チョコレートコスモス 二人のデートの日を狙いすましたかのように、青空が広がっている。
目の前に広がる絨毯のようなコスモスの花畑は、ピンクを基調にところどころ白く、赤い。南中しつつある太陽は、美しい花々に恵みを与えている。
荒れた生活をしていた時は、このように穏やかな気持ちで花を眺められるようになるとは想像していなかった。
以蔵は己の変化をしみじみ感じる。
朝夕は長袖が必要とはいえ、陽が出ていればまだ充分に温かい。
パーカーとジーンズ姿で肩にトートバッグをかける以蔵に、十歩ほど先を歩いている立香が振り返って手を振った。立香は寒色のワイドパンツに少し明るい色の千鳥格子柄のボレロ、その下に白いブラウスを合わせている。足許は黒いショートブーツで、歩きやすくはなさそうだ。
「以蔵さん、早く早く!」
「そう急かさんでも花は逃げん」
「それはそうなんだけど」
以蔵の言葉に恋人は頬を膨らませる。
「せっかくなんだし、以蔵さんと並んで歩きたいなぁって」
「まぁ待ちぃ。あこの高台の四阿で追いつくき、おまんは待っちょれ」
「えー」
「遠くから見る彼女さんもえいもんじゃ」
以蔵の言葉に、立香は頬を真っ赤にした。
「坂降りるがは危ないき、手ぇ繋いじゃる。安心しぃ」
「ハイ……ワカリマシタ……」
立香は以蔵に背中を向け、ぎくしゃくと脚を進める。
その背は、すっと伸びた水仙の茎を連想させる。茎の頂にある花の美しさは言うまでもない。
以蔵は私用のスマホを取り出した。
普段は、仕事の一環でしか写真を撮らない。ラブホテルに入るターゲットだの、泥だらけになった上履きだの、人の欲や悪意の煮凝りばかり撮っている。業務用スマホのカメラロールからは瘴気が漂っていて、必要な画像を転送するために開くのも厭になる。
しかし、プライベートでは。
一緒に食事に行く時、立香はよく料理の載ったプレートを撮る。時折、以蔵の手もギャルピースで参加させる。
「おっさんの手らぁて見て誰が喜ぶがか」と言っても、「以蔵さんはおじさんじゃないし、わたしが健康な生活をするのに以蔵さんが必要だって、友達はみんな知ってるの」と立香は返す。
いちいち言うことが仰々しいのは、大学生特有のもの言いなのか。
カメラアプリを立ち上げると、手のひら中の液晶に立香が映る。遊歩道に伸びる影は夏よりも長く、少しずつ冬が近づいているのだと実感する。
「立香ぁ」
「なぁに」
「こっち向きぃ」
立香が身を翻す。
細い身体の腰はしっかりとくびれていて、その上の胸も秋の装いに負けない存在感を示している。その柔らかな感触を知っているのは以蔵だけ――まだ服の上からしか触れてはいないが。
早くその身体を暴き、味わいたいと思いはするものの、心身ともに成熟するまでは手を出さないという誓いを立ててしまった。
当初それは己の想いを隠すための言い訳だったのだから、こうして交際を始めたら無効にしても誰も責めはしない。
しかし、本来辛抱の効かない以蔵がこれだけ我慢している。今誓いを破ってしまっては、これまでの時間が無駄になってしまう。
美しいであろう――そうに決まっている――肢体を想像しながら、
「撮るぞ」
以蔵はシャッターを切った。
とっさにポーズを取れるのは、今時の女子大学生ゆえの反射神経か。
「以蔵さ~ん、いきなりはやめてよぉ」
「飾らん、ありのままのおまんが撮りとうての」
以蔵が言っても、
「被写体にも自分の好きに撮られる権利はあります」
と、口を尖らせる。
「ありのままは厭かえ」
「だって、せっかく珍しく以蔵さんが撮ってくれるんだから」
「すまんのう、けんど飾うたおまんはおまんが撮っちょるろう」
「それとこれとは別です」
立香はあくまで主張を崩さない。
四阿を背後に、両脇をコスモスに囲まれた立香を、自然に撮りたい。
しかし、どんなことも普段の鍛錬がものを言う。
荒事にはスムーズに身体を動かし、目的を達成させる以蔵だが、それも幼い頃から竹刀を振り、今も筋トレやストレッチを欠かさないからだ。
普段し慣れないことをできないのも当たり前である。
背を向ける立香も何枚か撮り、四阿で追いついた。二人は造りつけのベンチに腰を下ろす。以蔵はその前に据えられたテーブルにトートバッグを置いた。
「ちょうどえい時間やき、飯にせんかえ」
「そうだね」
立香はトートバッグの中にあったウェットティッシュで、テーブルを手早く拭く。
保冷バッグで二重に保護してあった二つの弁当箱と魔法瓶の水筒を取り出し、弁当箱の片方と箸箱を以蔵の前に置いた。
「開けてえいかえ」
「はい、召し上がれ」
勧められて弁当箱のふたを開けると、未知の世界が広がった。
おにぎりは海苔で飾られたものと桜でんぶを混ぜたものの二種類。
メインはにんじんといんげんの肉巻き。ハート型に切った卵焼きも添えてあり、プチトマトも入っている。
もちろん土佐の母の料理も好きだが、これは、こう、なんというか、
「女子が作っちゅう……」
「わたし女子だよ?」
立香は首を傾げる。
当たり前のことを口走ってしまったことを少し羞ずかしく思いながら、
「いただきます」
手を合わせて箸を取る。
彩りにも負けず、おいしい。淡さが舌の上に広がるが、決して薄味ではない。肉巻きはジューシーでも、脂ぎってはいない。卵焼きはだしの味がして、プチトマトも新鮮に弾ける。
もぐもぐと咀嚼する以蔵に、
「以蔵さんのごはん、作りがいがあるなぁ」
と立香は言う。
「なんでじゃ」
「だって、こんなにおいしそうに食べてくれるんだもん」
「何ぃ言う、おまんの飯はうまいき」
「それを当然だと思ってるところ……」
頬を染める立香に、
「おまんもざんじ食え、うまいちや」
「はい」
自身の料理に箸をつけ、
「おいしいね」
と目を細める立香があまりに可愛い。
「知らざったか、わしの彼女さんの飯はうまい」
「もうっ……」
「照れるか食うかどっちかにしぃや」
立香がプラスティックカップに注いでくれた麦茶を飲み、
「ごちそうさま」
と再び手を合わせる。
カップを傾けながら、立香を見る。
箸でおかずを少しずつ口に運び、喉を上下させて飲み込む。
そこに以蔵は生の尊さを感じる。
人に迷惑ばかりかけ、ひどい人生を送ってきた。
龍馬に拾われ、立香と出逢い、少しでもまともになろうと努力を始めた。
味が強い酒の肴しか食べる気にならない。
満開の花を見ても何の感慨も湧かない。
――そんなかつての荒みようが嘘みたいだ。
「ごちそうさま」
立香も食べ終わった。以蔵は逆さにした水筒のふたに麦茶を注ぐ。
「自分でできるよ」
「えいえい、わしに酌させぇ。飯の礼じゃ」
そう言ってやると、立香は嬉しそうにふたを手に取った。
「この茶ぁもおまんが淹れたがかえ」
「淹れたって言っても、ただやかんで煮出しただけだよ」
「わしにはできん」
「ありがとう……」
素直に感謝を受け止める立香が可愛い。弁当の片づけを手伝って、落ち着いて腰かけ直したところで手を握る。
「あぁ……やりこい、ぬくい」
気持ちよさに任せてむにむにと握っていたら、
「以蔵さんは、硬くて、あったかい」
と、立香はつぶやいた。
「硬いがは厭かえ」
「そんなこと……すごく男らしいと思う」
頬を染める立香を抱きしめたいが、ここは外だ。愛されてとろける立香の顔など、そこらの人間に見せられるものではない。
「立香はぜぇんぶ、わしのもんやき」
小さく感慨をこぼす。
「ん?」
「なんちゃぁない」
立香の手の甲を己の腿に乗せ、しばし幸福を味わう。
横目で立香を見れば、その金色の瞳はまっすぐ前に向けられていた。
「ねぇ以蔵さん、コスモスの花言葉知ってる?」
「ほがなこと、わしが知っちゅうわけないろう」
「それは前置きだから気にしなくてよくて……色によって違うの」
立香は少し手を握る力を強めた。
「ピンクは『乙女の純潔』、赤は『乙女の愛情』、白は『優美』……」
「ほにほに」
「乙女とか純潔なんて、自分で言うなって話だけどね」
「おまんにはよう似合うちょるよ」
「……もう! そういうこと言う!」
「厭かえ」
「厭じゃないしむしろ嬉しい!」
「ならえいろう」
この短時間に何度も照れる立香が可愛くて、思わず口角が上がってしまう。
こほん、と立香はわざとらしく咳払いして、前を指差した。
「あそこ、あの辺……ちょっと黒っぽいの、わかる?」
以蔵は伸ばされた指の先を視線でたどる。少し高台から降りた辺りに、小さな黒い一団がある。
「……おぉ、ほんに」
「黒っぽい、茶色いのはチョコレートコスモスって言うんだけどね。花言葉は『恋の思い出』『恋の終わり』」
色鮮やかな仲間に比べたら、ずいぶんと不吉な言葉だ。
「やき、あげに肩身狭うしちゅうがかえ」
「そういう解釈もあるだろうけど……わたしは、別の言葉が好きで」
立香は以蔵の方を見た。金色の瞳に宿る恋慕と愛情が、以蔵の胸を締めつける。
「『移り変わらぬ気持ち』」
真面目な口調。
二秒沈黙した以蔵の口から、ふはっ、と笑い含みの息が漏れた。
「あっちょっと! 笑うことないじゃない!」
「いや、ほがなことは、はは、すまんすまん、おかしゅうて笑うちょるわけやないがじゃ、ははは」
「おかしくなかったらなんで笑うの」
「わからんかえ?」
不意に真面目な顔になる以蔵の意図が読めないのか、立香は困ったように硬直した。
「おまんにはわしの気持ちが移り変わるように見えるがか」
「……そんなこと! ないけど!」
「なら、おまんの今の気持ちが移り変わるがか」
「それもない! 絶対ない!」
頬からオレンジ色の髪まで指で撫で、かき混ぜてやる。立香は視線を落として、
「だから……好きなの……」
と、絞り出すように言った。
「ほうかほうか」
抱きしめたい。キスしたい。どれほど以蔵が立香を愛しているか、身体の芯にまで教えてやりたい。
立香と過ごすようになってから、何度この感情を覚えたかわからない。華奢な手を握って、なんとか衝動をやり過ごす。
「えい言葉じゃの。わしも好きじゃ」
「もぅ、以蔵さん、ずるい……大人……」
「ほうでもないがぞ」
ひひひ、と笑ってやれば、立香は顔から火を噴いた。
この付け焼き刃の理性を立香が知ったら、なんと言うだろう。
以蔵は大人でもなんでもない。ただ欲望に振り回されている男だ。
このことを知られたくないと思いつつ、いつか明かしてやりたくもある。
「のう立香」
「なっなに」
「しばらくここでこうせんかえ」
「わっわたしは問題ないですけど、むしろ大歓迎ですけど」
「おまんの好きな花、おまんとじっくり眺めとうての」
立香は目を伏せたまま、返事の代わりにうなずく。握った手からも、体温が上がっているのがわかる。
立香が見ていないのをいいことに、以蔵はにやけ面を浮かべた。
――あぁ。立香、好きじゃ。可愛いわしの立香。
遠くのチョコレートコスモスの花弁が、以蔵と立香の感情を表すように揺れていた。
『移り変わらぬ気持ち』
――げにまっこと、えい言葉じゃ。