も、よく今まで縁談を断って……」
涙を流す同期もいる。
今日の宴は、前途有望な官僚のものにしては参列者が少ない。年増の花嫁の立場を慮ったのかもしれない。
だから同期の中でも、こういう反応を示す者だけを呼んだのだろう。
「実にめでたい! みな、岡田くんと花嫁殿の前途を祝おうじゃないか!」
酌をし合い、なみなみと清酒の注がれた猪口を構える。
仲人が乾杯の音頭を取ると、同期たちは猪口を合わせた。
(面白い……実に面白いな!)
以蔵が女を遠ざけていたのに、こんな理由があったなんて。
(しかし、こんなに楽しいことを教えてくれないだなんて、岡田くんも友達甲斐がない)
宴もたけなわとなったので、徳利を持って花嫁に酌をした。その際に以蔵の純情について伝えたら、花嫁は頬を染めた。
一高に入る前から想っていたのなら、片想いは六年を超える。
よくこの歳まで嫁がず、純潔を保てたものだ。花嫁も以蔵を想っていたのか。
他の卓で飲まされていた以蔵が戻ってきた。
「おい高杉! なぁにわしん嫁御に色目使いゆう!」
二人は身分の差をものともせず、想いを貫き通した。これくらいの威嚇はしたくなるだろう。
同期の卓に退散すると、既に五本ほどの徳利があった。
「飲ませてやろうぜ、俺たちの御祝儀代わりだ」
もちろんみな御祝儀は包んでいるのだが、それはそれとして。
『人を殺した』というのも、この花嫁が絡んでいるのか。六年以上の屈託から解放されて、今以蔵はこんなに明るい顔をしているのか。
それだけ、以蔵の花嫁への想いは強いのか。
(――面白いなぁ!)
謎が解けると、してやられた感覚と同時に、目の前が明るくなったように思える。
晋作は高砂へ呼びかけた。
「おい岡田くん、こっちに来たまえ! 同期のみなが『俺の酒は飲めないのか』と言ってるぞ 土佐者がそれで羞ずかしくないのか」
「空気ぃ読めんアホどもじゃ! えいわ、おまんら全員つぶいちゃるき!」
以蔵は叫んで立ち上がった。
その前に、花嫁と交わしていた柔らかい視線と感情の交歓。
これは飲ませ甲斐がある、と晋作は頬の緩みを止められない。
足音荒く卓へやって来た以蔵は、
「ほがぁにへごい顔しな。性格の悪さが顔に出ちゅうぞ」
「僕は君らを心から祝福してるんだがなぁ」
「……えい。喋れんようにするばぁじゃき」
以蔵は猪口を構えた。
(まぁ、いいさ。これだけ同期がいれば、いくら土佐者でもつぶせるだろう)
四十分後、晋作は見事に自分の見通しの甘さを実感することになった。