Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    エヌ原

    @ns_64_ggg

    SideMの朱玄のオタク 旗レジェアルテと猪狩礼生くんも好きです 字と絵とまんがをやる

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 24

    エヌ原

    ☆quiet follow

    アイドルマスターSideMの古論クリスに感情があるモブシリーズ2/5

    #vs古論クリスモブ
    vs.OldTheoryChrisMob
    #古論クリス
    oldTheoryChris
    #SideM

    市役所の男 にぎやかになってきた周囲にはっと気づかされて、タイムカードを押しに戻った。8時45分。いまだに紙に印字される勤務開始時刻は僕の正確な労働時間をかき消す。
     あらかた片付けた積み残しの仕事をもう一度確認する。メールに添付するもの、裏紙でプリントアウトするもの、新品の紙で刷っていいもの。ひとつひとつが僕の査定に、さっき始まったばかりの労働時間の時給にかかわってくる。念のため作業ごとにフォルダ分けをして、まずはメーラーを立ち上げる。
    〈【ご確認】来週13日の会議資料につきまして(品川)〉
     さして重要とも思えない資料をパワーポイントとワード、両方添付して上司に送る。上司は僕と同じ年に学部卒でこの市役所に入ってきた男だ。当然年は僕より下になる。
    〈13日の会議資料の概要が出来上がりましたのでお送り致します。修正のご指示がありましたらご返信願います。品川拝〉
     三度読み直して、これ以上のことが僕には書けないことを確認して送信した。似たようなメールを同僚の正規職員たちに送る。たいていは数字を扱う資料の処理を頼まれている。彼らはVBAどころか関数すら怪しいので、僕のような人間が必要になるのだ。
     メールを送り終えて、昨日帰り際にOKをもらった部内閲覧資料の印刷に移る。プリンタの設定を三回チェックして、給紙トレイが裏紙になっているのを確認し、1部だけ刷る。複合機の前で刷り上がりを確認して、今度は15部に設定する。それから立ち上がり、小声で周囲に問いかける。
    「すみません。今からプリンターを5分ほど使いますが、急ぎの方はいらっしゃいますか」
     返事がないのを五秒確認して、エンターキーを押した。リースの複合機がジャージャーと印刷された紙を吐き出す。15部をホチキスで留め、上司のところに持っていく。上司はうんと頷いて、とくに何を言うでもなく積みあがった紙束の上にそれを投げた。
     この市役所で非正規職員として働くようになって2年が経つ。そのあいだ月給は18万円で据え置き、夏と冬に出るボーナスはいずれも3万円。東京なら厳しいけれど、ここ埼玉で実家暮らしをつつましく送るならさして問題はない。
     僕はオーバードクターだ。研究室に2年多く居座って職を探したけれど、僕程度の研究者につけるポストは日本にはなかった。いや、海外にだってなかっただろうけれど、そっちは探してすらいない。しかたなく論文を提出して、晴れて博士となり、同時に無職になった。大学のそばに住む理由もなくなり、実家に出戻って、いくつか公務員試験を受けた。ペーパーは法学と経済学を少しやるだけで合格点がとれるようになり、安心して面接に臨んだ。そしてすべて落ちた。僕は年を取りすぎていたし、なにか地方自治体に貢献できるようなスキルも、向上心もなかった。なかば予想していたお祈りメールをもらって、僕は母親にごめんと謝り、母親は困ったような顔をして、帰宅した父親、これまで学費を出してくれていた父親は、29歳ってのはそんなに厳しいのか、と言ったきりもうその話題には触れなかった。
     民間は公務員以上に厳しかった。研究していた分野に関係するような会社は新卒の優秀な研究者をどんどん採用して、僕は見向きもされなかった。ちょっとでも関係がありそうな会社にエントリーシートを送ったけれどなしのつぶて。面接までたどりつけたのは2社だけで、片方は社長が研究者と話してみたい、というだけの雑談に終わり、もう1社の面接官はなぜか僕に説教をしてきた。役にも立たない研究にうつつを抜かして若い時間を無駄にした。もっとお国のためになることをやるならまだしも。親御さんに申し訳ないと思わないのか。初めて会った父親くらいの男に叱られながら、僕はもうたくさんだと思った。
     その日僕は家に帰って、途中のスーパーでもらってきた段ボール箱に研究室から持ち帰ってきた専門書のたぐいを詰めた。箱が足りなかったのでもう一往復して、本棚1竿と半分をからっぽにした。それから免許証をスマホで撮影して箱に同封し、合計7箱の段ボール箱をネットの古本屋に送りつけた。しばらくしてメールがきた。そこには4590円と書いてあった。僕の研究してきたものが初めてお金になった瞬間だった。
     次の4月、僕は市役所の臨時職員の口にありついた。学卒のキラキラした、かつ役所という手堅い職業を選んだ新社会人たちと一緒に研修を受け、いちおうは土木課づきの、だけど基本的には市役所の雑務はなんでもする立場の人間になった。4月の16日に初めての給料が振り込まれた。自治体は半月働いただけで満額をくれて、僕はそれで両親を小さなイタリアンレストランに食事に連れていった。親孝行はそこまでだった。そこから2年、課が土木課から広報課に移っただけで、僕の給料は初任給とまったく変わらず、今にいたる。
     夕方5時半、タイムカードを切る。それから席に戻って、頼まれていた広報紙に載せる画像の加工をする。このあいだの連休に自然公園で行われたイベントの写真だ。親からクレームがくるとかで、どんな小さなものでも子どもの顔はぼかしたり、目線を入れたりすることになった。役所で契約しているデザイナーはそれを有料サービスにしているので、毎月僕がいちいち画像を加工している。親たちは僕がフリーソフトでちまちま子どもの目鼻にぼかしを入れていることを知らない。
     添付ファイルをダウンロードしながら、別に上司から送られていた原稿を開いた。とくに必要な作業ではなかった。僕がやることは子どもの顔を消すことだけだったから。単にソフトの立ち上げ時間にやることがなかっただけだった。
    〈秋の連休は、自然公園でたくさんのイベントが行われました。ペンギンとのふれあいコーナーでは、子どもたちがペンギンとふれあいました。〉
     ふれあいがダブってる、と思いながら原稿を読みすすめて、僕は思わぬ名前にブチ当たった。
     僕はいったんモニタから目をそらし、首を絞めつけているネクタイを少し緩めた。マグカップに伸ばした手が震えている。持ち手に指を通して、冷めたコーヒーを呷った。
     その名前には今まで何度も出会ってきた。読んでいた論文で、表彰されたポスターで、学会の後のささやかなパーティーで、その男は何度だって僕の前に現れた。でも、でも僕はもうそこからは離れたはずなのに、どうして。
     気づくとタスクバーのアイコンが点滅していた。僕は我にかえり、GIMPで子どもの顔をぼかす作業を始めた。機械的に選択範囲をくくり、ぼかしを入れ、また違う子の顔を選び、ぼかす。画像は全部で4枚あり、顔は60個近くあった。だから僕は60回の繰り返しの間、ずっとその名前のことを考えていた。
     処理が終わり、4枚の画像をZIPファイルにして上司に戻す。机の島の向こうで上司が「品川さん、ありがとね~」とぼやけた声を出した。僕ははいと返事をして、手元のタスクを確認する。資料作成があと3件、そのうち今日中に提出して、明日までに完成する必要があるものが2件。エクセルを起動する合間に、グラフを描画する合間に、僕はさっきの原稿を読み進めた。
     本当に仕事が終わったのは7時すぎだった。僕はマグカップを洗って干し、デスクの上を片付けて、パソコンをシャットダウンした。それからロッカーに行き、ジャケットを羽織って、リュックサックを背負って市役所を出る。バスをのりついで途中本屋に寄り、家に着いたのは8時を過ぎていた。用意されていた夕食を食べて皿を洗い、父親に風呂の順番を確認して、部屋に戻る。それから帰りのバスのなかで読んでいたWikipediaの続きを開いた。
    〈2nd Liveを渋谷O-EASTで開催。即日完売[要出典]となる。〉
     それは彼が所属しているユニットについてのページだった。カテゴリは、「芸能>アイドル>日本のアイドル>日本のアイドルグループ>日本の男性アイドルグループ」。アイドル? 僕はまだ残る違和を飲み込みながら読み進める。
     概略はこうだ。オーディションを受けて合格した彼を含む3人は、315プロダクションという事務所からアイドルグループとしてデビューした。これまで3枚のシングルを出し、歌番組、ドラマ、音楽フェス、イベントなどにひろく参加している。
     ページは異常に細かく書き込まれており、履歴を見ると熱心なファンらしい特定のいくつかのIPが常に最新情報を更新していた。そしてこちらはファンではないウィキペディアンがひたすら[要出典]をつけつづけていく。編集履歴は膨らんだスパゲティコードのようだった。
     僕はページの一番下にある「OFFICIAL Instagram」をタップした。アプリは入れていないからブラウザが立ちあがる。想像していたインスタの世界とは違い、アイドルたちの顔が載っている画像はむしろ少ないほうで、風景写真や小物の画像が多かった。いくつかの画像とコメント、添えられたハッシュタグを見て、僕はそれらがアイドルの手による写真であることを理解する。彼の撮る写真は、ありていにいえば凡庸だった。ほかのふたりを撮った写真は露光量がおかしいのか白飛びしていたし、カラーフィルターをかけた食事はおいしそうでもまずそうでもない。唯一水族館で撮られたらしい、水槽を下から撮った写真だけは反射やらをうまく吸収して見られたものになっていた。けれど僕はそこから、彼の姿を読み取ることができない。
     彼は、歴だけでいえば後輩にあたる。何度か学会で一緒になったことがあるし、僕の記憶が正しければ立ち話をしたこともある。彼の発表した論文や紀要に載った研究ノートは数知れず読んだ。そして打ちのめされた。僕が見逃した場所のささいなさかむけから、彼は幻惑の皮をひっぺがして、真理を引きずり出してみせた。僕がグラフの例外処理に手間取っている間に、同じ研究所のデータから目にも鮮やかな傾向を示してみせた。たぶん同じ時期に似たようなテーマで学振に応募していて、僕が「海洋」という検索ワードで採用者一覧を検索するとき、常に彼の名前がそこにあった。
     同じ研究室の先輩が応募した助教のポストに、彼が最年少でついた、という話までは聞いていた。僕はそれすらできず、そのわずかあとに学究の世界から離れた。だからそのあとのことは知らず、――まさかアイドルになっていただなんて思いもしなかった。
     ハッシュタグになった彼の名前をタップすると、こんどは一般のファンがアップしたものらしい写真がずらりと並んだ。テレビ画面をそのまま撮ったもの、動画のスクリーンショット、まちまちの画質の彼は、間違いなくあのとき話した男だ。
     広報紙に載るのは、自然公園のPRイベントに彼ら3人が訪れ場を賑わわせた、というだけの記事だった。トークショーの会場をロングショットで撮った写真には、彼は米粒のようにしか写っていなかった。彼はその程度の扱いしか受けない存在に、Wikipediaによれば自ら応募してなったという。
     先輩が、同級生が、僕が、あれほど欲しかったポストと栄誉と未来を捨てて?
     ヒートアップしかけた脳に、父親の「風呂空いたぞ」という声が刺さった。僕はわかったと返して、下着とスウェットを持って風呂に入る。沸かし返しのお湯には入浴剤が入れられていて、すべては濁ってなにも見えなくなる。
     浴槽でそう長くもない手脚をこごめて、僕は持ち込んだスマートフォンでWikipediaにもどり、今度は彼単独のページに飛ぶ。経歴の欄には簡潔に彼の卒業大学と学部、勤務した大学名が書かれていた。僕の人生を賭した研究のすべてより重いそれは2行きり。アイドルとしてデビューして以降は、日刻みで記録されている。
     僕は湯舟の中で、スパムとメルマガしかこないアドレスでWikipediaのアカウントを作った。風呂のお湯を抜いて掃除を終えた後、部屋に戻って彼のページの編集画面に立ち入り、リサーチマップに残っていた彼の業績のひとつひとつを記録していった。博論のタイトル。僕が受けられなかった学振のテーマ。ネットで読めるPDFは全部リンクした。脚注は膨大な量になった。
     更新画面を押すと、いびつなアイドルのページが吐き出された。彼が大学に入学して以来のおおよその業績は、アイドルとしての実績の倍以上あった。脚注に並ぶリンクを押すとドメインがac.jpのPDFに飛ぶ。開くとたぶんファンたちには読めやしないだろう英語の論文が展開される。僕はひととおりそれらを確認して、変に満足した気持ちでブラウザを閉じた。そしてスマートフォンを充電器に差して、眠った。
     それから一週間ほど、僕はつとめて彼のことを忘れるようにこころがけた。印刷された広報紙が配られたときに僕が加工した画像が目に入ったが、詳細を読み直すことはしなかった。僕は相変わらず8時前くらいに職場に着き、12時間弱をそこで過ごして家に帰った。何の変哲もない日々だった。
     次にWikipediaを開いたのは、メールが届いた日だった。タイトルは「Wikipedia利用者からのメール」。一瞬スパムかと思ったけど、自分がWikipediaに登録していたことを思い出してそのメールを開いた。
     中には簡潔に、彼のページで議論が進んでいること、その発端になった僕にも参加してほしいこと、が書かれていた。ユーザーネームに心当たりはなかった。
     僕は彼の名前でGoogle検索し、事務所の公式ページの次に出てくるWikipediaを表示させた。編集履歴を見ると、僕の後に20件ほどの更新があったようだった。僕のした更新が全部削除され、一部が復活し、また削除され、……つまりはいたちごっこが発生していた。
     ノートを開くと、そこには最初に彼のページを更新しまくっていたIPアドレスで以下のような趣旨のことが書かれていた。
    「彼はアイドルであり、もう研究者ではありません。余計なことを書かないでください」
     かなり感情的な調子のそれにはすぐ返信がついた。
    「人物の要素として不適当とは思いませんでしたが、量が量なので代表的な業績のみを復活させました」
     またすぐに返信がつく。
    「同じことを言いますがこれはアイドルのページです。研究者のページではないです」
     以降はそれの繰り返しで、そのうちコメントがつかないただの編集合戦になっていた。
     僕にどうしろと?
     思いながら、僕は入力欄に手を伸ばし、一文字一文字をもたもた入力する。
    「業績が不当に評価されています」
     思いついたそれだけを送信した。
     業績。彼の輝かしい過去。それが「アイドル」の「ファン」に邪魔だと、うるさいと言われている。それは否定だ。彼への否定で、彼に負け続けてきた僕たちへの否定だ。僕たちがどんな思いで海水の一滴を採ってきたのか、潮流をしめすベクトルたちを扱ってきたのか、辞書と首っ引きで論文を書いてきたのか、そして彼がその中でどれだけ輝いていたのか、どうしたらこいつらに思い知らせてやれるんだ。
     僕は編集履歴から自分の更新分をコピーするとエディタを開いてひとつひとつ直していく。僕が編集した、正しいページに戻していく。学究に一足飛びはない。彼が時間をかけて積み重ねたものが無視されていいわけがない、彼が無視されるなら僕たちも無視される。彼の研究に価値がないなら、僕たちの研究にだって価値はない。僕に説教をしてきた面接官、記述を削除した「ファン」、お祈りメールを送ってきた企業、頭を掻きながら紹介できるポストはないと告げてきた教授、……僕たちを芥のように扱ってきた世の中のすべて。
     ページをリロードすると更新分が全部消されている。ノートには新しく「ファン」のコメントがある。邪魔だ。消せ。必要ない。中立の立場のひとからもやりすぎだといさめる声がある。わかっている、求められていない。必要じゃない。彼の過去は、僕たちは。
     僕はやけになって、そして軽くハイになってWikipediaを更新し続ける。Googleで彼の名前と「.pdf」で検索して、引っ掛かったものを次々追加する。僕たちの証明を、29年間の「人生」の終わりを、誰でも編集できる、玉石混交のWebサイトに記録し続ける。
     競うように消されていく論文の名前。専門誌たち。彼しかなしえなかった研究結果の数々。それに負けた僕ら。ゴミくずのように、なかったことになるすべて。僕は必死で入力し続け更新し続けた。
     気づけば夜はとっくに更けていた。「ファン」は眠ったのか新しい更新はない。僕は痛くなった手の付け根をさすりながらノートを開いた。最後の書き込みは1時間ほど前のものだった。中立のひとが1行だけ書き記していた。
    「Wikipediaは公共の媒体です。主義主張の手段に使わないでください。そして対話をしてください」
     ぼたりと画面に液体が落ちた。液体はそのまま傾いた画面を伝って落ちた。みっともなく泣いているのは、成れの果ての僕だった。
     成功したかった。僕にしかできない研究を評価されて、ひとに認められて、積み重ねてきた29年間を背負って、生きていきたかった。でも僕にはそれができなかった。2ヶ月に及んだ航海も、泊まり込みでやった分析も、血がにじむような努力をして書いた論文も、全部無駄になった。僕は徒手空拳で社会に出て、ああそれでも、食えているからましなのか。連絡の取れなくなった先輩がいる。何年も更新のないFacebookのアカウントがある。彼らは、僕は、……彼の過去は。
     僕はおとなしく布団にもぐった。明日も6時には起きて、弁当を作らなければならなかった。僕はそうすることでしか生きられない人間だった。
     翌朝、ぼうっとする頭を抱えて出勤し、言われた通りに仕事をした。必要な資料は手早く作り、根回しをして会議室の予約をとり、かかってきた電話に丁寧に対応した。市役所にいる僕はふつうのおっさんだった。Wikipediaを「荒らした」ことも、学会で発表していたことも、アイドルの彼と立ち話をしたことがあることも、全部関係なかった。僕はきちんと働いた。何事もない、何の変哲もない人間として。
     そして家に戻り、夕食を食べて風呂を済ませて、ずっと封じていたページを開いた。予想通り僕のした更新は全部削除されていた。編集履歴の一番上にあるのは例の「ファン」のIPアドレスで、そこにはきれいな「アイドル」のWikipediaがあった。かろうじて卒業大学と教えていた大学は残されていたけど、それだけだった。僕はもう手出しはしなかった。ノートを開いて無礼を詫びる文面を作った。それからそこに一言だけ「研究者としての彼がきちんと評価されることを望みます」と書き添えて、送信した。それから閲覧履歴を全部消して、Wikipediaに登録したときに来たログインIDの通知メールも削除した。
     これで僕は元に戻った。明日からもふつうのおっさんとして生きていく。これは長い長い余生だ、割り算の「あまり」だ。そして僕は「あまり」を生きていく方法を考えなければならない。彼のように第二の人生があるとは今の僕には言い切れない。なにかになりたいとも思えない。研究は僕のすべてだった。さようなら。ほんとうに、今度こそ。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ❤
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    エヌ原

    DONEアイドルマスターSideM古論クリスに感情があるモブシリーズ4/5
    図書館の女 玄関に山と積まれた新聞の束を回収して、一番最初に開くのはスポーツ新聞だ。うちの館ではニッカンとスポニチをとっている。プロ野球も釣りも競馬も関係ない、後ろから開いて、芸能欄のほんの小さな四角形。そこにあの人はいる。
     最初に出会ったのはこの図書館でだった。私は時給980円で働いている。図書館司書になるためには実務経験が三年必要で、高卒で働いていた書店を思い切ってやめて司書補になり、前より安い給料で派遣として働き始めたのは本をめぐる資本主義に飽き飽きしてしまったからだ。
     べつに司書になったからって明るい未来が約束されているわけではない。いま公共の図書館スタッフはほとんどが今のわたしと同じ派遣で、司書資格があるからといって、いいことといえば時給が20円上がる程度だ。わたしはたまたま大学図書館に派遣されて、そこから2年、働いている。大学図書館というのは普通の図書館とはちょっと違うらしい。ここが一館目のわたしにはよくわからないけれど、まあ当然エプロンシアターとか絵本の選書なんかはないし、代わりに専門書とか外国の学術誌の整理がある。でもそれらの多くは正職員がきめることで、わたしはブックカバーをどれだけ速くかけられるかとか、学生の延滞にたいしてなるべく穏当なメールを書けるかとか、たまにあるレファレンス業務を国会図書館データベースと首ったけでこなすとか、そういうところだけを見られている。わたしもとにかく3年を過ごせればよかった。最初はほんとうにそう思っていた。
    8911

    エヌ原

    DONEアイドルマスターSideM古論クリスへ感情があるモブシリーズ3/5
    大学職員の男 秋は忙しい。学祭があるからでもあるが、うちの大学では建前上は学生が運営しているので、せいぜいセキュリティに口を出す程度でいい。まず九月入学、卒業、編入の手続きがある。それから院試まわりの諸々、教科書販売のテントの手配、それに夏休みボケで学生証をなくしただとか履修登録を忘れただとかいう学生どもの対応、研究にかかりっきりで第一回の講義の準備ができてないから休講にしたいという教授の言い訳、ひたすらどうでもいいことの処理、エトセトラエトセトラ。おれはもちうるかぎりの愛校精神を発揮して手続きにあたるが、古いWindowsはかりかりと音を立てるばかりでちっとも前に進まない。すみませんねえ、今印刷出ますから。言いながらおれは笑顔を浮かべるのにいいかげん飽きている。おまえら、もうガッコ来なくていいよ。そんなにつらいなら。いやなら。おれはそう思いながら学割証明書を発行するためのパスワードを忘れたという学生に、いまだペーパーベースのパスワード再発行申請書を差し出す。本人確認は学生証でするが、受験の時に撮ったらしい詰襟黒髪の証明写真と、目の前でぐちぐち言いながらきたねえ字で名前を書いているピンク頭が同一人物かどうかはおれにはわからん。
    8379

    related works

    エヌ原

    DONEアイドルマスターSideM古論クリスへ感情があるモブシリーズ3/5
    大学職員の男 秋は忙しい。学祭があるからでもあるが、うちの大学では建前上は学生が運営しているので、せいぜいセキュリティに口を出す程度でいい。まず九月入学、卒業、編入の手続きがある。それから院試まわりの諸々、教科書販売のテントの手配、それに夏休みボケで学生証をなくしただとか履修登録を忘れただとかいう学生どもの対応、研究にかかりっきりで第一回の講義の準備ができてないから休講にしたいという教授の言い訳、ひたすらどうでもいいことの処理、エトセトラエトセトラ。おれはもちうるかぎりの愛校精神を発揮して手続きにあたるが、古いWindowsはかりかりと音を立てるばかりでちっとも前に進まない。すみませんねえ、今印刷出ますから。言いながらおれは笑顔を浮かべるのにいいかげん飽きている。おまえら、もうガッコ来なくていいよ。そんなにつらいなら。いやなら。おれはそう思いながら学割証明書を発行するためのパスワードを忘れたという学生に、いまだペーパーベースのパスワード再発行申請書を差し出す。本人確認は学生証でするが、受験の時に撮ったらしい詰襟黒髪の証明写真と、目の前でぐちぐち言いながらきたねえ字で名前を書いているピンク頭が同一人物かどうかはおれにはわからん。
    8379

    エヌ原

    DONEアイドルマスターSideM古論クリスに感情があるモブシリーズ4/5
    図書館の女 玄関に山と積まれた新聞の束を回収して、一番最初に開くのはスポーツ新聞だ。うちの館ではニッカンとスポニチをとっている。プロ野球も釣りも競馬も関係ない、後ろから開いて、芸能欄のほんの小さな四角形。そこにあの人はいる。
     最初に出会ったのはこの図書館でだった。私は時給980円で働いている。図書館司書になるためには実務経験が三年必要で、高卒で働いていた書店を思い切ってやめて司書補になり、前より安い給料で派遣として働き始めたのは本をめぐる資本主義に飽き飽きしてしまったからだ。
     べつに司書になったからって明るい未来が約束されているわけではない。いま公共の図書館スタッフはほとんどが今のわたしと同じ派遣で、司書資格があるからといって、いいことといえば時給が20円上がる程度だ。わたしはたまたま大学図書館に派遣されて、そこから2年、働いている。大学図書館というのは普通の図書館とはちょっと違うらしい。ここが一館目のわたしにはよくわからないけれど、まあ当然エプロンシアターとか絵本の選書なんかはないし、代わりに専門書とか外国の学術誌の整理がある。でもそれらの多くは正職員がきめることで、わたしはブックカバーをどれだけ速くかけられるかとか、学生の延滞にたいしてなるべく穏当なメールを書けるかとか、たまにあるレファレンス業務を国会図書館データベースと首ったけでこなすとか、そういうところだけを見られている。わたしもとにかく3年を過ごせればよかった。最初はほんとうにそう思っていた。
    8911

    recommended works