ランデブー 風流を余り解しない性格であっても、この風景にはさすがに目を奪われた。
白金の月、紅玉の星。
六万年に一度の絶景は、しばし彼から言葉を奪う。
横で、現在組んでいる若い刑事が「火星が、なんか小数点みたいにくっついてますねえ」なんて面白い例えをしてみせた。眼鏡の奥の目を輝かせて、こりゃ地味にすごいですね、と呟く姿はまだ成長途中のしなやかさがあり、とても微笑ましい。
そういえば大学では数学を専攻していたと、前聞いたことがあった。
夜の帳が下り始めた新宿は、これから一層賑やかさを増していく。南口前のサザンテラスで佇んでみれば、高島屋の上に広がる空はその紺を増し、あちこちに置かれたベンチには、カップルや親子連れが座って、目の前のカフェで購入したのだろう、飲み物片手に後藤たちと同じように空を見上げて、小さく指差しては天文ショウに見入っているようだ。
しかし、そんな風に楽しんでいるのは僅かな人だ。あとは、誰も彼も前ばかり見て急ぐ姿を見て、後藤は勿体無いことをしているなあ、と思い、すぐに自分も普段はそうじゃないか、と思い返した。空を見上げたのは偶々に過ぎないのだ。特に本庁に戻ってからは、一息ついてみる、そんな余裕は全く持ち得なかった。
ついこの前まで、昼行灯のあだ名の通り、仕事一筋とはとんと縁の無いはずだったというのに。
先日、元同僚を見かけたのは、本当に偶然だ。
桜の花が溢れるころ、先に二課から本庁に戻ったのは、大方の予想を覆し後藤の方だった。
昨今の情勢に柔軟に対応すべく、縦割りの弊害をなくし重要な情報を共有しつつ国内外から迫る危機に対応するための公安部と警備部、そして刑事部による合同管轄部署、という無茶を無理無理押し通しこの度新しく創設された対テロ特別課の偉いさんに、昔少しだけ鳴らした豪腕をうっかり見込まれてしまったのだ。
世の中の喧騒は蚊帳の外、人材の墓場とまで呼ばれるこの地の果てで定年までのんびりと、なんて人生プランはあっという間に覆り、またあの神経を研ぎ澄ます世界へと、後藤は否応なしに呼び戻された。そうすれば忽ちに生活は変わってしまう。疎んじていたはずのその空気にも何時の間にか慣れ、対象の動向を見極め、心理を読み、情報を精査し、と脳をフルに活用する日々をそれなりに楽しめるようになった頃には、季節は一巡りしまた桜が咲いていた。周りの彼を評価する目が「昼行灯」から「カミソリ」にまた戻り、胡散臭い顔をしていた同僚たちから、いつのまにかに信頼と尊敬を勝ち得てしまい、東京と日本のために、と毎日緊張感と高揚感を孕みながらも、ふと振り返る牧歌的なあの日々は、もう遥か彼方の向こう。
今、泉達とばったり再会したら、向こうは相当驚くかもしれないなあ、と後藤は時々他人事のように思う。雰囲気は人を印象付ける大きな要素だ。彼らの隊長はいつのまにかに姿を消して、後藤自身ももうその存在を掴めない。
その後、二課のメンバーも大半の整備員を除いて様変わりをしたという。熊耳と五味丘が指揮する小隊が所有するレイバーは、イングラムの二世代先の最新鋭機だ。近年の目覚しい活躍に報じてなんでも予算がついたとかで、あの古い建物もついに建て直すらしい。
新しい二課棟がお目見えするころには、もう、全ての名残が消えているだろう。
新宿駅の雑踏で見かけた彼女は、髪を器用に団子状にまとめ、明るい浅梔子のスーツを着て、前を向いて颯爽と歩いていった。そう、昔と同じように。
ほんの一瞬目に入っただけなのに、化粧の華やかさまで無意識に観察していた、そんな自分に、後藤は思わず笑ってしまう。
他の人員同様、彼女もまた異動になったことも、風の噂に聞いている。見た分だと相変わらず頑張っているようだ。いや、自分ほど捻くれた同僚はいないだろうから、昔よりも働きやすいと思っているかもしれない。
本当に捻くれていた、と後藤はあの日々を苦笑交じりに思い返す。
今時小学生もやらないような方法で相手の気を惹いてみたり。
もうちょっと素直に行動していたなら、一体どうなっていただろうと、時々夢想してみることもある。
しかし、自分の気持ちを告げなかったことは、後悔していない。
前よりも綺麗に感じられた姿を見て、少しだけ心が疼くが、しかし、しのぶを困らせたくはなかった。
彼女には彼女の生活があり、そしていつか相応の相手が見つかるだろう。少なくとも捻くれ物のやもめよりも、はるかに相応しい相手が。
そう考えながらも、一方でこの考えが所詮目隠しでしかないことも承知している。
思っていた以上に、後藤喜一という男は小心で臆病なのだ。だから、美しい思い出、なんて便利なラベルを貼って、前の職場のことはしまっておいたのだけど。
それでも、しのぶの姿は、鮮明に心に残った。
「……わかりました。後藤さん、直帰でいいそうです」
「あ、そう。それじゃ今日はご苦労さん」
「お疲れ様でした!」
つい最近配属されたばかりの新人は、さわやかな笑顔で元気良く挨拶をして、颯爽と南口へと向かっていく。いやはや、若いっていうのは才能だね、その後ろ姿をぼんやりと見てから、後藤は道の端により、また空を見上げた。
火星は先程よりも月に近づいている。二課だったらもっとくっきり見えるのかな、とぼんやりと考えて、そろり歩き出そうとしたら、とすん、と肩に軽い衝撃を覚えた。
「あっ」
「あ、すいません、前を見てませんで……」、慌てて相手が落とした鞄を拾って、腰を上げようとしたところで後藤はそのまま固まった。
「しのぶさん……」
しのぶはこの前と同じような髪型に淡いブルーのスーツを纏っている。つややかな薔薇色の唇は、驚きの余りぽかんと開いたままだ。
かわいいねえ。
反射的にそう思った。
「後藤さん、どうしてここに」
「どうして、ってそりゃ仕事ですよ。しのぶさんこそなんで」
「私も仕事よ。今は新宿署にいるの」
立ち止まったままの男女の脇を、それこそ数え切れない人が忙しく歩いていく。その人ごみにちらりと目をやり、しのぶはどこかしみじみとした口調で、
「それにしてもすごい偶然ね。一体なんでこんなところに立ってたの?」
後藤は一瞬、なんと言うべきか考えたが、おもむろに空へと目をやると、
「いやあね、確率をさ、考えていたわけよ」
空には満月に少し足りない月と火星のランデヴー。六万年に一度に出会える確率と、どうやってもやがては出会う軌跡を孕みながら、天体は回りつづける。