デパートメントで銘仙を 父が藤丸本家から不機嫌な顔で帰宅した。
「立香、百貨店で見栄えのいい反物でも買ってきなさい」
また本家で厭な思いをしたのだろう。
父の本家への敵愾心はなまなかなものではない。
「本家の娘がまた派手な銘仙を着ておった。あれが普段着だと、私たちや取引先に見せつけたいんだろう」
またいとこに当たる本家の令嬢に、立香は悪感情を持ってはいない。ただ父や使用人たちが何かにつけ立香と比較したがるから、彼女の話が出ると落ち着かなくなる。
「あなた、そんなにしょっちゅう着物を買ってばっかりじゃ立香のたんすがいっぱいになってしまいますよ」
「着なくなったものは売るなり離れにしまうなりすればいい。以蔵のために荷物を寄せていても、まだ行李のひとつふたつなら置けるだろう」
「まぁ……あなたが言うなら」
不服そうなことを言う母だが、頬が緩んでいるのは隠せていない。新しい反物で立香を着飾らせられるのが嬉しいのだ。
「お前が着るものなんだから、お前が選びなさい」
「はい」
立香は着道楽ではないが、百貨店へ行くとなれば心が弾む。日本橋の百貨店は混凝土の洋風建築で、並んでいる品も豊富だから行くたびに目を奪われる。
「でもあなた、立香を一人で行かせるわけにはいかないじゃないですか」
「それはそうだな……」
母の言葉に、父も眉音を寄せる。
確かに、女学生が一人で繁華街へ行くのは褒められたことではない。娘一人と侮って、危害を加えるすりや暴漢が現れる可能性がある。
今までこういう時は手代にお供をしてもらっていたが、忙しい仕事の合間を縫ってついて来る手代の顔にはあからさまな義務感があった。歓迎されていないことを知りながら荷物を持ってもらっても楽しくない。
それなら――
欲と実益を兼ねた案を思いついた。
「い、以蔵さんに――お願いできませんか」
立香が言うと、父と母は目を合わせた。
「そうね、以蔵なら抜けても手代や丁稚ほどには影響はないものね」
「以蔵もいつまでも書生ではない。今後のことを考えたら、少しは審美眼を養うべきだ」
納得した両親は、以蔵を呼ばせた。
「わしが、お嬢さんのお供を……?」
父のお下がりの、くたびれてはいるが決して粗末ではない袴姿の以蔵は、床の間の前に座る父の言葉に目を丸くした。
「ほがぁな……わしかたけが百貨店らぁ、場違いですろう」
「お前も今後帝大を卒業して出世するだろう。若いうちに違う世界を体験するのも悪いことじゃない。仕事扱いにして、勉強に差し支えないようにする」
「あら、薪割りが滞るのは困るわね」
母は当たり前のように言う。勉強とは無縁に育った人だから、継続の大変さと大切さをよくわかっていないのかもしれない。家庭を営むのには、変則的な事態を歓迎できないのもわかるけれど。
「お前な……」
父が口を開きかけた時、
「奥様!」
以蔵が食い気味に声を出した。両親は揃って以蔵を見る。
「……いや、失礼つかまつりました。手代さんらぁにご負担をかけるがは心苦しゅう存じますき……薪なら前日に二日分割りますき、ぜひともその役割を以蔵にお任せいただければと」
「お前なら立香を護ってくれる。忙しい中毎日女学校へ迎えに行ってくれているのを私は知っているぞ」
「通学なんてしても悪い虫がつかないのはお前のおかげよ」
両親の言葉に、立香は胸を撫で下ろした。
欲深な下心は、この場の誰にも透けてはいないようだ。
「よろしくね、以蔵さん」
立香が微笑みかけると、以蔵は頬を赤らめて頭を下げた。
◆ ◆ ◆
「たまるか……」
日本橋の電停で市電を降りると、以蔵は周囲をぐるりと見渡した。
「まるで平城じゃ……」
電停のある十字路には、混凝土建築の百貨店がひしめいている。
見上げる以蔵に、立香は話しかける。
「日本橋は初めて?」
「はい、銀座はありますけんど……日本橋はまた雰囲気が違うて」
「そんなに気負うことはないよ」
「ほがぁなわけには……ほれに」
以蔵は懐を撫でた。
「百円らぁ持たされちゅうがは初めてですき」
父から預かった反物代だ。立香が持ち歩くのは危ないから、以蔵に託されている。
「お羞ずかしい話ですけんど、父の月給が二百円ながです。家族四人が半月暮らせる金を持ち歩くっちゅう発想がございませんでした」
以蔵の言葉に、少し申し訳なくなる。
立香は何不自由ない環境を当たり前に享受している。箱入り娘だという自覚もある。
土佐の岡田家がどのような生活をしていたのか――以蔵がどれだけ苦労して藤丸家との縁を手繰り寄せたのか、うまく想像ができない。
もどかしさを募らせる立香に、
「ほいで、藤丸のお家の御用達はどちらになりますろうか?」
「あ、うん、こっち」
以蔵をうながして、十字路の角の百貨店に向かう。
玄関の脇にはガラス張りの陳列窓がある。中には人形が洒落着を着て腰に手を当てている。
尋常六年の頃、この陳列窓を見て桃色の洒落着をねだったことがある。
父は、
『洋装などは職業婦人が着るものだ』
と、言下に切り捨てた。
母は、
『脚を出す服なんて、はしたないわよ』
と、眉をひそめた。
そのもの言いはまったく論理的ではなかったが、幼い立香はうまく言い返すことができなかった。
だから、洋装を見ると憧れと悔しさの混じりあった複雑な感情が湧く。
「お嬢さん」
立香と同じ方を向いて、以蔵は呼びかけてきた。
「洋装が気になるがですか」
「……ううん、ごめんね」
「何ぃ謝るがですか」
その問いには答えず、立香は下駄のきびすを返した。
玄関の両脇にはそれぞれ軽やかな洋装の門番が立っている。
以蔵は仁王像ににらまれた悪人のように肩をすぼめ、ホールに入ると大きくため息をついた。
「……おとろしいですの」
「そんなに怖い?」
「今日はお嬢さんのおつきじゃき見逃してもろうちゅうがですけんど、だきなわし一人じゃつまみ出されますろう」
百貨店の格に関わるから華美でない服装の者を客だと認めない、ということはあるかもしれない。
「でも、こうして入れたんだから――行こう?」
「はい……下足場はどちらになりますろうか?」
左右に視線を向ける以蔵に、
「ここは土足で上がれるの」
「脱がいでえいがですか?」
飴色の左目が丸くなる。
なんだかおかしくなって、頬が緩んでしまう。
「お嬢さん、笑いごとやないがですよ」
以蔵は困ったように眉を寄せる。
「わたしにいろいろ教えてくれる以蔵さんでも、知らないことがあるんだなぁって」
「わしやち知らんことはございます。雲ん上の方々の世界らぁ見たこともありませんき」
いつも以蔵のお世話になってばっかりだから、できることがあるのが嬉しい。
「お父様がおっしゃってたよね、以蔵さんが帝大を出たらこういう世界のことも知る必要があるって」
「まだ帝大に行けるとは限りませんき……」
珍しく自信のなさを語尾ににじませている。
「行けないの?」
「……『行けるか』やないですの。行きます」
少しの間を置いて、以蔵は決然と言った。
(一年くらい浪人してくれてもいいんだけど……)
自分本位なことを思ってしまってから、心の中で首を振る。
以蔵の将来を考えるなら、もちろん浪人なんてしないで進学した方がいい。できるだけ以蔵と一緒に過ごしたい、というのは立香のわがままだ。
けれど以蔵が一年社会へ出るのが遅れたとしても、立香には何の障りもない。
(以蔵さんが職に就く頃には――わたしは結婚してるから)
立香は醜いから、以蔵のことを思いやれない。
身を立てて、いとけない少女と結婚する以蔵の将来よりも、少しでも好きな人と同じ空気を吸いたいという欲求を優先してしまう。
(……本当に、醜い)
こんな気持ちを知られたくない。
黒い感情を心の奥に隠して、
「反物売り場は二階だよ」
先に立って歩く。
混凝土に化粧煉瓦の貼られた階段を昇りながら、
「まだ『エスカレーター』はないがですか」
「『えすかれえたあ』?」
「はい、仕組みはようわかりませんけんど、自動階段ち呼ばれちょります。階段に立っちゅうだけで勝手に昇り降りする機械じかけの装置じゃそうです。西洋じゃ百貨店なんぞに設置されちゅうらしゅうて」
立香はその言葉から未知の機械を想像してみる。
「――怖い!」
階段が動くとなれば、足許が不安定になる。少し均衡を崩したら足を踏み外してしまいそうだ。高所からの落下の衝撃は半端なものではない。
「まぁ、輸入されたら見られますき」
怯える立香を慰めるように、以蔵は優しい声をかける。
二階の反物売り場の天井からはいくつも電灯がぶら下がっている。
「たまぁ……お天道様みたいじゃのう。最先端じゃ」
以蔵は新鮮に感嘆する。
「銘仙はこっち」
目立つ一角の銘仙売り場には、棚や台の上の箱に色とりどりの反物がびっしりと詰められていた。
「……」
以蔵は言葉もない。圧倒されているようだ。
「……これ、どうやって選ぶがですか」
「そうだね、見た感じの色合いとか……」
立香は箱を指し示す。
芯に巻かれた反物の中から、試しに赤い生地を取り出す。一尺半ほど広げると、孔雀の羽が大胆にあしらわれていた。
「こうして見てみて、気に入った柄がないかって見つけるの」
「ほぉ……」
感心したように息を吐く以蔵をよそに、いくつか手に取ってみる。
地味すぎても父は気に入らないだろうし、かと言ってあまり奇抜すぎても着回しが難しくなる。
取っては戻しを何度か繰り返し、藍色の生地を開いていると、
「ギンガムチェックですの」
以蔵が立香の横から覗き込んできた。
思いがけない距離感に、跳ね上がりそうになる。
「……銀紙?」
振り返ることもできずに問うと、背後から伸びた武骨な指が格子模様を差した。
「ここ、見てつかあさい。白い線と藍色の線が格子になっちょりますろう。こがぁな柄を『ギンガムチェック』言うがです」
「へぇ……」
「仏蘭西のギンガム言う土地で作り始めたきとも、馬来語で縞模様っちゅう意味の言葉じゃとも言われちょりますけんど……」
以蔵の説明も、うまく耳に入らない。そこまで密着してはいないものの、どこか甘いような心地のいい香りは嗅覚で立香をとろかせる。
高鳴る鼓動を聞かれてはいないだろうか。
以蔵は一瞬動きを止めて、ひとつ咳払いをしてそっと立香から身を離した。
「……まぁ、語源は今は関係ありませんの。こういう輸入されて間もない柄もあるがですか」
立香も、気取られないように深呼吸して少しでも落ち着きを装う。
「……うん、銘仙は少し前から流行り始めたの。以蔵さんが言うみたいな西洋の模様や意匠も取り入れてて、お洒落好きな女学生の憧れの的なんだ」
「わしは女の方のお洒落らぁには疎いですき。お嬢さんが教えてくれるがは勉強になります」
相好を崩す以蔵の目の前で、『ぎんがむちえっく』の反物を左肩にかけてみる。
「どう?」
「似合うちょります」
「じゃぁ、これは候補にしよう」
「持ちますき」
差し伸べられた手に反物を持ってもらい、引き続き吟味してみる。
気になった柄を二つ三つ見てもらったが、以蔵は、
「お嬢さんによう似合うちょりますよ」
としか言わない。
「ちゃんと見てる?」
「見ちょります。お嬢さんは何をお召しになってものうがえいですき」
「本当かなぁ……? じゃぁ、以蔵さんも探してみてよ」
「わしですか?」
「なんでもいいって言ってるわけじゃないって証明してみせて」
おどけて言うが、これは立香にとっては挑戦だ。
好きな人から着物を選んでもらえる機会なんて、たぶんもうないだろう。
「わしでえいがですか……?」
戸惑い気味に言いながら以蔵は一度手許の反物を元の場所に戻し、立香には手の届かない棚に視線を遣って吟味を始めた。
「これらぁて……どうですろうか」
と言って広げたのは、薄紫色の生地だった。
黒に近い紫色の、四寸四方ほどの格子に鮮やかな緑色の蔓が巻きついていて、白い薔薇が咲いている。
「お嬢さんの髪の色にも合うかと存じますけんど」
「貸して」
立香は姿見の前に立って、肩に生地を当てた。
確かに薄紫は橙色とよく調和しているように見える。濃い紫は淡色を締めて、薔薇の花弁の輪郭は精緻に縁取られている。
以蔵はこの柄を、立香のために選んでくれた。
その事実だけで息すらうまく吸えなくなる。
「これにする」
立香の言葉に、以蔵はあわてた。
「もうちっくとご覧になった方がえいがやないですかえ」
「ううん……わたしに似合うんでしょ? それともお世辞?」
「わしは世辞らぁ申しませんき……」
以蔵は困ったように口籠もる。
「じゃぁ、店員さんを呼んできて」
立香がお願いすると、以蔵は店員の方へ向かった。
(お世辞でも、いいんだ)
濃い桃色の銘仙の上に白い前かけを重ねた女性店員が、反物を手に取った。
その様子を見ながら、立香は以蔵の袖を引っ張った。背伸びをして、耳許へささやく。
「お父様がおっしゃってたこと、覚えてる?」
「はい……わしにできますろうか」
「大丈夫、以蔵さんならできるって」
反物を確認した店員が、二人を見る。
「こちらでよろしいですか? 八十五円になります」
「はちじゅう……」
息を呑む以蔵だったが、拳を握って店員の前に立った。
「ちっくと、まかりませんろうか?」
「うーん……」
「我が家はこちらをこじゃんと贔屓しちょりますき。まぁまっことりぐったおべべですのう」
「はぁ……」
店員は首を傾げる。立香にもいまだに意味を取りかねることのある土佐弁を、初対面の者が理解するのは難しそうだ。
「お嬢さんは女学校に通うちょりまして、学内や通学の市電の中なんぞでは銘仙のえい宣伝になります。どこで買うたか聞かれたら、こちらのお名前を出さいていただきますき」
以蔵はとどめとばかりに白い歯を見せた。
「女学生は流行りに敏感ですき、こじゃんと買いに来ますろう。お嬢さんもそちらも得しますき、ちっくと勉強していただけませんろうか」
「……八十四ではどうでしょう」
「八十三」
「八十三円五十銭。これ以上は無理ですよ」
「ほいたら、ほいでお願いいたします」
以蔵は懐から十円札の入った封筒を出した。九十円を数えて店員に渡す。
会計の手続きに行く店員を目で追いながら、立香は頭を下げる。
「ありがとう。以蔵さんじゃなかったらできなかったよ」
「お役に立てたなら何よりです」
以蔵は立香を見下ろして微笑んだ。
戻ってきた店員から反物と釣り銭を受け取って、一円札と五十銭銀貨をしまおうとする以蔵へ、
「五十銭、貸して」
「貸してって、何するつもりですがかえ」
「ちょっとね」
反物を風呂敷で包んだのを見て、立香は階段へ足を向ける。
下り階段を降りようとする以蔵の肩をつついて止めた。
「こっち」
立香は上り階段に足をかける。
「どこぉ行かれるがですか。ざんじ去ぬらんと皆さんご心配しますよ」
「選ぶのに時間がかかったって言えばいいよ」
「またほがぁなこと言うて」
こぼしながらも、以蔵も階段を上り始める立香の一歩後ろにつく。
五階の上に屋上がある。
階段を覆う屋根をくぐる。足を踏み入れると、地上より少し強い風が吹いていた。
茶屋への道を縁取るように盛りの菊の鉢植えが置かれ、蜜の香りが漂ってくる。
「以蔵さん、大福でいい?」
「大福って」
「お茶屋さんで買うの」
「わしの分はえいですき」
「せっかくついてきてくれたんだもん、ご褒美だよ」
制止の声を振り切って、先ほどの五十銭を支払って大福を二つ買う。番茶も一緒に載った盆を、以蔵が持つ。
「まっこと、お嬢さんははちきんですのう」
立香が先導して、壁際の長椅子に座る。以蔵は立香の脇に盆を置いて、その向こうに着いた。
正面を見ると、腰ほどの高さのコンクリート壁から鉄製の手すりが立ち、西向きの平野がよく見える。
「以蔵さん、どう? 百貨店初めてだって言ってたから」
「……たまるか」
感嘆詞は、今日三度目だ。
「山が遠いですの。ほれに……まっこと広い。見渡す限り屋根が見える」
「土佐は違う?」
「高知の町はお城を真ん中にして固まっちょって、町外れはすぐに山です。こがぁに平らな地形は初めて見ますし、……あがぁに遠くまで街が広がっちょって」
声から驚きがにじみ出ている。
「まっこと、東京は世界が違う……」
「よかった、喜んでもらえて」
「お嬢さん、ありがとうございます。わし一人やったらとうていこがぁなところには来られざった。ほんまに藤丸のお家にお世話になれて……生きちょったらえいことがあるがですね」
言いすぎだよ、という軽口をなんとか抑える。
岡田家の半月分の生活費と同じほどの値段の銘仙を、今以蔵は持っている。
二人は生きる世界が違う。恋の成就はありえない。
そのことをはっきりと突きつけられている。
切なさが漏れないよう、指を差して口を開く。
「あの辺まで街があるね」
「たぶん四谷の方ながですろう。新宿は牧場つぶいて間もないですき、まだ開発されちょりません。倫敦や巴里は見たことがありませんけんど、じきに東京も世界に名だたる街になりますろう」
「そうだね、そうなるのを見てみたいね」
(以蔵さんの隣で)
叶うはずのない願望が、胸を締めつける。
「……わたしが先に食べないと、以蔵さん食べられないよね。ごめんね」
「謝らいでつかあさい。わしは待つらぁなんちゃぁございませんき」
いたわしげな言葉に、鼻の奥が痛くなる。
なんとか涙をやり過ごして、大福を頬張る。柔らかだけれど歯ごたえのある求肥をあんこと一緒に噛むと、甘みが口に広がる。
「おいしいね」
「ほうですの」
しばし二人で並んで咀嚼する。
番茶を一口すすって、以蔵は立香を見た。
「こん反物、お嬢さんが縫うがですか」
「うん、お母様にもお手伝いしてもらうけど」
反物をただ断つだけでは、綺麗な柄をうまく配置できない。一度広げて全体を見渡し、一番映えるように断たなくてはいけない。
(せっかく以蔵さんが選んでくれたんだもの、大事に縫わなくちゃ)
「……今日はお嬢さんのお供ですけんど、いつかはわし一人でもドアマンに止められんようにせんと」
そんな野望を持つのは、今後勉学で身を立てようとしている男なら当たり前のことだろう。
そのことは、素直に応援したい。
とはいえ。
「……そうだね、家族を連れて来れればいいね」
心にもないことを言わざるを得ない。
以蔵は一瞬苦い顔をして、笑った。
「ほうですの、男としては家族を養うて護っちゃらないかんですきのう」
「そうだね……」
以蔵を見ることができなくて、東京の街並みに視線を投げる。
市井には、立香の想像も及ばないほど貧しい人もいるだろう。故なく暴力を振るわれたり、搾取されたりしている人もいるかもしれない。
しかし、つらさは誰かと比べるものではない。
人は一人一人それぞれのつらさを抱え、苦しんでいる。逃げ出す者も、向き合う者もいる。
好きな人と結ばれる未来を持たず、家や利益のために縁づかされることが決まっているのも、もちろんつらい。
――それでも、大福は甘い。
最後の一口を飲み込み、立香は番茶を飲んだ。
「えい日ですのう」
先に食べ終わっていた以蔵も、前を向いている。
「いい日だね」
「今日は忘れられん日になる思います」
しみじみと、滋味を味わうようなつぶやき。
(やだな、大げさだよ)
と、言うべきだろう。
けれど――立香も同じ思いを抱いている。
身分の差から口にできない想いを、胸の内で持て余している。
「……そろそろ、去ぬりますよ」
うながされて、立ち上がる。
以蔵が盆を茶屋に返して、階段へと向かう。
立香の背後で以蔵はつかず離れずの距離につき、周囲に警戒を巡らせている。
好きな人がすぐ近くにいるのに、こんなにも遠い。
化粧煉瓦と下駄が奏でる乾いた音で、悲しさをごまかしたい――
無駄な抵抗だとわかっていても、簡単にはやめられない。
◆ ◆ ◆
模部家の使いが、「もうしばらくお待ちください」と言いに来た。
「しばらくとはいつだ! 先月もそう言っていたではないか!」
使いへ当たり散らす父に、
(この人へ言ってもしょうがないのに)
と思うが、うまく伝えられないだろうから黙っている。
「娘はもう十七になったんだ! うちは屈辱的な仕打ちも飲むと言っている。そちらと縁を繋ぎたいが、そうでないなら早く言ってくれ。一日経てば一日分価値がなくなる!」
父は変わらず、立香を利殖のための道具だと思っている。よその家との縁を繋ぎ、閨閥で店を繁栄させようとしているのだ。
もちろん大店の模部家となら都合がいいし、模部家にその気がないなら早々に見切りをつけて他の家との話を進めたい。
返事がないのが一番困る。
父の罵倒を廊下の障子越しに聞き、己の出る幕ではないと判断して部屋に戻った。
陽射しが障子紙から透けて入るから、まだランプを点ける必要はない。
たんすの腰の高さの引き出しには、花婿から逃げられた娘に似合う地味な小袖が詰められている。
膝をついて一番下の引き出しを開ければ、女学生時代に着ていた銘仙が分不相応にきらめく。
着る機会がなくなったので、大半は母の知り合いに譲ったり、古着屋で売ったりした。
今ここにあるものは、言わば『木を隠すための森』だ。
四枚ほどを取り出し、一番下に隠していた銘仙に触れる。
薄紫の地に目の荒い格子、そこに巻きつく鮮やかな蔓と白薔薇。
あの日、百貨店で以蔵が見繕った銘仙。
この一枚だけでは不自然だから、何枚か隠蔽のために残している。
着物を長持ちさせるには、定期的に風を通した方がいい。
心の中でそんな言い訳をして、小袖を広げる。
(よう似合うちょりますよ)
(髪の色にも合うかと存じます)
懐かしい、と思ってしまうほど遠くなった土佐弁。
人が最初に忘れるのは声だという。
女学校帰りの雑談も、仕事を請け負う時の朗らかな返事も、あの夜絞り出した必死な呼びかけも、忘れてしまうのだろうか。
そんなことはない――と断言はできない。
怖い。怖い。怖い怖い怖い。
あの夜の以蔵の体温を手繰るように、小袖を抱きしめる。
錯覚でもいい。自分を騙してもいい。
少しでも心と身体に残っている以蔵をかき集めたい。
けれど縁談が決まったら、生娘の着るような柄の銘仙を取っておくことは難しいだろう。
特にこれだけを嫁入り道具に加えられる、もっともらしい理由はない。
思い出の最後のよすがまで取り上げられたら――
恐ろしくて何も考えたくなくなる。
「以蔵さん」
名を呼ぶなんて許されない、と思いながら呼ばずにはいられない。
「以蔵さん、以蔵さん……」
涙が頬を滑る。
(お嬢さん――立香!)
骨格のしっかりした顎から落ちる熱い雫。どれほど露悪的な態度を取っても隠せない深い慈しみ。
それを思い出せば思い出すほど、己の愚かさが骨身に沁みる。
以蔵の心を傷つけ、もうまともに目を合わせることもできない。
「以蔵さん……ごめんなさい……」
抱かれる前は、以蔵との思い出があればどんなつらいことも乗り越えられる、と思っていた。
実際は、恋しさが募るばかりだ。
以蔵が分け入った花園を、他の誰にも荒らされたくない。
そんなこと、叶うわけがないのに。
「助けて……」
誰にともなく呼びかける。
けれど、こんなにも愚かで醜い女を助ける者などいない。
この世に独りで取り残されてしまったような感覚に包まれ、立香はただ泣き崩れた。
◆ ◆ ◆
「……種を明かせばこじゃんと単純なことじゃったの」
暗色の背広をそつなく着こなした以蔵が、テーブル越しに笑った。
「お嬢さんはりぐったべべを惚れちゅう男に見せたかっただけじゃった、と」
「言い方!」
年甲斐がない、と思うことも忘れて立香は頬を膨らませる。
「言うたちほうじゃろう、百貨店に一人で行けんとなったら書生を指名して、書生にべべ選ばいて。一番可愛らしい姿を見てほしかった……なんともいじらしいやいか」
愉快げな笑みを浮かべながら、以蔵はかたわらの箱から煙草を一本取り出す。
百貨店で買い物を済ませ、五階の食堂で昼食を食べ終わった後のこと。
以蔵は背広、立香は裾に藤の花が慎ましく咲いた小袖を着ている。
「以蔵さんだって! 『なんでも似合う』なんて言ってわたしのことまっすぐ見られなかったくせに!」
立香が言い返すと、以蔵はまだ火の点いていない煙草を持ったまま頬を引きつらせる。
「いや、おまんわしを何じゃち思いゆう。もちろん見ちょったに決まっちゅうやいか。どれがお嬢さんに合うか、しっかり吟味しちょったき」
「本当かなぁ?」
「もうわしはおまんに嘘つかんぞ」
ごまかすように言って、飴色の瞳を立香へ向ける。
「あん頃のわしはまっことアホじゃった。あればぁおまんから好意を向けられちょったがに、『高嶺の花じゃ、わしには手ぇの届かん星じゃ』らぁて思い込んで何もせざった。目の前んことぉ見る勇気があればのう……」
マッチを擦り、火を煙草に移す。尖らせた唇から吐かれる紫煙には、後悔も含まれているだろう。
だから立香は、いたわるように言う。
「でも、今こうして一緒にいられてるわけだし」
「ほうじゃのう……」
以蔵は何か思いついたような顔になった。
「おまん、もうあの銘仙は着んがか。通学ん時に着ちょったたびに、わしは迎えに行くががまっこと楽しかったがじゃ。奥様も、わしを喜ばせてくれんがかえ?」
「さすがにそれは……もうあんな柄が似合う歳じゃないし」
「ほうか……わしはえい思うけんど、おまんが言うならほうながじゃろう。ほいたら、わしらん娘がふとうなったら着せるがはどうじゃ」
「気が早いなぁ……」
結婚して一年経つが、まだ懐妊の兆しはない。自分は子を宿しにくい体質なのではないか、と密かに不安を覚えている。
「焦らいでもえいろう。わしらを選んじょくれるやや子がまだおらんがじゃ」
以蔵が鷹揚に言うのは、仲睦まじくも子宝に恵まれない武市夫妻を知っているからだろう。
「六年かかってようよ結ばれたわしらに遠慮しゆうがかもしれん。もうちっくと待っちょったらえい。何しろ、やや子がおったらこがぁな風に逢引らぁてできん。今しか味わえん贅沢じゃ」
包容力のある笑顔と優しい言葉に、少しだけ救われる。
「娘にお母やんの着物譲るがも夢がないかえ?」
「流行りものだから、子どもが大きくなったら着られなくなってるかもよ」
「ほいたら、家で着りゃぁえい。孫の頃にはまた流行りが巡っちゅうかもしれんき、大事にしとうせ」
先の話すぎて、立香には実感がない。
けれど、孫が生まれるまで立香と添い遂げてくれる、と以蔵が思ってくれているのは嬉しい。
「中学生の頃は藤丸のお家のお駄賃で大福しか食えざったけんど、今はこういてわしの財布から食堂で昼飯が食える。おまんのこと考えとうのうて勉学に勤しんじょったがも結果的にはよかったがじゃ」
遠回りも、決して悪いことばかりではなかった。互いに恋慕を醸したからこそ、今お互いの愛情を実感できている。
「……混んで来たの。入口で何組か待っちゅう」
「そろそろ出ようか」
立香が返すと、以蔵は隣の椅子に載せていた風呂敷包みを持って立ち上がった。立香もそっとその後ろにつく。
「官僚さんに荷物持ちさせるなんて、図々しいかな」
「今んわしは官僚やない、おまんの夫じゃ。おまんに尽くすががわしん生き甲斐じゃ」
幸せそうに相好を崩す以蔵を見て、改めて胸から湧く暖かい感情を実感する。
帰宅したらあの銘仙に風通しをしよう。少しでも劣化を防ぎたい。
手に皺ができる頃まで着られるようにしなければいけないのだ。
以蔵の夢を叶えるという、新しい目標に目を向けたい。